第67話
月曜日の二限目、桜川恋は黒板に書かれた英文をノートへ写しながら、土曜日に二度見かけた少女のことを考えていた。
青葉第二の制服を着た、見覚えのない少女。
最初に見たのは、野球部の練習を手伝っていた時だった。校舎側の水道で大量の水筒に水を汲んでいる途中、誰もいないはずの廊下に立って、グラウンドの方を静かに眺めていた。
その数時間後には、神津晶のスパイクを買いに行ったスポーツ用品店の外を歩いているところまで目にしている。
偶然と言えば、偶然なのかもしれない。
同じ学校の生徒なら、休日の校舎にいたこと自体は不自然ではない。スポーツ用品店で見かけたのも、帰宅経路や買い物先が重なっただけと考えれば説明はつく。
それでも、恋の頭にはあの少女の姿が妙に残っていた。
顔立ちが目立つから、というだけではない。
制服をきちんと着ているのに、どこか馴染んでいなかった。休日の校舎に一人で立っていた時も、店の外を歩いていた時も、周囲と同じ場所にいるはずなのに、そこだけ別の景色を重ねたように見えた。
榊原藍に相談しようと思ったことは、何度もある。
土曜日の帰り道でも話せたはずだったし、日曜日にも連絡しようと思えばできた。
けれど、神津晶の兄である神津卓との遭遇や、その後に漂った妙な空気、晶の新しいスパイク選びに付き合ったことなどが重なり、結局そのまま帰宅してしまった。日曜日を一日挟む頃には、今さら「そういえば昨日、変な女の子を見かけたんですけど」と切り出すのも妙な気がして、ますます話す機会を失っていた。
だからという事ではないのだが、ただ見知らぬ生徒を見ただけなのに考えすぎなのではないか、とも同時に思う。
青葉第二にはそれなりの人数が通っている。入学して一か月ほどの恋が全校生徒の顔を知っているわけではないし、同学年ですら名前も顔も一致しない相手は珍しくない。
あの少女だって、あまり関わりの薄い別学年の生徒なのかもしれない。
土曜日に校舎に来ていたのも、部活動や委員会関係で来ていたのかもしれない。
たまたま同じ店の近くを歩いていただけかもしれない。
そう考えれば済む。済むはずだった。
教師が黒板へ新しい英文を書き加える。
恋もそれを追ってシャープペンを動かし、視線をノートから黒板へ戻した。
その途中で、何となく教室の外へ目が向いた。
廊下を、一人の少女が歩いていた。
「……」
シャープペンの先が止まった。
土曜日に見た、あの少女だった。
当然のように青葉第二の制服を着ている。
あの日と同じように、乱れのない制服姿だった。銀色の髪が窓から差し込む午前の光を受け、歩くたびに静かに輝いている。
姿勢はまっすぐで、足取りも落ち着いていた。
急いでいる様子も、教師に見つかることを気にする素振りもない。
まるで授業中の廊下を歩いていることなど、何一つ不自然ではないとでもいうように、少女は平然と教室の前を横切っていく。
恋は目だけを動かして、その姿を追った。
今は二限目の授業中だ。
教師が前に立ち、クラスメイトたちはそれぞれ黒板や教科書へ視線を向けている。眠そうに頬杖をついている生徒もいれば、恋と同じように板書を写している生徒もいる。
授業を抜けて廊下を歩いている生徒がいれば、普通なら誰かが気づき、声を上げるだろう。
少なくとも「あれ、なにしてるんだろう」と一瞬くらい思うはずだ。
けれど、誰も反応しない。
教師は板書を続け、前の席の男子は黙々と英文を写し続けている。
隣の席の女子は、眠気を堪えるように何度も瞬きをしていた。
謎の少女が教室の前を通過しているのに、誰一人としてそちらを見ない。
いや。
見えていないわけではないのかもしれない。
廊下側の席の生徒の視界には、確実に入っている。
それなのに、認識した後、そのまま何の引っかかりもなく流しているように見えた。
廊下を誰かが歩いている。
ただそれだけの、ごく当たり前の情報として処理されている。
恋だけが、その光景に異常を感じていた。
喉がわずかに乾く。背中へ冷たいものが這い上がった。
「桜川」
「は、はいっ!」
突然名前を呼ばれ、恋は肩を大きく跳ねさせた。
教師がこちらを見ている。
「この文、訳せるか?」
「あ……えっと……」
慌てて教科書へ視線を落とす。
英文はそこにある。
単語も、構文も、たぶん難しいものではない。
それなのに、さっきまで考えていたことが頭を占領し、文字が意味として入ってこなかった。
恋は数秒かけて、何とかそれらしい日本語を組み立てた。
「えっと……『彼がそこへ着いた時には、その……すでに……』」
自分でも途中から何を言っているのか怪しくなったが、教師は軽く補足しただけで授業へ戻った。
教室は何事もなかったように動き続ける。
恋が再び廊下へ目を向けた時には、少女の姿はもうなかった。
残りの授業時間、恋はほとんど内容を覚えていなかった。
*
休み時間を告げるチャイムが鳴ると、恋は真っ先に席を立ちかけた。
しかし、椅子を引いたところで動きが止まる。
何をするつもりなのだろう。
廊下へ出て、少女を探すのか。
追いかけて、「あなたは誰ですか」と聞くのか。
あるいは、「授業中に廊下を歩いてましたよね」と問い詰めるのか。
そこまで想像したところで、恋はそっと椅子へ座り直した。
無理だ。
初対面の相手へ自分から声をかけるだけでも、それなりに勇気が必要なのだ。
しかも今回は、相手が普通の生徒ではない可能性まである。
これまでの学校生活で得た教訓があるとすれば、妙な違和感を覚えた相手へ単独で突撃するのは、だいたいよくないということだった。
「恋、どうしたの?」
聞き慣れた声がして、恋は顔を上げた。
古角光里が、いつもの明るい表情で恋の机の前に立っていた。
その姿を見ただけで、少し肩の力が抜ける。
光里自身にも、普通とは言い難い過去や身体に関する事情がある。それでも恋にとっては、高校に入ってから最も長く付き合っている友人の一人だった。
少なくとも、目の前にいる光里が『古角光里』であることだけは疑わずに済む。
「光里、あのさ」
相談しようと口を開いた、その時だった。
教室の外を、また少女が通った。
「……っ」
恋の声が止まる。
今度は休み時間なので、廊下には大勢の生徒がいる。
教室を移動する者、友人と話す者、購買へ急ぐ者。
少女はその中を、ごく普通に歩いていた。
誰かを避けるような様子もなく、人の流れを乱すこともない。
けれど、恋にはやはり妙に見えた。
周囲に溶け込んでいる。溶け込みすぎている。
目立つ容姿なのに、誰も振り返らない。
知らない顔のはずなのに、誰も「誰だろう」と気にしない。
土曜日から感じていた違和感が、今度はもっとはっきりした輪郭を持って胸の奥へ沈んでいく。
恋は光里の袖を軽く引いた。
「光里」
「何?」
「あの子って……前からいた?」
できるだけ何気なく聞いたつもりだった。
それでも、自分の声が少し硬いことくらいは分かった。
光里は恋の視線を追い、廊下を歩く少女へ目を向ける。
そして、拍子抜けするほど普通の顔で答えた。
「ああ、ミレイちゃんでしょ。留学生の」
恋は瞬きをした。
「……留学生?」
「うん」
「ミレイちゃん?」
「そう。あれ、恋って話したことなかったっけ?」
「……な、ないと思う」
「そっか。まあ、ミレイちゃんって、自分から積極的に話しかけるタイプじゃないしね」
光里の口調には、何の違和感もなかった。
ごく普通の同級生について説明しているだけの声音だった。
恋の中で、何かがずれた。
光里は、彼女の存在を当然の事実として口にしている。
「でも、私……土曜日に初めて見たんだけど」
「土曜日?」
「うん。野球部の練習を見学してた時、校舎にいた。それで、その後スポーツ用品店でも見かけて……」
「へえ。偶然だね」
光里は軽く笑った。
その反応の薄さが、恋には妙に引っかかった。
「いや、でも……さっきも授業中に廊下を歩いてたよね」
「そうだっけ?」
「歩いてたよ。普通に教室の前を通ってた。先生も何も言わないし、みんなも全然見てなかった」
「そうなんだ」
光里は少し考え、それから首を傾げる。
「先生が何も言わなかったなら、何か用事があったんじゃない?」
「用事……」
「留学生なら、手続きとかで先生に呼ばれることもあるんじゃないかな。職員室に行く途中だったとか」
「……そうかな」
「たぶん」
説明としては、もっともらしい。
確かに留学生なら、通常の生徒とは別の手続きや面談が入ることもあるのかもしれない。
けれど、恋が気にしているのはそこではなかった。
授業中に廊下を歩いていたことより、誰もそれを気にしていなかったこと。
土曜日まで一度も見た記憶のない少女を、光里が当然のように知っていること。
そして何より、光里自身がそこへ一切の疑問を抱いていないこと。
「光里は、いつからミレイちゃんのこと知ってたの?」
「え?」
「いつからっていうか……最初に見たのっていつ?」
光里は答えようとして、少し黙った。
「うーん……」
顎へ指を当て、思い出そうとする。
「いつだったかな。普通に前からいたと思うけど」
「普通に?」
「うん。少なくとも、最近突然来たって感じじゃないよ」
「何組?」
「え?」
「ミレイちゃんって何組?」
また、わずかな間があった。
「……どこだっけ」
「知らないの?」
「いや、知ってるはずなんだけど……あれ?」
光里は困ったように眉を寄せた。
「たぶん、別のクラス。ウチらのクラスじゃないのは確か」
「それは私も分かるけど……」
「ごめん。クラスまで意識したことなかった」
恋は黙った。
光里は嘘をついているようには見えなかった。
適当に誤魔化している感じもない。
本当に、ミレイという少女を「前からいる留学生」だと思っている。
なのに、いつからいるのか分からない。
何組なのかも思い出せない。
ただ、その存在だけは知っている。
けれど、知っているはずの情報を辿ろうとすると、急に輪郭がぼやける。
恋の中で、小さな違和感だったものが、少しずつ形を持ちはじめる。
「恋?」
光里が顔を覗き込んできた。
「大丈夫? なんか顔色悪くない?」
「……大丈夫」
「ほんと?」
「うん。たぶん、土曜日の疲れが残ってるだけ」
咄嗟に出た言い訳だった。
確かに、土曜日は色々な事があった。疲れていても不思議ではない。
けれど、今胸の奥に広がっているものは、疲労とは違う。
自分だけが、ほんの少し位置のずれた場所へ立たされているような感覚だった。
周囲の全員が同じ景色を見ているのに、自分だけそこへ重なった別のものを見ている。
そんな不安定さだった。
廊下の先にいるミレイが、ふと足を止めた。
そして、こちらを振り返る。
「……」
恋と目が合った。
遠く離れている。
教室の前には何人もの生徒が歩き、会話をしている。
それでも、ミレイが恋を見ていることだけは、はっきり分かった。
敵意は感じない。笑っても、驚いてもいない。
ただ、静かにこちらを見ている。
まるで、恋だけが自分を異物として認識していることを、最初から知っていたかのような目だった。
恋は声を出せなかった。
数秒もなかったと思う。
ミレイは何事もなかったように前へ向き直り、そのまま廊下の角を曲がって姿を消した。
「……」
恋はしばらく、その方向から目を離せなかった。
「恋?」
「あ、うん」
光里に呼ばれて、ようやく視線を戻す。
それでも胸の奥に広がった違和感は消えなかった。
見知らぬ少女がいたこと自体が問題なのではない。
周囲が、彼女を最初から知っていること。
それなのに、いつから知っているかは誰も気にしていないこと。
名前だけが先に存在し、それ以外の情報が後から曖昧に付け足されているような気味の悪さがあった。
「光里」
「うん?」
「ミレイちゃんって、どこの国から来たの?」
「えっと……」
光里はまた考えた。
今度は先ほどよりも少し長い。
「……どこだったかな。聞いた気はするんだけど」
「国、覚えてないんだ」
「うん。ごめん。でも、留学生なのは間違いないよ」
「……そう」
恋は短く返した。
留学生。
その言葉だけは、不思議なほど揺らがない。
どこの国から来たのかは分からない。
何組なのかも曖昧。
いつからいるのかも思い出せない。
なのに、「留学生である」という一点だけは、光里の中で確定した事実になっている。
恋は、それ以上聞くのをやめた。
問いを重ねれば重ねるほど、光里の中にある「普通」と、自分の中にある「異常」が離れていく。
そんな気がした。
*
午後の授業が始まってからも、恋は落ち着かなかった。
教師の声は聞こえているし、黒板の文字も見えている。
ノートも取っている。
それでも、意識の一部がずっと廊下へ向いていた。
誰かが教室の前を通るのではないかと、何もないのに反射的に顔を上げてしまう。
昼休みには、友人と話していても、教室の外を歩く生徒たちへ目が向いた。
ミレイの姿を探している自分に気づいて、恋は何度か視線を戻した。
それでも、しばらくするとまた見てしまう。
一度だけ、階段の踊り場で銀色の髪が揺れたような気がした。
振り向いた時には、もう誰もいなかった。
昼休みの終わりには、別棟へ続く渡り廊下の向こうに、制服姿の少女がいたように見えた。
けれど、人の流れに隠れた次の瞬間には見失った。
何度か見かけた。そう思う。
けれど、本当に何度も見たのか。
最初の印象が強すぎて、似た髪型の生徒までミレイだと思い込んでいるだけではないのか。
そこまで考え始めると、自分の記憶すら信用できなくなってくる。
恋は机の下で、そっと指を握った。
土曜日には、確実に二回見た。
今日、二限目の授業中にも見た。
休み時間には光里と一緒に見ている。
そこまでは間違いない。
問題は、その三日間で急に目につくようになった少女を、周囲の人間が以前から知っていることだった。
光里だけではない。
昼休み、恋は試しにクラスメイトの何人かへ、それとなく「留学生のミレイって知ってる?」と聞いてみた。
返ってきたのは、どれも似たような答えだった。
「ああ、知ってるよ」
「ミレイさんでしょ?」
「留学生の子だよね」
名前も知っている。
留学生であることも知っている。
けれど、「何組だっけ」と聞けば答えに詰まる。
「いつ来たんだっけ」と尋ねれば、「結構前じゃない?」と曖昧になる。
どこの国から来たのかについては、誰も答えられなかった。
それでも、不思議そうにする者はいない。
思い出せないことを、誰も問題だと思っていない。
まるで、ミレイについて詳しく知らないことまで含めて、それが普通なのだと思わされているようだった。
そのたびに、恋はそれ以上聞けなくなった。
質問を続けている自分の方がおかしい。
そんな空気が、自然にできあがっていくからだ。
午後の最後の授業が終わる頃には、恋は朝よりもずっと疲れていた。
チャイムが鳴り、教師が教室を出ていく。
クラスメイトたちは部活動や委員会へ向かう支度を始め、教室に放課後特有のざわめきが広がった。
恋は鞄を持ち上げると、ほとんど逃げるように教室を出た。
行き先は決まっている。
生徒会室。
榊原藍と雪代こよみ。少なくとも、この二人なら何か知っているはずだった。
藍は青葉第二の校内情報を広範囲に把握している。こよみは記録者だ。
全校生徒が知っている留学生が本当に存在していたなら、その二人が知らないはずがない。
逆に、二人が知らなければ――
そこまで考えて、恋は階段を上る足を少し速めた。
特別棟へ続く廊下は、普段より静かに感じられた。
遠くから運動部の声が聞こえる。
教室から漏れる会話。
階段を下りていく生徒の足音。
どれも、いつもの放課後にある音だった。
だからこそ、恋は妙に落ち着かなかった。
この学校の中で、自分以外の誰も異常だと思っていないことが起きている。
そう考え始めた時点で、普段なら気にも留めない風景まで、すべて怪しく見えてしまう。
廊下ですれ違った女子生徒は、本当に前からこの学校にいたのか。
階段の向こうへ消えた男子生徒を、自分は以前に見たことがあるのか。
校内放送で呼ばれた名前を、自分は知っていたのか。
馬鹿げている。
そこまで疑い始めたらきりがない。
恋は歩きながら、何度もそう言い聞かせた。
それでも、ミレイと呼ばれる少女だけは違う。
土曜日まで存在すら知らなかった少女が、月曜日になって突然、誰もが知っている人物になっている。
しかも、知っているはずの周囲の人間は、その少女について具体的なことをほとんど答えられない。
偶然では説明しきれない。
少なくとも、藍に確認するまでは、自分の勘違いだと決めつけてはいけない。
特別棟へ入ると、人の気配がさらに少なくなった。
生徒会室のある階まで上がり、廊下を進む。
心臓が、少しだけ速い。
この扉の向こうには、いつもの生徒会室がある。
藍がいて、こよみがいて、鶴見が数字を見て、不破がよく分からない前世の話をしている。
そこへ行けば、少なくともこの違和感を一人で抱えなくて済む。
そう思うと、恋の足は自然と速くなった。
やがて、生徒会室の扉が見える。
恋はその前で立ち止まり、一度だけ深く息を吸った。
手を上げる。指先が、わずかに震えていた。
自分でも気づき、恋はその手を一度握ってから、改めて扉を叩いた。
「失礼します」
中から返事が聞こえたのを確認し、扉を開ける。
そこには、いつもの生徒会室があった。
榊原藍は会長席に座り、机の上の書類へ目を通している。
雪代こよみは壁際で端末を操作していた。
鶴見秋臣は会計関係らしい資料を見比べ、不破廻は窓際の椅子に座って、何かの文献を眺めながら前世について思い出そうとしているらしい。
窓から差し込む夕方の光。紙をめくる音。端末を操作する小さな音。
何も変わっていない。
見慣れた光景だった。
恋は扉の前で、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
そして、そのことに気づいて妙な気分になる。
生徒会室へ来ただけで安心している。
榊原藍という人工知能が会長席に座り、雪代こよみというアンドロイドが壁際に立ち、前世の記憶を持つ不破廻が普通に資料を読んでいる場所を、自分はいつの間にか「普通の場所」として認識している。
高校へ入学したばかりの頃の自分が聞いたら、たぶん理解できない。
けれど、今の恋にとっては、この部屋の方がよほど確かな場所だった。
「恋」
藍が書類から顔を上げた。
赤い瞳が、まっすぐこちらへ向く。
「顔色が悪いですね」
「藍さん」
恋は会長席まで歩いた。
普段ならどこへ座るか迷うところだが、今日はそんなことを考える余裕がない。
「聞きたいことがあります」
自分で思っていたより、声ははっきり出た。
その声音で何か察したのか、藍は書類を机へ置いた。
「はい」
こよみも端末から視線を上げる。
鶴見と不破までは会話へ加わらなかったが、生徒会室の空気がわずかに静かになった気がした。
恋は一度だけ唇を湿らせた。
昼間に何度も口にした名前。
ただ、それを藍へ尋ねるのは、なぜか少し怖かった。
「ミレイっていう留学生の子、知っていますか」
その瞬間だった。
生徒会室の空気が、止まった。
ほんの一瞬。
たぶん、普通なら気づかない程度の変化だった。
それでも、今日一日ずっと周囲の反応ばかり気にしていた恋には分かった。
こよみの指が、端末の上で止まった。
入力途中だったらしい文字列が、そのまま画面に残っている。
藍の赤い瞳も、わずかに細められた。
鶴見が資料から顔を上げる。
不破も、手にしていた文献から視線だけをこちらへ向けた。
誰も、すぐには答えなかった。
朝からずっと、誰に聞いても迷いなく返ってきた名前だった。
誰もが当然のように知っていた。
それなのに、この部屋だけは違った。
恋の指先が、わずかに冷たくなる。
「……藍さん?」
呼びかけると、藍は恋を見た。
その表情は普段と変わらない。
ただ、答えるまでに生まれた一拍だけが、恋の胸へ重く残った。
何かがおかしい。
自分の勘違いではない。
恋はようやく、その違和感に確かな手触りを感じていた。
青葉第二高等学校の中で、何かが起きている。
いつの間にか現れ、いつの間にか「最初からいたこと」になっている少女。
そして、その存在を当たり前のように受け入れる生徒たち。
もし榊原藍と雪代こよみだけが、その前提から外れているのなら。
恋は、返事を待ちながら無意識に拳を握った。
生徒会室の時計が、一度だけ小さく秒を刻んだ。




