第7話
翌日の放課後、桜川恋は榊原藍と並んで廊下を歩いていた。
生徒会室へ向かっている。
その事実だけで、まだ少し足元が落ち着かない。
監査等委員長の打診を受けると決めたのは自分だ。だから今さら後ろ向きになるつもりはない。ないのだが、こうして実際に榊原藍の隣を歩いていると、やはり普通の高校生活から一歩外れた場所へ向かっている実感があった。
放課後の校舎には、部活動へ向かう生徒たちの声が満ちていた。けれど、そのざわめきの中を歩く藍の横顔は不思議なくらい静かだ。周囲の空気だけが勝手に道を空けていくようで、誰もあからさまに見てはいないのに、存在感だけははっきりとある。
「緊張していらっしゃいますか」
前を向いたまま、藍が言った。
「してません」
反射的に返してから、恋は少しだけ間を置いた。
「……嘘です、少しはしてます」
「そうでしょうね」
その答え方が、妙に落ち着いていて悔しい。
「ですが、心配は不要です。少なくとも本日は、あなたが生命の危機に晒される予定はありません」
「予定って言い方やめてください」
「失礼しました」
失礼しました、と言いながら全然慌てないあたりが本当に藍らしい。
やがて校舎の一角、他の教室群から少し離れた場所まで来た。生徒会室のプレートがかかった扉は、恋が想像していたよりずっと簡素だった。いかにも権威がある感じでも、特別豪華というわけでもない。ただ、その前に立つだけで、ここから先は一般の生徒が気軽に入る場所ではないのだと分かる。
藍は扉に手をかける直前、ふと足を止めた。
「その前に、一点だけお伝えします」
「……何ですか」
問い返した瞬間、藍がわずかに身を寄せてきた。
近い、と思うより先に、呼吸が止まりかける。
肩が触れるほどではない。けれど、他の誰にも聞かれないようにするには十分すぎる距離だった。黒髪が揺れて、ほのかに清潔な香りがした。人間ではないくせに、そういうところだけ妙に人間じみているのが余計に質が悪い。
「……桜川さん」
低く落とされた声が、いつもより近くで耳に届く。
思わずどきりとして、恋は視線を逸らしかけた。
「現時点で、私が人間ではないことを知っているのは、あなたを除けば、雪代こよみだけです」
「……はい」
何とかそれだけ返す。
「そして、雪代こよみもまた人間ではありません」
恋はわずかに目を見開いた。
その反応を確認して、藍は続ける。
「彼女はアンドロイドです。厳密には、基幹制御にAIを用いています。ただし、私とは目的も機能も異なりますので、便宜上そう表現しています」
雪代こよみの、あの妙に整いすぎた所作を思い出す。
なるほど、と腑に落ちる部分と、やっぱりそうなのかという疲労が同時に来た。
「他の生徒会メンバーは人間です。副会長の不破廻と、会計の鶴見秋臣で構成されています」
藍の声は、ひどく静かだった。
「ですが、やや個性的です。おそらく私やこよみが只者ではないことにも、薄々気づいているでしょう」
「気づいてるんですか」
「はい。ですが、深く追及する意志は薄いようです」
「何で」
「興味がないからです」
あまりにもあっさりしていて、恋は目を瞬く。
「……そんなことあります?」
「あります。皆さん、ご自身の領域で忙しいので」
それは何となく分かる気がした。
「ですので、こちらも敢えて何も説明していません。あなたも、その点は現状維持でお願いします」
「……分かりました」
藍はほんのわずかに頷き、そこでようやく距離を戻した。
離れた瞬間、恋は自分が無意識に息を詰めていたことに気づく。何なんだろう、この妙な心臓のうるささは。内容は完全に機密事項の共有だったはずなのに、近さのせいで半分くらい別のことに意識を持っていかれた。
最悪だ、と思いながら、何食わぬ顔を作る。
藍はそんな恋の内心など見抜いていそうな顔で、けれど何も言わずに扉を開けた。
生徒会室の中へ一歩入った瞬間、恋は思わず足を止めた。
想像していた“生徒会室”と、あまりにも違ったからだ。
広い。
そして静かだ。
壁際には紙の棚より先に大型のディスプレイやサブモニターが並び、長机の上にはノートPCやタブレットが自然に配置されている。共有の電子ボードには議題らしき項目が整然と表示され、クラウドのダッシュボードみたいな画面が切り替わっていた。生徒会室というより、小規模なIT企業の会議室か、ひどく機能的な作戦司令室に近い。
コード類すら目立たないよう整理されていて、紙の山もない。普通の学校の生徒会室にあるはずの雑多さや手作り感が、驚くほど薄い。
「……何これ」
思わず漏れる。
藍は自然に答えた。
「生徒会室です」
「見れば分かります。そういう意味じゃなくて」
「一般的な生徒会室との乖離についてであれば、認識しています」
「乖離どころじゃないです。会社みたいです」
「近いご感想かもしれません」
いや、近いで済ませるな、と思う。
部屋の中央では、すでに三人がそれぞれ作業をしていた。
ひとりは見覚えのある、白くて長い髪の小柄な少女――雪代こよみ。複数の端末を前にして、静かな速度で何かを処理している。相変わらず年齢不詳めいた容姿だが、今はむしろそれが納得できてしまうのが嫌だった。
もうひとりは、紙の資料を片手に難しい顔をしている男子生徒。眼鏡の奥の視線は鋭く、机の上にはこの部屋で唯一と言っていいほど、紙の束がきっちり積まれている。いかにも仕事人間という言葉が似合う空気だ。たぶん、あれが会計の鶴見秋臣だろう。
そして最後のひとりは、椅子にやや斜めに腰掛け、タブレットを眺めながらも、どこか掴みどころのない雰囲気を漂わせている男子生徒だった。姿勢はだらけているようで、実際には妙に隙がない。真面目そうにも見えるし、全然そうでもなさそうにも見える。よく分からない。たぶん、あれが副会長の不破廻だ。
最初にこちらへ気づいたのは、こよみだった。
「藍様、お帰りなさいませ」
やはり、藍様と呼ぶ。
その呼称だけでも昨日までの恋なら浮いて見えたはずなのに、今は別の意味でしか聞こえなかった。
「おかえりなさい、会長」
紙の束から顔を上げずに言ったのは鶴見だ。抑揚は薄いが、忙しさの中でも必要な挨拶だけはきっちり返す類の人間らしい。
「お、会長。例の新任さん?」
不破がタブレットから目を上げる。声音は軽いが、軽薄という感じでもない。何となく、会話のどこかに常に別の文脈が混ざっていそうな人だ。
「はい」
藍はいつもの落ち着いた声で答えた。
「ご紹介します。こちらが本日より監査等委員長をお引き受けくださる、桜川恋さんです」
その紹介に、部屋の空気がほんの少しだけ動いた。
こよみが立ち上がり、丁寧に一礼する。
「改めてよろしくお願いいたします、桜川さん」
今度は“様”ではなかった。
少しだけ距離が近くなったのかもしれない。
鶴見はようやく顔を上げ、恋を一瞥してから短く会釈した。
「会計の鶴見です。よろしく」
「……よろしくお願いします」
返しながら、恋は視線を彼の机に落とす。
本当に紙だらけだった。他の席がほぼ完全にデジタル化されている中で、そこだけ古い監査法人か何かみたいな密度がある。クリップ留めされた予算案、印刷された月次集計、付箋つきの決算書類。しかも全部きっちり整理されている。
視線に気づいたのか、鶴見が淡々と言った。
「1人だけ紙で大変だと思ってるかもしれないが、そういうわけじゃない」
「は、はあ……」
「確かに電子データの方が検索性は高い。しかし、ミスの確認は紙の方が早い」
「……そうなんですね」
「数字は触った感触があった方が信用できる」
そう言い切るあたり、たぶん本気なのだろう。
「僕は不破。副会長やってます。よろしく、桜川さん」
不破は片手を軽く上げた。
「一応言っとくと、この部屋で一番まともなの僕だから安心して」
「前世がどうとか言い出す方がそれをおっしゃるのは、説得力に欠けます」
即座にこよみが突っ込む。
不破は悪びれもせず笑った。
「いや、前世は事実だし」
「その前提がすでに意味不明なんですけど」
恋がつい漏らすと、不破は妙に嬉しそうに目を細めた。
「いいね、その反応。大丈夫、慣れるよ。多分」
「慣れたくないタイプの多分ですね」
「正しい」
何なんだ、この人は。
よく分からないまま警戒していると、藍が静かに補足した。
「不破さんは、発言内容の半分程度をそのまま受け取らない方が安全です」
「会長、それはひどいな。前世の僧兵が泣くよ」
「残り半分についても精査が必要です」
「さらにひどい」
副会長への扱いではない気がする。
けれど、不破本人は別に傷ついた様子もなく、むしろ楽しそうだった。
恋は改めて生徒会室の中を見回す。
電子ボードには議事一覧、承認フロー、予算の進捗らしき数字、行事準備のタイムラインまで並んでいた。普通の生徒会なら紙の掲示や口頭確認で済ませそうなことが、全部可視化されている。ファイル共有もタスク管理も完全に仕組み化されていて、学校の一組織というより、異常に効率化された業務チームだ。
「……ほんとに、普通じゃないですね」
ぽつりと呟くと、鶴見が紙を捲りながら言った。
「効率を詰めた結果こうなっただけです」
「その“だけ”が普通じゃないんですよ」
「大半の資料は電子データで存在しています」
こよみが補う。
「会議記録、予算執行、行事進捗、監査対象資料も基本的にはすべて共有化済みです。必要なアクセス権は、後ほど桜川さんへ付与します」
「紙で欲しければ出すけど、基本はデータだね」
不破が肩をすくめる。
「まあ、例外はそこ」
「例外ではない。保険だ」
鶴見が即座に訂正した。
「紙面で整合性を見る工程は必要」
「雪代が全部ちゃんと残してるのに?」
「雪代は信用してる。でも、人の目で最後に追う工程は別問題だ」
「やっぱり仕事人間だなあ」
この短いやり取りだけで、関係性が少し見えた気がした。
こよみは記録と実務の要。鶴見は数字の番人。不破は軽そうに見えて、たぶん意外と全体の空気を繋いでいる。どいつもこいつも普通ではないが、それぞれ役割だけは妙にはっきりしていた。
藍は恋へ向き直る。
「改めて、歓迎します、桜川さん」
その声を聞いた瞬間、恋は自分がまだ少しだけ緊張していたことに気づく。
ここにいるのは、自分以外は全員すでに出来上がった側の人間だ。いや、二人はそもそも人間ですらない。そこへ後から入る自分が、簡単に馴染めるはずもない。
けれど。
少なくとも、後戻りできない場所へ来てしまった実感だけは、もうはっきりとあった。
「……よろしくお願いします」
そう返すと、藍はほんのわずかに頷いた。
「では、最初に環境設定から始めましょう。監査等委員長として、あなたには見るべきものが多くありますので」
「いきなり重い」
「軽いところから順にお見せするつもりです」
「会長の軽いは信用ならないんだよなあ」
「黙ってください、不破さん」
「はいはい」
部屋の空気がわずかに動く。
普通ではない。
けれど、だからといって完全に冷たいわけでもない。
恋は生徒会室の中心に一歩踏み込みながら、ふと思う。
榊原藍がAIであることも、雪代こよみがアンドロイドであることも、この部屋の中ではまだ表に出ない。出ないまま、それでも確かにここにある。そういう秘密を抱えた場所に、自分は今日から立つのだ。
机上のモニターの光が、静かに瞬いている。
その光景は、まるでこの学校の“普通ではない側”の入口そのものに見えた。
「では、桜川さん。こちらへ」
生徒会室で一通りの挨拶が済むと、雪代こよみが静かにそう言った。
白い長髪がさらりと揺れる。近くで見るたびに思うが、その色は染めたというより最初からそういう素材でできているみたいだった。光を受けると銀にも見えるが、根本の印象はやはり白だ。青い瞳と合わせると、整いすぎていて少し現実味が薄い。
恋は藍を一瞬見た。
藍はいつもの落ち着いた顔で頷く。
「初期説明は、こよみの担当が最も適切です。私はこのあと予算承認の確認がありますので」
「会長、確認の前に修正が必要です」
「では修正です、鶴見さん」
「そこを軽く言わないでください」
紙の束を抱えた鶴見の声を背に、恋はこよみについていった。
生徒会室の奥には、もう一枚扉があった。普通の収納室か何かだと思っていたが、こよみが認証パネルへ指を触れさせると、小さな電子音とともにロックが外れる。
「……今の何ですか」
「入退室管理です」
「生徒会室の中にまで?」
「はい。ここから先は、少しだけ機微な情報を扱いますので」
少しだけ、で済む気がしない。
扉の向こうは、生徒会室より一回り小さい個室だった。だが、狭いという印象はない。むしろ無駄が一切なく、必要な機能だけで構成された部屋という感じだ。壁面の一部は大型モニターになっており、机上にはタブレット端末と小型キーボード、そして学校の見取り図らしきものが表示された透明なパネルまで置かれている。
会議室というより、監視室に近い。
恋は部屋に入った瞬間から嫌な予感がしていた。
「お座りください」
促されるまま椅子へ腰を下ろす。
こよみは向かいではなく、恋の斜め横に立った。説明しながら同じ画面を見るのに適した位置、という感じの取り方だった。いちいち合理的で、やっぱり人間らしい雑さがない。
「まず、監査等委員長として閲覧可能になる校内システムについてご説明します」
こよみが端末を操作すると、壁面モニターの画面が切り替わる。
青葉第二高等学校の校舎見取り図が、フロアごとに分かれて表示された。色分けされた教室、廊下、階段、特別棟、体育館、校庭、昇降口。そこまではまだ普通だ。
問題は、その上に無数の小さな点が浮かび上がったところだった。
「……え」
恋は思わず声を漏らした。
「こちらが校内監視カメラの配置です」
「多くないですか?」
「はい。多いです」
あっさり肯定された。
多いどころではなかった。廊下の曲がり角、階段の踊り場、昇降口、渡り廊下、校庭の一部、体育館の出入口、特別教室棟の通路。ざっと見ただけでも、学校の至る所に配置されている。
「……いや、ちょっと待ってください。これ、ほぼ全部見えてません?」
「トイレ、更衣室、保健室のカーテン内、個人ロッカー周辺などは除外されています」
「そこが除外されてるから大丈夫、みたいな話ですか?」
「少なくとも制度上は、そう整理されています」
「制度上」
何だその怖い言い方は。
こよみは変わらぬ口調で説明を続ける。
「本来の目的は、防犯、防災、校内トラブル発生時の事実確認、備品管理、夜間不審者侵入対策、校内事故時の検証補助などです」
「目的だけ聞くとまともなんですけど」
「実際、用途自体は概ねまともです」
「概ね、が不穏なんですけど」
こよみは少しだけ瞬きをした。
その反応が、ほんのわずかに人間っぽい。
「不穏に聞こえましたか」
「聞こえます」
「承知しました。表現を修正します。少なくとも、日常的な盗み見のためのものではありません」
「“少なくとも”を外してください」
恋が言うと、こよみは数秒だけ考えるような間を置いた。
「……外すと、厳密性が落ちます」
「厳密性を優先しないでほしい場面ってありますよね?」
「あります」
「今です」
「善処します」
やっぱり藍と同じ系統だ。
恋が頭を抱えたくなっている間にも、こよみは淡々と画面を切り替えていく。
次に表示されたのは、複数分割されたライブ映像だった。
昇降口。二年生の廊下。体育館前。校庭脇の通路。購買前。
全部、今この瞬間の学校だ。
「……見えてる」
「はい」
「普通に見えてる」
「はい。ライブです」
「プライバシーとは」
思わず真顔でそう言うと、こよみは初めてほんの少しだけ首を傾げた。
「概念としては理解しています」
「理解してるならもう少し躊躇ってください」
「必要でしたら、この行為が生徒会において許される理由も別途ご説明可能です」
「逆に聞きたくないです」
画面の中では、放課後の生徒たちが何も知らないまま廊下を歩いている。談笑している子もいれば、走っている子もいる。部活へ急ぐ姿もある。
それを生徒会の別室で見られる、という構図がすでにだいぶおかしい。
「……これ、誰でも見られるわけじゃないですよね」
「もちろんです」
こよみが静かに操作すると、画面の右端に権限階層の一覧が表示された。
校内安全管理権限
設備保守権限
緊急時閲覧権限
生徒会統括権限
記録管理権限
監査閲覧権限
恋はその最後の文字を見る。
「これが、私?」
「はい。正式付与はこの後です。桜川さんには監査閲覧権限が付与されます。ただし、常時フルアクセスではありません」
「それは少し安心しました」
「申請ログ付きの段階閲覧方式です」
「……どういうことですか」
「必要な資料、映像、記録へアクセスする際、必ず理由と時間帯が記録されます。誰が、いつ、何を、どこまで見たかが残る仕組みです」
「監査する側も記録されるんですね」
「はい。監査権限の濫用を防ぐためです」
そこだけ妙にまともだった。
というより、まともでない仕組みをまともに運用しようとしている感じがある。
「なお、藍様と私は一部上位権限を有しています」
さらりと言われて、恋は横目でこよみを見る。
「一部、ですか」
「はい。一部です」
「全部じゃないんですか」
「全部に近いですが、全部ではありません」
「その誤差に意味あります?」
「私にとってはあります」
「あなたに、ですか」
「はい。私は記録系統の保持者であって、管理者ではありませんので」
その言い方に、恋は少しだけ引っかかった。
藍が管理者で、こよみは記録者。
たしかに役割の違いは、何となく分かる気がする。藍は判断し、選び、切り分ける側。こよみは残し、並べ、観測する側。人間で言えば似た立場にも見えるのに、二人の間には決定的に違う回路があるのだろう。
こよみは次の画面を表示した。
映像ログ一覧。
日時、場所、イベントタグ、アクセス履歴、保全状況。検索欄には細かな条件指定までついている。
「過去の映像も追えるんですか」
「保存期間内であれば可能です」
「保存期間」
「通常は1年間。事故、問題行動、監査対象、施設異常が絡む場合は延長保全されます」
「普通に警察のシステムみたいなんですけど」
「学校施設管理としては、やや重装備です」
ややどころではない。
「ちなみに、これも生徒会が管理してるんですか」
「厳密には共同管理です。学校側設備担当、外部保守、そして生徒会統括側」
「生徒会が入ってる時点でおかしくないですか」
「会長が必要と判断されました」
「やっぱり会長なんですね……」
何となく納得してしまうのが嫌だった。
彼女ならやる。
防犯だの安全管理だのをきちんと積み上げた結果、当然のようにここまで来る気がする。問題は、その“当然”が普通の高校生の感覚からだいぶ逸脱していることだ。
「他にも、入退室ログ、端末利用履歴、行事運営の承認フロー、予算執行記録、保健室利用統計、図書室貸出傾向、備品破損報告、自販機補充周期などが連動しています」
「最後の方、地味にどうでもよくないですか」
「いいえ。購買および自販機周辺の滞留状況は、校内動線把握の補助になります」
「本当に何でも拾ってる……」
こよみはそこで一瞬だけ沈黙し、それから少しだけ声の調子を変えた。
「桜川さん。不快でしたか」
その問いは、今までの説明より少しだけ柔らかかった。
恋は正直に答える。
「……かなり」
「そうでしょうね」
「安心しました、そこは普通の感想で」
「普通、ですか」
こよみはモニターへ視線を向けたまま、淡々と続ける。
「私には、この情報量は負荷ではありません。むしろ、存在している以上は整理されるべきだと判断します」
「それがもう人間じゃないんですよ」
「はい。人間ではありませんので」
悪びれもなく肯定されると、逆に言葉が詰まる。
「ただ」
こよみは小さく指を動かし、ライブ映像の一つを閉じた。
「人間にとって、この見えすぎる環境が圧迫になることは理解しています」
「理解してるなら、もう少し隠してください」
「必要性との兼ね合いです」
「何と戦ってるんですか、この学校は」
「主に、人間の曖昧さです」
その返答があまりにも自然で、恋はしばらく無言になった。
人間の曖昧さ。
たしかに、それを嫌うような設計思想は、この部屋のどこを見ても伝わってくる。映像。記録。ログ。承認履歴。検索可能な過去。全部、『言った言わない』や『たぶんそうだった』を潰すための仕組みだ。
ぞっとするのに、少しだけ分かってしまうのが厄介だった。
「会長は、全部見るんですか」
「必要なときは」
「必要じゃないときは」
「見ません」
「本当に?」
「少なくとも、漫然とは」
少なくとも、がまた出た。
恋はこめかみを押さえる。
「……藍様は、必要と不要の切り分けに非常に厳密です」
「それは何となく分かります」
「私は、見えるものは基本的に保持します」
「それも分かります」
「役割の差です」
「分かりたくなかったです」
こよみは少しだけ目を瞬いたあと、ほんのわずかに口元を緩めた。
笑った、のだと思う。たぶん。
「申し訳ありません」
「今のはちょっと人間っぽかったですね」
「学習の結果かもしれません」
「そういう返しで台無しになります」
部屋の空気が、ほんの少しだけ軽くなる。
そのあと、こよみは監査等委員長用のインターフェースを一つずつ説明していった。資料閲覧申請の出し方。予算執行ログの追い方。行事承認フローの分岐。事故報告の時系列確認。映像閲覧時の理由入力。外部持ち出し禁止の範囲。端末貸与ルール。
どれも高校の生徒会としては異様に本格的だったが、その説明自体は分かりやすい。要点が整理され、順序も明快で、何より無駄がない。
「……こよみさんって、教えるの上手いですね」
思わず言うと、こよみは少しだけ首を傾げた。
「ありがとうございます。説明用の最適化は得意分野です」
「やっぱり人間じゃない」
「はい」
「そこ、せめて否定してほしいところでした」
「虚偽は避けたいので」
その言い回しに、藍の面影が重なる。
似ているようで、やはり違う。
藍の言葉には選別する鋭さがあるが、こよみの言葉は記録して整列させる冷たさに近い。どちらも人間ではないのに、非人間の種類が違うのだと、何となく理解できてしまった。
こよみは最後に、画面を閉じて恋の方へ向き直った。
「以上が初期説明です。本格的な監査実務は、実案件を見ながら覚えていただく形になります」
「実案件」
「はい。すでにいくつか候補があります」
「怖い言い方やめてください」
「表現を修正します。確認に適した案件があります」
「ちょっとだけマシになりました」
恋は深く息を吐いた。
疲れた。
説明を受けていただけのはずなのに、妙に神経を使った気がする。
「……ひとつだけ、最後に聞いていいですか」
「どうぞ」
「この学校、普通に怖くないですか」
こよみは数秒、考えるように沈黙した。
やがて青い瞳をまっすぐ向けて、静かに答える。
「怖い、という感覚は正常です」
意外な返答だった。
「ただ、藍様は見えないまま危険に晒されることの方を、より問題視されています」
「……だから、こうなった」
「はい。おそらく」
恋はモニターの消えた壁を見る。
何も映っていない黒い画面に、自分たちの姿だけがうっすら映り込んでいた。
プライバシーはたしかに死んでいる気がする。
でも同時に、ここまで来るしかなかった人間ではない何かの思考も、少しだけ見えた気がした。
「では、生徒会室へ戻りましょうか」
こよみが言う。
「会長も、おそらくお待ちです」
「それ、ちょっと嫌な予感するんですけど」
「ご安心ください」
「その言葉、ここではあんまり安心材料にならないんですよ」
「覚えておきます」
白い髪を揺らして、こよみが扉の方へ向かう。
恋は立ち上がり、その後を追った。
この学校の普通ではない側は、思っていたよりずっと広くて、思っていたよりずっと具体的だった。
雪代こよみ
青葉第二高等学校 2年生 生徒会書記
アンドロイド (広義的にはAI)、榊原藍の記録者兼監視者
身長:143 cm、体重:非公開
風貌:白髪、三つ編みおさげ
性格:冷徹、感情はかなり抑制的
趣味:記録、監視




