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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第1章 全ての始まり
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第6話

 その夜、桜川恋はほとんど眠れなかった。


 眠れないまま朝になって、制服に袖を通して、いつものように家を出た。足は勝手に学校へ向かう。授業は始まり、教師の声は教室を流れ、ノートには必要最低限の文字だけが並んでいく。


 けれど頭の中は、ずっと同じところを回っていた。


 榊原藍はAIだった。


 その事実を知った今、何も知らなかった頃と同じ距離には戻れない。戻れないくせに、どう近づけばいいのかも分からない。


 監査等委員長の話を断るべきなのか。


 それとも、受けるべきなのか。


 考えれば考えるほど答えは遠のいて、気づけば昼休みになっていた。


 恋は弁当を食べ終えたあと、誰にも見られないようにスマートフォンを机の陰へ引き寄せた。


 自分でも馬鹿だと思う。


 だが、誰にも聞けない以上、こういう時に手が伸びる先はひとつしかなかった。


 画面を開く。


 見慣れたAIチャットの入力欄に、少し迷ってから文字を打ち込んだ。


『人間の姿をしていて、普通に会話して学校生活まで送ってるAIって、現実にありえると思う?』


 送信。


 数秒して、するすると返答が表示されていく。


『面白いテーマですね!』

『結論から言うと、現時点の現実世界の技術ではかなり難しく、実質的には「まだありえない」と考えていいです^_^』

『人間そっくりの会話AI、ロボット工学、音声合成、画像認識などはかなり進歩していますが、「完全に人間と区別がつかず、学校生活を自然に送り、感情や判断まで自律的に行う存在」は、今の技術水準では実現されていません。』

『SF作品ではよくある設定ですね!』

『気になるなら、今のAI技術でどこまで可能かを一緒に整理することもできますし、逆に「もし本当にいたらどんな特徴があるか」を考えてみることもできますよ✨』


 恋はしばらく無言で画面を見つめた。


「……うるさい」


 思わず小さく漏れる。


 求めていたのは、そういう明るく整理された正論ではなかった。


 知っている。現実にはありえない、なんてことくらい、そんなのはとっくに分かっている。分かっているから困っているのだ。こっちは実際に見てしまったのに、スマホの向こうのAIは、能天気な現実だけを告げてくる。


 最後の一文まで腹立たしい。


 一緒に整理することもできますよ、じゃない。


 もうとっくに整理のつかないところまで来ている。


 恋は深く息を吐き、スマートフォンを伏せた。


 こんなものにまともな答えを期待した自分が悪い。


 それでも、画面の向こうがあまりにも気楽で、あまりにも無責任で、だから逆に少しだけ頭が冷えた。


 一般論ではありえない。


 現実にはまだ無理。


 それでも、榊原藍はいる。


 自分の目の前に、実際にいた。


 ならもう、一般論に逃げても意味がない。


 問題は、いるかいないかではなく――その「いるもの」に、自分がどう向き合うかだ。


 午後の授業中、恋はノートの端に小さく線を引きながら考えていた。


 断れば、日常へ戻れるのか。


 たぶん、戻れない。


 もう正体を知ってしまった。幸三と会ったことも、藍本人から聞いたことも、なかったことにはならない。監査等委員長を断ったところで、藍と無関係な立場へきれいに戻れるとは思えなかった。


 むしろ中途半端に外へ立たされて、何も知らないまま巻き込まれる方がよほど嫌だった。


 だったら。


 近くにいた方がいい。


 少なくとも、自分の目で見える位置にいた方がいい。


 それが正しい選択かどうかは分からない。けれど、今の自分にとって納得できるのはそっちだった。


 榊原藍を信じるからではない。


 むしろ、その逆に近い。


 信じきれないからこそ、近くで見ていたい。


 見て、疑って、必要なら問いを立てる。


 資料に書かれていた文面が、不意に頭をよぎる。


 違和感を見逃さないことを重視します。


 皮肉だと思った。


 そんな資質、欲しくて持ったわけでもないのに。


 放課後の終礼が終わる。


 椅子の音が鳴り、教室の空気がほどける。


 恋は数秒だけ迷ってから、スマートフォンを取り出した。トーク画面を開く。相手の名前は、相変わらずそこにあるだけで妙に目立った。


 指先が、今度はあまり止まらなかった。


『話があります。放課後、屋上に来てください』


 送信する。


 数秒後、返信が来た。


『承知しました。すぐに伺います。』


 やはり無駄がない。


 恋は画面を閉じ、立ち上がった。


「恋、また?」


 横から光里の声が飛んでくる。


 恋は一瞬だけそちらを見たが、うまく誤魔化す言葉が出てこなかった。


「……ちょっと」


「その“ちょっと”で済む顔してないけど」


「済まなくても、今はそれでいい」


 そう返すと、光里は少しだけ眉をひそめたものの、強く引き止めはしなかった。


「気をつけて」


 冗談抜きの声音だった。


 恋は短く頷き、教室を出る。


 廊下を歩きながら、自分の鼓動が少しずつ速くなっていくのが分かった。


 決めた。


 決めたはずだ。


 なのに、実際にそれを言葉にする段になると、胃のあたりが重い。


 階段を上る。


 最上階。屋上へ続く扉。ここへ来るのも、もう何度目かになる。


 ほんの少し前まで、こんな場所に生徒会長と何度も来るような高校生活になるなんて想像もしなかった。


 扉を押し開けると、夕方の風が頬を撫でた。


 空はまだ明るいが、光は少しずつ柔らかくなっている。フェンスの影が床へ長く伸び、校庭の向こうから運動部の声がかすかに聞こえる。


 恋は中央より少し奥、前に藍が立っていたあたりまで歩いて止まった。


 待つ。


 ほんの数分のはずなのに、妙に長い。


 風が制服の裾を揺らすたび、心の中の迷いまで掻き回される気がした。


 本当に受けるのか。


 受けた先に何があるのかも分からないのに。


 でも、分からないからこそ、受けるしかないのだとも思う。


 扉の向こうで音がした。


 振り向く。


 榊原藍が、静かに屋上へ現れた。


 黒髪が夕方の光を受けてわずかに揺れる。制服の乱れはない。表情も、歩幅も、いつも通りだ。あの廃ビルで正体を明かしたあとでも、彼女は変わらず“榊原藍”の形をしていた。


「お呼びでしょうか、桜川さん」


 穏やかな敬語。


 それが今は、前より少しだけ違って聞こえる。


 恋は一度だけ息を吸った。


「はい」


 藍は一定の距離を保って立ち止まる。


「話があります」


「承知しています」


「……そういうところです」


 思わず漏れると、藍はほんのわずかに首を傾げた。


「どのあたりでしょうか」

「何でも分かってるみたいな感じ」

「実際には、そこまで万能ではありません」

「そういう返しがもうそれっぽいんです」


 藍は数秒黙り、それから静かに言った。


「では、もう少し分からない側へ寄せる努力をします」

「別にそこまで求めてないです」

「難しいですね」

「難しいですね、じゃないんですよ」


 短いやり取りのあと、風が間を抜ける。


 少しだけ肩の力が抜けた気がした。


 たぶん藍なりに、緊張を和らげようとしているのだろう。うまくできているかどうかは別として。


 恋は改めて藍を見た。


 赤い瞳が、静かにこちらを待っている。


 ここで言う。


 もう決めたことだ。


「監査等委員長の件なんですけど」


「はい」


「受けます」


 言った瞬間、思っていたよりずっとあっさり口から出た。


 重たいものを持ち上げる覚悟が必要だと思っていたのに、実際には、その一言を境に、逆に少しだけ身体が軽くなった気がした。


 藍はすぐには何も言わなかった。


 驚いているようには見えない。けれど、ただ予測通りでした、という顔とも違った。ほんの一瞬だけ、沈黙が落ちる。


「……よろしいのですか」


 やがて藍は、静かにそう聞いた。


「前回の件があったばかりです。現時点で、あなたの判断材料は決して十分ではありません。それでも」


「それでもです」


 恋は、自分でも少し驚くほどはっきり言い返した。


「十分じゃないから、受けるんです」


 藍の目が、わずかに細められる。


 恋は続けた。


「断ったところで、もう何も知らなかった頃には戻れない。だったら、少しでも何かが見える位置にいた方がいい」


 手すりの方へ一瞬だけ視線を逃がし、それからまた藍を見る。


「私はあなたを信じきれてないです。たぶん、まだ全然」

「はい」

「でも、だからって遠ざかれば安全になるとも思えない。だったら近くで見て、自分で考えた方がましです」


 夕方の光の中で、藍は黙って聞いていた。


「監査、ってそういう役割なんでしょう。見て、疑って、必要なら聞く。だったらたぶん、向いてるかどうかはともかく、やる意味はあります」


「なるほど」


 藍の返答は短い。


「ただし」


 恋は先に釘を刺す。


「言われるがままに従うつもりはありません」

「はい」

「納得できないことは聞きます。隠されてると思ったら疑います」

「それで結構です」

「あと、勝手に連絡先を確認するのもやめてください」

「善処します」

「それ、この前も聞きました」

「では、可能な限り改善します」

「ちょっとだけ前進しましたね」

「評価いただき、ありがとうございます」


 本当に感謝しているのか微妙な声音でそう返されて、恋は小さく息を吐いた。


 だが、そのやり取りの端々で、自分がもう後戻りできない場所に立っているのだと実感する。


「……ひとつ、聞いていいですか」


「どうぞ」


「私が受けるって言ったら、あなたはもっと嬉しそうにするのかと思ってました」


 藍は少しだけ目を瞬いた。


 珍しく、反応が一拍遅れた。


「嬉しそうに見えませんか」

「見えません」

「それは失礼しました」

「失礼というか、単純に分かりにくいです」


 藍は数秒だけ黙り、それからごくわずかに口元を和らげた。


 今度こそ、恋にも分かった。


 本当に、ほんの少しだけだったけれど。


「では、改めて申し上げます」


 夕方の風の中で、藍はまっすぐ恋を見る。


「お引き受けいただき、ありがとうございます。私は、あなたがこの役割を選んだことを歓迎します」


 その言葉は整っていて、やはりどこか人間離れしている。


 けれど、そこに嘘がないことだけは分かった。


 恋は小さく息を吐いた。


「……そうですか」


「はい」


「じゃあ、受けたこと後悔させないでください」

「努力します」

「今のは“必ず”って言うところじゃないですか」

「必ず後悔させない、と断言するのは不誠実ですので」

「そういうところなんですよ、本当に」


 藍はまた少しだけ目を細めた。


 その表情を見て、恋は思う。


 目の前にいるのは人間ではない。


 けれど、人間ではないからといって、簡単に割り切れる相手でもない。


「手続きについては、雪代こよみから改めて資料をお渡しします」


「またあの人が来るんですか」

「はい」

「ちょっと怖いんですけど」

「慣れるかと」

「慣れたくないです」


 藍は否定しなかった。


 そのまま、少しだけ真面目な声音に戻る。


「桜川さん」


「何ですか」


「この選択によって、あなたの見えるものは増えます」

「でしょうね」

「同時に、見なくてよかったものまで視界に入る可能性があります」

「それも、そうでしょうね」


 恋は答えながら、自分でも不思議なほど落ち着いていた。


 怖くないわけではない。むしろ怖い。


 でも、もう怖いだけでは済まないところまで来ている。


「それでも、受けます」


 言い直すと、藍は静かに頷いた。


「承知しました、監査等委員長」


 その役職名を真正面から呼ばれて、恋は思わず顔をしかめる。


「まだ全然慣れないんですけど」

「私もです」

「あなたがそれ言います?」

「言います」


 即答だった。


 そのやり取りに、恋はわずかに目を見開いてから、力の抜けたようにため息をついた。


 たぶん、こうして少しずつ巻き込まれていくのだろう。


 普通ではないものに。


 普通ではない学校の、普通ではない中心へ。


 空は夕方から夜へ移りかけていた。


 フェンスの向こうで、街の光が少しずつ増え始める。


 桜川恋はその光景を見つめながら、自分がようやく、一歩だけ踏み込んだのだと知る。


 知ってしまった先で。


 それでもなお、目を逸らさないと決めた最初の一歩を。

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