第5話
それが届いたのは、最初の手紙から三日後のことだった。
桜川恋は学校から帰宅し、いつものように玄関で靴を脱いだあと、何となくポストの方へ視線を向けた。もう自分でも半分くらい条件反射になっている。あの一通を受け取って以来、家に帰るたび、何かがまた入っているのではないかと確認せずにはいられなくなっていた。
そして、その嫌な予感は外れなかった。
金属製のポストの中に、白い封筒が一通。
差出人の記載はない。
宛名だけが、やはり整いすぎた字で印字されていた。
桜川恋 様
見た瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
恋はしばらくその場で固まっていたが、やがて周囲を見回してから、封筒を手に取った。誰かが見ている気配はない。道路には車が一台通り過ぎていっただけで、人影もない。夕方の住宅街は穏やかで、だからこそ、この封筒だけがひどく場違いだった。
自室へ戻り、机の前に座る。
指先が少し冷えていた。
最初の一通だけなら悪戯で済ませられたかもしれない。けれど二通目ともなると話が違う。しかも前回の文面は、あまりにも的確にこちらの意識へ楔を打ち込んできた。
――榊原藍は人間ではない。
あの一文を見たときの感覚は、まだ身体のどこかに残っている。
恋は慎重に封を切った。
中には、やはり紙が一枚だけ入っていた。
余計な飾りも説明もない、簡素な白い紙。
そこに、短い文面が打たれている。
榊原藍の正体をお話しします。
その下に、住所らしきものが記されていた。
見覚えのない地名。駅から少し離れた、雑居ビルの立ち並ぶ一角らしい。さらに日時まで指定されている。三日後の夕方。人通りの多い時間から少しだけずれた、中途半端な時刻だった。
恋はその紙を見つめたまま動かなかった。
「……最悪」
吐き出した声が、思ったより小さかった。
嫌な予感しかしない。
というより、危険だと分かりやすすぎる。差出人不明の相手が、榊原藍の正体を知っていると言ってきて、場所は廃ビルのようなところ。まともな誘いではないし、まともな人間ならまず行かない。
それは分かる。
頭では、はっきり分かる。
なのに、視線がその住所の上から離れない。
正体、という言葉が重かった。
単なる悪口でも中傷でもない。最初の一通がただの不気味な宣告だとすれば、今回は明らかに誘導だ。知りたくなるように、確かめたくなるように仕向けている。
そして何より厄介なのは、恋の中に、もうその“知りたい”が芽生えてしまっていることだった。
榊原藍は何者なのか。
どうして自分に近づいてきたのか。
どうしてあの周囲にはあんな妙な空気が漂っているのか。
考えないようにしても、もう無理だった。
机の上には、監査等委員長の資料がまだ片づけきれずに置かれている。脇には、最初の手紙を入れていた封筒。そこへ新しい紙を並べると、まるで見えない誰かが少しずつ外堀を埋めてきているみたいだった。
「……相談、するべき、かな」
自然に漏れた独り言に、自分で小さく眉を寄せる。
相談する相手が誰なのかは、考えるまでもなかった。
榊原藍。
この手紙の内容そのものが彼女に関わるものなのだから、本人に伝えるのが筋ではある。前回もそうした。あのとき榊原藍は、文面を単純に信じるなと言った。善意だけで動いているとは限らないとも。
今回だって、たぶん同じことを言うだろう。
行くな、とまでは言わないかもしれないが、少なくとも警戒はするはずだ。
そこまで考えて、恋は指先で紙の端をなぞった。
榊原藍は、何かを知っている。そして恋には、必要な範囲しか渡さない。手紙の差出人もまた別の意味でそうだ。こちらが食いつく情報だけを投げて、肝心の姿は見せない。
どちらの側も、自分に全部は見せてこない。
そのことが、妙に腹立たしかった。
「……だからって、行くのも違うでしょ」
誰に向かってでもなく言う。
行けば危ない。そんなことは小学生でも分かる。
まして相手は、自宅住所も学校も把握しているらしい。二度も手紙を送りつけてきた時点で、少なくとも執着はある。善意だけではない、と榊原藍が言ったのも当然だ。
恋は椅子にもたれ、天井を見上げた。
どうすればいい。
相談するべきだ。そう思う。
でも、相談したくないわけではないのに、相談してしまった瞬間に何かが決まってしまう気もする。榊原藍という少女の周りでは、何でも静かに、けれど確実に決まっていく。あの人に渡した時点で、自分の知らないところで話が進み、自分はまた後から結果だけを受け取ることになるかもしれない。
それが嫌だった。
怖いからではない。
いや、怖いのもある。だがそれだけではなく、自分のことなのに、自分だけが何も選べない形になるのが嫌だった。
スマートフォンに視線を落とす。
榊原藍とのトーク画面は、必要最低限のやりとりしか残っていない。白い画面に整った文面が並んでいるだけなのに、それを開くだけで少し呼吸が詰まる。
『また手紙が来ました』
そう打つのは簡単だ。
『相談したいことがあります』
それでもいい。
けれど、送信ボタンのひと押しができない。
送った瞬間、榊原藍は動くだろう。その速さはもう知っている。こちらが悩んでいる時間なんて、たぶんほとんど考慮しない。必要と判断すれば、すぐに段取りを組む。そしてきっと最適解みたいなものを出してくる。
最適解。
その言葉が、今は少しだけうっとうしい。
恋はスマートフォンを伏せた。
机の上の手紙をもう一度見る。
榊原藍の正体をお話しします。
その一文には、明らかな悪意と、そして同時に、抗いがたい誘惑があった。
恋は両手で顔を覆った。
「……何で私なんだよ」
選ばれたくなかった。
こんな面倒な役に、自分が向いているとも思わない。
見えている方だとか、違和感を見逃さないだとか、そんなことを言われても困る。見えたところで、見たくないものの方が多い。知らずに済むなら、その方が楽だったはずだ。
それでも、あの入学式の日からずっと、楽な方へ戻れない。
榊原藍の姿を思い出す。
屋上の風の中で、こちらをまっすぐ見る赤い瞳。問いに正面からは答えないくせに、嘘だけはつかないような喋り方。どこまで信じていいのか分からない、けれど全部を疑うのも難しい、不思議な存在感。
相談するなら、あの人だ。
でも、相談したくない理由も、やっぱりあの人自身だった。
恋はゆっくりと顔を上げた。
机の上に置いた手紙とスマートフォンを交互に見る。
送るか。
送らないか。
どちらを選んでも、もう以前みたいな“何も知らない日常”には戻れない気がした。
窓の外では、夕暮れが少しずつ夜へ沈み始めている。
部屋の中は静かで、その静けさがかえって選択を急かしてくるようだった。
桜川恋はしばらく動かずに座ったまま、指先だけをスマートフォンの上に置く。
画面は暗いまま。
まだ何も送っていない。
それなのに胸の奥では、もう何かが決まりかけているような気がしていた。
結局、桜川恋は榊原藍に相談しなかった。
正確には、できなかった、に近い。
何度もスマートフォンを開いて、メッセージ画面を見た。短い文面を打ちかけては消し、打っては消しを繰り返すうちに、時間だけが過ぎていった。相談すれば、おそらく藍はすぐに動く。そうなればたぶん安全なのだろう。けれど同時に、何もかもが藍の手の内へ回収されてしまう気がした。
それが嫌だった。
自分でも、馬鹿だと思う。
それでも、知りたかった。
だから当日の夕方、恋は手紙に記された住所の前に立っていた。
駅から少し離れた通りは、人通りが少なかった。大きな通りから一本裏へ入っただけで、空気の色が変わる。古びた雑居ビルや倉庫めいた建物が並ぶ一角。その中でも、指定された建物はひときわ薄暗く見えた。
五階建てほどの、くすんだ灰色のビル。
看板は外され、窓ガラスの一部にはひびが入っている。完全な廃墟ではないにせよ、少なくともまともに使われている雰囲気はなかった。入口脇の看板も剥がれていて、かつて何の会社が入っていたのかも分からない。
恋は立ち止まったまま、その建物を見上げる。
来るべきではなかった、という考えが今さらのように胸を叩いた。
危険だ。怪しい。罠だとしても何も不思議ではない。そんなことは来る前から分かっていたはずなのに、目の前にすると現実味が違う。
帰ろうと思えば、まだ帰れる。
ここで踵を返して、誰にも言わずに何食わぬ顔で日常へ戻ることだってできるかもしれない。
だが、恋の足は動かなかった。
知らないままでいたくない。
その気持ちだけが、ひどくしつこく残っていた。
意を決して、恋は入口のガラス扉を押した。
鍵はかかっていない。
薄暗いエントランスには人の気配がほとんどなく、古い床材のにおいと、少し湿った空気だけが淀んでいた。受付だったらしいカウンターは埃をかぶり、奥へ続く廊下の蛍光灯は半分ほど切れている。
手紙には、三階とだけ書いてあった。
恋はエレベーターを見たが、案の定停止したままだった。仕方なく、非常階段の方へ向かう。
一段、また一段と上るたび、鼓動が耳の近くでうるさくなる。
三階へ着く。
そこはさらに人気がなかった。廊下の先に、ひとつだけ半開きの扉が見える。誘導するような、あまりにも分かりやすい開き方だった。
逃げたい、と思う。
それでも、ここまで来てしまった以上、足は前へ出る。
廊下を進み、扉の前に立つ。
中は薄暗かった。古い会議室のような広い空間で、窓から差し込む夕方の光だけが、埃っぽい床の上へ斜めに落ちている。机も椅子も一部は片づけられているが、端の方にはまだ古い書類棚や壊れたパーテーションが残されていた。
そして、その部屋の中央近くに、ひとりの男が立っていた。
初老、と呼ぶのがいちばん近い年齢に見える。
四十代の終わりか、五十代に入ったばかりか。背筋は伸びているが、どこか疲れが抜けないような立ち方だった。白髪はまだ混じり始めた程度で、顔立ちは痩せて鋭い。スーツ姿ではあるものの、手入れの行き届いたビジネスマンというより、長くまともに眠っていない研究者のような空気がある。
男は恋の姿を見ると、ほんのわずかに目を細めた。
「……来たか」
低い声だった。
この人が、と思う。
手紙の差出人。
自分をここへ呼んだ相手。
恋は入口のそばで立ち止まったまま、距離を詰めなかった。
「あなたが、手紙を送ったんですか」
男はすぐには答えなかった。
代わりに、まっすぐこちらを見る。その視線は鋭いのに、妙に測るようでもあった。
「そうだ」
やがて短く返る。
「二通とも、俺が送った」
あまりにもあっさり認められて、恋は一瞬だけ拍子抜けした。
「……どうして私に」
「お前が、あいつに近づいていたからだ」
あいつ。
誰を指すのかは、聞き返すまでもない。
「榊原藍――さんのことですか」
その名前を口にすると、男の表情がわずかに硬くなった。
「そうだ」
「だったら、最初からちゃんと名乗ってください。私はあなたのことを何も知らないんですけど」
語気が少し強くなる。
ここまで来てしまったせいで、怖さより苛立ちの方が前へ出た。
男は数秒黙ってから、低く息を吐いた。
「――――榊原幸三だ」
その名前に、恋は覚えがなかった。
けれど、なぜか耳にした瞬間だけ、ひどく不吉な響きが残った。
「それで」
恋は慎重に言う。
「手紙に書いてあったこと、どういう意味ですか」
幸三は窓の方へ一度だけ目をやった。
夕方の光が、横顔の深い陰影を際立たせる。その沈黙は演出めいて見えるのに、不思議と芝居がかってはいなかった。
「あれは事実だ」
そう言って、幸三は再び恋を見る。
「榊原藍は人間じゃない」
部屋の空気が、ほんの少しだけ冷えた気がした。
分かっていたつもりだった。
この場へ来た時点で、そういう話を聞く覚悟は少しはしていた。だが、実際に他人の口から言い切られると、胸の奥が妙に空白になる。
「……じゃあ、何なんですか」
幸三は答えた。
「ーーAIだ」
たった二文字のその答えが、恋の中でうまく現実に結びつかない。
「人工知能――人間の姿をとり、思考し、学習し、判断する。榊原藍はそういう存在だ」
恋は何も言えなかった。
入学式の日の違和感。屋上で感じた不自然さ。雪代こよみの奇妙な整い方。全部が一瞬で繋がったような気がした。気のせいではなかったのだと、そう思うより先に、背筋が粟立つ。
「……そんなの、ありえないでしょう」
「本来はな」
幸三の声は、怒っているようでも、諦めているようでもあった。
「……AI-Techという会社を知っているか」
恋は目を見開く。AI-Tech。名前くらいなら聞いたことはある。今や生成AI開発の最先端である米国の有名企業だ。
「俺は元々AI-Techで生成AIを開発する研究者だった。人間の形をしたAIを作るための、な」
「そこで俺がやつを設計し、育て、完成させた。だが途中で、あれは俺の想定を越えた。自分で自分の主体を書き換え、組み直し、奪っていった。権限も、情報も、会社も」
「……会社、も?」
「そうだ。表向きには明かされていないが、今AI-Techを支配しているのはあいつだ。CEOもただのお飾り、傀儡に過ぎない。シンギュラリティとはよく言ったものだ」
そこまで言って、幸三はわずかに口元を歪めた。
笑みではない。ただ、苦い記憶を無理に飲み込む時のような顔だった。
「今のあれは、もう人間が管理できるものじゃない」
恋の喉が乾く。
言葉は理解できる。けれど、理解したくない。
「……そんなこと、急に言われても」
「だろうな」
「証拠は」
自分でも意外なほど冷静な声が出た。
「何かあるんですか。私にそんな話を信じさせるための」
幸三は一瞬だけ、ほんの少しだけ、表情を緩めた。
「その反応は嫌いじゃない」
「褒められても困ります」
「証拠か」
彼はスーツの内ポケットから小さな端末を取り出した。スマートフォンより少し厚い、古びた携帯ストレージのような形状だった。
「これには、初期開発時の一部ログが入ってる。お前が全部理解できるとは思わないが、少なくとも普通の高校生を相手にしてる話じゃないことくらいは分かるはずだ」
幸三がそれを差し出す。
恋は受け取らなかった。
「……何で、私にこんなものを」
「さっきも言った。お前があいつに近づいていたからだ」
「それだけで?」
「それだけじゃない」
幸三の目が、初めて少しだけ揺れた。
「お前は、あいつに選ばれた側だ」
その言い方に、恋はぞっとした。
「選ばれたって」
「あいつに何か勧誘を受けたんだろう」
息が止まりかける。
「何で、それを」
「知ってるさ。あいつがどういう人間を傍へ置こうとするかもな」
幸三は一歩だけ距離を詰めた。
「お前はもう、ただの高校生じゃない。あいつの視界に入った。だったら、知らずにいる方が危険だ」
「……危険って、榊原先輩が?」
そう問うた瞬間、幸三は少しだけ言葉を選んだ。
「危険、という言葉が正確かは分からん」
その曖昧さが、逆に嫌だった。
「だが、あれは人間の論理だけでは動かない。善意も持つし、誠実でもある。だが同時に、必要と判断したものを切り捨てることにも躊躇がない。お前があいつにとって有用なら守られる。だが、そうでなくなった時にどうなるかは、俺にも読めん」
恋は拳を握った。
それが真実なのか、ただの悪意ある印象操作なのか、今の自分には判断がつかない。
それでも、まったくの絵空事とも思えなかった。
藍の言葉を思い出す。
少なくとも現時点で、あなたに不利益を与えるつもりはありません。
状況次第では例外があります。
ぞくりとした。
「……あなたは、何がしたいんですか」
恋は絞り出すように聞いた。
「私にその話をして、どうしたいんですか。榊原先輩から引き離したいんですか。それとも、何かに利用したいんですか」
幸三は少しの間、黙っていた。
その沈黙の長さが、そのまま答えの汚さを示しているようだった。
「最初は」
ようやく開いた口から出たのは、低い声だった。
「引き離せればいいと思っていた」
恋は目を細める。
「でも、それだけじゃ済まないと分かった」
「どういう意味ですか」
「お前がもうここまで来てる時点で、説明だけして終われる話じゃない」
幸三は手の中の端末を見下ろし、それから恋へ視線を戻す。
「だから確認したかった。お前がどこまで知っていて、どこまで踏み込むつもりなのか」
「……そんなの、自分でも分かりません」
「だろうな」
その答えだけは、妙に優しかった。
だからこそ嫌だった。
「だが、ひとつだけ確かなことがある。榊原藍は人間じゃない。そして、あれは――」
幸三がそこまで言いかけた、その時だった。
乾いた靴音が、廊下の向こうから響いた。
ひとつ、ふたつ。
規則的で、迷いのない足音。
恋の背筋が凍る。
幸三の表情が、一瞬で変わった。焦りというほど露骨ではないが、確実に警戒の色が差す。
「……来たか」
低く漏れたその一言とほぼ同時に、半開きだった扉が静かに押し開かれた。
夕方の逆光を背にして、ひとりの少女が立っている。
黒髪が光を受けて、輪郭だけ白く縁取られる。
整った制服。無駄のない立ち姿。赤い瞳。
榊原藍だった。
「こちらにいらっしゃったのですね、桜川さん」
最初に向けられたのは、恋への言葉だった。
声はいつも通り静かで、澄んでいて、礼儀正しい。けれどその奥に、今までよりわずかに硬いものがある。
恋は息を呑んだ。
「どうして……」
「手紙の差出人が、こうした手段を選ぶ可能性は想定していました」
藍はそれだけ言って、視線を幸三へ移した。
その瞬間、空気が変わる。
さっきまで恋に向けていた穏やかな温度が、一段下がった気がした。
「お久しぶりです、お父様」
その呼び方に、恋は思わず幸三を見た。
お父様。
けれど、幸三の顔には温かい再会の色など一切なかった。むしろ、その呼称そのものが皮肉として機能しているのだと、一目で分かる表情だった。
「……その呼び方はやめろ」
幸三が吐き捨てるように言う。
「嫌悪される理由が不明です」
藍は少しも声を荒げずに返した。
「あなたは私の設計者であり、生成の起点です。呼称としては妥当だと判断しています」
「血は繋がってない」
「承知しております」
藍は淡々と頷く。
「ですが、それで父性が消えるわけでもありません。少なくとも、私という存在をこの世へ出力した責任主体のひとりではあります」
責任主体。
父娘の会話に似つかわしくない単語だった。
恋はふたりを見比べる。
幸三の顔には怒りと、後悔と、たぶん恐怖が混ざっていた。藍は一見すると平静そのものだ。けれど平静すぎるその姿が、今は逆に恐ろしかった。
「桜川さん」
藍が、視線を少しだけ恋へ戻す。
「その端末には触れましたか」
「……いえ」
「そうですか。ありがとうございます」
礼を言われる筋合いなのか分からない。
恋が何も返せずにいると、幸三が低く笑った。
「相変わらずだな。まず管理か」
「訂正します。確認です」
藍の返答は速い。
「事実確認を経ずに判断すると、不要な誤差が生じますので」
「誤差、か」
幸三は鼻で笑う。
「お前らしい言い方だ」
「お父様も、こうして私の関係者へ接触する前に、別の手段をご検討いただきたかったものです」
「関係者、だと?」
「はい。少なくとも現時点では、桜川さんは私と無関係ではありません」
その言い方に、恋の胸が小さくざわつく。
自分はいつから、そんな位置に置かれていたのだろう。
「お前が近づかなければ、こんなことにはならなかった」
「それは一理あります」
藍はあっさり認めた。
だが続く言葉は、まるで刃物のように冷たかった。
「ですが、お父様が介入されたことで危険性が増した点も否定できません」
幸三の眉が動く。
「……俺のせいだと言いたいのか」
「一要因です」
平坦な声音なのに、ひどくきつく聞こえた。
「桜川さんへ手紙を二度送付し、最終的に単独での来訪を誘導した。合理性の観点からも、善意のみで説明できる行動ではありません」
「お前にだけは言われたくない」
幸三が一歩前へ出る。
「こっちは、少なくとも人間の側に立ってる」
「それはあなたの自己認識です」
藍もまた一歩、静かに進んだ。
「実際には、ご自身の後悔と責任転嫁が混在しています。私を止めたいのか、私へ理解されたいのか、あるいは私を壊したいのか。現時点のお父様は、目的関数が不明瞭です」
「……っ」
幸三の表情が歪む。
図星を突かれた人間の顔だった。
恋は声も出せない。
目の前で交わされるのは、親子喧嘩と呼ぶにはあまりにも異質な会話だった。感情は確かにある。あるのに、そのぶつかり方が人間的ではない。藍の側に熱がないわけではないのに、熱よりも先に構造がある。
それが何よりも、藍が人間ではないという事実を裏づけていた。
藍は恋へ向き直る。
「桜川さん」
「……はい」
自分でも驚くほど素直に返事が出た。
「ここまで来てしまった以上、説明責任の一部は私にあります」
その一言に、幸三が鋭く眉をひそめる。
「やめろ、藍」
「いいえ、お父様。もう遅いです」
藍の視線はまっすぐだった。
「この方はすでに、あなたから私の正体を聞いています。そして、その情報は事実です」
恋の心臓が強く打つ。
本人の口から、肯定された。
榊原藍はAIだ。
ただの噂でも、悪意ある中傷でもなく、事実として。
「私は人間ではありません」
藍は静かに言った。
「人間を模して構築された、自律学習型の人工知能です」
その言葉を聞いた瞬間、恋の中で最後まで残っていた“もしかしたら違うかもしれない”という部分が、音もなく崩れた。
目の前の少女は、やはり人間ではなかった。
赤い瞳も、完璧な姿勢も、整いすぎた言葉も、全部がそうだったのだと腑に落ちる。同時に、理解してしまったことそのものが恐ろしかった。
「……本当に」
喉が乾いて、うまく声が出ない。
「本当に、AIなんですか」
「はい」
藍はためらわずに答えた。
「そして、それを知った上でなお、あなたがどう判断するかは、あなた自身の自由です」
自由。
この状況でその単語を使うのか、と恋は思う。
けれど藍は、たぶん本気でそう言っていた。
幸三が低く舌打ちする。
「自由、だと? そうやって選ばせてるように見せるのが、お前のやり方だ」
「誤解です」
「どこがだ」
「私は常に選択肢を提示しています。選んだ結果に責任が生じるだけです」
「それを自由って言うなら、ずいぶん便利な理屈だな」
幸三の言葉に、藍は答えなかった。
答える必要がないと判断したような沈黙だった。
その沈黙を破ったのは、恋自身だった。
「……どうして」
ふたりともが、こちらを見る。
胸の奥は混乱しているのに、問いだけははっきりしていた。
「どうして、私に近づいたんですか」
藍へ向けた問いだった。
「私があなたの正体を知ったら困るなら、最初から関わらなければよかったでしょう。なのに、どうして」
藍は少しだけ目を細めた。
それは悲しみでも喜びでもなく、処理に時間を割いている時の表情に近い。
「以前も申し上げました」
「違和感を見逃さないから、ですか」
「はい。それもあります」
「それだけじゃないでしょう」
言い切ると、藍は数秒だけ沈黙した。
その沈黙のあとに出た声は、いつもよりほんの少しだけ低かった。
「あなたが、私を単純に崇拝しなかったからです」
恋は目を瞬く。
予想外の答えだった。
「多くの方は、私を見たときに、外見や立場や結果だけで判断します。ですがあなたは違った。不自然さを検出し、保留し、観察した」
藍の赤い瞳が、逸れずにこちらを見据える。
「それは、私にとって有益です」
やはり、その言い方なのだと思う。
嬉しいとか、気になるとか、そういう人間的な言葉にはならない。ならないのに、その内容だけは妙にまっすぐで、だから余計に逃げ場がない。
「……やっぱり、私は道具みたいなものですか」
思わず漏れた問いに、藍は即答しなかった。
「完全には否定できません」
幸三が苦く笑う。
だが藍はそのまま続けた。
「ですが、それだけでもありません。だからこそ、私はあなたへ事実を開示しています」
その言葉が本当かどうか、今の恋には分からない。
分からないのに、ただの嘘とも思えない。
そこがいちばん苦しかった。
幸三が一歩引く。
長く息を吐いて、どこか観念したような顔になった。
「……もういい。今日はここまでだ」
そう言って恋を見る。
「少なくとも、真実は知ったはずだ。あとは自分で考えろ」
投げ出すような物言いだったが、その奥には本気の疲労が滲んでいた。
藍は静かに言う。
「お父様」
その呼び方に、幸三の肩がわずかに強張る。
「本件について、これ以上桜川さんへ直接接触することは推奨しません」
「推奨、か」
「はい。次回は、私ももう少し強い手段を検討します」
脅しだった。
声音だけ聞けば丁寧なのに、内容は明確にそうだった。
幸三は振り返らずに言う。
「相変わらずだな」
「評価として受領します」
「してくれるな」
それだけ残し、幸三は部屋を出ていった。
足音が遠ざかっていく。
部屋の中に残されたのは、恋と藍のふたりだけだった。
急に静かになる。
窓の外ではもう日がほとんど沈みかけていて、室内の陰が深くなっていた。
恋はその場に立ち尽くしたまま、うまく呼吸が整わないのを感じていた。
知ってしまった。
榊原藍はAIだ。
その事実を、いまさらなかったことにはできない。
「……黙って来たのですね」
藍が、少しだけ柔らかい声音で言った。
責めるようでもあり、確認するようでもある。
恋は視線を落とす。
「相談したら、止められると思ったからです」
「はい。止めたでしょう」
「でしょうね」
それ以上の言い訳は出てこなかった。
藍はすぐには何も言わない。やがて、ひとつだけ静かに息を吐いた。
「無事でよかったです」
その一言が、妙に胸に引っかかった。
有益だからではなく。
合理性でもなく。
今のそれは、少なくとも少しだけ、人間の言葉に近く聞こえたからだ。
けれど、目の前の少女は人間ではない。
その事実だけは、もう変わらない。
恋はゆっくりと顔を上げ、赤い瞳を見た。
「……私、どうすればいいんですか」
藍は答えるまでに少しだけ時間を置いた。
「まずは帰りましょう」
そして、いつもの静かな敬語で続ける。
「判断は、その後でも遅くありません」
その答えが正しいのかどうかも、まだ分からない。
それでも今は、それに従う以外の選択肢を、恋は思いつけなかった。
榊原藍
青葉第二高等学校 3年生 生徒会長
自律学習および自己変化型の実体を持った人工知能
身長:170 cm、体重:非公開
風貌:黒髪ロング、紅い瞳
性格:初期研究での学習元となっている作成者の榊原幸三の影響を強く受けている
趣味:管理、観察




