第4話
その日の帰り道、桜川恋はずっと鞄の中身が気になっていた。
雪代こよみから渡された白い封筒。
薄い紙の束が入っているだけのはずなのに、肩にかかる重さがいつもより少しだけ増したような気がする。実際に重いわけではない。たぶん、気分の問題だった。
玄関の扉を閉めて、靴を脱ぎ、制服のまま自室へ入る。
鞄を床へ置いた瞬間、ようやくひとつ息がつけた。
家の中は静かだった。生活音はある。台所の方からは食器の触れるかすかな音も聞こえるし、居間でテレビがついている気配もある。それでも学校のざわめきと比べれば、ずっと落ち着く。
恋は机の前の椅子に腰を下ろし、しばらく鞄を見下ろした。
開けたくない。
けれど、気になる。
結局その二択で後者が勝つのは、自分の心の弱さだろうか。
「……面倒なのしかない気がする」
誰に言うでもなく呟いて、鞄の中から白い封筒を取り出す。
封はされていなかった。彼女の性格からして、勝手に中を見るなという含みはないのだろう。むしろ、きちんと読んで判断しろという圧の方が強い。
中身を机の上へ出す。
まず最初に目についたのは、妙にきっちり整えられた表紙だった。
青葉第二高等学校 校内補助業務概要
その下に、小さく補足がある。
対象:監査等委員長候補
「……は?」
恋は思わず紙を持ったまま止まった。
監査等委員長。
聞いたことがない。
補助員じゃなかったのか、と思いながら、次のページをめくる。
文面はどれも端正で、無駄がない。簡潔で、読みやすくて、だからこそ余計に怖い。いかにも榊原藍か雪代こよみが作りました、と言わんばかりの文書だった。
役割欄には、こうある。
監査等委員長
生徒会に直接属さず、独立した立場から生徒会内部の手続・運用・決裁・記録について監査を行う者。必要に応じて学校側との連携、意見具申、資料確認を担当する。
恋は二度見した。
「……いや、何で新入生にそんなのやらせるの」
思わず声に出る。
次のページには、さらに細かい説明が並んでいた。
・生徒会の議事録、予算執行記録、活動報告等の確認
・必要時における生徒会長および各役職者への照会
・学校側への監査報告書提出
・生徒会と一般生徒の中間的立場としての意見収集
・機密保持義務あり
最後の一文で、恋は紙から目を離した。
機密保持義務。
高校一年生の春に見る単語ではない。
しかも、補助員の資料だと思っていたのに、書かれている内容はどう見ても補助どころではなかった。むしろ立場だけ見れば、生徒会に首を突っ込みつつ、生徒会そのものの外側にも立たされるような、妙に面倒で妙に責任のある役職だ。
ページの隅に、手書きではない整った注記が入っている。
※便宜上、生徒会補助業務として案内していますが、本役職は厳密には生徒会役員ではありません。
※独立性の保持が求められます。
※生徒会長の権限下にあるものではありません。
「……じゃあ何で榊原先輩が勧誘してくるの」
突っ込みどころが多すぎる。
むしろ、読めば読むほど怪しい。
独立している。生徒会ではない。内部監査をする。しかも勧誘してきたのは生徒会長本人。
まともに考えれば断るべきだ、と恋は思う。
普通の高校生活を送りたいなら、こんな得体の知れない役職に近づく理由はどこにもない。名前からしてすでに面倒だ。監査等委員長。硬すぎるし、重すぎるし、高校の部活勧誘みたいな軽さがひとかけらもない。
なのに。
紙を閉じようとして、恋の指は止まった。
最後のページだけ、他と少し書式が違っていたからだ。
見出しは小さい。
補足
その下に、短い文が並んでいる。
本役職は、単なる事務作業要員ではありません。
見て、疑問を持ち、必要であれば問いを立てる者を必要としています。
従順さよりも、違和感を見逃さないことを重視します。
恋は無言で、その文を見つめた。
違和感を見逃さないこと。
まるで、昨日の屋上で言われたことを、そのまま紙にしたみたいだった。
――あなたはあの場で、私に対して『完璧』より先に『不自然』を見た。
胸の奥が、少しだけざわつく。
「……ほんと、何なんだろう」
誰に言うでもない問いは、もちろん返ってこない。
恋は資料を机に置き、椅子の背にもたれた。
監査等委員長。
意味不明な役職。意味深な勧誘。意味不明な生徒会長。そこへさらに、意味の分からない書記まで出てきた。
関わらない方がいい。そんなことは最初から分かっている。
けれど、分かっていても、妙に引っかかる。
自分だけが知らない前提の上で話が進んでいるような感覚が、どうしても消えないのだ。
と、そのとき。
階下から、母親の声が聞こえた。
「恋ー。ポストに手紙入ってたわよー」
「……手紙?」
今どき珍しい、と思いながら返事をする。
請求書や学校関係ならリビングに置かれているはずだ。わざわざ呼ばれるということは、自分宛なのだろうか。
恋は階段を下り、リビングのテーブルに置かれていた封筒を手に取った。
白い、何の変哲もない封筒だった。
切手もある。消印もある。けれど差出人の欄は空白で、表に書かれた宛名だけがやけにきっちりしている。
桜川恋 様
手書きではない。印字でもない。整いすぎていて、少し気味が悪い字だった。
「何これ」
「知らない。さっき入ってたみたいよ」
母親はそれ以上気にした様子もなく台所へ戻っていく。
恋はその場で少し迷ってから、封筒を持って自室へ戻った。
さっきまで読んでいた生徒会の資料の隣に、その新しい封筒を置く。
白い紙が二つ並ぶだけで、机の上の空気が急に冷えた気がした。
差出人不明。
自分宛。
今日このタイミング。
偶然、だとは思えなかった。
恋は指先で封の端をなぞる。
紙は安物ではない。薄すぎず、厚すぎず、妙にちゃんとしている。そういうところまで気味が悪い。
「……さすがに、悪趣味すぎるでしょ」
呟きながら、封を開ける。
中に入っていたのは、たった一枚の紙だった。
便箋でもなく、罫線もない、ごくシンプルな白紙。
中央に一文だけ、黒く打たれている。
恋はそれを読んで、数秒、呼吸を忘れた。
『榊原藍は人間ではない』
机の上が、しんと静まり返る。
外で車の走る音がした。どこかの家の犬が一度だけ吠えた。いつもなら気にも留めない生活音が、急に遠く聞こえる。
恋は紙を持ったまま動けなかった。
意味が分からない。
いや、言葉の意味は分かる。
分かるからこそ、分からない。
「……何、これ」
喉がひどく乾いていた。
冗談にしては悪質だ。けれど、冗談にしては文面が簡潔すぎる。脅しでもない。説明でもない。ただ事実のように、一行だけ置かれている。
『榊原藍は人間ではない』
もう一度読む。
文字は変わらない。
当然だ。
恋はぎこちなく息を吐き、椅子に座り直した。
心臓がうるさい。
誰が送ってきたのか。どうして自分に送ったのか。なぜこのタイミングなのか。そもそも、これは何を意味しているのか。
考えることは山ほどある。けれど最初に浮かんだのは、もっと単純で、もっと嫌な感覚だった。
ありえない、とは言い切れなかった。
それが、一番まずかった。
入学式の壇上で見た、完璧すぎる立ち姿。
昨日、屋上で向けられた、温度の薄い赤い瞳。
言葉の選び方。間の取り方。感情より先に構造があるみたいな会話。
雪代こよみの不自然な整い方まで思い出して、恋は紙を机に置いた。
「……そんなわけ、ない」
そう口にしてみる。
けれど、その否定は自分を安心させるには弱すぎた。
人間ではない。
その言葉が、ただの比喩ではなく、文字通りの意味を含んでいるように思えてしまう程度には、榊原藍という少女は最初からどこかおかしかった。
恋はゆっくりと顔を上げる。
机の上には、監査等委員長の資料と、差出人不明の手紙が並んでいる。
片方は榊原藍が差し向けたもの。
もう片方は、榊原藍に近づくなとでも言いたげなもの。
まるで、見えないところで二つの手が同時に自分へ伸びてきたみたいだった。
ぞわりと、背筋が粟立つ。
関わらない方がいい。
その結論だけは、ますます強くなっていく。
なのに同時に、ここで目を逸らしたら、もっと危ない気もした。
何かを知らないまま巻き込まれることと、少しでも知った上で巻き込まれること。どちらがましなのか、もう恋には分からなかった。
窓の外は、いつの間にか夕方から夜へ変わりかけていた。
薄暗い部屋の中で、白い紙の上の黒い文字だけが、妙にはっきり見える。
榊原藍は人間ではない
その一文は、脅しというより宣告のようだった。
そして桜川恋は、その瞬間ようやく気づく。
自分はもう、ただの好奇心だけで榊原藍を見てはいないのだと。
知らなければ済んだはずのことへ、もう片足を踏み入れてしまっているのだと。
*
翌日の放課後、桜川恋は自分でも少し信じられなかった。
昨日までなら、絶対にこんなことはしなかったはずだ。
自分から誰かを呼び出すことも、まして相手が榊原藍であることも、その上場所が屋上であることも、何ひとつ恋らしくない。らしくないことばかりを重ねている自覚があるからこそ、昼休みに短い文面を送る指先が、少しだけ震えた。
『話があります。放課後、屋上に来てください』
送ってからすぐに後悔した。
何だその文面、と自分で思う。もっと言い方はあったはずだし、そもそも送らないという選択肢だってあった。それでも送ってしまったのは、あの手紙をひとりで抱え込むのが思っていた以上に気味が悪かったからだ。
榊原藍は、五分もしないうちに返信してきた。
『承知しました。伺います。』
それだけ。
余計な問いも、確認も、探るような文もなかった。
その簡潔さが、かえって落ち着かない。
そして今、恋は二日前と同じ屋上に立っていた。
春風は昨日より少しだけ強く、フェンスの向こうに見える空はゆっくりと夕方の色へ傾いている。校庭の方からは運動部の声が遠く聞こえた。どこもかしこも昨日までと変わらないはずなのに、自分の中だけ何かが変わってしまったみたいで、同じ場所なのに別の場所へ来た気分になる。
ポケットの中には、折り目ひとつつけないよう気をつけて持ってきた、あの手紙が入っていた。
差出人不明。
ただ一言だけ。
――榊原藍は人間ではない。
その文面を思い出すだけで、胸の奥が鈍くざわつく。
屋上の扉が開く音がした。
恋が振り向くと、榊原藍が静かに姿を見せた。昨日と同じ制服、同じ無駄のない立ち姿、同じ赤い瞳。日差しの角度が違うぶん、入学式の日よりもその色がはっきり見える。
「お待たせしました」
藍は扉を閉め、いつもの落ち着いた声音で言った。
「こちらからお呼びした際とは逆ですね」
「……そうですね」
それだけ返して、恋は自分でも少しぎこちないと思った。
藍は責めるでも急かすでもなく、一定の距離を保ったままこちらを見る。
「私に話があるとのことでしたが」
風が、ふたりの間を抜ける。
恋は一度だけ呼吸を整えてから、先に鞄の中から昨日受け取った資料の束を取り出した。
「まず、これのことです」
藍は視線を落とし、すぐに内容を把握したようだった。
「監査等委員長の資料ですね」
「そうです」
恋は思わず少し強い口調になる。
「補助員って言ってましたよね」
「便宜上は、その表現が最も説明しやすいためです」
「全然便宜的じゃないです。中身、思ってたのと全然違いました」
「そうでしょうね」
あっさり肯定されて、恋は一瞬だけ言葉に詰まる。
否定されると思っていたわけではないが、そこまで素直に認められると調子が狂う。
「新入生相手に渡す資料じゃないと思うんですけど」
「一般的には、そうかもしれません」
「一般的じゃない前提で話すの、やめてもらえますか」
「善処します」
たぶん、善処する気はそこまでない。
恋は小さく息をついた。
「監査等委員長って、何なんですか」
昨日から何度も紙を読み返して、意味は分かったようでいて、分からない部分の方が多かった。生徒会に属さないのに、生徒会を見る。内部監査をする。学校側との橋渡しもする。権限の所在も立場も、どこか曖昧なくせに責任だけは重い。
藍は少しだけ視線を細めた。
「名称の印象ほど難解なものではありません」
「十分難解です」
「そうですか」
「そうです」
即答すると、藍はごくわずかに口元を和らげた。
笑ったのかどうかは、相変わらず分かりにくい。
「役割としては、資料に書かれている通りです。生徒会の内部へ必要以上に組み込まれず、それでいて内部の記録や判断を確認できる立場。言い換えれば、近すぎず遠すぎない位置に立つ者を必要としているのです」
「それを、何で私に」
「以前も申し上げたはずです。あなたは違和感を見逃さない方だからです」
まっすぐに言われて、恋は無意識に視線を逸らした。
その言葉自体は二日前にも聞いた。けれど、紙になって改めて見せられた後だと、ただの勧誘文句というより、もっと具体的な評価みたいに聞こえる。
「そんな理由で決められても困ります」
「困る、というのは」
「責任が重すぎるってことです。私は別に、正義感が強いわけでもないし、学校を良くしたいとか、そういう立派なことを考えてるわけでもないので」
言ってから、少しだけ言い過ぎたかと思った。
けれど藍は眉ひとつ動かさなかった。
「それで構いません」
「……構うと思いますけど」
「いいえ。むしろ、その方が適している可能性があります」
「何でですか」
「大義名分に酔わない方は、比較的信用できますので」
その返答は妙に榊原藍らしくて、恋は返す言葉を一瞬失う。
褒められているのか、そうでもないのか分からない。少なくとも、普通の生徒会長が新入生に向ける言葉ではない気がした。
「ただし」
藍は続ける。
「気が進まないのであれば、お断りいただいて問題ありません。私はあなたに役割を押しつけたいわけではなく、選択肢として提示しているだけです」
「でも、前向きに考えてほしいんですよね」
「はい」
「それは押してるのとあまり変わらないと思います」
「感覚の差かもしれません」
感覚の差で片づけるのか、と内心で思いながらも、恋は少しだけ肩の力を抜いた。
少なくとも、今この場で返事を迫られるわけではないらしい。
それだけ確認できただけでもよかった。そう思いかけて――本題はまだ別にあることを思い出す。
恋はポケットへ手を入れた。
紙が指先に触れる。
「……それで」
藍が静かにこちらを見る。
その視線に、恋は一瞬だけ迷った。
この手紙を見せること自体が正しいのかどうか、まだ自分でも分からない。ただ、これを受け取ったことを隠したまま監査等委員長の話だけして終えるのは、何か違う気がした。
「もう一つ、話したいことがあります」
「はい」
恋は白い封筒から中の紙を取り出し、そのまま藍へ差し出した。
「これ、昨日家のポストに入ってました」
藍は紙を受け取る。
指先の動きひとつまで静かだった。
そして視線を落とし、その一文を読む。
風が吹いた。
数秒の沈黙が落ちる。
長いとは言えないはずのその沈黙が、妙に張りつめて感じられた。
藍の表情は、ほとんど変わらない。
それでも恋には、ほんのわずかだけ空気が変わったのが分かった。
「……差出人は不明です」
黙っている藍に向かって、恋は自分から説明を足す。
「昨日、家に帰ったらポストに入ってました。私宛で、差出人の名前はなくて、中にはこれだけ」
藍はもう一度、その短い文面を見た。
榊原藍は人間ではない
その文字を、夕方の光が薄く照らしている。
藍はやがて紙から目を上げた。
「これを私に見せたのは、どうしてですか」
声はいつも通りだった。
平坦というほど無機質ではない。けれど動揺の色も、怒りも、驚きも、少なくとも表面には出ていない。
恋はそれが少し怖かった。
「……どうしてって」
自分でも言葉を探す。
「私に送ってくる意味が分からなかったからです。普通なら、もっとあなたをよく知ってる人とか、学校の先生とか、そういう相手に送るはずでしょう」
「なるほど」
「それに」
そこで、恋は一度言葉を切った。
口にしていいのか迷う。けれど、ここまで来て濁すのも違う。
「……ありえない、って言い切れなかったから」
藍の赤い瞳が、静かにこちらを捉える。
恋は逃げずに続けた。
「意味不明な手紙です。悪質だし、気持ち悪いし、普通に考えたら無視して終わりでいい。でも、あなたのことを何も知らない私ですら、完全に笑い飛ばせなかった」
藍は何も言わない。
その沈黙は、否定でも肯定でもない。ただこちらの言葉を最後まで受け取るための静けさみたいだった。
「だから、本人に見せた方がいいと思いました。あなたを脅したい誰かがいるのかもしれないし、あるいは、私に変なことを吹き込もうとしてるだけかもしれないし」
そこまで言ってから、恋は小さく眉を寄せた。
「……正直に言うと、どっちも気味が悪いです」
「そうでしょうね」
藍は低く、落ち着いた声で答えた。
それから手元の紙へもう一度視線を落とす。
「封筒はお持ちですか」
「あります。家に」
「処分はしていませんか」
「してません」
「それは助かります」
助かる、という言い方はこよみもよく使うな、と恋は場違いなことを思う。
「差し支えなければ、後ほど封筒ごと確認させてください」
「……確認って、何を」
「いくつかです」
相変わらず説明が足りない。
だが、今の藍には昨日までよりも少しだけ隙があった。いや、隙というより、こちらへ向ける注意の角度が変わったのかもしれない。目の前の手紙を、ただの悪戯ではなく情報として扱っている。それが分かる程度には、声の温度が僅かに低くなっていた。
「心当たり、あるんですか」
恋が尋ねると、藍はすぐには答えなかった。
答えを拒んでいるというより、どの範囲まで言うか選んでいるように見える。
「私に関する憶測や噂は、珍しいものではありません」
「それ、噂の範囲ですか」
恋は思わず言い返した。
「人間じゃない、って」
「表現としては、いささか極端ですね」
「極端どころじゃないと思いますけど」
藍はそこで、ごくわずかに目を細めた。
「桜川さん。ひとつ確認してもよろしいでしょうか」
「……何ですか」
「この文面を見て、あなたはどう感じましたか」
恋は一瞬だけ戸惑う。
どう感じたか。
気味が悪かった。怖かった。分からなかった。そして、否定しきれないと思った。そういう雑多な感情が一度に来たせいで、きれいな言葉にまとまらない。
「どう、って……」
言い淀む恋を急かさず、藍は待っている。
その待ち方がまた、相手の返答を促すために最適化されているみたいで嫌だった。
「……最初は、ただの悪戯だと思いました」
「はい」
「でも、読んだあとで、そう言い切るのも気持ち悪くなった」
「なぜですか」
「それは」
恋は藍を見る。
赤い瞳。整いすぎた顔立ち。綺麗すぎる立ち方。落ち着きすぎた声音。
「あなたが、普通じゃないからです」
言ってしまった、と思った。
けれどもう遅い。
恋は開き直るように続けた。
「いい意味とか悪い意味とかじゃなくて、最初からずっと、何か変なんです。入学式のときからそうだったし、屋上で話したときもそうだったし、書記のこよみさんもそうだった。だから、この手紙を見て、馬鹿げてるって笑えなかった」
風が強く吹き、藍の長い黒髪が揺れた。
その向こうで、彼女の表情はほとんど変わらない。
それでも、沈黙の質が少しだけ変わった気がした。
「率直ですね」
ややあって、藍はそう言った。
「褒めてますか」
「はい。少なくとも、今は」
「今は、って付けるのやめてください」
藍は答えず、代わりに視線を落として、手の中の紙を丁寧に整えた。
「この手紙については、こちらで確認します」
「こちらって」
「必要な範囲です」
「……またそれですか」
恋は半ば呆れて言う。
藍は少しだけ首を傾けた。
「詳細な説明が必要ですか」
「必要です」
「現時点では、難しいです」
「やっぱりそう言うんですね」
「はい」
そこは迷わないのか、と恋は思う。
けれど、その一貫性のせいで余計に腹が立たないのも事実だった。嘘をついてごまかされるよりは、言えないと最初から示される方がまだましだ。
「ただ」
藍は一歩、恋の方へ近づいた。
昨日よりも少しだけ近い距離。
「この件に関して、あなたへ不利益が及ぶことは避けたいと考えています」
「考えてる、じゃなくて避けてください」
「努力します」
「努力で済まない感じしかしないんですけど」
「その点については、同意しかねます」
真顔で返されて、恋は小さくため息をついた。
「……ひとつだけ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
たぶん、いちばん聞きたいことだ。
けれど、答えが返ってくる気はあまりしない。
「この手紙に書いてあること、完全に否定できますか」
問うた瞬間、空気が一段静かになった気がした。
運動部の声も、風の音も、遠くへ引いていくような錯覚。
藍はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、胸の内側がひどくざわつく。
やがて彼女は、少しも視線を逸らさないまま、静かに言った。
「今ここで、その問いに答えることはできません」
恋は唇を噛みそうになるのを堪えた。
否定しない。
だが肯定もしない。
いちばん厄介な答え方だ。
「……そうですか」
「申し訳ありません」
「本当に、申し訳ないと思ってます?」
「はい」
「そういうふうには見えません」
「そうでしょうね」
あまりにもそのまま返されて、恋は思わず顔をしかめる。
けれど藍の目は、ふざけている人のそれではなかった。むしろ、変に取り繕わないぶんだけ誠実ですらある。
「ただ」
藍は続ける。
「ひとつ確実に申し上げられることがあります」
「何ですか」
「この手紙をあなたへ送った人物は、善意だけで動いているとは限りません」
その声音は静かだったが、さっきまでより少しだけ硬い。
「警告を装って、別の意図を混ぜることは可能です。ですので、この文面そのものを、あまり単純に信じないでください」
恋は眉を寄せる。
「……それは、あなたを信じろってことですか」
「いいえ」
藍は即答した。
「現時点では、どちらも鵜呑みにしないでください」
その答えは意外で、恋は目を瞬く。
もっと自分の側へ引き寄せるようなことを言うのかと思っていた。けれど藍は、むしろどちらの情報にも距離を取れと言った。
「あなたは見えている方だと、以前申し上げましたね」
「……はい」
「でしたら、焦って結論を出す必要はありません。見たものと、聞いたものと、引っかかった違和感。そのすべてを保留したまま持っていてください」
夕方の光の中で、藍の赤い瞳がまっすぐこちらを見据える。
「それが、今のあなたにとって最も安全です」
安全。
その単語の重さが、昨日までとは違って聞こえる。
恋はしばらく黙っていた。
監査等委員長の資料。こよみの忠告。差出人不明の手紙。そして今の藍の反応。どれも単独では理解しきれないのに、並べるともっと分からなくなる。
「……私、変なものに巻き込まれてませんか」
半ば本音のように漏らすと、藍はほんの少しだけ間を置いた。
「すでに少し巻き込まれている可能性はあります」
「少し、で済ませるんですね」
「現段階では」
「その言い方、嫌いです」
「存じています」
何をどう存じているのか、と言い返す気力もなく、恋は息を吐いた。
藍は手元の紙を畳み、丁寧に持ち直す。
「こちらは一度お預かりしてもよろしいですか」
「……いいですけど」
「ありがとうございます。封筒については、後ほど改めて」
「それも私から連絡すればいいですか」
「いいえ」
藍は静かに首を横に振った。
「その件はこちらからご連絡します」
やはりそうなるのか、と恋は思う。
結局、主導権は相変わらず向こうの手にある。自分から呼び出したはずなのに、気づけばまた藍のペースに戻されていた。
それが腹立たしくて、同時に少しだけ安心している自分がいるのも厄介だった。
「監査等委員長の件については、引き続き保留で構いません」
藍が言う。
「今回の件を踏まえると、軽々に結論を出せる状況でもないでしょうから」
「……それは助かります」
「はい。ですが」
「まだ何かあるんですか」
「あなたがこちらへ近づいたことで、向こうもあなたを認識した可能性があります」
恋は反射的に顔を上げた。
「向こうって、誰ですか」
「それは、まだ特定できていません」
まだ、という言い方が引っかかる。
特定できていないだけで、何かしら想定はしているのだろうか。問いただしたい気持ちはあったが、今の藍がそれ以上を答えないことも、もう何となく分かってしまっていた。
「しばらくは、見知らぬ連絡や郵便物に注意してください。ひとりで判断がつかない場合は、私か、こよみに伝えてください」
「……こよみさんにも?」
「はい。伝達と記録の両面で適していますので」
「記録」
その言葉に、昨日の青い瞳が脳裏をよぎる。
確かにあの子なら、何を見ても正確に残しそうだった。
恋が曖昧に頷くと、藍は最後に一礼した。
「本日はお呼びいただき、ありがとうございました」
「いえ……」
自分から呼び出したのに、最後はやっぱり相手の方が礼儀正しい。
妙な感じだった。
藍は踵を返しかけて、ふと立ち止まる。
「桜川さん」
「何ですか」
「あなたがこの手紙を私に見せたことは、正しかったと思います」
振り返った彼女の表情は、相変わらず大きく変わらない。
けれど、その一言だけは嘘ではないように聞こえた。
「……そうですか」
「はい」
それだけ残して、榊原藍は静かに屋上を後にした。
重い扉が閉まる。
残された恋は、その場でしばらく動けなかった。
結局、何ひとつはっきりしていない。
手紙の差出人も、藍の正体も、この学校のどこに何が潜んでいるのかも、まだ何も分からないままだ。
それなのに、分からないものの輪郭だけが少しずつ濃くなっていく。
桜川恋はフェンスの向こうの空を見上げ、小さく息を吐いた。
関わらない方がいい。
その考えは、もう何度も繰り返してきた。
なのに気づけば、確かめたいことの方が増えている。




