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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第1章 全ての始まり
3/13

第3話

 翌日、桜川恋は少しだけ寝不足だった。


 理由ははっきりしている。昨日の屋上だ。


 榊原藍に呼び出され、意味深なことばかり告げられた挙げ句、生徒会補助員の募集用紙まで渡された。帰宅してからも、机の引き出しにしまったその紙が妙に気になって、何度も思い出してしまった。


 断ればいい。


 それだけの話のはずなのに、簡単に片づかない。


 彼女の言葉が、いちいち説明不足なくせに、肝心なところだけ無視できない形で残っているせいだ。


 ――あなたは、自分が思っているより少しだけ、見えている方です。


 何を見たというのか。何が見えているというのか。


 考えたところで分かるはずもなく、恋は朝からずっと、気分の悪い宿題を抱えているみたいだった。


「顔死んでるけど大丈夫?」


 一時間目の前、いつものように光里が机に肘をついてきた。


「大丈夫」

「大丈夫な人の声じゃない」

「寝不足」

「会長のせい?」

「朝からその話したくない」


 そう返すと、光里は面白がるように笑ったが、深追いはしなかった。


 ありがたい。


 今の恋は、昨日のことを他人にうまく説明できる気がしなかった。屋上に呼び出されたことも、連絡先を知られていたことも、興味があると言われたことも、全部そのまま口にすればするほど、自分だけが変なものに絡まれているみたいで落ち着かない。


 授業は、内容そのものよりも時間が過ぎる速さだけが救いだった。


 ノートを取っている間だけは余計なことを考えずに済む。そう思っていたのに、二時間目の終わり頃には、つい窓の外へ視線が滑ってしまう自分に気づいて、恋は小さくため息をついた。


 二時間目のあとの休み時間、廊下側の扉から上級生らしい女子がひょいと顔を出した。ジャージの袖から覗く腕が日に焼けている。教室の中を見回して、迷いなく光里の席へ歩いてきた。


「古角さん、だよね。古角光里さん」


「はい?」


「陸上部の者なんだけど。中学のとき、幅跳びやってたでしょ。県大会の」


 光里は一瞬だけ瞬きをして、それからいつもの調子で笑った。


「うわ、よくご存じで」


「うちの顧問が覚えててさ。あの古角さんが来てるなら声かけてこいって」


「ありがたい話なんですけど、ごめんなさい。もうやってないんです」


 断るまでが、早かった。


 迷う素振りも、考える間もない。質問と返事の間に、紙一枚も挟まっていなかった。


「えー、もったいないよ。今から復帰でも全然」


「いやいや、ほんとに無理なんですって。それより先輩、こっちの子どうですか。帰宅部志望の逸材なんですけど」


「は?」


 急に話を振られて、恋は思わず声を上げた。陸上部の先輩は恋を一瞥して、「えー、本当?」と真顔で返した。失礼な話だが、否定する気にもなれない。


 先輩はそれからもう一押しだけして、マネージャーでもいいから、という言葉まで出したが、光里は笑顔のまま、きれいに全部を受け流した。気を悪くさせず、期待も残さない、見事な断り方だった。


「残念だなあ。気が変わったらいつでも来てね」


 先輩が去っていくと、光里は何事もなかったように頬杖をついた。


「で、さっきの話だけどさ」


「……うん」


 恋は相槌を打ちながら、少しだけ考えていた。


 光里が運動部に入らないと主張するのは、少し事情があった。去年の春先に遭った事故のあと、激しい運動はできなくなってしまったのだ。しかも一時的なものではなく、選手生命を絶たれるほどの大怪我だった。

 そういえばもう激しい運動ができないという事を光里の口から直接聞いた覚えはない気がする。気がするだけで、思い出せないだけかもしれない。あの頃の出来事はあまりにもショッキングすぎて、他人事ながらあまり思い出したくない。そういう嫌な記憶の奥底に紛れているのだろう。本人も口にしないだけで気にはしてるだろうし、あまり踏み込んで聞くのも聞くのも申し訳ない。


「ちょっと、恋、今の聞いてた?」


「え?」


 物思いに耽っていた恋が素っ頓狂な声を上げると、光里は「もー、ちゃんと聞いててよ」と背中を叩いた。結構思いっきり叩かれた。光里は基本的に優しいが、よく分からないところで容赦がない。文句の一つでも言おうと思ったが、結局そのまま三時間目の授業に突入してしまった。


 ――――――――――――

 


 昼休みのチャイムが鳴る。


 教室の空気が一気にほどけて、あちこちで椅子の音がした。恋は鞄から弁当を取り出しかけて、ふと廊下側のざわめきが少し変わったことに気づく。


 ただの昼休みの騒がしさではない。誰かがいる、という類のざわめきだった。


 何となく顔を上げた、その直後。


 教室の前扉のところに立っていた小柄な少女と、目が合った。


 白くて長い髪を後ろで結んでおり、澄んだ青い瞳。整った顔立ちはどこか人形じみていて、年齢だけ見れば中学生でも通りそうなのに、着ているのは恋たちと同じ青葉第二の制服だった。


 少女は教室の中を一巡するように見回したあと、まっすぐ恋を捉えた。


 そして、よく通る綺麗な声で言った。


桜川恋(さくらがわ れん)様はいらっしゃいますか」


 一瞬、教室が静かになった。


 恋は固まる。


 様。


 何だその呼び方は。


 数秒遅れて、クラスの視線が一斉にこちらへ集まった。やめてほしい。


「……私ですけど」


 できるだけ小さな声で返すと、少女はぺこりと丁寧に一礼した。


「よかったです。少々お時間をいただけますか」


 断りたい、と思ったが、教室中の視線に囲まれた状態では、それも難しい。


 隣で光里が口元を押さえながら、露骨に笑いを堪えているのが見えた。後で絶対に揶揄われる。


「は、はい」


 恋は諦めて立ち上がり、教室の外へ出た。


 扉が閉まると同時に、中から小さなざわめきが再開する。聞こえないふりをして、恋は目の前の少女を見た。


 近くで見ると、ますます年齢不詳だった。背は低い。けれど立ち方や視線の置き方に妙な隙がなく、子どもっぽさで片づけるには完成度が高すぎる。


「……誰ですか」


 率直に尋ねると、少女はまた丁寧に頭を下げた。


「失礼しました。自己紹介が遅れました。私は雪代(ゆきしろ)こよみと申します。生徒会で書記を務めております」


 生徒会。


 その単語が出た瞬間、恋は嫌な予感しかしなかった。


「昨日、藍様からお時間をいただいた方ですね」


 やはりきた。


 しかも、藍様。


 恋は思わず目を細める。


「……榊原先輩の知り合いですか」

「はい。藍様の補佐をしております」

「補佐」

「記録および各種実務の補助です」


 言葉の一つひとつが、妙に整理されている。


 早口でもなく、感情がないわけでもないのに、どこか“決まった手順で発話している”ような綺麗さがあった。


「それで、私に何の用ですか」


 なるべく事務的に聞くと、こよみは一歩だけ近づいてきた。


 近いといっても、不快なほどではない。けれど、廊下で立ち話をする距離としては、少しだけ正確すぎる気がした。


「昨日の件について、確認と伝達です」


「……確認」

「はい。藍様は昨日、桜川様に生徒会補助員への参加を提案されたはずです」

「提案、というか、まあ」

「実質的には勧誘ですね」

「やっぱりそうですよね」


 そう返しても、こよみは特に表情を崩さなかった。


「本日中の返答は不要です。ただし、藍様は曖昧な保留状態をあまりお好みになりません。お断りになる場合も、受諾される場合も、明確にお伝えいただければ助かります」


 その言い方は丁寧だったが、内容だけ抜き出せば地味に圧がある。


「……それを言うために、わざわざ教室まで?」


「はい。それともう一つ」


 こよみはそこで、ほんの少しだけ首を傾けた。


 その仕草自体は可愛らしいはずなのに、青い瞳がじっとこちらを見ているせいか、妙に落ち着かない。


「桜川様は、昨日の件をどなたかに話しましたか」


 恋は一瞬、息を止めた。


「……何でそんなこと聞くんですか」

「確認です」

「確認ばっかりですね」

「確認は重要ですので」


 あまりに真顔で言われて、冗談にすらならない。


 恋は少し間を置いてから答えた。


「詳しくは話してません」

「古角光里様には」

「……私の友達の名前まで知ってるんですか」

「同じ学校の方ですので」


 当たり前みたいに返される。


 それだけで済む話のはずなのに、なぜか背筋が薄く冷えた。


 この子は、ただ情報に強いだけなのか。それとも、もっと別の形で人を見ているのか。


 恋が黙っていると、こよみは静かに言葉を続けた。


「誤解なさらないでください。口止めをしたいわけではありません。ただ、藍様に関する情報は、周囲で不要に拡散しない方が望ましいというだけです」

「それ、十分口止めに聞こえますけど」

「そう受け取られたのでしたら、そう受け取っていただいて大丈夫です」


 何なんだろう。この感じは。


 榊原藍とはまた違う種類の、整いすぎた不自然さがある。


「……あなたも、変わってますね」


 思わず漏れると、こよみは少しだけ目を瞬いた。


 その反応が、逆に珍しかった。


「ありがとうございます」

「褒めてないです」

「承知しております」


 やっぱり変だ。


 恋が本格的に頭を抱えたくなっていると、こよみは制服のポケットから小さな封筒を取り出した。


「では、こちらを」


 差し出されたのは、昨日の紙より少し厚みのある白い封筒だった。表には何も書かれていない。


「何ですか、これ」

「補助員に関する概要資料です。活動内容、拘束時間、必要となる手続き、そのほか最低限の情報が入っています」

「……ちゃんとしてるんですね」

「藍様の勧誘ですので」


 その返答だけで、なぜか全部説明された気がした。


 恋は封筒を受け取る。


 紙の重みは大したことがないはずなのに、やけに存在感があった。


「なお」


 こよみが続ける。


「藍様が特定の新入生へ直接お声がけになるのは、比較的珍しい事例です」

「それ、ありがたい情報ですか」

「判断材料にはなるかと」

「余計に断りづらくなるだけなんですけど」

「はい。その可能性は考慮済みです」


 あっさり認められて、恋は言葉を失った。


 この生徒会、怖い。


「……あの」


 ふと、昨日から引っかかっていたことが口をついて出た。


「榊原先輩って、いつもあんな感じなんですか」


 こよみは少しだけ考えるように視線を伏せ、それから答えた。


「藍様は、非常に誠実なお方です」

「聞いてないことが返ってきた」

「加えて、極めて合理的で、必要と判断されたことには躊躇がありません」

「それも、何か違う」

「そして」


 こよみはそこで、ほんのわずかに口元を和らげた。


「ご自身が興味を持たれた対象には、思いのほか熱心です」


 恋は嫌な予感しかしなかった。


「……それ、全然安心できないんですけど」

「私見ですので、参考程度に捉えていただければ幸いです」


 私見。


 今のが私見なのか。


 どこまでが事実で、どこからが主観なのか、この子の話し方は境界が分かりにくい。


 教室の方から、誰かの笑い声が聞こえる。昼休みの喧騒はいつも通りのはずなのに、この廊下の一角だけ、妙に空気の温度が違っていた。


 こよみは会話を終えるタイミングまで正確に測っていたみたいに、一歩下がった。


「私からは以上です。お時間をいただき、ありがとうございました」


 それから、もう一度だけ、青い瞳でまっすぐ恋を見る。


「桜川様」


「……何ですか」


「藍様は親切という意味で優しい方ですが、簡単という意味で易しい方ではありません」


 静かな声だった。


 脅しではない。忠告とも少し違う。ただ、記録事項を読み上げるような、妙に温度の低い言い方だった。


「ですので、関わるかどうかは、きちんとご自身でお決めください」


 その言葉を最後に、雪代こよみは丁寧に頭を下げ、くるりと踵を返した。


 小柄な背中が廊下の向こうへ遠ざかっていく。


 軽い足取りのはずなのに、足音がほとんどしなかった。


 恋はしばらく、その後ろ姿を見送ったまま動けなかった。


 手の中の封筒がやけに白く見える。


 藍は優しいが、易しくはない。


 言葉の意味を反芻する。


 昨日の屋上で感じたものと、今、こよみから感じたものは少し違う。藍の異質さは、美しく整いすぎたものへの違和感だった。けれど、こよみのそれはもっと直接的で、肌に触れる温度の薄さに近い。


「恋」


 不意に背後から声をかけられて、肩が揺れた。


 振り向くと、教室の扉から光里が半分だけ顔を出している。目が完全に面白がっていた。


「何あの子。かわいかったけど、何かすごかったね」

「……うるさい」

「生徒会?」

「そう」

「へえ。ほんとに何か始まってるじゃん」


 軽い口調に、恋は曖昧に視線を逸らした。


 否定できなかった。


 昨日、屋上で榊原藍と話した時点で、たぶん何かは始まっていたのだ。


 そして今、その周囲にいる人間まで含めて、自分の知らない輪の中へ少しずつ引き寄せられている気がする。


 恋は手の中の封筒を見下ろし、小さく息を吐いた。


 開ける前から、面倒なことしか入っていない気がした。

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