第2話
入学式から数日が過ぎた。
青葉第二高等学校での生活は、恋が思っていたよりもずっと静かに、そして淡々と進んでいた。授業はまだ本格的に難しくなる前で、自己紹介めいた時間や、各教科の進め方の説明が続いている。新しい教室、新しい教師、新しい制服。どれもまだ少しだけ身体に馴染まないまま、それでも日々は勝手に先へ進んでいく。
恋はその流れに、できるだけ目立たない形で乗っていた。
隣の席の子と必要な会話はするし、班分けになれば席も立つ。けれど、それ以上に誰かと近づこうとはしない。休み時間には本を開くか、窓の外を見るか、光里に話しかけられるのを適当に受け流すか、そのどれかだった。
それで困ることは、今のところない。
むしろ、そのくらいの距離感がちょうどよかった。
ただ一つだけ、入学式の日の記憶は、どういうわけか妙に残っていた。
壇上に立つ、黒髪の生徒会長。
よく通る声。整いすぎた所作。ほんの一瞬だけ、自分を見たように思えた赤い瞳。
思い出すたびに、気のせいだと結論づけるしかなかったが、それでも完全には片づいてくれない違和感があった。
「恋、聞いてる?」
昼休み、机に頬杖をついたままぼんやりしていたところへ、光里がコンビニ袋を机の端に置いた。
「聞いてる」
「絶対聞いてなかった」
「何の話」
「だから、生徒会が部活動の仮登録の一覧まとめてるらしいって話。あと今年も委員会の動きが早いって」
「興味ない」
「でしょうね」
呆れたように笑って、光里は自分の席へ腰を下ろした。開封したばかりのパンの匂いがふわりと漂う。
「でもさ、生徒会長、ほんとすごいらしいよ。上の学年の人が言ってた。ほとんど一人で学校回してるんじゃないかって」
「大げさ」
「大げさかなあ。なんか先生たちまで頭上がらない感じらしいし」
恋は答えず、手元の紙パックに視線を落とした。
またその話か、と思う。
入学してからというもの、榊原藍という名前は妙によく耳に入ってきた。容姿の噂はもちろん、成績のこと、学校運営への関わり方、教師との距離感、生徒会の統率。何を聞いても、普通の高校生について語るには少しだけ輪郭が出来すぎている。
遠い存在だ、と恋は思う。
同じ学校にいても、自分とは何の関係もない人間。
少なくとも、そうであるはずだった。
その日の六時間目が終わるまでは。
終礼が終わって、教室の空気が一気にほどけたころだった。
椅子の脚が床を擦る音、部活へ向かう生徒たちの声、教科書を鞄に押し込む雑な気配。そのざわめきの中で、机の中に入れていたスマートフォンが短く震えた。
珍しいことではない。光里からのどうでもいい連絡か、家からの通知か、その程度だろうと思った。
何気なく取り出して、画面を見た瞬間、恋は指を止めた。
見慣れたメッセージアプリの通知欄に、ありえない名前が表示されていたからだ。
――榊原藍
数秒、意味が分からなかった。
見間違いかと思って、画面をもう一度見直す。けれど表示は変わらない。
トーク画面を開く。
送られてきていた文面は、たった一行だった。
『放課後、屋上でお待ちしています。』
署名のように、その下へもう一度、簡潔に名前がある。
『榊原藍』
恋は無言で画面を見つめた。
意味が分からない。
そもそも、連絡先を交換した覚えがない。どころか、まともに話したことすらない。入学式の日に遠くから見ただけの相手だ。どうして自分のアカウントを知っているのか。なぜ、屋上なのか。用件が何ひとつ書かれていないのも不気味だった。
「……何それ」
いつの間にか横から覗き込んでいた光里が、小さく声を漏らした。
恋は反射的に画面を伏せる。
「見ないで」
「いや、だって見えたし。今の、榊原会長?」
「そう見えたならそうなんじゃない」
「え、ちょっと待って。なんで会長から恋に連絡来るの」
「こっちが聞きたい」
光里の目が露骨に面白がる色を帯びた。
「ついに見ぬかれた?」
「何に」
「その陰の薄さ」
「最悪」
返しながら、恋はもう一度スマートフォンの画面を見る。
既読はまだつけていない。返事をする気にもなれない。けれど、いたずらにしては悪趣味すぎるし、榊原藍の名前を騙るような真似をこの学校で平気でやる人間がいるとも思えなかった。
「どうするの」
「行かない」
「えー」
「なんで残念そうなの」
「だって気になるじゃん。会長が直々に屋上呼び出しって、漫画みたいだし」
「私は全然うれしくない」
そう言って鞄にスマートフォンをしまったものの、気にはなった。
行かなければそれで済む話だ。知らないふりをして帰ればいい。なのに、文面の妙な整い方が頭に残る。
放課後、屋上でお待ちしています。
命令でも依頼でもなく、ただ事実だけを置いたみたいな文章だった。そこに余計な感情がないぶん、かえって逃げ道が見えない。
「まあでも、気をつけなよ」
今度は少しだけ真面目な声で、光里が言った。
「何か変だったらすぐ連絡して。……って言おうと思ったけど、恋、そういうの絶対しないよね」
「しない」
「でしょうね」
光里は肩をすくめ、先に教室を出ていく生徒たちの流れへ視線を向けた。
「でも、もし行くなら、ちゃんと気をつけてね」
恋は適当に頷いた。
それから十分ほど、教室で時間を潰した。
本当に行かないつもりだった。鞄を持って昇降口へ向かえば、たぶんそれで終わる。何も始まらないまま、今日という一日を普通に閉じることができる。
なのに気がつけば、恋の足は昇降口ではなく階段の方へ向いていた。
自分でも、どうしてだか分からない。
ただ、気味が悪かったのだと思う。
知らない相手から呼び出されたからではない。知らないはずの相手が、自分の連絡先を知っていて、自分が無視しきれないタイミングで、無駄のない文面を寄越してきたことが。
気味が悪くて、そして少しだけ、気になった。
西日が長く伸びる校舎の階段を、一段ずつ上がっていく。
上の階へ行くほど、人の気配は薄くなっていく。部活動へ向かう生徒たちの声も、廊下の喧騒も、もう遠い。最上階まで来ると、屋上へ続く重たい鉄扉が目の前にあった。
普段は施錠されているようにも見える扉だったが、その日はわずかに開いていた。
最初から、誰かが入れるようにしていたみたいに。
恋は小さく眉をひそめる。
胸のあたりに、じわじわと落ち着かない感覚が広がっていった。帰るなら今だ、と一瞬だけ思う。だがここまで来てしまうと、それも妙に負けた気がした。
扉に手をかける。
きい、と乾いた音を立てて、重い扉が開いた。
夕方の風が、すぐに頬を撫でた。
屋上は思っていたよりも広く、春の陽気な光を受けて、フェンスの影が床へ細く落ちている。校庭の向こうから運動部のかすかな掛け声が聞こえた。空は高く、雲は薄い。
そして、その中央より少しフェンス寄りの場所に、ひとりの少女が立っていた。
黒髪が風に揺れる。
整えられた制服。無駄のない立ち姿。背を向けていても、誰なのかは分かった。
榊原藍は、恋が扉を開けた音に反応して、静かに振り返った。
やはり、その目は赤かった。
「来てくださったのですね」
穏やかな声だった。けれど、どこか予定通りであることを確認するような響きがある。
「ありがとうございます、桜川さん」
当たり前のように名前を呼ばれて、恋は一瞬だけ言葉に詰まった。
ここまで来ておいて今さらだが、本当に本人だったのだと、ようやく実感が追いつく。
「……どうして、私の連絡先を知ってるんですか」
挨拶より先に出たのは、それだった。
榊原藍は驚いた様子もなく、ほんのわずかに首を傾ける。
「必要でしたので、確認しました」
「確認って、そんな簡単に言わないでください」
「不快でしたら、お詫びします」
「そういう問題じゃなくて」
つい語気が強くなる。
だが藍は怯みもせず、責められているというふうでもなく、ただこちらの言葉を正確に受け取っているように見えた。
「連絡先を交換した記憶はありません」
「はい。ありません」
「なのに、いきなりメッセージが来たら普通に怖いです」
「それも理解しています」
理解していてやったのか、と言い返しかけて、恋は口をつぐむ。
この人は、言い争いに向いていない。
正確には、言い争いというものを、感情のぶつけ合いではなく情報の整理として処理してしまいそうな雰囲気がある。だから腹を立てるほど、こちらだけが熱を持って馬鹿みたいになる。
入学式の日に感じた違和感が、少しだけ輪郭を持った。
榊原藍は静かに一歩だけ距離を詰める。
威圧するような動きではない。ただ会話に適した位置へ移動しただけ、とでも言いたげな自然さだった。
「呼び出す形になってしまい、申し訳ありません。ただ、教室や廊下では話しづらい内容でしたので」
「……話?」
「はい」
簡潔に頷く。
その所作まで妙に整っていて、恋は無意識に手すりの近くへ視線を逃がした。
真正面から見ていると、落ち着かない。
「私に何の用ですか」
ようやく本題を促すと、藍は少しだけ目を細めた。
笑った、というほど感情的な変化ではない。けれど、何かしら肯定の色がそこにあった。
「単刀直入に申し上げます」
風が吹く。
黒髪がさらりと揺れ、その赤い瞳がまっすぐこちらを捉えた。
「私は、あなたに少し興味があります」
恋は瞬きをした。
言葉の意味が、一拍遅れて落ちてくる。
「……は?」
「誤解のないよう補足しますが、いわゆる一般的な意味での好意を伝えているわけではありません」
「補足のせいで余計に変ですけど」
「そうでしょうか」
「そうです」
即答すると、藍はほんのわずかに考えるような間を置いた。
「では、表現を修正します。私はあなたの反応に関心があります、桜川さん」
「何ですか、それ」
「あなたは入学式の日、私を見て違和感を抱いたはずです」
「……」
心臓が、どくりと鳴った。
恋はとっさに表情を動かさないよう意識したが、うまくできた自信はなかった。
藍は淡々と続ける。
「周囲の多くは、賞賛、憧れ、あるいは緊張として私を認識します。しかしあなたは少し違った」
「そんなの、分かるわけないでしょう」
「分かります」
断言だった。
強い言い方ではない。むしろ静かなくらいなのに、そこに妙な確信があった。
「あなたはあの場で、私に対して『完璧』より先に『不自然』を見た」
恋は息を呑む。
あまりにも正確で、ぞっとした。
誰にも話していない。光里にすら、そこまでは言っていない。ただ自分の中で、うまく言葉にならない違和感として処理しただけだ。
それを、この人はまるで見ていたみたいに言い当てる。
「……何なんですか、本当に」
気づけば、声が少し掠れていた。
藍はすぐには答えなかった。
答えを選んでいるというより、こちらが次にどのくらいの情報まで耐えられるか、測っているような沈黙だった。
やがて彼女は視線を逸らさず、静かに口を開く。
「そう警戒なさらなくても結構です。少なくとも現時点で、あなたに不利益を与えるつもりはありません」
「現時点って言い方、全然安心できないんですけど」
「それは失礼しました。訂正します。今後も、あなたが不要に損をするようなことは基本的に避けるつもりです」
「基本的に、って何ですか」
「状況次第では例外があります」
「正直すぎません?」
「虚偽の説明は好みませんので」
その返答はあまりにも澄ましていて、恋は思わず眉を寄せた。
冗談を言っているようには見えない。かといって、真面目な会話として受け取るには、内容がいちいち不穏だ。
けれど、ひとつだけはっきりしていることがある。
榊原藍は、普通ではない。
入学式の日に感じた曖昧な違和感とは違う。目の前のこの人は、明らかに何かを隠していて、そのうえでなお、隠しきれていない異質さがある。
「私はですね、桜川さん」
藍が言う。
「あなたのような方は、嫌いではありません」
「さっきから言い方が全部怖いです」
「本意ではありませんが、よく言われます」
本当に、よく言われるのだろうか。
そんな場違いなことを考えたとき、藍はごく自然な動作で、スカートのポケットから小さな紙片を取り出した。
恋に差し出される。
反射的に受け取って見ると、それは校内の委員会および部活動に関する一覧表のコピーだった。何の変哲もない紙に見えたが、一か所だけ、赤いペンで印がついている。
生徒会補助員――新入生若干名募集。
恋は顔を上げた。
「……これ、どういう意味ですか」
「そのままの意味です」
「まさか、これに入れって言ってるんですか」
「強制ではありません。提案です」
「何で私に」
「先ほど申し上げた通りです。興味がありますので」
さらりと言われても困る。
恋は紙を持ったまま、しばらく藍を見た。
夕方の光の中でも、その顔立ちは妙に整っていて、表情の動きは少ないのに冷たくは見えない。ただ、どこまでいっても人との会話に必要な温度が少しだけ足りない。
「断ったらどうなるんですか」
「どうもなりません」
「ほんとに」
「はい。ただ、少し残念には思います」
「それ、残念で済まないやつじゃないですよね」
「済みます」
間髪入れずに返されて、恋は逆に疑わしくなった。
風がまた吹き、フェンスが細く鳴る。
遠くで、運動部の終了の笛が響いた。
その音が消えるまでの短い沈黙のあと、藍はふと視線を空へ向ける。
「今日すぐに返答を求めるつもりはありません。検討してください」
そして、再びこちらを見る。
「ですが、できれば前向きに考えていただけると助かります」
「助かるって、生徒会が忙しいからですか」
「それもあります」
「それも、ってことは他にもあるんですね」
「あります」
そこで言葉を切ったのは、わざとか、そうでないのか。
恋には判断がつかなかった。
「……意味深な言い方ばっかりしないでください」
そう言うと、藍はわずかに目を細めた。
今度こそ、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
「すべてを初回で説明してしまうと、あなたは帰ってしまうでしょう」
「今でも十分帰りたいですけど」
「ですが、まだここにいらっしゃる」
その指摘に、恋は答えられなかった。
確かにその通りだったからだ。
怖い。気味が悪い。関わらない方がいい。
そう思っているのに、目の前の少女からどうしても目を離せない。
それは警戒心だけではなく、もう少し別の感情が混じっている気がした。知ってはいけないものの輪郭を、ぎりぎりで見てしまったときの、不快さに似た好奇心。
藍はそれ以上追い詰めることなく、一歩だけ下がった。
「本日はそれだけです。お呼び立てしてしまい、失礼しました」
「……それだけ、って」
「はい。それだけです」
「いや、こっちは全然それだけじゃないんですけど」
恋の戸惑いをよそに、藍は丁寧に一礼する。
入学式の日と同じ、美しく、隙のない動作だった。
「お返事は急ぎません。ただし、あまり遅すぎるとこちらで判断します」
「何を」
「それは、また別の機会に」
さらりと逃げられて、恋は思わず顔をしかめた。
榊原藍は最初から最後まで、自分のペースを崩さない。こちらに選択肢を与えているようで、実際には最も知りたい部分だけをきれいに伏せたままにする。
ずるい、と思う。
そしてたぶん、そのずるさに引っかかってしまった時点で、もう半分は向こうの思う通りなのだとも思った。
藍はそのまま扉の方へ歩き出す。
すれ違いざま、ふと立ち止まり、振り返りもせずに言った。
「桜川さん」
「……何ですか」
「あなたは、自分が思っているより少しだけ、見えている方です」
それだけ言い残して、彼女は静かに屋上を後にした。
重い扉が閉まる音がして、夕方の屋上に恋だけが残される。
手の中には、生徒会補助員の募集に印のついた紙がある。
風に煽られて、その紙がかさりと鳴った。
見えている方。
何が。
どういう意味で。
問いは山ほどあるのに、答えはひとつもない。
ただ分かるのは、あの榊原藍という少女が、自分に近づいてきたという事実だけだった。
関わらないままでいたかった。
本当に、そのはずだったのに。
恋はフェンスの向こうに広がる夕焼けを見ながら、ゆっくりと息を吐く。
知らないふりをして帰るには、もう少しだけ遅すぎる気がしていた。
古角光里
青葉第二高等学校 1年生
身長:168 cm、体重:49 kg
髪型:金髪のポニーテール
性格:陽気、いつもおちゃらけてる
趣味:昔は運動、今は趣味を探し中




