第65話
翌日の土曜日、桜川恋は青葉第二高等学校のグラウンドに立っていた。
休日の学校は、平日とは少し違った顔を見せる。
授業がないぶん校舎の中は静まり返り、廊下を行き交う生徒の姿もまばらだった。教室の窓には朝の光だけが差し込み、人のいない机や黒板を淡く照らしている。
その一方で、校庭や体育館の周辺には、平日以上の熱気が満ちていた。
誰かに強制されたわけでもないのに、朝から学校へ集まってきた部活動の生徒たちは、授業中よりもはるかに生き生きとした顔をしている。普段なら眠そうに教室へ入ってくるような生徒まで、今日は大声を出し、汗を流しながら真剣に身体を動かしていた。
中でも、野球部の熱気はひときわ濃かった。
グラウンドには白いユニフォーム姿の部員たちが散らばり、各々の練習へ取り組んでいる。キャッチボールの乾いた音、バットが硬球を捉える鋭い金属音、守備練習の掛け声、味方を鼓舞する声が次々と重なり、朝の澄んだ空気を絶え間なく揺らしていた。
その熱気の端で、恋は少し所在なさそうに立っていた。
隣には榊原藍がいる。
今日は制服ではなく、運動用のジャージ姿だった。長い黒髪も普段より動きやすいようにまとめられ、片手には分厚いバインダーを抱えている。
グラウンド全体へ向けられた赤い瞳は、いつもの生徒会長としてのものとは少し違って見えた。
監督代行。
昨日その肩書きを聞いた時、恋は正直なところ、半分ほど冗談のように感じていた。
藍が野球部へ関わっていること自体は、以前から知っている。神津晶からも、それらしい話を聞かされていた。
それでも、実際にこうしてグラウンドへ立つ藍を見れば、その肩書きが飾りでも名目上だけのものでもないことは、嫌でも理解できた。
「藍さん、本当に馴染んでますね」
「そう見えますか」
「見えます。すごく」
恋が答えると、藍はグラウンドへ目を向けたまま頷いた。
「監督代行としての業務は、ある程度定着しています。選手ごとの疲労管理、練習内容の調整、対戦校の分析、守備位置の最適化など、判断すべき項目は多いですが、部員の皆さんも協力的です」
「野球部の人たち、藍さんを普通に受け入れてるんですね」
「当初は困惑していました」
「でしょうね」
「現在も、一部の部員は困惑しています」
「でしょうね」
恋は思わず苦笑した。
世界最大級のAI企業を実質的に掌握する女子高生型AIが、休日の朝から高校野球部の練習内容を確認している。
言葉にすると意味の分からない光景なのに、目の前では不思議なほど自然に成立していた。
藍は投手陣のフォームを確認し、外野手の送球精度を記録しながら、時折短い指示を出している。
「今の送球は上体が先に開いています。踏み出す方向を修正してください」
「はい!」
「三球連続で制球が乱れています。一度投球を止め、肩周辺の可動域を確認してください」
「分かりました!」
指示を受けた部員たちは素直に返事をし、動きを修正して練習へ戻っていく。
榊原藍がここにいることを、野球部はすでに日常の一部として受け入れているらしい。
「お、監督代行! 今日もお願いします!」
グラウンドの向こう側から、大きな声が飛んできた。
声の主は神津晶だった。
青葉第二のユニフォームを着て、帽子のつばを少し持ち上げながら、朝から妙に元気よく手を振っている。
その声につられて、近くにいた数人の部員まで恋たちの方へ目を向けた。
恋は反射的に身体を縮める。
ただでさえ部活動の見学というものに慣れていない。体格のいい野球部員たちから一斉に視線を向けられると、こちらを警戒しているわけではないと分かっていても、少し圧倒されてしまう。
晶はそのまま軽快な足取りで走ってきた。
「桜川も来たのか! 体験入部か?」
「違います」
恋は即答した。
「いや、即答かよ」
「体験入部ではないので」
「マネージャーなら大歓迎だぞ。うち、今色々足りてないからな!」
「人員も成績も、いろいろ足りてなさそうな言い方をしないでください」
「成績の話はやめろ」
「自覚はあるんですね」
「あるからつらいんだよ!」
晶は胸を張って言うことではない内容を、なぜか堂々と言い切った。
恋が返答に困っていると、藍が静かに二人の間へ入る。
「神津さん。桜川さんは入部体験ではありません。監査等委員長として、野球部の活動状況を確認するために同行しています」
「カンサ?」
「はい。監督の『監』に、査察の『査』です」
「監督の『カン』……?」
晶は難しい顔をして考え込んだ。
藍は数秒待った後、説明を短く切り替える。
「……大雑把に言い換えれば、監視です」
「ああ、監視か! つまり、うちがちゃんとやってるか見に来たんだな」
「概ね、その理解で問題ありません」
「なるほどな!」
神津は納得したように頷いた。
納得が早い。
そしておそらく、深くは分かっていない。
「じゃあ桜川、しっかり見ててくれ。青葉第一なんかに負けるつもりはないし、俺たちはもっと上まで行くからな!」
「は、はい」
恋が曖昧に頷くと、晶は満足そうに笑い、再びグラウンドへ駆け戻っていった。
迷いのない背中だった。
勉強に関しては壊滅的らしいが、野球へ向かっている時だけは、本当にまっすぐなのだろう。
「神津さんは、練習中の集中状態については非常に良好です」
晶の背中を見送りながら、藍が言った。
「練習中は、ですか」
「はい。練習外では複数の課題があります」
「主に勉強ですか?」
「主に勉強です」
「やっぱり……」
恋はグラウンドへ視線を戻した。
晶はすでに打撃練習の列へ入り、バットを構えている。つい先ほどまでのお調子者のような表情は消え、視線は投手の手元へ鋭く集中していた。
バッティングピッチャーが足を上げ、腕を振る。
放たれた球へ、晶のバットが迷いなく出た。
甲高い金属音が響き、打球が外野の頭上へ伸びていく。
「ナイスバッティング!」
「次、もう一本!」
部員たちから声が上がる。
その中心にいる晶は、確かにただの野球好きではなかった。
確固たる実力がある。
だからこそ、藍も本気で彼を見ているのだろう。
そのことが、恋にも少しだけ分かった気がした。
*
見学するだけのはずだった。
それなのに、気づけば恋は部員たちの手伝いをしていた。
水筒をまとめて運び、空になった容器へ水を補充し、使用済みのタオルを回収して、新しいものを畳んで並べる。
いつの間にか、普通の見学者ではなく、臨時のマネージャー見習いのような位置へ収まっていた。
これが監査等委員長の業務に含まれるのかは、かなり怪しい。
ただ、何もせずグラウンドの端に立っているよりは、何か作業をしていた方が落ち着ける。恋は深く考えず、目の前の仕事を進めることにした。
「恋、無理はしないでください」
練習へ目を配っていた藍が、こちらへ声をかける。
「大丈夫です。これくらいなら」
「体調に変化があれば、熱中症になる前に報告してください」
「熱中症になってからじゃ遅いですもんね」
「はい。恋の場合、無理をしてから申告する傾向がありますので」
「そんな傾向まで記録されてるんですか……」
「観察結果です」
心配してくれているのだとは分かるが、真顔で言われると少しだけ気恥ずかしい。
恋は複数の水筒が入った大きなかごを抱え、校舎側にある水道へ向かった。
グラウンドから離れるにつれて、野球部員たちの声が少しずつ遠ざかっていく。
それでも、バットが球を捉える音や大きな掛け声は校舎の壁へ反響し、途切れることなく耳まで届いた。
休日の学校という静かな空間の中で、野球部だけが別の速さで時間を進めているようだった。
恋は水道の前へかごを下ろし、一本ずつ水筒の蓋を開けた。
数が多い。
想像していたより、はるかに多い。
「運動部って、こんなに水を飲むんだ……」
声に出してから、そりゃ飲むか、と自分で納得する。
これだけ走り、投げ、声を出していれば、水分がいくらあっても足りないのだろう。
恋が蛇口をひねり、最初の水筒へ水を注ぎ始めた、その時だった。
校舎の出入口付近に、人影が見えた。
「……?」
恋は顔を上げた。
廊下の奥に、一人の少女が立っている。
青葉第二の制服を着ていた。少なくとも、遠目にはそう見える。けれど、恋にはその少女を見た覚えがなかった。
入学してから、まだ一か月と少ししか経っていない。全校生徒の顔など把握していないし、同級生ですら、話したことのない相手はいくらでもいる。
見知らぬ生徒が校内にいたところで、本来なら不思議ではなかった。
だが、あの少女は一度でも見かけていたなら、きっと記憶に残っていたはずだ。
そう思わせるほど、妙に目を引く姿をしていた。
背丈は特別高いわけではない。それでも、廊下の奥に立っているだけで、不自然なほど存在感がある。
髪の色も、整った顔立ちも、どこか周囲から浮いて見えた。制服はきちんと着ており、着崩しているわけでもない。
それなのに、まるで制服というものを初めて身にまとった人間が、他人の着方を参考に形だけ再現したような違和感があった。
少女はグラウンドの方を見ていた。
野球部の練習を眺めているのか。校庭全体を観察しているのか。
それとも、特定の誰かを探しているのか。
恋には判断できなかった。
ただ、その横顔はひどく静かだった。
野球部の熱気にも、休日の学校特有の開放感にも溶け込まず、少女の立っている一角だけが別の空間から切り取られてきたように見える。
「あの」
恋は思い切って声をかけようとした。
しかし、言葉が届くより先に少女が動いた。
こちらの存在に気づいたのかどうかは分からない。少なくとも、恋へ顔を向けたようには見えなかった。
少女はゆっくりと踵を返すと、校舎の奥へ歩き始めた。
足取りは落ち着いている。
急いでいるわけでも、誰かから逃げているようにも見えない。
それでも距離があるため、呼び止めるには声が届きそうになく、追いかけようにも、恋の足元には水筒でいっぱいのかごが置かれていた。
「……誰?」
恋は小さく呟いた。
当然、返事はない。
少女の姿は廊下の曲がり角を抜け、校舎の影へ静かに消えていった。
恋は蛇口を止めることも忘れ、しばらくその方向を見つめていた。
この学校には、AI、元暗殺者、身体を改造された少女、吸血鬼の血を引く先輩、さらには夜ごと獣耳を生やす怪盗までいる。
だから、見知らぬ少女が一人いた程度で、いちいち警戒する必要はないのかもしれない。
いや、それでも警戒するべきだ。
むしろ、この学校であるからこそ、見知らぬ少女を簡単に見過ごしてはいけない気がする。
そんなことを考えているうちに、水筒から水が溢れ出した。
「あっ……!」
恋は慌てて蛇口を閉めた。
溢れた水が指先を濡らし、水筒の側面を伝って地面へ落ちていく。
足元には、まだ半分以上の空の水筒が残されていた。
部員たちは、これを待っている。
藍へ報告するにしても、まずは頼まれた作業を終わらせなければならない。
「……とりあえず、水を汲まないと」
恋は自分へ言い聞かせるように呟き、次の水筒を蛇口の下へ置いた。
勢いよく流れ始めた冷たい水の音が、少女に抱いた違和感を少しずつ現実の作業へ押し戻していく。
一本。
また一本。
水筒を満たしては蓋を閉め、かごの中へ戻していく。
作業を進めるたびにかごは重くなり、最後の一本を入れ終えた頃には、持ち手へ指をかけるだけで腕が沈みそうになった。
「重い……」
恋は両手でかごを持ち上げた。
腕がわずかに震え、歩くたびに水筒同士がぶつかって小さな音を立てる。
グラウンドへ近づくにつれて、野球部の掛け声が再び大きくなっていった。
晶が打席で何かを叫んでいる。
藍はバインダーを片手に、ブルペンで投手のフォームを確認している。
先ほどまでと何も変わっていない。
休日の学校で行われる、ありふれた部活動の練習風景。
そう見えるはずなのに、恋の頭の片隅には、校舎の奥へ消えていった少女の姿が残り続けていた。
*
大量の水筒が入ったかごを抱えてグラウンドへ戻ると、藍がすぐに恋の存在へ気づいた。
「遅かったですね」
「すみません。思ったより水筒が多くて……」
「いいえ、問題はありません。手伝いますよ」
「ありがとうございます。あ、でも、かなり重いですよ」
恋が言い終えるより早く、藍はかごの片側を掴んだ。
その動作があまりにも自然だったため、恋は一瞬、先ほどの少女について話す機会を逃した。
二人でかごを持ち、部員たちの休憩場所まで運んでいく。
途中で藍が恋へ視線を向けた。
「どうかしましたか?」
「……いえ」
恋は曖昧に答えた。
言うべきだろうか。
おそらく、言うべきだ。
藍なら校内にいる生徒の顔をある程度把握しているだろうし、先ほどの少女が誰なのかも分かるかもしれない。
しかし、今はグラウンドの中央だ。周囲には大勢の野球部員がいて、藍は監督代行として練習全体を見なければならない。
何より、恋自身が、先ほど感じた違和感をまだうまく言葉にできていなかった。
ただ知らない生徒がいただけだと言われれば、それまでである。
二人で水筒を並べ終えると、晶が遠くから「助かった!」と大声を上げた。休憩に入った部員たちも次々と集まり、恋へ礼を言いながら自分の水筒を取っていく。
「ありがとうございます!」
「助かったよ、桜川さん」
「次、俺のどれだ?」
「名前、底に書いてあるだろ!」
あっという間に人が集まり、休憩場所は騒がしくなった。
恋はその様子を眺めながら、もう一度だけ校舎の方へ目を向けた。
少女の姿はない。
先ほどまで誰かが立っていた痕跡もなく、校舎の出入口は静まり返っている。
まるで、最初からそこには誰もいなかったかのようだった。
けれど、見間違いではない。
恋は確かに見た。
青葉第二の制服を着た、見覚えのない少女を。
その少女が何者なのか、今はまだ分からない。
ただ一つ分かったのは、昨日抱いた願いが早くも怪しくなり始めたことだった。
今度こそ、普通の部活動見学だけで終わってほしい。
そう願っていた恋の期待は、午前の練習が半分も終わらないうちに、静かに崩れ始めていた。




