第64話
桜川恋が最初に違和感を覚えたのは、妙な熱気に包まれた生徒会室だった。
来週から、青葉第一高等学校と青葉第二高等学校による定期戦の期間が始まる。
同じ「青葉」の名を冠しながら、校風も生徒の気質も、互いへ向ける視線さえまるで異なる二つの高校が、各部活動の代表戦を通して競い合う伝統行事である。
開催が近づくにつれ、校内の空気は目に見えて浮き足立っていた。廊下の掲示板には各部の意気込みや選手紹介が貼り出され、運動部の練習時間は普段より長くなっている。文化部も例外ではなく、展示や演奏、発表に向けた準備に追われていた。
ライバル校との学校対抗戦。
長く続く伝統行事。
学校の誇りを懸けた勝負。
そういう言葉を並べれば、いかにも青春らしい。生徒たちが盛り上がる気持ちも、恋には理解できた。
理解はできたのだが、生徒会室に満ちている熱気は、青春という言葉だけで片づけるには少々物騒だった。
「青葉第一は、本校より長い歴史を有しています。しかし、優位と呼べるものはそれだけです」
榊原藍が、いつもと変わらない丁寧な声で言った。
「伝統に縋ることしかできない学校に、現在の青葉第二が文武ともに劣る理由はありません。今回の定期戦では、その事実を改めて明確に示す必要があります」
会長席に座る藍は、普段と変わらず落ち着いていた。黒い長髪に乱れはなく、背筋もまっすぐに伸びている。声を荒らげているわけでもなく、表情に敵意が浮かんでいるわけでもない。
にもかかわらず、発言の内容だけを抜き出せば、かなり好戦的だった。
AIでも、そんなふうに思うんだ。
恋は内心で呟いた。
藍が青葉第二高等学校に一定の誇りを持っていること自体は、今さら不思議ではない。彼女はこの学校の管理者であり、観察者であり、生徒会長でもある。学校行事にも必要に応じて関与し、野球部では監督代行まで務めている。
それでも、伝統縋ることしができないだの、文武で劣る理由はないだの、言葉の選び方がすでに穏やかではなかった。
「会長、確認ですが、それは生徒会としての公式見解ですか」
鶴見秋臣が眼鏡を押し上げながら尋ねた。
「はい」
「では、青葉第一側へ提出する挨拶文には使えませんね」
「当然です。外部向けの文書では、両校の交流と切磋琢磨を強調してください」
「承知しました。内心と文面を分けます」
「お願いします」
それでいいのだろうかと恋は疑問に感じたものの、鶴見はすでに何事もなかったようにメモを取っている。窓際で資料をめくっていた不破廻も、なぜか納得したように深く頷いていた。
「前世でも、歴史のある堕ちた名家ほど伝統を盾にしたがるものだった気がするね」
「不破先輩の前世って、いったいどの時代なんですか」
「思い出せそうで思い出せない。ただ、旗印が重要だったことは覚えている」
「けれど、似たようなものではないかな。学校の誇りを懸けた総力戦なのだろう?」
「さらっと怖いことを言わないでください」
恋は助けを求めるように、壁際に立つこよみへ目を向けた。
しかし、雪代こよみは端末を抱えたまま、青い瞳で淡々と資料を確認していた。
「各部活動の報告書、練習計画、対青葉第一を想定した戦力評価を更新しました。直近二週間の成長率では、剣道部、バスケットボール部、美術部、吹奏楽部が優勢です」
「美術部も戦力として評価されるんですね……」
「展示部門には、独自の評価基準があります」
「評価基準」
「はい。作品の完成度、展示動線、来場者の滞在時間、教員による評価、過去の順位などを総合して算出しています」
「文化部も本気だ……」
恋は思わず呟いた。
そこでようやく気づく。
熱くなっているのは、生徒会だけではない。学校全体がすでに定期戦の空気へ呑み込まれているのだ。
廊下ですれ違う生徒たちは、どの部が勝つだの、今年は何勝できるだのと話している。教師たちも普段より落ち着かず、購買では「定期戦応援フェア」と銘打ち、青葉第二の校章を焼き印にしたパンまで販売していた。
パンにまで対抗意識を持ち込まなくてもいいのではないか。
そう思ったが、かなり売れているそうだ。
その事実が、かえって怖かった。
「それでは、各部の状況確認へ移ります」
藍の言葉に合わせ、こよみが端末の画面を切り替えた。
壁面モニターへ、定期戦に参加する部活動の一覧が表示される。
サッカー部、バスケットボール部、剣道部、陸上部、テニス部、吹奏楽部、美術部、文芸部、茶道部。競技試合だけではなく、展示や演奏、合同発表まで定期戦の評価対象に含まれているらしい。
恋も監査等委員長として、配布された資料へ目を通した。
サッカー部は主力選手の怪我が懸念材料だが、青葉第一側も守備陣が安定していない。
バスケットボール部には全国級と評されるエースがおり、単純な戦力では青葉第二が有利。
剣道部については、戌井涼が出場する時点で、青葉第一の選手が少し気の毒に思えてくる。
そして、文化部も文化部で容赦がなかった。
美術部は、青葉第一が得意とする伝統美への対抗を意識して、展示テーマを「未来都市と人間性」に決定している。
文芸部は合同冊子を制作し、両校の部員による短編作品の人気投票を行うらしい。
茶道部に至っては、青葉第一よりも正しく伝統を継承していると証明するかのように、連日厳しい作法確認を続けていた。
どの資料からも、静かな殺気が滲んでいる。
平和な学校行事のはずなのに、なぜこれほど戦争前夜のような雰囲気になっているのだろう。
恋が半ば呆れながら資料をめくっていると、一覧の中にあるべき名前が見当たらないことに気づいた。
「……あれ?」
「どうしましたか、恋」
「野球部の資料、ないんですか?」
恋が尋ねた瞬間、生徒会室の空気がわずかに変わった。
鶴見が書類から顔を上げ、不破も「そういえば」と呟く。こよみは何も言わず、藍へ視線を向けた。
野球部は、本来なら定期戦の中でも最大の目玉となる競技の一つだった。
青葉第二は県内有数の進学校でありながら、野球部に対して妙に強い熱意を持っている。昨年の夏季県大会ではベスト八、秋季県大会ではベスト四まで勝ち進み、進学校の部活動としては異例の成績を残していた。
学外からの注目も高まりつつあり、今や単なる校内の一運動部では済まない存在になっている。
その野球部には現在、藍が監督代行として関わっていた。
だから恋は、野球部の活動報告こそ最重要項目として扱われるものと思っていた。
しかし、モニターの一覧にも、手元の資料にも、その名前は見当たらない。
「野球部については、定期戦用の精査対象から外しています」
藍は、何でもないことのように答えた。
「外してるんですか?」
「はい」
「定期戦では、一番の目玉に近いですよね?」
「観客数や注目度で判断すれば、そうですね」
「それなのに?」
「はい」
恋が首を傾げると、藍は表情を変えないまま続けた。
「監督代行としての見解ですが、私たちはそのようなお遊びではなく、甲子園を目指していますので」
恋は数秒、返事ができなかった。
「……お遊び」
「はい」
「青葉第一との定期戦が?」
「少なくとも、現在の野球部が目標とするべき試合ではありません。全国大会へ進む過程においては、通過点にもならないと判断しています」
「言い切りましたね……」
生徒会長として青葉第一を敵視していた時とは、明らかに声の質が違っていた。
今の藍から感じられるのは、学校同士の対抗意識ではない。
監督代行として、競技そのものを見据えた冷静さだった。
藍にとって定期戦は、学校行事としては重要であっても、野球部の目標としては小さすぎるのだろう。
「昨年は夏季県大会でベスト八、秋季県大会でベスト四まで進みました。現チームには投手層、守備の安定性、打線の再現性など複数の課題がありますが、同時に成長の余地も大きい。青葉第一を最終目標として設定する段階ではありません」
「進学校の野球部の話ですよね?」
「はい」
「甲子園常連校みたいな基準で話してません?」
「全国を目指すのであれば、常連校と同じ基準で考える必要があります」
「本気で目指してるんですね……」
「はい」
藍は迷いなく頷いた。
その横で、鶴見が疲れたように息を吐いた。
「野球部の遠征費、備品費、練習試合に伴う支出は、すべて増加傾向です。結果を出している以上、会計として全面的に否定するつもりはありませんが」
「何か問題がありますか」
「会長が監督代行として、極めて合理的な予算要求を提出してくるため、削減できる箇所がほとんどないことです」
「会計の相手が、会長本人になってる……」
「数字の上では妥当なのが、なおさら厄介です」
鶴見の声には、隠し切れない疲労が滲んでいた。
不破は対照的に、面白そうに笑っている。
「いいではないか。まさしく文武両道だね」
「文武両道で済む規模なんですか、これ」
「少なくとも、前世で見た軍備拡張よりは健全だと思うよ」
「比較対象が不穏すぎます」
こよみが端末を操作すると、定期戦用とは別に作成された野球部の資料がモニターへ表示された。
大会に向けた練習計画、選手別の成績、打率、出塁率、球速、守備範囲、疲労度、対戦校ごとの傾向、球種別の対応率。そのほかにも、恋には意味すら分からない数値が画面いっぱいに並んでいる。
一目見た恋は、そっと視線を逸らした。
情報量が多すぎた。
高校野球部の活動資料というより、プロ球団の分析部門が作成した報告書に近い。
「これ、藍さんが作ったんですか?」
「はい。神津主将および顧問教諭とも共有しています」
「顧問の先生、内容についていけてるんですか?」
「最近は慣れてきました」
「慣れるんだ……」
「当初は多少困惑していました」
「本当に多少で済みました?」
「すべてを理解できなくとも、必要な指示は私が出しますので、運用上の問題はありません」
「そうですか……」
恋は頭を抱えたくなった。
野球部は、以前に神津晶と関わった時から、何かがおかしいと思っていた。
野球以外の勉強が壊滅的な主将がいて、進学校でありながら県大会上位へ進み、しかも監督代行は女子高生である。
普通の青春スポーツ作品なら、それだけで物語の中心になりそうな状況だった。
ところが今、その野球部は生徒会室の会議で、定期戦を「お遊び」と切り捨てられている。
「では、野球部は定期戦で本気を出さないんですか?」
恋が尋ねると、藍はすぐに首を横へ振った。
「いいえ。試合で手を抜くことは許しません」
「あ、そこは本気なんですね」
「当然です。相手が青葉第一であっても、練習試合であっても、公式戦であっても、試合である以上は勝利を目指します」
「でも、通過点にもならない」
「はい。勝つことは前提です」
「強い……」
恋は、ほかに言葉が見つからなかった。
ただ、藍の発言には慢心が感じられない。
青葉第一を感情的に見下しているのではなく、選手層や過去の成績、現在の状態を分析した上で、勝たなければならない相手だと判断しているのだろう。
青葉第一からすれば、感情で軽視されるよりも厄介かもしれない。
「それで、野球部は今、どんな状態なんですか?」
恋が尋ねると、藍はモニターへ目を向けた。
「全体としては順調です。ただし、いくつか問題があります」
「問題?」
「特に、神津主将の状態を確認する必要があります」
「ああ……」
恋は反射的に納得しかけ、それから慌てて首を振った。
「いや、納得しちゃいけない気がしますけど、神津先輩なんですね」
「はい。彼は投手としても打者としても非常に優秀です。身体能力、勝負勘、集中力、試合中の判断能力は、同世代の選手と比較しても極めて高い水準にあります」
「かなり褒めていますね」
「はい」
「それでも問題があるんですか?」
「自己管理能力に課題があります」
「自己管理……ああ」
今度は、納得を止められなかった。
藍は資料を確認しながら続ける。
「特に、練習量の制御、学業成績、食事内容、睡眠時間の安定性に問題があります」
「野球以外、ほとんど全部では?」
「概ね、その認識で問題ありません」
「概ねそうなんだ……」
恋は、神津晶の顔を思い浮かべた。
野球の話をしている時だけは異様に鋭いが、それ以外ではどこか抜けている。自己管理に難があると言われても、驚きはなかった。
「定期戦前の練習で、彼の状態を改めて確認します」
「生徒会で、ですか?」
「いいえ。監督代行として、私が行います」
「つまり、野球部の練習を見に行くんですね」
「はい」
恋は、そこで嫌な予感を覚えた。
この流れで、自分だけが無関係でいられるはずがない。
案の定、藍はまっすぐに恋を見た。
「恋も同行してください」
「やっぱり……」
以前から、藍には何度か野球部の練習を見学しないかと誘われていた。
だが、生徒会へ関わるようになってからというもの、あまりにも多くの出来事が立て続けに起こり、部活動の見学どころではなかったのだ。
「監査等委員長として、野球部の活動状況を確認する意味もあります」
「今、監査等委員長という立場を便利に使いませんでした?」
「必要な役割です」
「藍さん、それを言えば私が断りにくいって分かってますよね」
「はい」
「はいって言いましたね」
藍はほんの少しだけ目を伏せた。
申し訳なさそうに見えたのは、恋の気のせいではないと思う。
「無理に同行する必要はありません」
「そう言われると、もっと断りづらくなるんです」
「すみません」
恋は深いため息を吐いた。
もともと部活動へ入るつもりはなかったし、生徒会へ巻き込まれた時点で、平穏な学校生活については半ば諦めている。
それでも、野球部の活動見学という響きには、少しだけ普通の高校生活らしさが感じられた。
あくまで、響きだけなら。
榊原藍が関わっている以上、本当に普通の部活動見学で終わるとは思えなかった。
「分かりました。行きます」
「ありがとうございます」
「でも、私は野球のことをほとんど知りませんよ」
「問題ありません。恋には、部員たちの表情や、部全体の空気を見ていただければ十分です」
「また、私にしかできないみたいな言い方をする……」
「実際に、恋へ確認してほしい点があります」
「何ですか?」
藍は手元の資料を閉じた。
その声から、わずかに柔らかさが消える。
「野球部は、成績が上がるにつれて学外からの注目を集め始めています。学校内の定期戦だけでなく、外部からの期待、嫉妬、勧誘、そして妨害。そうした要素が、少しずつ部内へ入り込む可能性があります」
「妨害?」
「現時点では可能性にすぎません」
「また不穏な言葉が出てきましたね……」
「神津晶さんは、良くも悪くも現在の野球部の中心です。彼の状態が揺らげば、チーム全体へ影響が及びます」
藍は窓の外へ視線を向けた。
遠くのグラウンドから、野球部員たちの掛け声がかすかに届いてくる。夕方の空気を押し返すような、力強い声だった。
「定期戦は、野球部にとって通過点にもなりません」
藍は静かに続ける。
「ですが、その程度の場所で足を取られるようでは、全国大会など目指せません」
その言葉には、青葉第一への対抗意識とは異なる熱があった。
監督代行として、選手たちを本気で見ている声だった。
恋は藍の横顔を眺め、先ほどと同じことをもう一度思った。
AIでも、そんなふうに思うんだ。
ただし、今度は少しだけ意味が違っていた。
青葉第二への誇りや、ライバル校への対抗心だけではない。
榊原藍は、本気で野球部を勝たせようとしている。
なぜそこまで野球部へ肩入れするのか、恋にはまだ分からない。
ただ、分からないまま、また厄介そうな場所へ連れていかれることだけは理解できた。
「……それで、いつ行くんですか?」
「次の土曜日です」
「次の土曜日って、明日じゃないですか」
「はい」
「急ですね……」
恋は諦め半分で椅子から立ち上がった。
生徒会室の外では、定期戦を目前に控えた校内の熱気が、時間とともに濃くなり続けている。
青葉第一と青葉第二。
過去の伝統と、現在の実績。
学校の誇り。
そして、定期戦のさらに先を見据え、本気で全国を目指す野球部。
どう考えても、ただの活動状況確認だけで終わるとは思えなかった。
恋は小さく息を吐き、最後に藍を振り返る。
「藍さん」
「はい」
「今回こそ、普通の部活動見学で終わりますよね?」
藍はすぐには答えなかった。
ほんの少しだけ考えた、その一拍が、すでに答えになっていた。
「努力します」
「不安しかないです」
恋は肩を落とし、そのまま生徒会室を出た。
廊下の向こうからは、グラウンドにいる野球部員たちの掛け声が響いてくる。
定期戦へ向けて熱を増す青葉第二の校内でも、その声だけはひときわ強く、迷いなく、さらに遠い場所を目指すように響いていた。
【お知らせ/Notice】
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