第63話
アメリカから帰国して、数日が経った。
青葉第二高等学校の生徒会室には、すでにいつもの空気が戻っている。
榊原藍は会長席に座り、積み上げられた書類へ静かに目を通していた。壁際では雪代こよみが端末を抱え、必要な記録を淡々と整理している。
そして桜川恋だけが、机の上へ突っ伏したまま動けずにいた。
理由は単純だった。
身体は日本へ帰ってきたというのに、恋の頭がまだ数日前の出来事へ追いついていないのである。
「……いろいろありすぎました」
「そうですね」
藍は否定しなかった。
否定できるはずもない。怪盗衣装を着て海外の施設へ忍び込み、ライフルで撃たれ、龍のような怪物に殺されかけ、最後には手錠と足枷をつけられて牢屋へ入れられたのだ。
それを「いろいろ」の一言でまとめているだけでも、恋なりにかなり努力していた。
恋は机へ額をつけたまま、深いため息を吐いた。
帰国後、今回の騒動は表向きには何も起きなかったことになっている。
AI-Tech側の公式な記録では、博覧会の準備中に地下施設で大規模な設備トラブルが発生したという扱いになったらしい。展示物の盗難は確認されず、解呪の宝珠も予定通り公開された。
地下洋館の壁や扉がいくつも破壊され、ロケットランチャーまで使用された事実は、厳重な内部記録の奥へ封じられている。
もちろん、恋にはそれで安心できない疑問が一つ残っていた。
「それで、ずっと気になってたんですけど」
恋はようやく顔を上げた。
会長席の藍と目が合い、そのまま壁際にいるこよみへ視線を移す。こよみも端末から顔を上げ、無言で恋を見返した。
「こよみさんって、どうしてあの日アメリカにいたんですか?」
何気ない問いのはずなのに、生徒会室の空気がほんの少しだけ静かになった。
恋はその変化を逃さず、続けて尋ねる。
「当日は社長さんから依頼を受けて来たって話でしたけど、日本で依頼を受けてから移動したんじゃ、普通に間に合わないですよね。飛行時間もありますし、時差だってありますし」
「はい」
藍はあっさりと認めた。
「当日に日本を出発した場合、あの時刻までに現地施設へ到着することは不可能です」
「ですよね」
「はい」
「じゃあ、どうして間に合ったんですか?」
「事前にアメリカへ呼んでいました」
「誰がですか?」
「私です」
恋は黙って藍を見つめた。
それから、ゆっくりとこよみへ顔を向ける。
こよみはいつも通り無表情で、悪びれた様子もなかった。
「……藍さん」
「はい」
「聞いてないです」
「伝えていませんでした」
「どうしてですか?」
「こよみの出動が必要にならない可能性もあったためです」
「必要になりましたよね?」
「はい」
「というか、必要になる前から本人が警備側として出てきましたよね?」
「はい」
藍の返答に迷いはなかった。
恋は額を押さえた。
「つまり、こよみさんは最初からアメリカにいたんですか?」
「そうなります」
今度はこよみが答えた。
「私は藍様たちより先に現地入りしていました」
「どこで待ってたんですか?」
「AI-Tech関連施設の待機区画です」
「待機区画……」
「はい。藍様から、緊急時における抑止力として待機するよう命じられていました」
「抑止力」
あまりにも物騒な単語を、恋は思わずそのまま復唱した。
こよみは気にすることなく説明を続ける。
「主に想定されていたのは、獅堂紗雪さんの呪いが制御不能となった場合です。大型化、理性喪失、施設破壊、周辺の人的被害が発生する可能性がありました」
「それを止めるために、こよみさんが近くで待機していたんですね」
「はい」
恋は再び藍へ顔を向けた。
「藍さん、それなら最初から教えてくれてもよかったじゃないですか」
「こよみの待機を紗雪さんへ知らせた場合、過度に警戒されると判断しました」
「まあ、ロケットランチャーを持ったこよみさんが近くで待ってるって聞かされたら、獅堂先輩も落ち着かないでしょうけど……」
「また、恋も不安を感じる可能性がありました」
「不安になる要素が多すぎて、一つ増えたところで誤差だったと思います」
「そうですか」
「そうです」
恋は椅子へ座り直し、今度はこよみを正面から見た。
「でも、それならどうして警備側に回ったんですか? 本来は私たちの非常時に備えて待機していたんですよね」
「スコット氏から警備協力の依頼を受けたためです」
「その依頼、受ける必要ありました?」
「ありました」
「どうしてですか?」
「警備対象となっている施設に対して、侵入行為が予告されていたためです」
「その侵入者って、私たちですよね?」
「はい」
「こよみさんは、もともと私たち側の抑止力として用意されていたんですよね?」
「はい」
「それなのに、どうして敵になったんですか?」
こよみは一切迷わなかった。
「あの場にいたのは藍様ではなく、ブラックローズでしたので」
恋は黙り込んだ。
生徒会室の時計が秒を刻む音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……まだ、その理屈を通すんですか?」
「はい」
「帰国してから数日経ってますよ?」
「はい」
「藍さんはもう怪盗衣装も着てませんよ?」
「現在の藍様は藍様です。しかし、あの日に施設へ侵入した人物はブラックローズです」
「切り替えが便利すぎる……」
恋が呆れている間に、こよみは端末へ視線を戻した。
「藍様から命じられていたのは、獅堂紗雪さんの暴走時における制圧および被害抑止です。ブラックローズによる展示物窃取を補助するようには命じられていません」
「言い方が急に刺さりますね……」
「また、藍様にはAI-Techの警備能力を実地で検証する目的もありました。私は藍様の記録者であると同時に、必要に応じて危険を排除する盾の役割を担っています。その検証へ警備側として参加しても、機能上の矛盾はありません」
「盾というより、完全に矛でしたけどね……」
恋は背もたれへ身体を預けた。
どう考えても、理屈の上ではこよみに勝てない。
藍も静かに口を開く。
「こよみの判断は、形式上は正当です」
「形式上は、ですか」
「はい。私は榊原藍としてではなく、ブラックローズという別人の建前を用いて行動しました。その結果、こよみは私を榊原藍ではなく、施設へ侵入した怪盗として処理しました」
「自分で用意した理屈を、そのまま返されたんですね」
「はい」
「実際に返されてみて、どうでした?」
「不便でした」
「でしょうね」
藍はほんの少しだけ目を伏せた。
「ただし、こよみが警備側にいたことで、紗雪さんが暴走した際には即座に対応できました。非常時の配置としては、結果的に有効だったと評価しています」
「確かに、こよみさんがいなかったら完全に詰んでました」
「はい」
「その前に、こよみさんが敵として立ちはだかったせいで、私たちはかなり消耗しましたけど」
「それも事実です」
「藍さん、総合的な評価は?」
「こよみの配置自体は有効でした。ただし、実際の運用では想定外の事象が多すぎました」
「その想定外の代表が、配置された本人なんですよね」
「はい」
こよみが淡々と口を挟む。
「記録上、私は状況に応じて適切に任務を遂行しました」
「適切?」
「警備対象への侵入を阻止し、暴走体を制圧し、人的被害を回避した後、侵入者を拘束しました」
「並べると正しいのが腹立ちますね」
「事実を記録しただけです。といっても、どこぞの白薔薇の怪盗に拘束されたため、一時的な侵入を許してしまいましたが」
そう言われた恋は少しだけ申し訳なさそうに再び机へ突っ伏した。
ふと、数日前、牢屋で目を覚ました時の感触が蘇る。
手錠に、足枷。
あれもすべて、こよみの言う適切な任務遂行の結果だった。
しばらく机へ額をつけていた恋は、ふと思いついて顔だけを上げた。
「……こよみさん」
「はい」
「やっぱり、置いていかれたから怒ってました?」
「いいえ」
「本当に?」
「はい」
「ちょっとくらいは?」
「ありません」
「怪盗衣装、着てみたかったとか」
「ありません」
「三人だけで行ったのが不満だったとか」
「ありません」
「……本当に?」
そこで、こよみはわずかに沈黙した。
本当に、ほんの一瞬だけだった。
だが、ずっとこよみを見ていた恋には十分だった。
「今、間がありましたよね」
「処理間隔です」
「今の間、絶対なにかありましたよね」
「処理間隔です」
こよみは同じ言葉を繰り返したが、恋の疑いは消えなかった。
藍も書類から顔を上げ、こよみを見る。
「こよみ」
「はい、藍様」
「必要であれば、次回からは事前に同行候補へ加えます」
「承知しました」
「次回があるんですか!?」
恋は勢いよく身体を起こした。
藍は特に驚く様子もなく答える。
「安心してください。怪盗行為を再び行う予定は、現時点ではありません」
「現時点では、ですよね?」
「はい」
「可能性は残ってるんですか?」
「ゼロとは断言できません」
「ゼロにしてください」
「努力します」
「その返事、全然信用できないです!」
こよみは二人のやり取りを端末へ入力した。
「記録。桜川恋は、今後の怪盗行為に対して強い拒否反応を示しています」
「当然です!」
「詳細記録は非公開とします」
「非公開でも残さないでください!」
恋の声が、生徒会室へ響いた。
その声が収まるのを待ってから、藍は穏やかに恋を見た。
「恋」
「はい」
「今回の件では、あなたへ大きな負担をかけました」
「本当にそうですよ」
「すみません」
藍はいつもと変わらない丁寧な口調で謝った。
言い訳も、責任を分散させる言葉もない。ただ、まっすぐに恋を見ている。
そのせいで、恋は準備していた文句を続けにくくなった。
「……まあ、獅堂先輩の暴走は止まりましたし」
「はい」
「夜になると耳と尻尾は残るみたいですけど」
「はい」
「それでも、満月の夜に理性を失って巨大な獣になることはなくなったんですよね」
「現時点の検査結果では、その可能性が高いです」
「なら、まあ……全部が無駄だったわけじゃないです」
恋が視線を逸らしながら言うと、藍は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
「ただし、次からは、こよみさんが先にアメリカへいるなら最初から教えてください」
「分かりました」
「こよみさんも、途中で警備側へ回るなら先に言ってください」
「状況によります」
「またそれですか!」
こよみは、最後まで少しも揺らがなかった。
恋は椅子へ深くもたれ、天井を仰いだ。
あれほど大騒ぎをしたのに、終わってみれば三人はまた生徒会室へ戻っている。
会長席には藍がいて、壁際にはこよみがいて、自分が二人へ突っ込みを入れている。
いつも通りだ。
あまりにも普段通りすぎて、数日前の出来事が悪い夢だったようにさえ思えてくる。
もっとも、手首にはまだ手錠の冷たい感触が残っている気がするので、夢だったことにはできそうもない。
「……もう、しばらく海外には行きたくないです」
「了解しました」
藍が答えた。
「では、次に対応が必要になった場合は、可能な限り国内で行います」
「次を作らないでください!」
「記録。桜川恋は、怪盗行為の再発防止を強く要望しています」
「はい。それでお願いします」
こよみが端末を操作する横で、藍は静かに続けた。
「ただし、紗雪さんの夜間に発現する耳と尻尾の呪いは、まだ解決していません」
「……」
「今後も追加調査が必要になる可能性があります」
恋は嫌な予感を覚えながら、ゆっくりと藍を見た。
「……藍さん」
「はい」
「次に何かする時は、最初から全部教えてください」
「分かりました」
「それから、私はもう怪盗衣装を着ません」
「必要がなければ、その予定はありません」
「必要を作らないでください」
恋は再び机へ突っ伏した。
これ以上話を続ければ、また新しい計画が生まれそうな気がしたからだ。
数秒ほど、生徒会室には紙をめくる音と、こよみが端末を操作する音だけが流れた。
やがて、こよみが何でもないことのように呟く。
「ちなみに、次回私はどんな怪盗衣装を着用するべきでしょうか」
恋は勢いよく顔を上げた。
「やっぱり気にしてたんじゃないですか!」
「検討事項です」
「検討しないでください!」
藍が、ほんの少しだけ微笑んだ。
こよみは無表情のまま、何かを端末へ記録している。
恋だけが新たな不安材料を抱え、両手で頭を押さえた。
アメリカ遠征は、これで終わった。
獅堂紗雪を苦しめていた呪いも、その一つは確かに解けた。
けれど、青葉第二高等学校の生徒会室では、次の騒動へ繋がりかねない火種が、誰にも止められないまま静かに記録されていた。




