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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第5章 闇夜に舞う、呪われた令嬢
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第62話

 桜川恋が目を覚ました時、最初に視界へ入ったのは、見覚えのない天井だった。


 正確には、できれば見覚えを持ちたくない類の天井である。


 薄暗い照明が、灰色の壁と簡素な室内をぼんやり照らしている。背中の下には、寝台と呼ぶにはあまりにも硬い板の感触があった。


「…………」


 恋は仰向けのまま、しばらく瞬きを繰り返した。


 ここはどこだろう。


 ホテルの客室ではない。獅堂家のチャーター機でもなければ、青葉第二高等学校の保健室でもない。ましてや、恋が無理やり修学旅行と呼び続けていた海外旅行先の宿泊施設であるはずもなかった。


 頭の中に薄くかかっていた霧が晴れ始め、嫌な予感とともに身体を起こそうとした、その時だった。


 じゃらり、と金属同士が擦れる音が鳴った。


「…………」


 恋はゆっくりと自分の手元へ視線を落とした。


 両手首には手錠がかけられている。


 念のため足元も確かめると、足首には鎖の短い足枷まで装着されていた。


「…………」


 恋は何も言わず、もう一度天井を見上げた。


「最悪だ」


「おはようございます、恋」


 隣から、聞き慣れた丁寧な声がした。


 顔だけをそちらへ向けると、同じ室内に榊原藍が座っていた。


 正確には、昨夜の黒薔薇の怪盗衣装を着たままの榊原藍が、壁際の寝台へ腰掛けている。彼女の手首にも手錠がかけられ、足首にも恋と同じ足枷がついていた。


 それなのに背筋は伸び、膝も綺麗に揃えられている。拘束されているというより、牢獄を舞台にした演劇の一場面を静かに演じているように見えた。


「藍さん」


「はい」


「ここ、どこですか」


「AI-Tech施設地下の一時拘留室です」


「牢屋ですよね」


「はい。実質的には牢屋です」


「そこは言い換えてくれないんですね……」


 恋は額を押さえようとしたが、両手を繋ぐ手錠が邪魔をして思うように動かせなかった。


 その不自由さをきっかけに、昨夜の記憶が少しずつ戻ってくる。


 地下洋館への侵入。解呪の宝珠。紗雪の変貌。突然大広間の上空へ放り出されたこと。龍のような怪物を、藍とこよみとともに鎮圧したこと。


 そして、すべてが終わった直後、こよみに手錠をかけられたこと。


「……地下から連れ出された後、どうなったんでしたっけ」


「こよみによって警備統括室へ移送されました。本来であれば、そのままスコット氏による事情確認が行われる予定でしたが、施設の損害確認、展示物の保全、紗雪さんへの医療対応、博覧会主催者への説明が優先されました」


「それで、私たちはここに?」


「はい。事情確認が可能になるまで、一時拘留室で待機することになりました」


「要するに、後回しにされたんですね」


「はい」


「囚人として」


「侵入者としてです」


「どちらにしてもつらい……」


 恋は力なく息を吐き、自分の格好を見下ろした。


 白薔薇の怪盗衣装は、昨夜の騒動で見る影もなく傷んでいた。一度紗雪へかけた後、いつの間にか返されていたケープは端が裂け、スカートの裾や手袋には埃と擦れた跡が残っている。


 着替えた直後は、あれほどスカートの短さを気にしていた。


 今となっては、そんなことを気にする余裕もない。


 手錠と足枷のせいで裾を整えることすら難しい。そもそも、ここは牢屋である。同室にいるのも藍だけだ。見えているかどうかなど、今さら問題にしている場合ではなかった。


 そう思っていたのだが。


「恋」


「はい」


「その……現在、見えています」


「言わないでください! 言われると急に隠したくなるんですよ!」


 恋は反射的に膝を閉じ、身体を丸めた。


 じゃらじゃらと手錠と足枷が鳴り、その音が余計に惨めさを強調する。


「すみません。恋にとっての懸念材料の共有したつもりでした」


「藍さんのそういう心遣い、時々ものすごく変な方向に鋭いんです」


「今後は、伝え方を調整します」


「お願いします……」


 恋は寝台の端で、小さく身体を縮めた。


 修学旅行だと思い込むことで正気を保っていた昨日の自分へ、今すぐ教えてやりたい。


 これは修学旅行などではない。


 不法侵入の末に、手錠と足枷をつけられて牢屋で朝を迎える犯罪者の末路である。


「藍さん」


「はい」


「私たち、帰れるんですか」


「帰れます」


「そこは断言してくれるんですね」


「はい。現在、スコット氏が各方面と調整しています」


「社長さん、大丈夫なんでしょうか」


「精神的負荷は大きいと推測されます」


「でしょうね……」


 世界規模の巨大企業を率いる人間が、怪盗衣装を着た実質的な所有者と、その仲間の不法侵入を隠蔽しようとしている。しかも施設の地下は、こよみと紗雪によって半壊に近い被害を受けていた。


 恋には、スコットの胃が無事であるとは思えなかった。


 その時、牢屋の外から複数の足音が近づいてきた。


 硬い靴底が廊下を叩き、金属扉の前で止まる。恋と藍がそちらへ顔を向けると、錠の外れる音に続いて、重い扉がゆっくりと開いた。


 二人の警備員が、間に一人の少女を挟むようにして立っている。


「入れ」


「ちょ、ちょっと! もう少し丁重に扱いなさいませ!」


 聞き覚えのある声だった。


 次の瞬間、獅堂紗雪が半ば押し込まれるように牢屋へ入ってくる。


 金髪の縦ロールは少し乱れ、顔にはまだ疲労の色が残っていた。それでも意識ははっきりしており、自分の足で立っている。


 そして、彼女が着ていたのは昨夜の怪盗衣装ではなかった。


 装飾らしい装飾のない、簡素な囚人服である。


「獅堂先輩!」


 恋は勢いよく立ち上がろうとした。


 しかし、足枷の鎖が引っかかり、その場で転びかける。隣にいた藍がすぐ腕を伸ばし、恋の身体を支えた。


「落ち着いてください」


「落ち着ける状況じゃないです!」


「それはその通りですわ」


 紗雪は不機嫌そうに髪を払い、囚人服の裾を整えた。


「まったく。怪盗プリンセスにこのような衣装を着せるなど、審美眼が欠落しているとしか思えませんわ」


「獅堂先輩、身体は大丈夫なんですか?」


 恋が尋ねると、紗雪の表情が少しだけ和らいだ。


「ええ。身体そのものには、特に問題ありませんわ」


「よかった……」


 恋は胸の奥に詰まっていた息を吐き出した。


 あれだけの事態が起こってもなお、こうして紗雪が生きて、言葉を交わせている。


 昨夜の龍のような怪物ではなく、いつもの獅堂紗雪として目の前に立っている。


 その事実だけで、冷たい牢屋の空気が少し和らいだように感じられた。


 藍が静かに問いかける。


「解呪の状態は確認できましたか」


 紗雪は自分の両手へ視線を落とした。


「医療班の検査と、榊原さんが残した解析結果を照合したところ、満月の夜に暴走を引き起こしていた呪いは、解除された可能性が高いそうですわ」


「本当ですか!?」


 恋の声が思わず跳ねた。


「ええ。少なくとも、満月をきっかけに理性を失い、あのような姿へ変貌する反応は検出されなくなったと聞いていますの」


「よかった……本当に……」


 恋は胸元へ両手を当てようとして、手錠の鎖を鳴らした。


 昨夜の出来事は、何もかもが滅茶苦茶だった。


 アメリカまで来て、怪盗衣装を着せられ、地下施設へ忍び込み、こよみに銃を撃たれ、紗雪の変貌した姿に殺されかけ、最後には牢屋へ入れられた。


 それでも、紗雪を長く苦しめてきた呪いが解けたのなら、すべてが無駄だったわけではない。


「ただし」


 紗雪が続けた。


「ただし?」


「夜になると生えてくる耳と尻尾は、そのまま残るそうですわ」


「え」


 恋は喜びかけた顔のまま固まった。


「どうやら、満月の暴走とは別系統の呪いらしいですの」


「別の呪い……」


「ええ」


「そんなこと、あるんですか?」


 代わりに答えたのは藍だった。


「可能性はあります。満月時の暴走と、夜間に発現する獣耳および尻尾では、発現条件も身体変化の規模も大きく異なっていました」


「確かに、夜に耳と尻尾が出る時と、あの怪物になる時では全然違いましたけど……」


「今回の宝珠は、理性喪失と巨大化を伴う呪いには作用しましたが、夜間だけ起こる軽度の身体変化には反応しなかったと考えられます」


 紗雪は肩を落とし、長い息を吐いた。


「つまり、わたくしは今後も夜になれば、耳と尻尾の生えるお嬢様ということですわね」


「でも、もう満月の夜に暴走はしないんですよね」


「ええ。それだけでも、十分に大きな進展ですわ」


 紗雪はそう言って、小さく笑った。


 完全な解決ではない。


 それでも、毎月訪れる満月の夜に、自分を失い誰かを傷つけるかもしれないという恐怖からは解放された。


 それを確かに受け止めている顔だった。


「……なら、ひとまずはよかったです」


 恋も小さく笑い返した。


「耳と尻尾の方は、また別の方法を探せばいいですし」


「桜川さん」


「はい」


「あなた、牢屋の中でよくそこまで前向きになれますわね」


「やめてください。今、前向きなことを言ってないと泣きそうになるので」


「ずいぶん正直ですわね」


紗雪は苦笑した後、改めて自分の囚人服を見下ろし、露骨に眉をひそめた。


「それにしても、この服は本当にいただけませんわ」


「囚人服まで用意されてるなんて、準備がよすぎません?」


 藍が答える。


「本来は、施設へ侵入した外部者へ支給する尋問用の衣服です」


「つまり、今の私たちのための服ですよね」


「結果的には、そうなります」


「つらい……」


 紗雪は藍の怪盗衣装へ目を向けた。


「榊原さんたちは、まだその衣装のままですのね」


「はい。着替えを希望しましたが、拘留中の安全確認が終わっていないことを理由に保留されています」


「わたくしだけ囚人服というのは、不公平ではなくて?」


「紗雪さんの衣装は、変身時の損傷が大きく、着用可能な状態ではありませんでした」


「事実でも、はっきり言わないでくださいませ」


 恋は二人のやり取りを眺めながら、あることに気づいた。


「そういえば、獅堂先輩には手錠も足枷もないんですね」


 紗雪が両手を広げて見せる。手首にも足首にも、拘束具はついていなかった。


「変身後の回復直後ということで、今は免除されていますの」


「いいなあ……」


「羨ましがることではありませんわ。容態が安定したら、改めて拘束すると言われていますもの」


「こよみさん、そこは本当にブレませんね……」


「ええ。救援してくださったことには感謝していますけれど、あの方は本当に容赦がありませんわ」


 その時、牢屋の外から聞き覚えのある平坦な声が届いた。


「記録上、容赦は警備任務の必須条件ではありません」


 三人がそろって振り向く。


 鉄格子の向こうには、雪代こよみが立っていた。


 黒いスーツ姿ではあるものの、サングラスは外している。白い髪は綺麗に整えられ、昨夜付着していた埃や石粉もすっかり落とされていた。


 何事もなかったような顔で、片手に端末を持っている。


「こよみさん……」


「おはようございます、桜川さん。藍様。獅堂紗雪さん」


「こよみ」


 藍が静かに呼びかけた。


「私はブラックローズではないのですか?」


「怪盗行為はすでに終了しています。したがって、現在は藍様です」


「便利な切り替えですね」


「はい」


 こよみは少しも悪びれなかった。


 恋は寝台へ座り直し、鉄格子越しに尋ねる。


「こよみさん、私たちいつ出られるんですか?」


「昼過ぎになる見込みです」


「昼過ぎ」


「現在、スコット氏が博覧会主催者、施設管理部門、警備部門、医療班、法務部門、保険会社、広報部門との調整を行っています」


「多すぎません?」


「昨夜の事案は、多方面への対応を必要とします」


「まあそうですよね……」


 紗雪が少し気まずそうに目を逸らした。


「その、施設の損害は……」


「主な原因は、私の追跡行動と獅堂紗雪さんの暴走形態です」


「そこまで明確に言われると、返す言葉がありませんわね」


「なお、ブラックローズ、ホワイトローズ、怪盗プリンセスによる侵入記録は、AI-Tech内部の限定資料として封印される予定です」


「公開されないんですね?」


 恋が確認すると、こよみは頷いた。


「はい。一般に閲覧できる記録からは除外されます」


「よかった……」


 恋が安堵の息を漏らす。どうやら犯罪者として生きることにはならずに済むらしい。


「ただし、私の内部記録には保存します」


「消してください」


「必要な記録です」


「やっぱり駄目か……」


 こよみは端末を操作しながら続けた。


「また、スコットCEOから伝言を預かっています」


「何ですか?」


「『二度と無断で自社施設へ侵入し、破壊しないでください』とのことです」


 恋は黙った。


 藍も黙った。


 紗雪も何も言わず、視線を逸らした。


 しばらくして、恋が口を開く。


「……全面的に正しいですね」


 「はい」


 藍も素直に頷いた。


「スコット氏には、後ほど謝罪します」


「謝罪だけで済ませられますの?」


「済ませます」


「強いですわね……」


 こよみは端末へ視線を戻した。


「獅堂紗雪さんの解呪結果については、AI-Techの医療解析部門と獅堂家の担当者間で共有されます。夜間に発現する耳と尻尾については、今回とは別の事案として調査する必要があります」


「また別の秘宝を探すしかありませんわね」


 紗雪は肩をすくめた。


「ですが、満月の夜に理性を失うことがなくなったのでしたら、怪盗行為に頼る必要も以前より減りましたわ」


「減っただけなんですか?」


 恋が聞き返すと、紗雪はにこりと微笑んだ。


「ええ。夜になるたび耳と尻尾が生える呪いも、いずれは解かなければなりませんもの」


「でも、次からはもう盗みは……」


「もちろん、正規の手段を優先しますわ」


「優先、なんですね」


「優先ですわ」


 その言葉に不安を覚え、恋は藍へ助けを求めるように顔を向けた。


 藍も紗雪を静かに見つめている。


「紗雪さん」


「何ですの?」


「今後、怪盗行為を行う場合は、事前に私へ相談してください」


「止めるのではなく、相談ですのね」


「はい。止めるべきかどうかは、内容を確認してから判断します」


「榊原さん、あなたも大概ですわよ」


「そうですか」


「そうですわ」


 恋は両手で頭を抱えたかったが、手錠のせいで諦めた。


 呪いが一つ解けても、この二人の根本的な部分は何も変わらないらしい。


 それでも、不思議と少し安心した。


 紗雪の夜は、確かにこれまでより軽くなった。


 それならば、手錠をかけられたまま牢屋で迎える朝にも、多少の意味はあったのかもしれない……たぶん、きっと。


「藍さん」


「はい」


「昼過ぎまで、ずっとここで待つんですよね」


「はい」


「手錠と足枷は?」


「外れません」


「ですよね……」


 恋は諦めて寝台へ座り直した。


 姿勢を変えるたびに鎖が鳴り、怪盗衣装のスカートの裾がまた少しずれる。


 気にはなる。


 だが、もう直す元気もなかった。


「恋」


「はい」


「現在は見えていません」


「だから、言われると気になるんですってば!」


「すみません」


 紗雪が口元を押さえ、小さく笑った。


「桜川さん、牢屋の中でも大変ですわね」


「獅堂先輩だって、この後手錠をかけられる予定ですよ」


「……それを忘れていましたわ」


 こよみが端末を確認する。


「容態は安定しています。したがって、獅堂紗雪さんの再拘束は可能です」


「忘れたままにしておいてくださいませ!」


「規則ですので」


 紗雪は大いに抗議した。


 医療上の安全性がまだ完全に確認されていないだの、囚人服に手錠は美しくないだの、怪盗プリンセスに対する扱いではないだの、思いつく限りの理由を並べた。


 しかし、こよみは一切揺らがなかった。


 数分後、紗雪の両手首にも無情な金属音とともに手錠がかけられた。


 こうして、黒薔薇の怪盗と白薔薇の助手、そして怪盗プリンセス改め囚人服のお嬢様は、同じ牢屋の中で昼過ぎまで待機することになった。


 恋は鉄格子の向こうをぼんやり眺め、ぽつりと呟く。


「……やっぱり、修学旅行じゃなかったですね」


 藍が隣で丁寧に頷いた。


「はい。不法侵入と一時拘留を伴う海外遠征でした」


「正確に言わないでください」


 紗雪は手錠を気にしながら、ため息をついた。


「ですが、得るものはありましたわ」


「はい」


 恋も小さく頷く。


 牢屋の中で、手錠と足枷をつけられ、傷だらけの怪盗衣装を着て。


 それでも、最後には笑うしかなかった。


 ……そう割り切るには、あまりにも過酷すぎる朝だったが。


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