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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第5章 闇夜に舞う、呪われた令嬢
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第61話

 雪代こよみのロケットランチャーが、再び火を噴いた。


 白煙を引いた弾頭が大広間を横切り、龍に似た魔獣の肩口へ直撃する。炸裂と同時に凄まじい衝撃が広がり、爆音が地下洋館の石壁を揺さぶった。天井から細かな砂埃が降り注ぎ、辛うじて残っていた窓硝子が一斉に震える。


 かつて獅堂紗雪だった巨大な獣は、床へ爪を食い込ませながらも、その巨体を大きくよろめかせた。肩を覆う硬質な鱗には焦げた跡が広がっているが、砕けても血は流れていない。弾頭は貫通力を抑え、衝撃だけを内部へ伝える制圧用のものらしい。


「右肩部への損傷を確認。対象の運動能力、推定二十六パーセント低下」


 発射時の反動を受け止めたこよみは、煙の向こうにいる魔獣から目を離さず、淡々と告げた。


「追加制圧を行います」


「こよみさん、それ、本当に非殺傷なんですよね!?」


 柱の陰へ身を隠していたホワイトローズ――桜川恋は、耳鳴りの残る頭を押さえながら叫んだ。


「はい。急所へ直撃しなければ、死亡する可能性は低いです」


「その補足が怖いんです!」


「必要な情報です」


「聞かない方が安心できる情報もあります!」


 恋の隣では、ブラックローズがワイヤー射出装置を構えていた。仮面の奥の赤い瞳が、魔獣の四肢と尾、床に転がった解呪の宝珠、さらにこよみの射線まで絶えず追っている。


 魔獣は右前肢を庇うように重心を傾けていた。それでも動きを止める気配はない。床を抉った爪の間から黒い霧が噴き出し、傷ついた鱗の表面を覆っていく。


「こよみ」


「はい」


「紗雪さんは、座標を直接変更するものに近い攻撃を使用します。先ほど恋が大広間の上空へ移動させられました」


「記録しています」


「発動前には呪文に似た発声がありました。短い準備動作を必要とする可能性がありますが、現時点では回避方法を確定できません」


「了解しました。座標変更後の状況に応じ、空中で回避行動を行います」


「了解できるんですね!?」


 恋が思わず声を上げた、その時だった。


 魔獣の喉が膨らみ、低い音が漏れ始める。


 咆哮とは違う。石を擦り合わせるような音に、言葉のような抑揚が混じっている。


「発動予兆を確認」


 こよみがロケットランチャーをわずかに下げた。


 次の瞬間、その姿が掻き消える。


「こよみさん!」


 恋が叫びながら見上げると、こよみは大広間の天井近くへ移動させられていた。


 移動の途中はなかった。床に立っていた姿が消えたと思った次の瞬間には、十数メートル上空で身体を横向きに投げ出されている。


 重力がこよみの身体を引き落とす。


 同時に、魔獣の巨大な尾が床を薙いだ。


 絨毯と石床がまとめて引き裂かれ、無数の棘を生やした尾が、落下してくるこよみへ向かって跳ね上がる。まるで地面から突き出された巨大な槍だった。


「座標変更を記録。落下姿勢を修正します」


 こよみは空中で膝を引き寄せ、ロケットランチャーを胸元へ抱え込んだ。身体を捻り、迫る尾へ足の裏を向ける。


 棘の隙間へ黒い革靴の踵が触れた。


 ほんの一瞬だけ、こよみは尾の側面を足場にした。


 そのまま膝を伸ばし、突き上げる力を横方向へ逃がす。小柄な身体が棘の先を掠めて回転し、近くの柱へ向かって飛んだ。


 だが、着地点には何もない。


 こよみは腰の装備から細いワイヤーを射出した。鉤爪が壁の装飾へ食い込み、張り詰めた線が落下軌道を強引に変える。


 身体は柱の側面へ叩きつけられそうになったものの、こよみは片足をついて衝撃を吸収し、そのまま壁を蹴って床へ降りた。


 着地と同時にロケットランチャーを構え直す。


「回避を完了しました」


「何でそんなに平然とできるんですか!?」


「想定した現象が発生しただけです」


「私の時は死ぬかと思ったんですけど!」


「桜川さんには、空中で姿勢を制御する機能がありませんので」


「知ってます!」


 魔獣がこよみへ顔を向けた。


 座標変更をかわされたことが気に入らなかったのか、喉の奥から黒い霧を吐き出しながら威嚇する。


 こよみは注意を引きつけるように、あえて柱の陰から身体を晒した。


 その隙に、ブラックローズが床に落ちた宝珠へ目を向ける。


「恋」


「はい!」


「こよみが注意を引きつけている間に、宝珠を回収できますか」


「拾うんですか!? 私が!?」


「はい。私が動けば、紗雪さんは高い確率でこちらを警戒します。現在、最も接近できる可能性が高いのは恋です」


「一番弱いから警戒されてないだけですよね、それ!」


「結果としては、そうなります」


「否定してください!」


 魔獣が咆哮した。


 音圧だけで空気が震え、恋の胸の奥まで重く揺さぶられる。柱に手をついていなければ、膝から崩れていたかもしれない。


 先ほどのように天井へ放り出されるかもしれない。


 あの尾に貫かれるかもしれない。


 宝珠へ手が届く前に、前肢で潰される可能性だってある。


 それでも、迷っている間にも黒い霧は紗雪の身体を覆い続けている。


 恋は乾いた喉を鳴らした。


「……修学旅行だと思って来たのに」


「まだその認識を維持していたのですか」


「そう思わないと正気を保てなかったんです!」


「では、現在は非常事態対応研修だと考えてください」


「もっと嫌な言い換えになってます!」


 抗議しながらも、恋は柱の陰から飛び出した。


 低く身を屈め、保管庫の入口へ向かって走る。


 白銀の宝珠は、崩れたガラスケースの近くに転がっていた。距離にすれば十数メートル。それだけのはずなのに、魔獣の巨体を前にすると、ひどく遠く感じる。


 恋の足音に反応し、魔獣の首が動いた。


「見つかった……!」


 黄色く濁った瞳が、一直線に恋を捉える。


 巨大な尾が床を擦り、棘の先端がこちらへ向けられた。


「そのまま走ってください」


 ブラックローズがワイヤーを放つ。


 黒い線が尾の付け根へ巻きつき、即座に巻き取りが始まった。ブラックローズが両足を踏ん張り、全身で引く。


 だが、巨体に対してワイヤー一本ではあまりにも細い。


 尾の動きを止めることはできない。


 それでも軌道を数十センチずらすには十分だった。


 棘の尾が恋の横を通過し、突風がケープを捲り上げる。床へ叩きつけられた尾が石板を粉砕し、砕けた欠片が足元へ飛んだ。


「ひっ……!」


 恋は立ち止まりそうになったが、歯を食いしばって前へ進んだ。


 直後、こよみのロケットランチャーが三度目の火を噴く。


 弾頭は魔獣の右後肢へ着弾し、激しい衝撃と白煙を巻き起こした。脚の関節がわずかに崩れ、巨体が片側へ沈む。


「重心の移動を確認。右側面の安定性が低下しています」


「今です、恋!」


 ブラックローズの声に背中を押され、恋は最後の数歩を駆け抜けた。


 床へ膝をつき、両手で宝珠を掴む。


 手袋越しに、奇妙な感触が伝わった。


 冷たい。


 そう感じた直後には、内側から熱を帯びているようにも思える。体温とは違う何かが掌から腕へ流れ込み、心臓の鼓動に合わせて淡い光が明滅した。


「取れました!」


「戻ってください!」


 恋は宝珠を胸元へ抱え、ブラックローズのいる柱へ向かって振り返った。


 その瞬間、魔獣の喉が再び低く震えた。


 先ほどと同じ音。


「また……!」


 足元の感覚が消える。


 次の瞬間、恋の身体は大広間の中空へ投げ出されていた。


 だが、今度は完全な無防備ではなかった。


 右足首へ、強い力がかかる。


「きゃっ!」


 見下ろすと、細い黒色のワイヤーが足首へ巻きついていた。


 恋が宝珠へ向かって走り出した時点で、ブラックローズが取りつけていたものだ。


「想定済みです」


 ブラックローズが射出装置を引き寄せる。


 恋の身体が落下へ移る前に、ワイヤーが一気に巻き取られた。足から引かれたことで、身体が空中で大きく振られる。


「想定済みでも、足首から引っ張られるのは怖いです!」


「我慢してください」


「はい!」


 ブラックローズは柱を蹴り、振り子のように近づいてきた恋へ飛びついた。


 片腕で腰を抱え、もう片方の手で宝珠を落とさないよう支える。そのまま二人分の勢いを殺しながら床へ降りた。


 恋の靴が絨毯へ触れる。


 足元が戻ったことを確かめた瞬間、膝から力が抜けそうになった。


 だが、休む暇はない。


 魔獣は二人を追おうと、傷ついた後肢を引きずりながら身体を起こしている。


 その正面へ、こよみが立った。


「接近制圧へ移行します」


 こよみは使用済みのロケットランチャーを床へ置き、背部へ装着していた金属筒を取り外した。


 折り畳まれていた装置が展開し、先端から鋭い杭と複数のワイヤーが現れる。


「こよみさん、まだ何か持ってるんですか!?」


「必要となる可能性がありました」


「それ、警備員の装備じゃないですよね!」


「大型対象用の緊急拘束装備です」


「そんなものがある施設も嫌です!」


 ブラックローズは魔獣の正面へ回り込み、こよみは傷ついた右側面へ位置を変える。


 恋は宝珠を抱え、二人の動きを目で追った。


「恋」


「はい!」


「私が頭部を引きつけます。こよみが右前肢を拘束します」


「その後は?」


「合図を出したら、宝珠を紗雪さんの胸部へ押し当ててください。黒い霧が最も濃く集まっている場所です」


 恋は魔獣の胸元を見た。


 鱗の隙間で、黒い霧が渦を巻いている。まるで心臓の代わりに呪いそのものが脈打っているようだった。


「押し当てるって……あれに近づくんですか?」


「はい」


「死にません?」


「可能な限り防ぎます」


「可能な限り……!」


 答えだけを聞けば、不安はまるで減らない。


 ブラックローズは一瞬だけ魔獣から視線を外し、恋を見た。


「私があなたを守ります」


 短い言葉だった。


 その声だけは、仮面をつけた怪盗ではなく、恋の知っている榊原藍のものに聞こえた。


 恋は宝珠を抱える指に力を込める。


「……分かりました」


 魔獣が吼えた。


 ブラックローズが駆け出す。


 真正面から接近し、振り下ろされた前肢を横へ跳んでかわす。爪が床を砕いた瞬間、ブラックローズは魔獣の腕を駆け上がるように踏み、顔の前で外套を大きく翻した。


 黒と白の布が視界を覆い、魔獣が苛立ったように首を振る。


 その拍子に長い角が柱へぶつかり、石材が大きく欠けた。


 ブラックローズは角へワイヤーを巻きつけ、反対側へ飛ぶ。魔獣の首が引かれ、意識が完全に彼女へ向いた。


「右前肢の接地を確認」


 こよみが床すれすれまで姿勢を下げ、一気に駆け込んだ。


 前肢が持ち上がるより早く、拘束装置の杭を石床へ撃ち込む。金属の杭が床を貫き、展開した複数のファイバーが魔獣の手首と肘へ巻きついた。


 巻き取り機構が作動する。


 巨体が動くたびにワイヤーが軋み、床へ打ち込まれた杭の周囲へ亀裂が広がった。


 一本だけでは足りない。


 こよみは二本目の杭を撃ち込み、さらに別方向から前肢を固定する。


「拘束出力、上限まで上昇」


 魔獣が腕を引いた。


 一本目の杭が数センチほど浮き上がる。


 こよみは両手でワイヤーを掴み、自らの身体を支点として引き戻した。黒い革靴が石床を削り、小柄な身体が少しずつ引きずられていく。


「――今です!」


「長時間の維持は困難です」


「十分です」


 ブラックローズが魔獣の正面で身を翻し、もう一方の前肢から放たれた爪をかわす。爪先が外套を掠め、白い布の端が裂けて宙へ舞った。


 それでも、ブラックローズは退かない。


 再びワイヤーを放ち、魔獣の首を反対方向へ引く。


「恋、今です!」


 呼ばれた瞬間、恋は走り出した。


 足が震えていた。


 身体の奥では、今すぐ逃げろと何かが叫び続けている。


 怖い。


 近づきたくない。


 あの爪も、尾も、咆哮も、すべてが怖い。


 それでも、目の前の怪物は獅堂紗雪だ。


 満月の夜が来るたびに、自分ではない何かへ変わってしまうことを恐れていた少女だ。


 ここで手を伸ばせなければ、何のためにここまで来たのか分からない。


「獅堂先輩!」


 恋は叫びながら、魔獣の懐へ飛び込んだ。


 胸元から噴き出す黒い霧が、手袋やケープへまとわりつく。肌へ直接触れていないはずなのに、冷たい指で心臓を掴まれたような感覚が走った。


 魔獣が恋へ気づく。


 濁った瞳が下を向き、拘束されていない左前肢が持ち上がった。


「させません」


 ブラックローズが複数のワイヤーを同時に射出した。


 腕、首、角へ絡んだ線が一斉に張り詰める。それでも力の差は埋まらず、魔獣の爪は少しずつ恋へ近づいてきた。


 こよみも右前肢の拘束を維持したまま片足を振り上げ、魔獣の胸部へ蹴りを叩き込む。


 巨体がわずかに後ろへ傾いた。


 その瞬間、恋は両手で宝珠を押し当てた。


 黒い霧が最も濃く渦巻く、胸部の中心へ。


 白銀の光が爆ぜた。


「――――ッ!」


大広間を満たしたのは、獣の咆哮と、人間の悲鳴が重なったような声だった。


 宝珠から溢れた光が、魔獣の胸元を中心に全身へ広がっていく。鱗の隙間へ入り込み、黒い霧を内側から引き剥がしていった。


 剥がされた霧は宙へ逃れようとするが、白銀の光へ触れた途端、焼けた紙のように縮れ、細かな灰となって散っていく。


 魔獣が激しく暴れた。


 拘束された右前肢が床を引っ掻き、石板を何枚も剥がす。左前肢がブラックローズのワイヤーを振り払い、巨大な尾が大広間を横薙ぎにした。


「尾部の攻撃を確認」


 こよみが恋の前へ踏み込み、拘束装置の本体を盾のように構えた。


 棘の尾が金属板へ激突する。


 耳を塞ぎたくなるような音が響き、こよみの身体が数メートル後ろへ押し流された。それでも装置を手放さず、恋へ直撃する軌道だけは外している。


「恋、離脱してください!」


 ブラックローズが叫ぶ。


「でも、まだ宝珠が!」


「接触時間は十分です」


ブラックローズのワイヤーが恋の腰へ巻きついた。


 次の瞬間、強い力で後方へ引かれる。


 恋は宝珠から手を離し、仰向けに倒れそうになったところをブラックローズの腕に抱き止められた。


 二人が離脱した直後、魔獣の前肢が宝珠の置かれた床へ叩きつけられる。


 轟音とともに石床が陥没した。


 だが、宝珠は砕けなかった。


 白銀の光はなおも消えず、魔獣の身体から引き出された黒い霧を焼き続けている。


「呪いの出力低下を確認」


 こよみが拘束装置を引きながら告げる。


「身体構造の縮小が始まります」


 魔獣の巨体が大きく震えた。


 表皮を覆っていた鱗が、端から黒い塵となって崩れていく。剣山のような棘を生やしていた尾は輪郭を失い、急速に縮み始めた。


 盛り上がっていた背骨が沈み、長く伸びた前肢が、人の腕へ近い形に戻っていく。


 骨格が変わるたび、低い唸り声が大広間へ響いた。


 やがて巨体を支えきれなくなり、魔獣は前へ崩れ落ちる。


 着地の衝撃で最後の埃が舞い上がり、白銀の光と黒い霧が混じり合って視界を覆った。


 恋はブラックローズの腕から離れ、息を止めたまま煙の向こうを見つめる。


 数十秒ほどして、霧が薄れた。


 大広間の中央に横たわっていたのは、もう先ほどまでいた怪物ではなかった。


 獅堂紗雪だった。


 意識はなく、長い髪が床へ広がっている。怪盗衣装は変身の際にほとんど裂けていたが、身体そのものに大きな傷は見当たらなかった。


 胸が、ゆっくりと上下している。


「獅堂先輩……!」


 恋はすぐに駆け寄り、自分のケープを外して紗雪の身体へかけた。


 こよみも装備を床へ置き、紗雪の傍らへ膝をつく。手首に指を当て、続いて首筋と胸元へ触れた。


「生命反応は安定しています。重篤な外傷も確認できません」


「意識は?」


「現在は消失していますが、緊急性は低いと判断します」


「よ、よかった……」


 恋は紗雪の横に座り込みかけ、辛うじて膝を支えた。


 全身から力が抜けていく。


 呪いが完全に解けたのかどうかは、まだ分からない。宝珠の効果が一時的なものなのか、それとも根本から呪いを除いたのかも確認できていない。


 それでも、紗雪は人の姿へ戻った。


 呼吸もしている。


 誰も死ななかった。


 恋は大きく息を吐き、すぐ隣にいたブラックローズへ顔を向けた。


「藍さん、獅堂先輩は――」


 そこで言葉が止まった。


「……え?」


 ブラックローズの両手首には、すでに金属製の手錠がかけられていた。


 こよみがいつの間にか背後へ回り、ブラックローズの両腕を後ろへ固定している。ブラックローズは抵抗しておらず、仮面をつけたまま静かに立っていた。


「こよみ」


「はい」


「これは何ですか」


「手錠です」


「それは分かります」


「安全が確保されましたので、侵入者の制圧任務を再開しました」


 恋は目を見開いた。


「今!?」


「はい」


「今ですか!?」


「暴走した大型異常存在の鎮圧が完了しました。したがって、優先順位を通常任務へ戻します」


「通常任務って何ですか!」


「侵入者の制圧です」


 こよみはブラックローズの手錠が正しく締まっていることを確認した。


「最重要侵入者、ブラックローズの拘束を完了しました」


「私を捕獲するより、紗雪さんを先に治療室へ運ぶべきではありませんか」


「その処置も行います」


「順番がおかしいです」


「逃走防止を先に行う必要があります」


「私は逃げません」


「先ほど逃走しました」


「任務上、必要な行動でした」


「それでは、私も任務上必要な拘束を行っています」


「そうですか」


 会話は成立している。


 それなのに、何一つ解決していない。


 恋は頭を抱えそうになったが、腕を上げる気力すら残っていなかった。


「こよみさん、獅堂先輩は……」


「医療班を要請し、治療室へ搬送します。容態が安定した後、改めて身柄を確保します」


「改めて確保……」


「はい。怪盗プリンセスも侵入者です」


「そこも忘れてないんですね……」


「忘れません」


 当然のような返答だった。


 ロケットランチャーを担いで救援に現れた。


 紗雪を助けるために共闘した。


 あれほどの魔獣を三人でどうにか人の姿へ戻した。


 それでも危機が去った瞬間、こよみは何事もなかったように警備協力員へ戻っている。


 徹底している。


 あまりにも徹底しすぎていた。


 ブラックローズは手錠をかけられたまま、変わらない口調で説明を始める。


「こよみ。今回の目的物は、一時的な調査を行うために必要でした。強奪の意図はありません」


「現時点では詭弁と判断します」


「宝珠は現場に残っています」


「不法侵入、警備員への攻撃、警備システムへの干渉、展示物への無断接触、臨時警備協力員に対する拘束行為が確認されています」


「施設破損の大半は、あなたによるものです」


「私は警備任務中でした」


「そうですか」


 恋は、もう笑う元気もなかった。


 足は震えている。腕も痛い。つい先ほど、棘の尾に串刺しにされかけ、さらに巨大な魔獣へ宝珠を押し当てたばかりだ。


 どうにか全員で危機を乗り越えた。


 その直後に、手錠である。


 抵抗する気力など、どこにも残っていなかった。


 こよみが恋の方を向く。


「ホワイトローズ」


「……はい」


「あなたも侵入者です」


「はい……」


「両手を前へ出してください」


「はい……」


 恋は大人しく両手を差し出した。


 かちり、と金属音が鳴り、冷たい手錠が両手首へ巻かれる。


 その感触が妙に現実的で、恋は力のない笑いを漏らした。


「……私たち、本当に捕まったんですね」


「はい」


 こよみは真顔で頷いた。


「これは不法侵入事案です。本来であれば、現地当局に突き出されて当然の事案になります」


「正論がつらい……」


 隣では、ブラックローズが拘束されたまま恋を見ている。


「恋、怪我はありませんか」


「ありません。精神の方は、だいぶ駄目です」


「そうですか」


「藍さんは?」


「ブラックローズです」


「手錠をかけられてる時まで、それ言うんですか」


「はい」


「元気そうで何よりです……」


 こよみは通信機を取り出し、警備統括室へ接続した。


「医療班へ連絡します。対象一名、意識消失。大型変異状態からの復帰直後です。治療室と担架を準備してください」


 少し間を置き、通信機から戸惑った声で了承が返ってくる。


 こよみは通信を終えても警戒を解かず、大広間の周囲へ視線を巡らせた。


 抉れた床、砕けた柱。


 崩れた保管庫の入口。


 壁際へ転がる瓦礫。


 恋もその惨状を眺め、ぽつりと呟いた。


「……これ、隠蔽できるんですかね」


「スコット氏が対応します」


「スコットさんに全部背負わせる気だ……」


「彼はAI-TechのCEOですから」


「CEOって、本当に大変なんですね……」


 しばらくして、複数の警備員と医療スタッフが大広間へ駆け込んできた。


 彼らは入口を抜けたところで、一斉に足を止めた。


 無理もなかった。


 地下洋館の大広間は、もはや博覧会の収蔵区画には見えない。巨大生物が暴れた後のように床と壁が破壊され、中央では白い髪の少女がロケットランチャーの傍らに立っている。


 その足元には、ケープをかけられた金髪の令嬢が倒れている。さらに、その隣では怪盗衣装を着た二人が手錠をかけられていた。


 事情を知らない者へ説明できる光景ではなかった。


「……こよみさん」


「はい」


「これ、何て説明するんですか?」


「警備訓練中に発生した想定外事象です」


「無理があります」


「詳細は非公開とします」


「それはそうでしょうね……」


 医療スタッフは何度も周囲を見回しながら、それでも仕事を思い出したように紗雪のもとへ駆け寄った。


 こよみから容態を聞き、身体を覆ったケープがずれないよう注意しながら担架へ移していく。


「先ほど説明した通り、獅堂紗雪さんは治療室へ搬送します」


 こよみはその作業を見守りながら続ける。


「容態が安定した後、改めて身柄を確保します」


「本当に確保するんですね」


「はい」


「獅堂先輩、目を覚ましたら絶対に怒りますよ」


「想定しています」


 ブラックローズが静かに口を挟んだ。


「こよみ。スコット氏には、私から事情を説明します」


「あなたはブラックローズです」


「では、榊原藍から説明があります」


「現在、榊原藍様はこの場にいません」


 ブラックローズは少しだけ間を置いた。


「……この理屈、そろそろ不便ですね」


「はい」


「認めるんだ……」


 恋が力なく呟く。


 こよみは担架が運び出されるのを見届けると、拘束した二人へ向き直った。


「移動します。最初に警備統括室で事情確認を行います」


「手錠は外してもらえませんか」


「逃走防止のため、外せません」


「逃げません」


「その保証はありません」


「反論できませんね」


「はい」


 ブラックローズは大人しく歩き出した。


 恋も、その隣で手錠をかけられたまま足を進める。


 足取りは重かった。


 それでも、胸の奥には少しだけ安堵が残っていた。


 紗雪は無事だった。


 宝珠も確かに呪いへ反応した。


 完全に解けたかどうかは分からないが、少なくとも誰も死なずに済んだ。


 自分たちは捕まったものの、拘束したのはこよみで、ここはAI-Techの施設だ。スコットも事情をある程度は知っている。


 たぶん、どうにかなる。


 どうにかなってもらわなければ困る。


 そう考えなければ、今度こそ正気を保てそうになかった。


「藍さん」


「ブラックローズです」


「じゃあ、ブラックローズさん」


「はい」


「これ、帰国したら本当に全部なかったことになるんですか?」


「可能な範囲で調整します」


「その『可能な範囲で』って言葉、今日だけで何度も私の心を削ってます」


「すみません」


 前を歩くこよみが、振り返らずに口を挟む。


「記録上、今回の事案を完全に削除することはできません」


「でしょうね……」


「ただし、一般に閲覧可能な記録から除外される可能性は高いです」


「それだけでもありがたいです」


「なお、私の内部記録には保存されますが」


「消してください」


「必要な記録です」


「必要じゃないです……」


 三人は、破壊の跡が残る地下洋館の廊下を進んでいった。


 先頭を歩くのは、白い髪の警備協力員。その後ろを、黒薔薇の怪盗と白薔薇の助手が、手錠をかけられたまま続いている。


 遠くでは、医療スタッフが紗雪を治療室へ運んでいた。


 解呪の宝珠も、別の警備員たちの手によって慎重に回収され、再び保管庫へ戻されていく。


 夜は、まだ終わっていない。


 それでも、少なくとも最悪の局面は越えた。


 恋がそう思った直後、先頭を歩いていたこよみが足を止めた。


「ホワイトローズ」


「はい」


「拘束中の歩行姿勢が不安定です。転倒を避けるため、歩幅を小さくしてください」


「……はい」


「また、スカートの裾を気にしすぎると、足元への注意が散漫になります」


「今それ言います!?」


「安全上、重要です」


「手錠をかけられてる時に、衣装の心配までさせないでください!」


 ブラックローズが隣から静かに補足する。


「現在、見えてはいません」


「慰めるタイミングが最悪です!」


 恋の悲鳴が、古びた地下洋館の廊下へ響いた。


 その夜、ホワイトローズは一つだけ学んだ。


 怪盗の物語というものは、宝を手に入れた瞬間ではなく、捕まったところでようやく終わりを迎えるらしい。

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