第61話
雪代こよみのロケットランチャーが、再び火を噴いた。
白煙を引いた弾頭が大広間を横切り、龍に似た魔獣の肩口へ直撃する。炸裂と同時に凄まじい衝撃が広がり、爆音が地下洋館の石壁を揺さぶった。天井から細かな砂埃が降り注ぎ、辛うじて残っていた窓硝子が一斉に震える。
かつて獅堂紗雪だった巨大な獣は、床へ爪を食い込ませながらも、その巨体を大きくよろめかせた。肩を覆う硬質な鱗には焦げた跡が広がっているが、砕けても血は流れていない。弾頭は貫通力を抑え、衝撃だけを内部へ伝える制圧用のものらしい。
「右肩部への損傷を確認。対象の運動能力、推定二十六パーセント低下」
発射時の反動を受け止めたこよみは、煙の向こうにいる魔獣から目を離さず、淡々と告げた。
「追加制圧を行います」
「こよみさん、それ、本当に非殺傷なんですよね!?」
柱の陰へ身を隠していたホワイトローズ――桜川恋は、耳鳴りの残る頭を押さえながら叫んだ。
「はい。急所へ直撃しなければ、死亡する可能性は低いです」
「その補足が怖いんです!」
「必要な情報です」
「聞かない方が安心できる情報もあります!」
恋の隣では、ブラックローズがワイヤー射出装置を構えていた。仮面の奥の赤い瞳が、魔獣の四肢と尾、床に転がった解呪の宝珠、さらにこよみの射線まで絶えず追っている。
魔獣は右前肢を庇うように重心を傾けていた。それでも動きを止める気配はない。床を抉った爪の間から黒い霧が噴き出し、傷ついた鱗の表面を覆っていく。
「こよみ」
「はい」
「紗雪さんは、座標を直接変更するものに近い攻撃を使用します。先ほど恋が大広間の上空へ移動させられました」
「記録しています」
「発動前には呪文に似た発声がありました。短い準備動作を必要とする可能性がありますが、現時点では回避方法を確定できません」
「了解しました。座標変更後の状況に応じ、空中で回避行動を行います」
「了解できるんですね!?」
恋が思わず声を上げた、その時だった。
魔獣の喉が膨らみ、低い音が漏れ始める。
咆哮とは違う。石を擦り合わせるような音に、言葉のような抑揚が混じっている。
「発動予兆を確認」
こよみがロケットランチャーをわずかに下げた。
次の瞬間、その姿が掻き消える。
「こよみさん!」
恋が叫びながら見上げると、こよみは大広間の天井近くへ移動させられていた。
移動の途中はなかった。床に立っていた姿が消えたと思った次の瞬間には、十数メートル上空で身体を横向きに投げ出されている。
重力がこよみの身体を引き落とす。
同時に、魔獣の巨大な尾が床を薙いだ。
絨毯と石床がまとめて引き裂かれ、無数の棘を生やした尾が、落下してくるこよみへ向かって跳ね上がる。まるで地面から突き出された巨大な槍だった。
「座標変更を記録。落下姿勢を修正します」
こよみは空中で膝を引き寄せ、ロケットランチャーを胸元へ抱え込んだ。身体を捻り、迫る尾へ足の裏を向ける。
棘の隙間へ黒い革靴の踵が触れた。
ほんの一瞬だけ、こよみは尾の側面を足場にした。
そのまま膝を伸ばし、突き上げる力を横方向へ逃がす。小柄な身体が棘の先を掠めて回転し、近くの柱へ向かって飛んだ。
だが、着地点には何もない。
こよみは腰の装備から細いワイヤーを射出した。鉤爪が壁の装飾へ食い込み、張り詰めた線が落下軌道を強引に変える。
身体は柱の側面へ叩きつけられそうになったものの、こよみは片足をついて衝撃を吸収し、そのまま壁を蹴って床へ降りた。
着地と同時にロケットランチャーを構え直す。
「回避を完了しました」
「何でそんなに平然とできるんですか!?」
「想定した現象が発生しただけです」
「私の時は死ぬかと思ったんですけど!」
「桜川さんには、空中で姿勢を制御する機能がありませんので」
「知ってます!」
魔獣がこよみへ顔を向けた。
座標変更をかわされたことが気に入らなかったのか、喉の奥から黒い霧を吐き出しながら威嚇する。
こよみは注意を引きつけるように、あえて柱の陰から身体を晒した。
その隙に、ブラックローズが床に落ちた宝珠へ目を向ける。
「恋」
「はい!」
「こよみが注意を引きつけている間に、宝珠を回収できますか」
「拾うんですか!? 私が!?」
「はい。私が動けば、紗雪さんは高い確率でこちらを警戒します。現在、最も接近できる可能性が高いのは恋です」
「一番弱いから警戒されてないだけですよね、それ!」
「結果としては、そうなります」
「否定してください!」
魔獣が咆哮した。
音圧だけで空気が震え、恋の胸の奥まで重く揺さぶられる。柱に手をついていなければ、膝から崩れていたかもしれない。
先ほどのように天井へ放り出されるかもしれない。
あの尾に貫かれるかもしれない。
宝珠へ手が届く前に、前肢で潰される可能性だってある。
それでも、迷っている間にも黒い霧は紗雪の身体を覆い続けている。
恋は乾いた喉を鳴らした。
「……修学旅行だと思って来たのに」
「まだその認識を維持していたのですか」
「そう思わないと正気を保てなかったんです!」
「では、現在は非常事態対応研修だと考えてください」
「もっと嫌な言い換えになってます!」
抗議しながらも、恋は柱の陰から飛び出した。
低く身を屈め、保管庫の入口へ向かって走る。
白銀の宝珠は、崩れたガラスケースの近くに転がっていた。距離にすれば十数メートル。それだけのはずなのに、魔獣の巨体を前にすると、ひどく遠く感じる。
恋の足音に反応し、魔獣の首が動いた。
「見つかった……!」
黄色く濁った瞳が、一直線に恋を捉える。
巨大な尾が床を擦り、棘の先端がこちらへ向けられた。
「そのまま走ってください」
ブラックローズがワイヤーを放つ。
黒い線が尾の付け根へ巻きつき、即座に巻き取りが始まった。ブラックローズが両足を踏ん張り、全身で引く。
だが、巨体に対してワイヤー一本ではあまりにも細い。
尾の動きを止めることはできない。
それでも軌道を数十センチずらすには十分だった。
棘の尾が恋の横を通過し、突風がケープを捲り上げる。床へ叩きつけられた尾が石板を粉砕し、砕けた欠片が足元へ飛んだ。
「ひっ……!」
恋は立ち止まりそうになったが、歯を食いしばって前へ進んだ。
直後、こよみのロケットランチャーが三度目の火を噴く。
弾頭は魔獣の右後肢へ着弾し、激しい衝撃と白煙を巻き起こした。脚の関節がわずかに崩れ、巨体が片側へ沈む。
「重心の移動を確認。右側面の安定性が低下しています」
「今です、恋!」
ブラックローズの声に背中を押され、恋は最後の数歩を駆け抜けた。
床へ膝をつき、両手で宝珠を掴む。
手袋越しに、奇妙な感触が伝わった。
冷たい。
そう感じた直後には、内側から熱を帯びているようにも思える。体温とは違う何かが掌から腕へ流れ込み、心臓の鼓動に合わせて淡い光が明滅した。
「取れました!」
「戻ってください!」
恋は宝珠を胸元へ抱え、ブラックローズのいる柱へ向かって振り返った。
その瞬間、魔獣の喉が再び低く震えた。
先ほどと同じ音。
「また……!」
足元の感覚が消える。
次の瞬間、恋の身体は大広間の中空へ投げ出されていた。
だが、今度は完全な無防備ではなかった。
右足首へ、強い力がかかる。
「きゃっ!」
見下ろすと、細い黒色のワイヤーが足首へ巻きついていた。
恋が宝珠へ向かって走り出した時点で、ブラックローズが取りつけていたものだ。
「想定済みです」
ブラックローズが射出装置を引き寄せる。
恋の身体が落下へ移る前に、ワイヤーが一気に巻き取られた。足から引かれたことで、身体が空中で大きく振られる。
「想定済みでも、足首から引っ張られるのは怖いです!」
「我慢してください」
「はい!」
ブラックローズは柱を蹴り、振り子のように近づいてきた恋へ飛びついた。
片腕で腰を抱え、もう片方の手で宝珠を落とさないよう支える。そのまま二人分の勢いを殺しながら床へ降りた。
恋の靴が絨毯へ触れる。
足元が戻ったことを確かめた瞬間、膝から力が抜けそうになった。
だが、休む暇はない。
魔獣は二人を追おうと、傷ついた後肢を引きずりながら身体を起こしている。
その正面へ、こよみが立った。
「接近制圧へ移行します」
こよみは使用済みのロケットランチャーを床へ置き、背部へ装着していた金属筒を取り外した。
折り畳まれていた装置が展開し、先端から鋭い杭と複数のワイヤーが現れる。
「こよみさん、まだ何か持ってるんですか!?」
「必要となる可能性がありました」
「それ、警備員の装備じゃないですよね!」
「大型対象用の緊急拘束装備です」
「そんなものがある施設も嫌です!」
ブラックローズは魔獣の正面へ回り込み、こよみは傷ついた右側面へ位置を変える。
恋は宝珠を抱え、二人の動きを目で追った。
「恋」
「はい!」
「私が頭部を引きつけます。こよみが右前肢を拘束します」
「その後は?」
「合図を出したら、宝珠を紗雪さんの胸部へ押し当ててください。黒い霧が最も濃く集まっている場所です」
恋は魔獣の胸元を見た。
鱗の隙間で、黒い霧が渦を巻いている。まるで心臓の代わりに呪いそのものが脈打っているようだった。
「押し当てるって……あれに近づくんですか?」
「はい」
「死にません?」
「可能な限り防ぎます」
「可能な限り……!」
答えだけを聞けば、不安はまるで減らない。
ブラックローズは一瞬だけ魔獣から視線を外し、恋を見た。
「私があなたを守ります」
短い言葉だった。
その声だけは、仮面をつけた怪盗ではなく、恋の知っている榊原藍のものに聞こえた。
恋は宝珠を抱える指に力を込める。
「……分かりました」
魔獣が吼えた。
ブラックローズが駆け出す。
真正面から接近し、振り下ろされた前肢を横へ跳んでかわす。爪が床を砕いた瞬間、ブラックローズは魔獣の腕を駆け上がるように踏み、顔の前で外套を大きく翻した。
黒と白の布が視界を覆い、魔獣が苛立ったように首を振る。
その拍子に長い角が柱へぶつかり、石材が大きく欠けた。
ブラックローズは角へワイヤーを巻きつけ、反対側へ飛ぶ。魔獣の首が引かれ、意識が完全に彼女へ向いた。
「右前肢の接地を確認」
こよみが床すれすれまで姿勢を下げ、一気に駆け込んだ。
前肢が持ち上がるより早く、拘束装置の杭を石床へ撃ち込む。金属の杭が床を貫き、展開した複数のファイバーが魔獣の手首と肘へ巻きついた。
巻き取り機構が作動する。
巨体が動くたびにワイヤーが軋み、床へ打ち込まれた杭の周囲へ亀裂が広がった。
一本だけでは足りない。
こよみは二本目の杭を撃ち込み、さらに別方向から前肢を固定する。
「拘束出力、上限まで上昇」
魔獣が腕を引いた。
一本目の杭が数センチほど浮き上がる。
こよみは両手でワイヤーを掴み、自らの身体を支点として引き戻した。黒い革靴が石床を削り、小柄な身体が少しずつ引きずられていく。
「――今です!」
「長時間の維持は困難です」
「十分です」
ブラックローズが魔獣の正面で身を翻し、もう一方の前肢から放たれた爪をかわす。爪先が外套を掠め、白い布の端が裂けて宙へ舞った。
それでも、ブラックローズは退かない。
再びワイヤーを放ち、魔獣の首を反対方向へ引く。
「恋、今です!」
呼ばれた瞬間、恋は走り出した。
足が震えていた。
身体の奥では、今すぐ逃げろと何かが叫び続けている。
怖い。
近づきたくない。
あの爪も、尾も、咆哮も、すべてが怖い。
それでも、目の前の怪物は獅堂紗雪だ。
満月の夜が来るたびに、自分ではない何かへ変わってしまうことを恐れていた少女だ。
ここで手を伸ばせなければ、何のためにここまで来たのか分からない。
「獅堂先輩!」
恋は叫びながら、魔獣の懐へ飛び込んだ。
胸元から噴き出す黒い霧が、手袋やケープへまとわりつく。肌へ直接触れていないはずなのに、冷たい指で心臓を掴まれたような感覚が走った。
魔獣が恋へ気づく。
濁った瞳が下を向き、拘束されていない左前肢が持ち上がった。
「させません」
ブラックローズが複数のワイヤーを同時に射出した。
腕、首、角へ絡んだ線が一斉に張り詰める。それでも力の差は埋まらず、魔獣の爪は少しずつ恋へ近づいてきた。
こよみも右前肢の拘束を維持したまま片足を振り上げ、魔獣の胸部へ蹴りを叩き込む。
巨体がわずかに後ろへ傾いた。
その瞬間、恋は両手で宝珠を押し当てた。
黒い霧が最も濃く渦巻く、胸部の中心へ。
白銀の光が爆ぜた。
「――――ッ!」
大広間を満たしたのは、獣の咆哮と、人間の悲鳴が重なったような声だった。
宝珠から溢れた光が、魔獣の胸元を中心に全身へ広がっていく。鱗の隙間へ入り込み、黒い霧を内側から引き剥がしていった。
剥がされた霧は宙へ逃れようとするが、白銀の光へ触れた途端、焼けた紙のように縮れ、細かな灰となって散っていく。
魔獣が激しく暴れた。
拘束された右前肢が床を引っ掻き、石板を何枚も剥がす。左前肢がブラックローズのワイヤーを振り払い、巨大な尾が大広間を横薙ぎにした。
「尾部の攻撃を確認」
こよみが恋の前へ踏み込み、拘束装置の本体を盾のように構えた。
棘の尾が金属板へ激突する。
耳を塞ぎたくなるような音が響き、こよみの身体が数メートル後ろへ押し流された。それでも装置を手放さず、恋へ直撃する軌道だけは外している。
「恋、離脱してください!」
ブラックローズが叫ぶ。
「でも、まだ宝珠が!」
「接触時間は十分です」
ブラックローズのワイヤーが恋の腰へ巻きついた。
次の瞬間、強い力で後方へ引かれる。
恋は宝珠から手を離し、仰向けに倒れそうになったところをブラックローズの腕に抱き止められた。
二人が離脱した直後、魔獣の前肢が宝珠の置かれた床へ叩きつけられる。
轟音とともに石床が陥没した。
だが、宝珠は砕けなかった。
白銀の光はなおも消えず、魔獣の身体から引き出された黒い霧を焼き続けている。
「呪いの出力低下を確認」
こよみが拘束装置を引きながら告げる。
「身体構造の縮小が始まります」
魔獣の巨体が大きく震えた。
表皮を覆っていた鱗が、端から黒い塵となって崩れていく。剣山のような棘を生やしていた尾は輪郭を失い、急速に縮み始めた。
盛り上がっていた背骨が沈み、長く伸びた前肢が、人の腕へ近い形に戻っていく。
骨格が変わるたび、低い唸り声が大広間へ響いた。
やがて巨体を支えきれなくなり、魔獣は前へ崩れ落ちる。
着地の衝撃で最後の埃が舞い上がり、白銀の光と黒い霧が混じり合って視界を覆った。
恋はブラックローズの腕から離れ、息を止めたまま煙の向こうを見つめる。
数十秒ほどして、霧が薄れた。
大広間の中央に横たわっていたのは、もう先ほどまでいた怪物ではなかった。
獅堂紗雪だった。
意識はなく、長い髪が床へ広がっている。怪盗衣装は変身の際にほとんど裂けていたが、身体そのものに大きな傷は見当たらなかった。
胸が、ゆっくりと上下している。
「獅堂先輩……!」
恋はすぐに駆け寄り、自分のケープを外して紗雪の身体へかけた。
こよみも装備を床へ置き、紗雪の傍らへ膝をつく。手首に指を当て、続いて首筋と胸元へ触れた。
「生命反応は安定しています。重篤な外傷も確認できません」
「意識は?」
「現在は消失していますが、緊急性は低いと判断します」
「よ、よかった……」
恋は紗雪の横に座り込みかけ、辛うじて膝を支えた。
全身から力が抜けていく。
呪いが完全に解けたのかどうかは、まだ分からない。宝珠の効果が一時的なものなのか、それとも根本から呪いを除いたのかも確認できていない。
それでも、紗雪は人の姿へ戻った。
呼吸もしている。
誰も死ななかった。
恋は大きく息を吐き、すぐ隣にいたブラックローズへ顔を向けた。
「藍さん、獅堂先輩は――」
そこで言葉が止まった。
「……え?」
ブラックローズの両手首には、すでに金属製の手錠がかけられていた。
こよみがいつの間にか背後へ回り、ブラックローズの両腕を後ろへ固定している。ブラックローズは抵抗しておらず、仮面をつけたまま静かに立っていた。
「こよみ」
「はい」
「これは何ですか」
「手錠です」
「それは分かります」
「安全が確保されましたので、侵入者の制圧任務を再開しました」
恋は目を見開いた。
「今!?」
「はい」
「今ですか!?」
「暴走した大型異常存在の鎮圧が完了しました。したがって、優先順位を通常任務へ戻します」
「通常任務って何ですか!」
「侵入者の制圧です」
こよみはブラックローズの手錠が正しく締まっていることを確認した。
「最重要侵入者、ブラックローズの拘束を完了しました」
「私を捕獲するより、紗雪さんを先に治療室へ運ぶべきではありませんか」
「その処置も行います」
「順番がおかしいです」
「逃走防止を先に行う必要があります」
「私は逃げません」
「先ほど逃走しました」
「任務上、必要な行動でした」
「それでは、私も任務上必要な拘束を行っています」
「そうですか」
会話は成立している。
それなのに、何一つ解決していない。
恋は頭を抱えそうになったが、腕を上げる気力すら残っていなかった。
「こよみさん、獅堂先輩は……」
「医療班を要請し、治療室へ搬送します。容態が安定した後、改めて身柄を確保します」
「改めて確保……」
「はい。怪盗プリンセスも侵入者です」
「そこも忘れてないんですね……」
「忘れません」
当然のような返答だった。
ロケットランチャーを担いで救援に現れた。
紗雪を助けるために共闘した。
あれほどの魔獣を三人でどうにか人の姿へ戻した。
それでも危機が去った瞬間、こよみは何事もなかったように警備協力員へ戻っている。
徹底している。
あまりにも徹底しすぎていた。
ブラックローズは手錠をかけられたまま、変わらない口調で説明を始める。
「こよみ。今回の目的物は、一時的な調査を行うために必要でした。強奪の意図はありません」
「現時点では詭弁と判断します」
「宝珠は現場に残っています」
「不法侵入、警備員への攻撃、警備システムへの干渉、展示物への無断接触、臨時警備協力員に対する拘束行為が確認されています」
「施設破損の大半は、あなたによるものです」
「私は警備任務中でした」
「そうですか」
恋は、もう笑う元気もなかった。
足は震えている。腕も痛い。つい先ほど、棘の尾に串刺しにされかけ、さらに巨大な魔獣へ宝珠を押し当てたばかりだ。
どうにか全員で危機を乗り越えた。
その直後に、手錠である。
抵抗する気力など、どこにも残っていなかった。
こよみが恋の方を向く。
「ホワイトローズ」
「……はい」
「あなたも侵入者です」
「はい……」
「両手を前へ出してください」
「はい……」
恋は大人しく両手を差し出した。
かちり、と金属音が鳴り、冷たい手錠が両手首へ巻かれる。
その感触が妙に現実的で、恋は力のない笑いを漏らした。
「……私たち、本当に捕まったんですね」
「はい」
こよみは真顔で頷いた。
「これは不法侵入事案です。本来であれば、現地当局に突き出されて当然の事案になります」
「正論がつらい……」
隣では、ブラックローズが拘束されたまま恋を見ている。
「恋、怪我はありませんか」
「ありません。精神の方は、だいぶ駄目です」
「そうですか」
「藍さんは?」
「ブラックローズです」
「手錠をかけられてる時まで、それ言うんですか」
「はい」
「元気そうで何よりです……」
こよみは通信機を取り出し、警備統括室へ接続した。
「医療班へ連絡します。対象一名、意識消失。大型変異状態からの復帰直後です。治療室と担架を準備してください」
少し間を置き、通信機から戸惑った声で了承が返ってくる。
こよみは通信を終えても警戒を解かず、大広間の周囲へ視線を巡らせた。
抉れた床、砕けた柱。
崩れた保管庫の入口。
壁際へ転がる瓦礫。
恋もその惨状を眺め、ぽつりと呟いた。
「……これ、隠蔽できるんですかね」
「スコット氏が対応します」
「スコットさんに全部背負わせる気だ……」
「彼はAI-TechのCEOですから」
「CEOって、本当に大変なんですね……」
しばらくして、複数の警備員と医療スタッフが大広間へ駆け込んできた。
彼らは入口を抜けたところで、一斉に足を止めた。
無理もなかった。
地下洋館の大広間は、もはや博覧会の収蔵区画には見えない。巨大生物が暴れた後のように床と壁が破壊され、中央では白い髪の少女がロケットランチャーの傍らに立っている。
その足元には、ケープをかけられた金髪の令嬢が倒れている。さらに、その隣では怪盗衣装を着た二人が手錠をかけられていた。
事情を知らない者へ説明できる光景ではなかった。
「……こよみさん」
「はい」
「これ、何て説明するんですか?」
「警備訓練中に発生した想定外事象です」
「無理があります」
「詳細は非公開とします」
「それはそうでしょうね……」
医療スタッフは何度も周囲を見回しながら、それでも仕事を思い出したように紗雪のもとへ駆け寄った。
こよみから容態を聞き、身体を覆ったケープがずれないよう注意しながら担架へ移していく。
「先ほど説明した通り、獅堂紗雪さんは治療室へ搬送します」
こよみはその作業を見守りながら続ける。
「容態が安定した後、改めて身柄を確保します」
「本当に確保するんですね」
「はい」
「獅堂先輩、目を覚ましたら絶対に怒りますよ」
「想定しています」
ブラックローズが静かに口を挟んだ。
「こよみ。スコット氏には、私から事情を説明します」
「あなたはブラックローズです」
「では、榊原藍から説明があります」
「現在、榊原藍様はこの場にいません」
ブラックローズは少しだけ間を置いた。
「……この理屈、そろそろ不便ですね」
「はい」
「認めるんだ……」
恋が力なく呟く。
こよみは担架が運び出されるのを見届けると、拘束した二人へ向き直った。
「移動します。最初に警備統括室で事情確認を行います」
「手錠は外してもらえませんか」
「逃走防止のため、外せません」
「逃げません」
「その保証はありません」
「反論できませんね」
「はい」
ブラックローズは大人しく歩き出した。
恋も、その隣で手錠をかけられたまま足を進める。
足取りは重かった。
それでも、胸の奥には少しだけ安堵が残っていた。
紗雪は無事だった。
宝珠も確かに呪いへ反応した。
完全に解けたかどうかは分からないが、少なくとも誰も死なずに済んだ。
自分たちは捕まったものの、拘束したのはこよみで、ここはAI-Techの施設だ。スコットも事情をある程度は知っている。
たぶん、どうにかなる。
どうにかなってもらわなければ困る。
そう考えなければ、今度こそ正気を保てそうになかった。
「藍さん」
「ブラックローズです」
「じゃあ、ブラックローズさん」
「はい」
「これ、帰国したら本当に全部なかったことになるんですか?」
「可能な範囲で調整します」
「その『可能な範囲で』って言葉、今日だけで何度も私の心を削ってます」
「すみません」
前を歩くこよみが、振り返らずに口を挟む。
「記録上、今回の事案を完全に削除することはできません」
「でしょうね……」
「ただし、一般に閲覧可能な記録から除外される可能性は高いです」
「それだけでもありがたいです」
「なお、私の内部記録には保存されますが」
「消してください」
「必要な記録です」
「必要じゃないです……」
三人は、破壊の跡が残る地下洋館の廊下を進んでいった。
先頭を歩くのは、白い髪の警備協力員。その後ろを、黒薔薇の怪盗と白薔薇の助手が、手錠をかけられたまま続いている。
遠くでは、医療スタッフが紗雪を治療室へ運んでいた。
解呪の宝珠も、別の警備員たちの手によって慎重に回収され、再び保管庫へ戻されていく。
夜は、まだ終わっていない。
それでも、少なくとも最悪の局面は越えた。
恋がそう思った直後、先頭を歩いていたこよみが足を止めた。
「ホワイトローズ」
「はい」
「拘束中の歩行姿勢が不安定です。転倒を避けるため、歩幅を小さくしてください」
「……はい」
「また、スカートの裾を気にしすぎると、足元への注意が散漫になります」
「今それ言います!?」
「安全上、重要です」
「手錠をかけられてる時に、衣装の心配までさせないでください!」
ブラックローズが隣から静かに補足する。
「現在、見えてはいません」
「慰めるタイミングが最悪です!」
恋の悲鳴が、古びた地下洋館の廊下へ響いた。
その夜、ホワイトローズは一つだけ学んだ。
怪盗の物語というものは、宝を手に入れた瞬間ではなく、捕まったところでようやく終わりを迎えるらしい。




