第60話
保管庫の扉が、低い駆動音とともにゆっくりと開いた。
重い金属音が地下洋館の大広間へ響き、厚い扉の奥に隠されていた空間が姿を現す。
白い照明に照らされた室内には、温湿度管理装置や強化ガラスの展示ケース、床や天井へ埋め込まれたレーザーセンサーが整然と並んでいた。重厚な洋館の地下へ、そこだけ現代の保管設備を無理やり押し込んだような光景だった。
その中央に置かれた強化ガラスのケースの中で、目的の宝珠が淡い光を放っている。
白銀の輝きを帯びた球体は、石にも金属にも硝子にも見えない。月光だけを掬い取り、そのまま固めたような、不思議な質感を持っていた。
解呪の秘宝。
伝承どおりの力を持つのかどうかは、まだ誰にも分からない。
それでも獅堂紗雪は、宝珠を目にした瞬間、吸い込む息を止めた。
「……これですわ」
怪盗プリンセスの声が、かすかに震えていた。
「分かるんですか?」
隣に立つホワイトローズ――桜川恋が尋ねる。
紗雪は宝珠から目を離さないまま、ゆっくりと頷いた。
「分かる、というより……呼ばれているような気がしますの」
ブラックローズ――榊原藍は、保管庫の内部へ赤い瞳を巡らせた。壁面のセンサー、床下の重量感知装置、ケース周辺を走る警報回路を順に確認し、残り時間を告げる。
「警備システムは一時的に停止しています。解除状態を維持できるのは、残り二分十秒です」
「二分十秒……!」
「急いでください。ただし、宝珠へ触れた瞬間に何らかの反応が発生する可能性があります」
「ええ。承知していますわ」
紗雪は一歩ずつ、ケースの前へ進んだ。
普段の彼女なら、怪盗として華やかな口上の一つでも述べていただろう。
だが、今は違う。
宝珠の前に立っているのは、夜を舞う怪盗プリンセスではない。
満月のたびに自分を失い、目覚めた後に残された痕跡だけを見せられてきた獅堂紗雪だった。
呪いを解く方法を求めて、幾つもの伝承と秘宝を追い続けてきた少女だった。
「……どうか」
紗雪の唇から、小さな声が漏れる。
「どうか、本物であってくださいませ」
ブラックローズがケースのロックへ手をかざした。
短い解除音の後、透明な蓋が静かに持ち上がる。
紗雪は右手の手袋を外した。
「獅堂先輩」
恋が思わず呼びかける。
紗雪は振り返らなかった。ただ、緊張を押し隠すように、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「大丈夫ですわ。ここまで来たのですもの」
伸ばした指先が、宝珠へ触れる。
その瞬間、保管庫の空気が凍りついた。
「――っ!?」
紗雪の身体が大きく跳ねる。
怪盗衣装の中から獣の耳が突き出し、逆立つように硬直した。続いて現れた尾が床を激しく打ち、宝珠から放たれた白銀の光が、紗雪の腕を這い上がるように全身へ広がっていく。
「獅堂先輩!」
恋は反射的に駆け寄ろうとした。
「恋、離れてください!」
ブラックローズの声が飛ぶ。
だが、紗雪に近づくより早く、その身体から黒い霧のようなものが噴き上がった。
霧は保管庫の白い照明を呑み込みながら膨れ、紗雪の身体へ絡みついていく。影にも煙にも見えるそれは、宝珠の光に焼かれるたびに大きく波打ち、宿主から引き剝がされることを拒むように荒れ狂った。
「ぐ、う……っ、ああああああああああああッ!」
紗雪の悲鳴が、途中から人の声ではなくなった。
低く濁った咆哮が保管庫を揺らし、身体の輪郭が一気に崩れていく。
骨格が軋みながら伸び、細い肩が大きく盛り上がる。白い怪盗衣装が膨張に耐え切れず裂け、マントが留め具ごと弾け飛んだ。
両腕は床を抉るほど太い前肢へ変わり、指先から湾曲した爪が伸びる。背中には硬質な鱗のようなものが浮かび、肥大した尾には剣山を思わせる棘が並んだ。
異形の存在。
しかし、以前、獅堂家の地下隔離施設で見た姿とも違う。
四肢を持つ巨獣でありながら、長く伸びた首や鱗に覆われた背は、龍を思わせた。以前よりもさらに歪で、呪いが無理やり身体を膨張させたような不安定さをまとっている。
宝珠に触れたことで、紗雪の中に潜んでいたものが追い出されるのではなく、最後の抵抗を始めたのだ。
「拒絶反応……いえ、呪いそのものによる防衛反応と評するべきでしょうか」
ブラックローズの声は冷静だったが、いつもよりわずかに速かった。
「獅堂先輩は!?」
「意識反応を確認できません。現在は呪いが身体の主導権を握っています」
「そんな……!」
龍のような巨獣が、保管庫の天井すれすれまで身を起こした。
紗雪の手から離れた宝珠が床へ転がり、白銀の光を放ちながら怪物の足元で止まる。その小さな光が、巨大な影を下から薄く照らしていた。
怪物の首が動き、ゆっくりと恋へ向けられる。
全身の毛が逆立つような感覚に、恋の足が動かなくなった。
そこにある目は、紗雪のものではなかった。
普段の気高さも、怒った時に覗かせる幼さも、羞恥を隠すための強がりもない。ただ、宝珠に近づく存在を排除しようとする濁った敵意だけが、恋をまっすぐに捉えている。
「恋、下がってください」
ブラックローズが前へ出る。
だが、その瞬間、怪物の喉が震えた。
響いたのは、人の言葉でも、獣の咆哮でもなかった。複数の声を重ねたような、呪詛のような音が、保管庫の壁を震わせる。
その瞬間、恋の足元から感触が消えた。
「え?」
床がなくなった。
いや、床だけではない。壁も、天井も、目の前にいたはずの怪物も、一瞬ですべてが消え去った。
次に視界へ飛び込んできたのは、遥か下に広がる大広間だった。
「――っ!?」
恋は、大広間の天井近くへ放り出されていた。
身体を持ち上げられた感覚も、移動した時間もない。ただ立っていた場所だけが、突然空中へ置き換わっている。
一拍遅れて、重力が身体を掴んだ。
「きゃあああああっ!」
落下が始まる。
ケープとスカートが激しくばたつき、手を伸ばしても掴めるものはない。頭上には高い天井が遠ざかり、床だけが急速に近づいてくる。
そして真下には、いつの間にか大広間へ姿を現していた怪物がいた。
龍を思わせる巨大な首が持ち上がり、それと入れ替わるように、棘に覆われた尾がゆっくりと上を向く。
落下する恋を、下から串刺しにする軌道だった。
視界の中で、すべてが不自然なほどゆっくりになる。
入学式の日。
屋上で榊原藍に呼び出されたこと。
雪代こよみと出会い、生徒会に関わることになったこと。
高校へ入ってから起きた出来事が、脈絡もなく頭の中を駆け抜けていく。
それが何なのかを理解した瞬間、恋の喉が引きつった。
嫌だ。
死にたくない。
こんな場所で終わりたくない。
「恋!」
聞き慣れた声が、大広間へ響いた。
黒い影が壁を駆け上がる。
ブラックローズだった。
彼女は保管庫の入口から天井近くの壁へワイヤーを射出し、巻き取りの反動を利用して一気に宙へ舞い上がった。
白い外套と黒薔薇のドレスが大きく広がり、夜の翼のように恋の視界を覆う。
下から怪物の尾が突き上がる。
恋の身体は、そこへ吸い込まれるように落ち続ける。
その間へ、ブラックローズが滑り込んだ。
片腕が恋の背中へ回り、もう片方が膝の裏を支える。落下の勢いを殺し切れず、二人の身体が一度大きく沈んだ。
次の瞬間、恋の視界が反転した。
「――っ」
気づいた時には、ブラックローズの腕の中にいた。
怪物の尾が、二人のすぐ横を突き抜ける。
剣山が空気を裂き、遅れて鋭い風が頬を叩いた。ワイヤーが二人分の重みで軋み、固定された壁面に亀裂が走る。
ブラックローズは片足で壁を蹴り、振り子のように軌道を変えた。そのまま反対側の柱へ移り、恋を抱えた状態で静かに着地する。
「無事ですか」
ブラックローズが尋ねる。
恋はすぐに答えられなかった。肺が呼吸を忘れたように固まり、喉から音が出てこない。
何度か浅く息を吸い、ようやく震える声を返す。
「……た、たぶん、大丈夫、です」
「怪我は」
「あ、ありません」
「よかった」
その一言だけは、怪盗ブラックローズではなく、いつもの榊原藍の声に聞こえた。
恋は何かを言おうとしたが、胸の奥が詰まり、うまく言葉にならなかった。
だが、息を整える時間は与えられない。
怪物が大きく咆哮した。
衝撃で大広間のガラスが震え、壁の燭台が次々と落下する。保管庫の奥では、床へ転がった宝珠が白銀の光を放ち続けていた。
ブラックローズは恋を柱の陰へ下ろすと、すぐに怪物へ向き直った。
「先ほどは途中で中断されましたが、宝珠が紗雪さんの呪いへ作用したことは確実です。解呪を継続するには、宝珠をもう一度、紗雪さんの身体へ接触させる必要があります」
「でも、あの状態じゃ……」
「はい。先に行動を封じなければ、接近できません」
恋は柱の向こうから怪物を見た。
保管庫の入口を塞ぐほど巨大な身体。鈍く光る鱗。石床を抉る爪。ゆっくり動くだけで周囲を破壊する、棘だらけの尾。
あれを止める。
ブラックローズと、自分だけで。
「……無理では?」
「現状の装備では、極めて困難です」
「藍さんが極めて困難って言うの、本当に無理なやつですよね」
「はい」
「はいって……!」
怪物が前肢を振るった。
爪が床を砕き、石片と赤い絨毯がまとめて吹き飛ぶ。保管庫の入口も半分ほど崩れ、転がっていた宝珠が衝撃で大広間側へ弾き出された。
白銀の光が床を横切り、倒れた柱の近くで止まる。
ブラックローズはワイヤー射出装置を構えたものの、その細さでは怪物の巨体を縛りきれないことは、恋にも分かった。
「鎮静剤は?」
「ありません」
「ここ、獅堂先輩の家じゃないですもんね……!」
「この施設の警備装備にも大型生物用の鎮静手段は含まれていません」
「そりゃそうですよね!!」
怪物の喉が再び震え始めた。
先ほど恋を空中へ移動させた、あの呪文のような音を発しようとしている。
恋は柱へ手をついた。足に力を入れようとしても、膝の震えが止まらない。
その時だった。
怪物の背後にある石壁が、轟音とともに爆ぜた。
「――っ!?」
炎と煙が大広間へ噴き出し、砕けた石片が横殴りに飛び散る。
爆風をまともに受けた怪物の巨体が横へ大きく傾いた。床へ爪を食い込ませ、かろうじて倒れることだけは免れたものの、発しかけていた呪文は途切れている。
立ち込める煙の中から、平坦な声が響いた。
「対象の大型化を確認」
聞き慣れた声だった。
普段なら、それを聞くだけで少し安心できたはずだ。
だが今は、続く言葉があまりにも物騒だった。
「武力的制圧に移行します」
煙が薄れ、その向こうから黒いスーツ姿の少女が現れる。
雪代こよみだった。
白い髪には埃が残り、黒いスーツもところどころ破れている。先ほどまで身体を拘束していたワイヤーはすでに引き千切られ、足元に切れ端だけが垂れていた。
そして、その肩には大型のロケットランチャーが担がれている。
恋は口を開けたまま、しばらく動けなかった。
「こ、こよみさん……?」
こよみは発射筒の角度を調整しながら、淡々と答えた。
「拘束を解除しました」
「早すぎません!?」
「いいえ、予測より三秒遅れました」
「そこを気にしてるんじゃないです!」
ブラックローズが、こよみの肩にある武器へ視線を向ける。
「こよみ。その装備はどこから?」
「AI-Tech施設内の緊急重装備保管区画から借用しました」
「借用」
「はい。警備任務の範囲内です」
「スコット氏に許可は?」
「事後報告します」
「あなたもかなり強引ですね」
「ブラックローズほどではありません」
怪物が首を巡らせ、こよみへ低く唸った。
青い瞳は、その巨体を見上げても揺れない。
「現在の対象は、展示物窃盗犯ではなく暴走した大型異常存在です。対象が地上へ到達した場合、外部への情報漏洩が発生する可能性があります。そのため、優先順位を変更します」
こよみは真顔で続ける。
「人命保護および施設壊滅防止を優先。侵入者の制圧は後回しにします」
「後回しにはするんですね……!」
「はい。大型異常存在への対処後に制圧します」
「今は言わなくていいです!」
ブラックローズは、怪物と宝珠の位置を確認してから、こよみへ視線を戻した。
「こよみ。目的は紗雪さんの殺傷ではありません」
「理解しています」
「一時的に行動不能へ追い込み、その間に解呪の宝珠を再接触させます」
「合理的です」
「協力できますか」
「はい」
こよみは躊躇なく答え、ロケットランチャーを肩へ固定した。
「警備員として、暴走体を制圧します」
怪物が大きく吼えた。
大広間全体が揺れ、残っていたガラスが一斉にひび割れる。
ブラックローズはワイヤーを構え、ホワイトローズは倒れた柱の近くで輝く宝珠を見つめた。その隣では、黒いスーツ姿の記録者が、巨大な発射筒を龍のような怪物へ向けている。
宝珠を盗み出すだけだったはずの夜は、いつの間にか怪盗の美学など入り込む余地もない局面へ突入していた。




