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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第5章 闇夜に舞う、呪われた令嬢
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第59話

 怪盗プリンセスの蹴りが、雪代こよみの脇腹を捉えた。


 踏み込みと同時に腰を深く回し、獣の血が宿す膂力を余すことなく叩き込む。白いマントが大きな弧を描き、その中心で、こよみの小柄な身体が赤い絨毯の上を滑るように後退した。


 黒い革靴が絨毯を削り、長い轍を残していく。


 背後の扉へ激突する寸前、こよみは身体を捻って片手を壁へついた。石壁が低く軋み、手のひらを中心に細い亀裂が走る。


 それでも、こよみは倒れなかった。


 衝撃を受けた脇腹へ一度だけ目を向け、何事もなかったように姿勢を戻す。


「……本当に頑丈ですわね」


「耐久性には自信があります」


「そのようですわねッ!」


 息を整える暇もなく、紗雪は再び床を蹴った。


 普段の怪盗プリンセスは、どんな状況でも優雅さを失わない。


 扇子を開き、言葉を飾り、白いマントを夜風に遊ばせながら、誰にも触れられずに獲物を奪う。それが紗雪の思い描く怪盗だった。


 しかし今夜だけは、その美学を半分ほど捨てていた。


 雪代こよみを大広間から遠ざけ、恋がブラックローズの拘束を解くまで時間を稼ぐ。そのためなら、多少衣装が乱れようと、床を転がろうと構わない。


 紗雪は間合いへ飛び込み、こよみの顎を狙って右拳を振り抜いた。


 こよみは上体をわずかに傾けて拳をかわし、紗雪の手首を掴もうとする。紗雪は寸前で腕を引き、身体を沈めたまま足払いへ繋げた。


 低く薙いだ脚が、こよみの足首を捉える。


 それでも姿勢は崩れない。


 こよみは床を蹴って足払いを避けると、そのまま空中で身体を捻り、紗雪の肩口へ踵を落とした。


 紗雪は両腕を交差させて受け止めた。


 重い。


 小柄な身体から放たれたとは思えない衝撃が、腕を通して全身へ響く。膝が沈み、革靴の底が絨毯の上を滑った。


「っ……!」


 紗雪は歯を食いしばり、押し切られる前に身体を捻った。こよみの脚を腕で流し、その勢いを利用して床へ投げようとする。


 だが、こよみは片手を床につき、軽々と身体を反転させて着地した。


 その右手には、いつの間にかショットガンが戻っていた。


 銃口が紗雪の胸元へ向く。


 紗雪は迷わず銃身を両手で掴み、上へ跳ね上げた。


 直後、非殺傷弾が天井へ撃ち込まれ、古い漆喰と木片が雨のように降り注ぐ。銃声が収まるより早く、紗雪はこよみの懐へ潜り込んだ。


「はあっ!」


 胸部へ掌底を叩き込む。


 衝撃が黒いスーツ越しに伝わり、こよみの身体がわずかに後退した。


 普通の人間なら、息が止まるどころでは済まない。肋骨を折っていても不思議ではない一撃だった。


 しかし、こよみの黒いスーツに皺が寄っただけである。


「衝撃を確認しました」


 こよみは淡々と言った。


「有効打には至っていません」


「言われなくても、分かっていますわ!」


 紗雪は歯を食いしばり、追撃の拳を振るった。


 確かに当たっている。


 手応えもある。


 それなのに、肉体へ打撃を通した感覚があまりにも薄い。分厚い壁へ拳を叩きつけているようで、むしろ紗雪の手首の方へ鈍い痛みが返ってくる。


 それでも、壁ならばひびくらいは入る。


 目の前の少女には、壊れる兆しすらなかった。


 こよみの肩がわずかに沈む。


 その動きを捉えた瞬間には、もう遅かった。


 紗雪の視界が大きく揺れ、腹部に重い衝撃が突き刺さる。


「っ、が……!」


 こよみの前蹴りだった。


 小柄な身体のどこにそれほどの力があるのか、紗雪の両足が床から浮く。身体はそのまま大広間の出入口を抜け、隣接する部屋へ投げ出された。


 背中から床へ落ちる寸前、紗雪は身を捻った。片手をつき、肩から転がることで衝撃を逃がす。それでも腹の奥へ残った痛みは消えず、息を吸うたびに鈍く疼いた。


 転がり込んだ先は、古い食堂らしかった。


 中央には何人も座れそうな長机があり、その周囲に椅子が並んでいる。壁際の飾り棚には銀食器が残され、燭台の弱い灯りが赤黒い壁紙を照らしていた。


 紗雪が膝を立てた直後、背後の扉が大きく歪んだ。


 次の瞬間、扉そのものが蝶番から外れ、部屋の中へ吹き飛んでくる。


 紗雪は横へ跳び、床を滑る扉をかわした。


 粉塵の向こうから、ショットガンを手にしたこよみが入ってくる。


「逃走経路を確認。遮断します」


「誰が逃げると言いましたの」


 紗雪は腹部を押さえたい衝動を堪え、ゆっくりと立ち上がった。


 口元には笑みを浮かべる。


 呼吸は乱れ、右腕には痺れが残っている。蹴られた腹も重く、思うように力が入らない。


 それでも、怪盗プリンセスが舞台の上で苦痛をさらすわけにはいかなかった。


「あなたは、本当に化け物ですわね」


「私はアンドロイドです」


「訂正が冷静すぎますわ!」


 こよみがショットガンを構えた。


 紗雪は足元にあった椅子を蹴り飛ばし、続けて長机の縁へ肩を入れる。重い木製の机が傾き、盾のように二人の間へ立ち上がった。


 直後、散弾が机を撃ち抜いた。


 木片が爆ぜ、天板へ無数の穴が開く。


 紗雪はその音に紛れて床を蹴った。


 穴だらけになった机の脇から飛び出し、こよみの死角へ回り込む。右拳を顔へ、左膝を腹へ、返した肘を首筋へと繋ぎ、最後に踵を側頭部へ振り抜いた。


 一つ一つが、普通の人間なら立っていられない威力を持つ連撃だった。


 だが、こよみはすべてを見切っていた。


 顔へ迫る拳を手の甲で逸らし、膝は腰を半歩引いてかわす。肘をショットガンの銃身で受け止め、最後の蹴りには腕を差し入れて衝撃を外側へ流した。


 必要なだけ動き、余計な力は使わない。


 紗雪が全身を使って攻め続けても、こよみの軸はほとんど揺れなかった。


「攻撃精度は高いです」


「褒められても嬉しくありませんわ!」


「ただし、私を機能停止させるには出力が不足しています」


「本当に腹立たしいですわね!」


 紗雪は大きく踏み込み、渾身の右拳を振り抜いた。


 こよみは避けなかった。


 片手で拳を受け止め、そのまま紗雪の手首を掴む。


「しまっ――」


 腕を引くより早く、紗雪の身体が浮いた。


 こよみは掴んだ手首を軸に腰を回し、紗雪を床へ投げ落とす。厚い絨毯の下で床板が軋み、背中に衝撃が突き抜けた。


「っ……!」


 肺から息が押し出される。


 紗雪が身を起こすより先に、こよみは腕を背中側へ捻り上げ、肩甲骨の辺りへ膝を置いた。関節の可動域ぎりぎりまで固定され、少しでも抵抗すれば肩へ鋭い痛みが走る。


「制圧可能です」


 聞こえてきた声に、勝ち誇る響きはなかった。


 冷酷ですらない。


 こよみはただ、戦力差から導かれた結果を報告しているだけだった。


 紗雪は床へ頬をつけたまま、荒い息の合間に笑った。


「……残念ですわね」


「何がでしょうか」


「今、ブラックローズは自由の身ですわ」


 こよみの手が、一瞬だけ止まった。


 本当にわずかな間だった。すぐに力は戻り、紗雪の腕を固定し直す。


 それでも、反応はあった。


 紗雪は動かなかった。


 ここで抜け出そうとすれば、こよみは即座に対処する。必要なのは反撃の隙ではなく、注意を完全に別の方向へ向けることだった。


「そうですか」


 こよみはすぐに平静を取り戻した。


「ですが、あなたが保管庫へ到達できなければ、目的は達成されません」


「ええ」


「あなたは私に勝てません。誰が自由だろうとどの道、状況は変わりません」


 紗雪は、そこで笑みを深くした。


「ええ。ですから、ブラックローズには別の役割をお願いしていますの」


「別の役割?」


「ある方への連絡ですわ」


 こよみの青い瞳が、わずかに細められる。


「誰ですか」


「あなたの雇い主ですわ」


 今度こそ、こよみの動きが目に見えて止まった。


 普段は決して揺らがない青い瞳の奥に、ほんの一瞬だけ迷いが走る。


「……何を伝えるつもりですか」


「ブラックローズは、榊原藍としてあなたの雇い主――AI-Techへ指示を出します」


 紗雪は床へ押さえつけられたまま、ゆっくりと言葉を続けた。


「雪代こよみに依頼した警備協力を、ただちに中止するように、と」


 紗雪の腕を押さえる指へ、こよみの力がわずかに加わる。


 だが、表情はまだ崩れていなかった。


「無意味です。ブラックローズは藍様ではありません」


「その理屈は、あなたには通じますわ」


 紗雪は顔だけを少し動かし、横目でこよみを見た。


「けれど、それは社長さんにも通用するのかしら?」


「……」


「いえ、正確にはこうですわね」


 紗雪は、勝ち誇るように笑った。


「榊原藍が、その理屈を通じさせませんわ」


 こよみは答えなかった。


 だが、その沈黙で十分だった。


 スコットにとって、榊原藍は榊原藍である。怪盗衣装を着ていようが、ブラックローズを名乗っていようが、同じ顔と声で正式な指示を出されれば無視できない。


 今のこよみは、藍の命令ではなく、AI-Techからの依頼に基づいて警備任務へ就いている。


 ならば、その依頼そのものが取り消されれば、こよみは任務を続ける根拠を失う。


「……外部通信を確認します」


 こよみの声が、わずかに早くなった。


「どうぞ、ご確認なさいませ」


 紗雪は挑発するように目を細める。


「好きなだけ確認なさい」


 こよみの視線が宙の一点へ向いた。


 いくつもの条件を照合するため、こよみの注意がほんの一瞬だけ紗雪から外れる。


 その瞬間を待っていた。


「すみません!」


 背後から声が響く。


 いつの間にか食堂の入口に、白薔薇の怪盗衣装をまとった桜川恋――ホワイトローズが立っていた。


 両手で握っているのは、小型のワイヤー射出装置。


 渡米直前、自分を宙吊りにした道具。


 触れることさえ避けたかったはずのそれを、恋は震える腕でこよみへ向けている。


「こよみさん、本当にすみません!」


「――」


 こよみが振り返った。


 だが、反応がわずかに遅い。


 恋が引き金を引く。


 圧縮された空気が弾ける音とともに、透明に近い細いファイバーが射出された。複数のワイヤーがこよみの腕と胴体へ巻きつき、そのまま脚へ向かって広がっていく。


 こよみは即座に拘束位置を把握し、空いている手をワイヤーの接合部へ伸ばした。


 その足へ、紗雪が床からしがみつく。


「逃がしませんわ!」


「っ、離れてください」


「嫌ですわ!」


 こよみが脚を引こうとしたが、紗雪は両腕を絡めて放さない。完全に押さえ込むことはできなくても、姿勢を崩すだけなら十分だった。


 ワイヤーが自動的に締まっていく。


 血流を妨げず、関節の可動域だけを奪うように張力が調整され、こよみの片腕が胴体へ固定された。


 もう片方の手がショットガンへ伸びる。


 恋は半ば目をつぶりながら、二射目を放った。


「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」


 追加のワイヤーがこよみの手首へ巻きつき、銃へ届く寸前で動きを止めた。


「……謝罪しながら相手を無力化する行動は、矛盾しているように思われますが」


「私もそう思いますけど!」


 こよみは体勢を立て直そうとしたが、足へしがみつく紗雪と、複数方向から張られたワイヤーによって重心を保てない。


 黒い革靴が絨毯の上を滑り、ついに片膝が床へついた。


 完全な拘束ではない。


 こよみの出力なら、時間をかければワイヤーを引き千切ることもできるだろう。


 だが、今すぐには動けない。


 その瞬間が、恋たちには何より必要だった。


「拘束を確認」


 こよみは自分の腕へ巻きついたワイヤーを見下ろした。


 声音は平坦なままだったが、返答までの間が普段よりわずかに長い。


「ハッタリで注意を逸らし、背後から拘束する。成功ですわ」


 紗雪がこよみの脚から手を離し、痛む身体を支えながら立ち上がる。


 その言葉を聞いたこよみは、ゆっくりと顔を上げた。


「……虚偽情報?」


 紗雪がゆっくり立ち上がる。


 肩で息をしながら、扇子を拾った。


「ええ」


「虚偽の情報を伝えたのですか?」


 紗雪は床へ落ちた扇子を拾い、埃を払ってから開いた。


「ブラックローズがスコット氏へ連絡を取っているという話は、出まかせですわ」


「……」


「そもそも、あの方はつい先ほどまで木枷に拘束されていたのですもの。連絡する余裕などあるはずがありませんでしょう?」


 恋がワイヤー射出装置を抱えたまま、小さく手を上げる。


「木枷は、私が解除しました」


「ええ。よくやりましたわ、桜川さん」


「でも、あんな嘘、よく咄嗟に思いつきましたね……」


「怪盗ですもの」


「本当に便利な言葉ですね……」


 こよみは拘束されたまま、ゆっくりと視線を伏せた。


「私の判断ミスです」


「らしくないですわね」


「はい」


「それほど、『藍様』が任務の中止を命じる可能性が怖かったのかしら?」


「怖い、という表現は正確ではありません」


「では、何ですの?」


 こよみは数秒だけ沈黙した。


「……非常に面倒です」


 紗雪は一瞬きょとんとした後、肩の力を抜くように笑った。


「そこは認めますのね」


「はい」


 恋はワイヤー射出装置を胸に抱えたまま、こよみへ近づくべきか迷っていた。


「こよみさん、痛くないですか?」


「痛覚反応はあります。ただし、損傷は軽微です」


「すみません……」


「謝罪は不要です。あなたは警備側にいる私を、作戦上必要な手段で無力化しただけです」


「そう言われると、余計に謝りたくなるんですけど……」


「桜川さんらしいですね」


 その言葉だけは、生徒会室で聞くいつものこよみと変わらなかった。


 恋がわずかに息をつく一方で、紗雪はすぐに表情を引き締めた。


「桜川さん、感傷は後ですわ。ブラックローズは?」


「大広間です。木枷は外しましたけど、まだ保管庫のロックを――」


 その時、二人の通信機へ一斉にノイズが走った。


『こちら、ブラックローズです』


聞こえてきたのは、榊原藍の声だった。


 いや、今夜だけはブラックローズの声ということになる。


 恋はぱっと顔を上げた。


「藍さん!」


『ブラックローズです』


「今、それ大事ですか!?」


『はい』


 いつも通りの訂正だった。


 だが、続く言葉はわずかに早い。


『保管庫の電子ロック解除が完了しました。解除状態を維持できるのは三分間です』


 紗雪の口元に笑みが戻る。


「十分ですわ」


 すると、床に片膝をついたままのこよみが口を開いた。


「三分経過後、保管庫は自動的に再施錠されます」


「ご忠告、感謝いたしますわ」


「また、現在の拘束を解除するまでの予測時間は二分四十秒です」


 紗雪の笑みが引きつった。


「早すぎませんこと!?」


「急ぐことを推奨します」


 恋は思わずこよみを見た。


「こよみさん、敵なのか味方なのか分からないです!」


「私は警備員です」


「警備員なら、急いでくださいなんて言わないでください!」


「現在は拘束されており、即時の妨害が不可能なため、状況を説明しました」


「真面目すぎます!」


 紗雪は扇子を閉じ、すぐに出口へ向かって駆け出した。


「行きますわよ、ホワイトローズ!」


「はい!」


 恋も後を追いかけようとしたが、扉の手前で一度だけ振り返った。


「こよみさん、本当にすみません!」


「はい。次回は同じ手段を警戒します」


「次回がある前提で話さないでください!」


 二人は食堂を飛び出し、大広間へ向かって走り去った。


 部屋に残されたこよみは、身体へ絡みついたワイヤーへ視線を落とした。


「虚偽情報による注意誘導。死角からの背面拘束」


 誰に聞かせるでもなく、確認するように呟く。


「桜川恋の判断速度と行動力に、向上を確認」


 それから、ほんのわずかに口元を緩めた。


「……悪くありません」

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