第59話
怪盗プリンセスの蹴りが、雪代こよみの脇腹を捉えた。
踏み込みと同時に腰を深く回し、獣の血が宿す膂力を余すことなく叩き込む。白いマントが大きな弧を描き、その中心で、こよみの小柄な身体が赤い絨毯の上を滑るように後退した。
黒い革靴が絨毯を削り、長い轍を残していく。
背後の扉へ激突する寸前、こよみは身体を捻って片手を壁へついた。石壁が低く軋み、手のひらを中心に細い亀裂が走る。
それでも、こよみは倒れなかった。
衝撃を受けた脇腹へ一度だけ目を向け、何事もなかったように姿勢を戻す。
「……本当に頑丈ですわね」
「耐久性には自信があります」
「そのようですわねッ!」
息を整える暇もなく、紗雪は再び床を蹴った。
普段の怪盗プリンセスは、どんな状況でも優雅さを失わない。
扇子を開き、言葉を飾り、白いマントを夜風に遊ばせながら、誰にも触れられずに獲物を奪う。それが紗雪の思い描く怪盗だった。
しかし今夜だけは、その美学を半分ほど捨てていた。
雪代こよみを大広間から遠ざけ、恋がブラックローズの拘束を解くまで時間を稼ぐ。そのためなら、多少衣装が乱れようと、床を転がろうと構わない。
紗雪は間合いへ飛び込み、こよみの顎を狙って右拳を振り抜いた。
こよみは上体をわずかに傾けて拳をかわし、紗雪の手首を掴もうとする。紗雪は寸前で腕を引き、身体を沈めたまま足払いへ繋げた。
低く薙いだ脚が、こよみの足首を捉える。
それでも姿勢は崩れない。
こよみは床を蹴って足払いを避けると、そのまま空中で身体を捻り、紗雪の肩口へ踵を落とした。
紗雪は両腕を交差させて受け止めた。
重い。
小柄な身体から放たれたとは思えない衝撃が、腕を通して全身へ響く。膝が沈み、革靴の底が絨毯の上を滑った。
「っ……!」
紗雪は歯を食いしばり、押し切られる前に身体を捻った。こよみの脚を腕で流し、その勢いを利用して床へ投げようとする。
だが、こよみは片手を床につき、軽々と身体を反転させて着地した。
その右手には、いつの間にかショットガンが戻っていた。
銃口が紗雪の胸元へ向く。
紗雪は迷わず銃身を両手で掴み、上へ跳ね上げた。
直後、非殺傷弾が天井へ撃ち込まれ、古い漆喰と木片が雨のように降り注ぐ。銃声が収まるより早く、紗雪はこよみの懐へ潜り込んだ。
「はあっ!」
胸部へ掌底を叩き込む。
衝撃が黒いスーツ越しに伝わり、こよみの身体がわずかに後退した。
普通の人間なら、息が止まるどころでは済まない。肋骨を折っていても不思議ではない一撃だった。
しかし、こよみの黒いスーツに皺が寄っただけである。
「衝撃を確認しました」
こよみは淡々と言った。
「有効打には至っていません」
「言われなくても、分かっていますわ!」
紗雪は歯を食いしばり、追撃の拳を振るった。
確かに当たっている。
手応えもある。
それなのに、肉体へ打撃を通した感覚があまりにも薄い。分厚い壁へ拳を叩きつけているようで、むしろ紗雪の手首の方へ鈍い痛みが返ってくる。
それでも、壁ならばひびくらいは入る。
目の前の少女には、壊れる兆しすらなかった。
こよみの肩がわずかに沈む。
その動きを捉えた瞬間には、もう遅かった。
紗雪の視界が大きく揺れ、腹部に重い衝撃が突き刺さる。
「っ、が……!」
こよみの前蹴りだった。
小柄な身体のどこにそれほどの力があるのか、紗雪の両足が床から浮く。身体はそのまま大広間の出入口を抜け、隣接する部屋へ投げ出された。
背中から床へ落ちる寸前、紗雪は身を捻った。片手をつき、肩から転がることで衝撃を逃がす。それでも腹の奥へ残った痛みは消えず、息を吸うたびに鈍く疼いた。
転がり込んだ先は、古い食堂らしかった。
中央には何人も座れそうな長机があり、その周囲に椅子が並んでいる。壁際の飾り棚には銀食器が残され、燭台の弱い灯りが赤黒い壁紙を照らしていた。
紗雪が膝を立てた直後、背後の扉が大きく歪んだ。
次の瞬間、扉そのものが蝶番から外れ、部屋の中へ吹き飛んでくる。
紗雪は横へ跳び、床を滑る扉をかわした。
粉塵の向こうから、ショットガンを手にしたこよみが入ってくる。
「逃走経路を確認。遮断します」
「誰が逃げると言いましたの」
紗雪は腹部を押さえたい衝動を堪え、ゆっくりと立ち上がった。
口元には笑みを浮かべる。
呼吸は乱れ、右腕には痺れが残っている。蹴られた腹も重く、思うように力が入らない。
それでも、怪盗プリンセスが舞台の上で苦痛をさらすわけにはいかなかった。
「あなたは、本当に化け物ですわね」
「私はアンドロイドです」
「訂正が冷静すぎますわ!」
こよみがショットガンを構えた。
紗雪は足元にあった椅子を蹴り飛ばし、続けて長机の縁へ肩を入れる。重い木製の机が傾き、盾のように二人の間へ立ち上がった。
直後、散弾が机を撃ち抜いた。
木片が爆ぜ、天板へ無数の穴が開く。
紗雪はその音に紛れて床を蹴った。
穴だらけになった机の脇から飛び出し、こよみの死角へ回り込む。右拳を顔へ、左膝を腹へ、返した肘を首筋へと繋ぎ、最後に踵を側頭部へ振り抜いた。
一つ一つが、普通の人間なら立っていられない威力を持つ連撃だった。
だが、こよみはすべてを見切っていた。
顔へ迫る拳を手の甲で逸らし、膝は腰を半歩引いてかわす。肘をショットガンの銃身で受け止め、最後の蹴りには腕を差し入れて衝撃を外側へ流した。
必要なだけ動き、余計な力は使わない。
紗雪が全身を使って攻め続けても、こよみの軸はほとんど揺れなかった。
「攻撃精度は高いです」
「褒められても嬉しくありませんわ!」
「ただし、私を機能停止させるには出力が不足しています」
「本当に腹立たしいですわね!」
紗雪は大きく踏み込み、渾身の右拳を振り抜いた。
こよみは避けなかった。
片手で拳を受け止め、そのまま紗雪の手首を掴む。
「しまっ――」
腕を引くより早く、紗雪の身体が浮いた。
こよみは掴んだ手首を軸に腰を回し、紗雪を床へ投げ落とす。厚い絨毯の下で床板が軋み、背中に衝撃が突き抜けた。
「っ……!」
肺から息が押し出される。
紗雪が身を起こすより先に、こよみは腕を背中側へ捻り上げ、肩甲骨の辺りへ膝を置いた。関節の可動域ぎりぎりまで固定され、少しでも抵抗すれば肩へ鋭い痛みが走る。
「制圧可能です」
聞こえてきた声に、勝ち誇る響きはなかった。
冷酷ですらない。
こよみはただ、戦力差から導かれた結果を報告しているだけだった。
紗雪は床へ頬をつけたまま、荒い息の合間に笑った。
「……残念ですわね」
「何がでしょうか」
「今、ブラックローズは自由の身ですわ」
こよみの手が、一瞬だけ止まった。
本当にわずかな間だった。すぐに力は戻り、紗雪の腕を固定し直す。
それでも、反応はあった。
紗雪は動かなかった。
ここで抜け出そうとすれば、こよみは即座に対処する。必要なのは反撃の隙ではなく、注意を完全に別の方向へ向けることだった。
「そうですか」
こよみはすぐに平静を取り戻した。
「ですが、あなたが保管庫へ到達できなければ、目的は達成されません」
「ええ」
「あなたは私に勝てません。誰が自由だろうとどの道、状況は変わりません」
紗雪は、そこで笑みを深くした。
「ええ。ですから、ブラックローズには別の役割をお願いしていますの」
「別の役割?」
「ある方への連絡ですわ」
こよみの青い瞳が、わずかに細められる。
「誰ですか」
「あなたの雇い主ですわ」
今度こそ、こよみの動きが目に見えて止まった。
普段は決して揺らがない青い瞳の奥に、ほんの一瞬だけ迷いが走る。
「……何を伝えるつもりですか」
「ブラックローズは、榊原藍としてあなたの雇い主――AI-Techへ指示を出します」
紗雪は床へ押さえつけられたまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「雪代こよみに依頼した警備協力を、ただちに中止するように、と」
紗雪の腕を押さえる指へ、こよみの力がわずかに加わる。
だが、表情はまだ崩れていなかった。
「無意味です。ブラックローズは藍様ではありません」
「その理屈は、あなたには通じますわ」
紗雪は顔だけを少し動かし、横目でこよみを見た。
「けれど、それは社長さんにも通用するのかしら?」
「……」
「いえ、正確にはこうですわね」
紗雪は、勝ち誇るように笑った。
「榊原藍が、その理屈を通じさせませんわ」
こよみは答えなかった。
だが、その沈黙で十分だった。
スコットにとって、榊原藍は榊原藍である。怪盗衣装を着ていようが、ブラックローズを名乗っていようが、同じ顔と声で正式な指示を出されれば無視できない。
今のこよみは、藍の命令ではなく、AI-Techからの依頼に基づいて警備任務へ就いている。
ならば、その依頼そのものが取り消されれば、こよみは任務を続ける根拠を失う。
「……外部通信を確認します」
こよみの声が、わずかに早くなった。
「どうぞ、ご確認なさいませ」
紗雪は挑発するように目を細める。
「好きなだけ確認なさい」
こよみの視線が宙の一点へ向いた。
いくつもの条件を照合するため、こよみの注意がほんの一瞬だけ紗雪から外れる。
その瞬間を待っていた。
「すみません!」
背後から声が響く。
いつの間にか食堂の入口に、白薔薇の怪盗衣装をまとった桜川恋――ホワイトローズが立っていた。
両手で握っているのは、小型のワイヤー射出装置。
渡米直前、自分を宙吊りにした道具。
触れることさえ避けたかったはずのそれを、恋は震える腕でこよみへ向けている。
「こよみさん、本当にすみません!」
「――」
こよみが振り返った。
だが、反応がわずかに遅い。
恋が引き金を引く。
圧縮された空気が弾ける音とともに、透明に近い細いファイバーが射出された。複数のワイヤーがこよみの腕と胴体へ巻きつき、そのまま脚へ向かって広がっていく。
こよみは即座に拘束位置を把握し、空いている手をワイヤーの接合部へ伸ばした。
その足へ、紗雪が床からしがみつく。
「逃がしませんわ!」
「っ、離れてください」
「嫌ですわ!」
こよみが脚を引こうとしたが、紗雪は両腕を絡めて放さない。完全に押さえ込むことはできなくても、姿勢を崩すだけなら十分だった。
ワイヤーが自動的に締まっていく。
血流を妨げず、関節の可動域だけを奪うように張力が調整され、こよみの片腕が胴体へ固定された。
もう片方の手がショットガンへ伸びる。
恋は半ば目をつぶりながら、二射目を放った。
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
追加のワイヤーがこよみの手首へ巻きつき、銃へ届く寸前で動きを止めた。
「……謝罪しながら相手を無力化する行動は、矛盾しているように思われますが」
「私もそう思いますけど!」
こよみは体勢を立て直そうとしたが、足へしがみつく紗雪と、複数方向から張られたワイヤーによって重心を保てない。
黒い革靴が絨毯の上を滑り、ついに片膝が床へついた。
完全な拘束ではない。
こよみの出力なら、時間をかければワイヤーを引き千切ることもできるだろう。
だが、今すぐには動けない。
その瞬間が、恋たちには何より必要だった。
「拘束を確認」
こよみは自分の腕へ巻きついたワイヤーを見下ろした。
声音は平坦なままだったが、返答までの間が普段よりわずかに長い。
「ハッタリで注意を逸らし、背後から拘束する。成功ですわ」
紗雪がこよみの脚から手を離し、痛む身体を支えながら立ち上がる。
その言葉を聞いたこよみは、ゆっくりと顔を上げた。
「……虚偽情報?」
紗雪がゆっくり立ち上がる。
肩で息をしながら、扇子を拾った。
「ええ」
「虚偽の情報を伝えたのですか?」
紗雪は床へ落ちた扇子を拾い、埃を払ってから開いた。
「ブラックローズがスコット氏へ連絡を取っているという話は、出まかせですわ」
「……」
「そもそも、あの方はつい先ほどまで木枷に拘束されていたのですもの。連絡する余裕などあるはずがありませんでしょう?」
恋がワイヤー射出装置を抱えたまま、小さく手を上げる。
「木枷は、私が解除しました」
「ええ。よくやりましたわ、桜川さん」
「でも、あんな嘘、よく咄嗟に思いつきましたね……」
「怪盗ですもの」
「本当に便利な言葉ですね……」
こよみは拘束されたまま、ゆっくりと視線を伏せた。
「私の判断ミスです」
「らしくないですわね」
「はい」
「それほど、『藍様』が任務の中止を命じる可能性が怖かったのかしら?」
「怖い、という表現は正確ではありません」
「では、何ですの?」
こよみは数秒だけ沈黙した。
「……非常に面倒です」
紗雪は一瞬きょとんとした後、肩の力を抜くように笑った。
「そこは認めますのね」
「はい」
恋はワイヤー射出装置を胸に抱えたまま、こよみへ近づくべきか迷っていた。
「こよみさん、痛くないですか?」
「痛覚反応はあります。ただし、損傷は軽微です」
「すみません……」
「謝罪は不要です。あなたは警備側にいる私を、作戦上必要な手段で無力化しただけです」
「そう言われると、余計に謝りたくなるんですけど……」
「桜川さんらしいですね」
その言葉だけは、生徒会室で聞くいつものこよみと変わらなかった。
恋がわずかに息をつく一方で、紗雪はすぐに表情を引き締めた。
「桜川さん、感傷は後ですわ。ブラックローズは?」
「大広間です。木枷は外しましたけど、まだ保管庫のロックを――」
その時、二人の通信機へ一斉にノイズが走った。
『こちら、ブラックローズです』
聞こえてきたのは、榊原藍の声だった。
いや、今夜だけはブラックローズの声ということになる。
恋はぱっと顔を上げた。
「藍さん!」
『ブラックローズです』
「今、それ大事ですか!?」
『はい』
いつも通りの訂正だった。
だが、続く言葉はわずかに早い。
『保管庫の電子ロック解除が完了しました。解除状態を維持できるのは三分間です』
紗雪の口元に笑みが戻る。
「十分ですわ」
すると、床に片膝をついたままのこよみが口を開いた。
「三分経過後、保管庫は自動的に再施錠されます」
「ご忠告、感謝いたしますわ」
「また、現在の拘束を解除するまでの予測時間は二分四十秒です」
紗雪の笑みが引きつった。
「早すぎませんこと!?」
「急ぐことを推奨します」
恋は思わずこよみを見た。
「こよみさん、敵なのか味方なのか分からないです!」
「私は警備員です」
「警備員なら、急いでくださいなんて言わないでください!」
「現在は拘束されており、即時の妨害が不可能なため、状況を説明しました」
「真面目すぎます!」
紗雪は扇子を閉じ、すぐに出口へ向かって駆け出した。
「行きますわよ、ホワイトローズ!」
「はい!」
恋も後を追いかけようとしたが、扉の手前で一度だけ振り返った。
「こよみさん、本当にすみません!」
「はい。次回は同じ手段を警戒します」
「次回がある前提で話さないでください!」
二人は食堂を飛び出し、大広間へ向かって走り去った。
部屋に残されたこよみは、身体へ絡みついたワイヤーへ視線を落とした。
「虚偽情報による注意誘導。死角からの背面拘束」
誰に聞かせるでもなく、確認するように呟く。
「桜川恋の判断速度と行動力に、向上を確認」
それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……悪くありません」




