第66話
野球部の練習が終わった後、桜川恋は、なぜかスポーツ用品店にいた。
どうしてこうなったのか、途中まではきちんと理解していたはずである。
練習も終盤に差しかかった頃、神津晶がベースランニングで勢いよく一塁を踏み抜いた。その瞬間、右足のスパイクから悲鳴のような音が鳴り、ソールが大きく剥がれたうえ、つま先側の金具まで歪んでしまった。
誰が見ても、修理で済ませられる状態ではなかった。
野球部の主将であり、エースであり、四番でもある晶のスパイクが壊れたのだから、新しいものを買いに来るのは分かる。
監督代行である榊原藍が、選定のために同行するのも理解できる。
問題は、なぜ恋まで一緒に来ているのかということだった。
「恋、疲れていませんか」
「疲れてはいますけど、その前に私、ここにいて何か役に立ちますか?」
「第三者の視点は有用です」
「スパイク選びで?」
「はい」
藍は何の疑問も抱いていない顔で答えた。
恋には、それ以上何も言えなかった。
店内には、野球用品が所狭しと並んでいる。壁一面に掛けられたグローブ、サイズごとに整列したバット、色も形も違うスパイク、アンダーシャツ、守備用手袋、リストバンド、スコアブック。
野球をしている人間なら、見ているだけで心が躍るのだろう。
しかし恋には、用途が分かるものと分からないものの境界すら曖昧だった。どれも野球に使う道具だということだけは分かる。それ以上の違いは、ほとんど理解できない。
一方の晶は、店へ入った瞬間から目を輝かせていた。
「やっぱり新作はいいよな。軽いし、地面も噛みそうだし。でも、こっちの方が踏み込んだ時の安定感はありそうなんだよな」
晶は左右に別のスパイクを持ち、真剣な顔で見比べている。
「神津さんは、右足で踏み込む際に外側へ荷重が逃げる傾向があります」
藍は棚から一足を取り、靴底の金具を確認した。
「軽量性だけを優先すると、試合終盤の投球で下半身が開き、フォームが崩れる可能性があります」
「じゃあ、こっちか?」
「有力な候補です。ただし、現在使用しているものとは硬度が異なります。感覚が馴染むまで、数日の調整が必要です」
「定期戦には間に合うか?」
「間に合わせる必要はあります。しかし、優先すべきは夏の大会です」
「だよな!」
二人の会話は、妙に専門的だった。
恋には内容の半分も分からない。何となく、靴を選んでいるのだということだけは理解できる。
しかし、二人の真剣さは靴を選ぶ客というより、新型兵器の性能を比較する技術者と使用者に近かった。
「……スパイクって、こんなに真剣に選ぶものなんですね」
「当然だろ。野球選手にとって、足は命だぞ」
晶がスパイクを片手に振り返った。
「投げるのも、打つのも、走るのも、結局は全部足から始まるんだ。合わないスパイクを履いたら、動きが全部ずれる」
「急にちゃんと野球部の人みたいなことを言いますね」
「俺は最初から野球部の人だぞ」
「そうでした」
普段の言動があまりにも野球一辺倒なので忘れそうになるが、晶は本当に野球部の主将であり、投打の中心でもある。
練習中もそうだった。
誰よりも声を出し、周囲の部員を動かし、自分でも投げて、打って、走る。野球以外の話になると急に頼りなくなるのに、グラウンドへ立った瞬間だけは別人のように見えた。
恋がそんなことを考えていた時、背後から落ち着いた声が聞こえた。
「晶」
その声を聞いた瞬間、晶の動きが止まった。
ほんの一瞬の変化だった。
それでも恋には、先ほどまで晶の中にあった明るさが、わずかに引っ込んだのが分かった。
晶がゆっくりと振り返る。
そこには、他校の制服を着た男子生徒が立っていた。
背が高く、姿勢もよい。目元は涼しげで、全体に落ち着いた印象を与える。
晶のように周囲を巻き込む太陽じみた勢いはない。むしろ、静かに相手を観察し、必要な言葉だけを選んで口にする人物に見えた。
それでも、野球をしている人間だということは、恋にも何となく分かった。
立ち姿に無駄がない。
身体の中心がぶれず、制服姿であっても、グラウンドに立つ選手特有の張り詰めた気配が残っている。
「……卓」
晶が低い声で名前を呼んだ。
恋には、初めて聞く名前だった。
誰なのだろうと思った直後、藍が恋の耳元へわずかに顔を寄せた。
「神津卓さんです。神津晶さんの兄で、英星高等学校野球部の主将兼エース。県内最強と評価される英星の中心選手です」
「お兄さん……?」
恋は思わず小声で聞き返した。
晶に兄がいることを、今まで知らなかった。
兄弟だと聞いて改めて二人を見比べてみたが、失礼ながら、かなり印象が異なる。
晶は明るく、勢いがあり、感情がすぐ顔へ出る。
対する卓は冷静で、知的で、内側にある熱を必要以上に外へ漏らさないように見えた。
同じ野球選手でありながら、まとっている空気は正反対に近い。
もちろん、似ていないとは口にしなかった。
恋にも、その程度の分別はあった。
「久しぶりだな」
卓が先に声をかけた。
その声音も、見た目と同じく落ち着いている。
「お前、寮にいるんじゃなかったのかよ」
「今日は道具の調整で外出している。お前こそ、練習帰りか」
「見れば分かるだろ。スパイクが壊れたんだよ」
「お前は相変わらず、道具の扱いが荒いな」
「全力で使ってんだよ」
「全力と雑な扱いは違う」
「うるせえ」
言葉だけを聞けば、兄弟らしいやり取りにも思える。
だが、仲のよさは感じられなかった。会話の端々に、薄い棘が混じっている。
互いを嫌っていると断言できるほど単純ではない。それでも、久しぶりに顔を合わせた兄弟の間にあるはずの懐かしさや親しみよりも、先に距離と緊張が伝わってきた。
そうした機微に疎い恋にも、それくらいは分かった。
「それで?女の子二人引き連れて買い物かよ」
卓の視線が、藍と恋へ向けられた。
口調こそ軽かったが、目は二人を冷静に観察している。
晶はわずかに眉を寄せた。
「うるせえ。うちの監督代行と、マネージャー見習いだ」
恋は固まった。マネージャー見習い。
いつ、どこで、誰が決めたのか。
自分は野球部へ入部した覚えもなければ、マネージャーを志望した覚えもない。
今日したことといえば、練習を見学し、大量の水筒へ水を汲み、なぜかスパイク選びに同行しているだけだ。
内心では即座に異議を申し立てたかった。
しかし、晶と卓の間に流れる張り詰めた空気の中で、「私はマネージャー見習いではありません」と訂正する勇気は出なかった。
結果として、恋は曖昧に会釈した。
「桜川恋です……」
「榊原藍です」
藍は普段と変わらない態度で名乗った。
卓はその名を聞き、わずかに目を細める。
「晶のところの監督代行ってのは、あんたのことだったのか」
「はい」
「やけに顔のいいマネージャーがいるって噂は聞いてたけど、それが監督代行だったとはな」
「その噂は私のことでしょうか」
「たぶん、あんたのことだろ」
卓の口調は軽い。
しかし、完全に気を抜いているわけではなかった。
藍を単なる美人のマネージャーとして捉えていたところから、監督代行という肩書きを聞いて、認識を一段階改めたように見える。
一方の藍には、卓と出会ったことへの驚きがなかった。
神津晶の兄というだけでなく、英星高等学校の中心選手として、すでに十分な情報を把握しているのだろう。卓へ向けられた視線は、初対面の相手を見るものではなく、分析対象を実際に確認するような目だった。
「英星高等学校は、今年も県予選の優勝候補筆頭ですね」
藍が言った。
「下馬評はな」
「実際、現在の戦力は県内で最も突出しています。特に、あなたの存在が大きい」
「買い被りすぎじゃないのか」
「買い被りではありません。現時点で、最もプロ入りが注目されている高校生選手の一人ですので」
「よく調べてるな」
「青葉第二が甲子園を目指す以上、あなたを擁する英星は避けて通れない相手です」
卓はその言葉を聞き、ほんの少しだけ笑った。
「青葉第二が、甲子園ね」
たった一言だった。
けれど、それまで抑えられていた何かが、その短い言葉に含まれていた。
晶の表情が変わる。
「何だよ」
「いや、別に」
「言いたいことがあるなら言えよ」
「進学校が少し県大会で勝ち上がったくらいで、随分大きく出たもんだと思っただけだ」
店内の空気が、目に見えて悪くなった。
恋は、なぜスポーツ用品店のスパイク売り場で、このような緊張を浴びることになったのか分からなくなってきた。
兄弟の確執らしきものに立ち会う予定など、当然なかった。
「去年の夏、うちは県大会ベスト八。秋はベスト四だ」
「知ってるよ」
「だったら分かるだろ。甲子園まであと少しなんだよ」
「その『あと少し』の前に、俺たちがいるんだぞ、晶」
卓の声は冷静だった。
声を荒らげないからこそ、言葉が真っ直ぐ刺さる。
「県大会の上位へ入ることと、英星を倒して全国へ行くことは違う。お前も、それくらい分かっているだろう」
「分かってるから、やってんだろ」
「お前は昔から、分かっているつもりで突っ走る」
「お前は昔から、何でも分かったような顔で上から言うよな」
二人の間に、目には見えない境界線が引かれたようだった。
恋は何も言えなかった。
藍も会話へ割って入らず、静かに兄弟を見ている。
監督代行として晶の精神状態を観察しているのか。榊原藍として兄弟の関係を把握しようとしているのか。
あるいは、神津晶という人間の過去を知るために、あえて成り行きを見守っているのか。
恋には判断できなかった。
神津卓は、先に視線を外した。
「まあ、頑張れよ」
先に視線を外したのは卓だった。
「定期戦で青葉第一に勝ったくらいで、満足しないようにな」
「するわけねえだろ」
「そうか」
卓は近くの棚へ手を伸ばし、自分の目的だったらしいグラブケア用品を取った。
「それなら、夏に俺たちと当たるところまで来い」
「言われなくても行く」
「楽しみにしている」
それだけ告げると、卓は商品を手にレジの方へ向かった。
晶は何も言わず、その背中を睨むように見送っている。
右手は、いつの間にか強く握られていた。
恋は何か声をかけるべきか迷った。
しかし、何を言えばよいのか分からない。
兄弟の間に何があったのかも知らない部外者が、軽々しく踏み込んでよい話ではない。
しかも、恋自身の立場もひどく曖昧だった。つい先ほど、本人の了承もなくマネージャー見習い呼ばわりされたばかりである。
「神津さん」
藍が静かに声をかけた。
「スパイク選びを続けましょう」
藍が静かに呼びかけた。
「スパイクの選定を続けましょう」
晶はしばらく返事をしなかった。
やがて大きく息を吐き、握っていた拳をゆっくりと開く。
「……おう」
その声には、先ほどまでの明るさが戻りきっていなかった。
恋は晶の横顔を見ながら、改めて思った。
二人は、仲のよい兄弟ではない。
少なくとも、単純にそう呼べる関係ではないのだろう。
その間に何があるのか、今の恋には分からなかった。
その時、店先のガラス越しに見えた人影が、恋の意識を引きつけた。
「……っ」
思わず目を見開く。
歩道の向こうを、一人の少女が歩いていた。
今朝、学校の出入口付近で見かけた少女だった。
青葉第二の制服を着て、周囲の景色からわずかに浮いたような雰囲気をまとっている。風に揺れる髪も、静かな横顔も、一度見たら忘れないと思った印象そのままだった。
見間違いではない。
間違いなく、あの少女だ。
「藍さん」
恋は反射的に声をかけた。しかし、その先の言葉が出てこなかった。
藍はまだ晶の様子を見ている。
卓との会話を終えたばかりの晶は明らかに不機嫌で、兄弟の間に残された緊張が店内へ沈殿している。
その空気の中で、「今朝見た正体不明の少女が外にいます」と言い出してよいのか、恋には判断できなかった。
少女がこの場と関係しているのかも分からない。
ただ同じ日に二度見かけただけ。
それだけのことで会話を遮り、藍の注意を逸らしてよいのだろうか。
恋が迷っている間に、少女は通りの角へ差しかかった。
風に揺れていた髪が最後に一度だけ見え、そのまま建物の陰へ消えてしまう。
「あ……」
小さな声が漏れた。
藍が恋へ振り返る。
「恋?」
「いえ……」
言いかけて、恋は首を横へ振った。
「何でもないです」
口にした瞬間、自分でも嫌な感覚がした。
こういう時の「何でもない」は、大抵の場合、本当に何でもないままでは終わらない。
これまでの経験で、恋はそれを嫌というほど知っている。
それでも、今は言い出せなかった。
晶は棚に並ぶスパイクを見つめたまま黙っている。
藍は恋の顔を数秒だけ見ていたが、それ以上は追及しなかった。
追及されなかったことが、かえって少し不安だった。
「神津さん」
藍は晶へ視線を戻した。
「こちらのモデルを選びましょう。足へ馴染むまで数日を要しますが、調整すれば定期戦には間に合います」
「……分かった」
「ただし、明日は負荷を抑えた練習にしてください。今日の練習量と、スパイクを変更した直後の影響を考慮し、右足の状態を確認する必要があります」
「おう」
晶は勧められたスパイクを手に取った。
返事には、普段の勢いが少しだけ戻っている。
しかし、卓とのやり取りが完全に消えたわけではない。新しいスパイクを見つめる目の奥に、何かを振り払うような強さが残っていた。
恋は、もう一度だけ店の外へ目を向けた。
少女の姿は、どこにもない。
卓も会計を済ませ、ちょうど店を出ていくところだった。
晶はその背中を見ないふりをしている。
藍は、何も言わない。
スポーツ用品店には、革やゴム、新しい道具の匂いが漂っていた。その中に、言葉では説明しづらい兄弟の距離と、恋だけが目撃した少女の残像が混ざっている。
何かを見落としている。
あるいは、見つけておきながら、口にする機会を逃してしまった。
そんな落ち着かない感覚を抱えたまま、恋は晶の新しいスパイク選びに付き合い続けるしかなかった。




