第56話
同じ頃、ブラックローズは地下洋館の奥にある別室へ飛び込んでいた。
そこは、長い間ほとんど手を入れられていない古い書斎だった。天井まで届く本棚が壁一面を埋め、中央には重厚な机が据えられている。床には深い赤色のカーペットが敷かれ、壁には装飾用と思われる古い剣や盾が並んでいた。
ブラックローズは勢いを殺さず部屋へ滑り込み、そのまま机の天板へ片足を乗せて反対側へ跳ぶ。
直後、背後で轟音が響いた。
扉は開かれたのではない。外側から加えられた衝撃で蝶番ごと吹き飛び、床の上を滑って本棚へ激突した。
舞い上がる埃の向こうから、雪代こよみが姿を現す。
「障害物を確認」
こよみは倒れた扉を踏み越えながら、二挺のライフルを構え直した。
「排除します」
銃口が火を噴く。
ブラックローズはすぐさま身を翻し、近くの本棚の陰へ滑り込んだ。非殺傷弾が分厚い木板を立て続けに貫き、中に収められていた古書が破れ、無数の紙片となって宙を舞う。
「こよみ。文化財の破損は望ましくありません」
「侵入者の制圧を優先しております」
「合理的ですね」
「はい」
こよみは表情一つ変えず、射線をずらしながらブラックローズの移動先を追っていた。
その間も、ブラックローズは保管庫の電子ロックを遠隔で解析し続けている。
認証経路はAI-Tech製の制御系統へ接続されているが、設備の一部には洋館時代の独自機構が残されていた。新旧の構造が無理に組み合わされているため、信号経路には不自然な分岐が多く、通常の電子ロックよりも解析に時間がかかる。
完全な最新設備であれば、接続構造はもっと整っていたはずだ。逆に、すべてが旧式なら物理的な手段で突破できる。
今回は、そのどちらでもない。
解除には、あと数分必要だった。
その数分を、こよみの追撃をかわしながら稼がなければならない。
無謀ではある。
だが、不可能とまでは判断していなかった。
「解析進捗、三十二パーセント」
ブラックローズが低く呟いた直後、部屋の中央にあった机が大きく傾いた。
こよみが脚部を正確に撃ち抜いたのだ。支えを失った重い机は片側から崩れ、逃げ道を塞ぐはずだった障害物が逆に横倒しとなって床へ叩きつけられる。
ブラックローズは倒れてくる天板を避けて後方へ跳んだ。
だが、着地した時には、こよみはすでに間合いを詰めていた。
小柄な身体が、床を滑るような速さで迫る。こよみは左手のライフルを背中へ回し、右手に残した一挺を鈍器のように振り抜いた。
ブラックローズは外套を大きく翻して視界を遮りながら、上体をわずかに引く。
銃床が目の前を掠め、そのまま背後の石壁へ叩き込まれた。
鈍い破砕音とともに壁面が砕け、細かな石片が二人の間へ降り注ぐ。
「近接戦も可能ですか」
「はい」
「知っていました」
「では、驚く必要はありません」
「驚いてはいません」
淡々と会話を交わしながらも、二人の動きは止まらない。
ブラックローズは壁へ片足をかけ、その反動を利用して天井近くまで跳び上がった。梁へ着地すると同時に、こよみの銃口が即座に上を向く。
発砲。
弾丸が梁の表面を削るより早く、ブラックローズは再び床を蹴り、隣室へ通じる扉へ向かって身を投げた。
扉を押し開けて着地すると同時に、解析進捗が意識の中で更新される。
三十六。
三十七。
三十八。
少しずつ進んではいる。
それでも、こよみの追跡速度を考えれば十分とは言い難い。
次の瞬間、背後で壁そのものが砕けた。
こよみは扉を通らず、書斎と隣室を隔てていた壁をライフルで破壊し、最短距離を選んで追ってきたのだ。
「……かなり強引ですね」
「最短経路です」
瓦礫と埃の向こうから、こよみが姿を現す。
サングラスの表面には白い粉塵が付着していたが、表情にも動作にも乱れはない。両手に戻されたライフルの銃口も、変わらず正確にブラックローズを捉えていた。
「ブラックローズ」
「はい」
「投降を推奨します」
「できません」
「では、制圧します」
「そうなりますね」
交渉が成立しないことを互いに確認し、ブラックローズはさらに奥の部屋へ身を翻した。
逃げながら、解析を続ける。
こよみとの距離を保ちながら、思考の大部分を保管庫の電子ロックへ割き続ける。
ただでさえ複雑な認証経路を追いながら、銃口の動きと足音、周囲の地形まで把握しなければならない。少しでも処理の優先順位を誤れば、次の一発を避けられない。
背後では、こよみが進路上の家具や壁を障害物として扱うことなく、必要なら破壊しながら距離を詰めてくる。
廊下へ出れば銃声が反響し、古い飾り棚が砕ける。曲がり角を利用して視界を切っても、こよみは足音と熱源を頼りに追跡を続ける。
ブラックローズは一度も立ち止まれないまま、次の部屋、その先の通路へと移動を重ねた。
黒薔薇の怪盗と、黒服の記録者。
古い洋館の静寂を次々と破壊しながら、二人の追跡戦は地下のさらに奥へと続いていった。




