第55話
銃声が、大広間の静寂を引き裂いた。
雪代こよみは、赤い絨毯の中央から一歩も動いていない。黒いスーツにサングラスという場違いな姿のまま、小柄な身体には不釣り合いな二挺のライフルを左右へ振り分け、逃げる二人を正確に追っていた。
ブラックローズが右へ跳び、怪盗プリンセスが白いマントを翻して左へ駆ける。その直後、二人が立っていた場所へ弾丸が次々と撃ち込まれ、絨毯の下にある石床から鈍い着弾音が連続して響いた。
「っ……!」
ホワイトローズ――桜川恋は、離れた柱の陰で身を縮めた。
撃たれているのは非殺傷弾だ。こよみに三人を殺す意思はない。それは先ほど本人の口から聞いている。
分かってはいる。
だが、柱のすぐ横を弾丸が掠め、石壁の破片が肩へ降りかかる状況で、その言葉を安心材料にするのは無理があった。
「これ、非殺傷って名前だけで普通に怖いんですけど……!」
反対側の石壁へ弾丸が突き刺さり、砕けた欠片がぱらぱらと床へ落ちる。恋は肩をすくめながら、柱の向こうを覗き込んだ。
視界の先では、ブラックローズが黒薔薇の外套を翻しながら、こよみの射線を外していた。
人間には追えないほどの速さではない。それでも、その動きには余分なものが一つもなかった。
ただ弾丸を避けているのではなく、こよみに撃たせる方向を誘導している。視線の向き、銃口の角度、引き金へ添えられた指の動きまで読み取り、最小限の移動で射線から外れていた。
「回避予測を修正」
こよみが短く告げた直後、片方の銃口がわずかに下がった。
ブラックローズが次に着地するはずの地点へ、先回りするように弾丸が撃ち込まれる。だが、彼女は床へ足をつく寸前に外套を翻し、壁際の燭台を蹴って空中で進行方向を変えた。
「……本当に容赦なく撃ってきますわね!」
怪盗プリンセスが扇子を大きく振ると、白い羽根のような煙が一気に広がり、こよみの姿を覆い隠した。
これで一瞬でも動きを止められる。
恋がそう思った直後、煙の奥から平坦な声が返ってきた。
「熱源捕捉」
銃声が響き、煙の中を弾丸が走る。
怪盗プリンセスの足元で石床が弾け、白いマントが大きく揺れた。
「見えなくても撃てますの!?」
「煙幕は視覚遮断としては有効です。ただし、熱源と移動音が残っています」
「解説しながら撃たないでくださいませ!」
紗雪の抗議にも、こよみの射撃は少しも乱れない。
恋は柱へ背中を預け、浅くなった呼吸を整えた。
このまま隠れているだけでは、何の役にも立てない。
ブラックローズと怪盗プリンセスは、こよみの注意を引きながら前へ出ている。
自分には二人のような戦闘能力はないが、後方から周囲を見渡し、逃げ道や遮蔽物の位置を伝えるくらいならできるかもしれない。
恋は意を決し、柱の陰から少しだけ顔を出した。
ところが、そこにいるはずのこよみの姿が消えていた。
「……え?」
つい先ほどまで大広間の中央に立っていた、黒いスーツも、サングラスも、二挺のライフルも見当たらない。
どこへ行ったのか。
そう考えるより早く、背後で空気が揺れた。
「ホワイトローズ、後ろです!」
ブラックローズの声が飛ぶ。
恋が振り返ろうとした瞬間、首元へ硬いものが押し当てられた。
かこん、と乾いた音が鳴る。
「へ?」
次の瞬間には、首と両腕が木製の板に挟まれ、身体の前でまとめて固定されていた。
時代劇か博物館でしか見たことのない、首と両手を同時に拘束する木製の枷だった。見た目は古めかしいが、実際に装着されると腕を引くことも、身体を大きく捻ることもできない。
恋は状況を理解するまで、数秒を要した。
「……え、ちょ、何ですかこれ!?」
「木枷です」
すぐ背後から、こよみの淡々とした声が返ってくる。
「原始的ですが、非戦闘員の無力化には十分です」
「非戦闘員って言い方!」
「訂正します。戦闘能力の低い侵入者です」
「悪化してます!」
恋は木枷から腕を引き抜こうとしたが、手首と首の位置を同時に制限されているため、力を入れることすら難しい。逃げることも、抵抗することもできなかった。
そもそも、拘束されていなくてもまともな反撃などできない。
「桜川さん!」
怪盗プリンセスが、こちらへ向かって駆け出した。
その動きを見たこよみは、片方のライフルを恋の肩越しに構え、銃口を紗雪の足元へ向ける。
「接近は推奨しません」
「人質ですの!?」
「一時拘束対象です」
「同じですわ!」
直後、ブラックローズが床を蹴った。
先ほどまでの回避とは違う。明確に恋を助けるための動きだった。
黒い外套が大きく広がり、こよみと恋の間へ割り込む。それと同時に、怪盗プリンセスが扇子から細いワイヤーを射出した。
こよみは恋を盾にはしなかった。
すぐに一歩横へ退き、飛来したワイヤーをライフルの銃身で弾く。
そのわずかな間に、ブラックローズの指が木枷の留め具へ触れた。
「解析完了。構造は単純です」
「お、お願いします!」
「はい」
かちり、と小さな音が鳴り、首元の圧迫が消えた。
木枷が左右へ開き、恋の両腕と首が解放される。
「下がってください」
「はい!」
恋は外れた木枷を押し退け、ほとんど転がるように近くの柱まで逃げ込んだ。
首も腕も痛めてはいない。撃たれたわけでもない。それでも、心臓だけは胸の内側から飛び出しそうなほど激しく鳴っていた。
「こよみさん、なんでそんな木枷持ってるんですか!?」
「地下洋館内の備品です」
「備品!?」
「展示用ではありましたが、現在も使用可能な代物でしたので活用しました」
「現地調達みたいなノリで使用しないでください!」
こよみは何事もなかったように二挺のライフルを構え直した。
「先ほどの拘束は有効でした。今後も選択肢の候補に入れます」
「候補に入れないでください!」
恋の抗議を聞きながら、ブラックローズは仮面の奥でわずかに目を細めた。
その視線が、こよみから恋へ、さらに大広間の奥にある保管庫の扉へと動く。先ほどまでとは違う形で、状況を組み立て直しているのが分かった。
「このままでは、ホワイトローズが狙われ続けます」
「ええ。雪代さん、桜川さんを優先して無力化しに来ていますわ」
「正確には、最も脆弱性の高い構成員を先に分断する戦術です」
こよみが即座に訂正する。
「その言い方、傷つくんですけど!」
「事実です」
「事実でも!」
ブラックローズは二人のやり取りには加わらず、保管庫へ続く扉を見据えていた。
電子ロックの組み込まれた重厚な扉は、すぐ目の前にある。
目的地までは、あと少し。
だが、こよみが大広間を守っている限り、扉へ近づくことすら難しい。しかも恋がここにいれば、こよみは戦力差の大きい彼女から確実に崩そうとする。
「作戦を変更します」
ブラックローズの声に、紗雪が扇子を構えたまま問い返す。
「どうなさいますの?」
「私が囮になります」
恋は思わず柱の陰から顔を出した。
「囮って」
「こよみをこの大広間から引き離します」
「でも、保管庫のロックは藍さん……じゃなくてブラックローズがいないと」
「解析は継続します」
「ここを離れてもですか?」
「はい」
ブラックローズは、扉に組み込まれた電子ロックへ一瞬だけ視線を向けた。
「先ほど接続した際、内部経路の一部を取得しました。一定の距離内であれば、直接触れていなくても解析を続けられます」
「そんなことできるんですの?」
「できます。ただし、通常より処理負荷が高くなります」
「その状態でこよみさんから逃げるんですか!?」
「はい」
「無茶では!?」
「無茶です」
迷いのない返答に、恋は言葉を失った。
ブラックローズは、当然の前提を確認しただけのように続ける
「ですが、現在の状況では最も成功率が高いと判断します。私がこよみを引きつけている間、プリンセスはホワイトローズを守りながら待機してください。解析が完了し次第、こちらからロックの解除信号を送ります」
「扉が開いたら、わたくしたちが先に保管庫へ入るのですわね」
「はい」
紗雪は保管庫の扉とこよみを交互に見た。
「ですが、あまりにも見え透いた囮ですわ。雪代さんが素直に乗ってくるとは思えませんけれど」」
「そうでもありません。こよみの目的は、保管庫への侵入阻止です。私が解析を完了する前に無力化できれば、大広間そのものへ留まる必要はありません」
「なるほど。防衛するより、解除できる者を倒した方が早い」
「はい。それに、こよみにとってはむしろ私を記録範囲外におく事が1番のリスクです。私との戦闘能力に明確な差がある以上、ここへ残って警戒を続けるより、追跡して無力化する方が確実です」
こよみがどう判断するかまで見越した作戦らしい。
紗雪は数秒だけ黙り、やがて扇子を閉じた。
「……分かりましたわ。桜川さんは、わたくしが守ります」
「獅堂先輩……」
「ただし、もう木枷に捕まるのはおやめなさいませ」
「好きで捕まったわけじゃないです!」
「知っていますわ」
少し離れた場所では、こよみが二挺のライフルを構えたまま三人の会話を待っていた。
「作戦共有は終了しましたか」
「はい」
ブラックローズが正面から答える。
「では、こちらも対応します」
「こよみ」
「何でしょうか、ブラックローズ」
最後まで呼び方を変えるつもりはないらしい。
ブラックローズはわずかに息を吐き、こよみを見据えた。
「あなたが本気で任務を遂行していることは理解しました」
「はい」
「ですが、私たちは進みます」
「阻止します」
「ならば、私を追ってください」
言い終えると同時に、ブラックローズが床を蹴った。
向かったのは大広間の正面にある保管庫ではなく、左奥へ延びる側廊だった。目的地から明確に離れる方向へ、黒い外套をなびかせながら駆けていく。
完全な囮だ。
こよみの銃口が即座に動きを追った。
銃声が響き、放たれた弾丸がブラックローズの外套を掠めて、側廊脇に飾られていた肖像画を撃ち抜く。
それでもブラックローズは足を止めなかった。側廊の扉を押し開け、そのまま奥へ飛び込んでいく。
こよみは迷わなかった。
「追跡します」
短く告げると、二挺のライフルを構えたまま床を蹴った。
黒いスーツの裾が翻り、小柄な身体が一気に加速する。数秒後には、ブラックローズを追って側廊の奥へ姿を消していた。
すぐに、遠ざかる銃声が響き始めた。
距離が離れていくほど音は小さくなるはずなのに、戦闘の激しさはむしろ増している。何かが砕ける音に続いて、重い家具が倒れるような衝撃が響き、さらに壁か柱が抉られるような鈍い音まで重なった。
大広間には、恋と紗雪だけが残された。
「……行っちゃっいましたね」
「行きましたわね」
二人の声が、急に広くなった大広間へ小さく響く。
恋は保管庫へ続く扉を見た。
電子ロックは沈黙したままで、解除を示す表示も出ていない。目的地は目の前にあるのに、自分たちには開けることができなかった。
「どうしましょう」
「待つしかありませんわ」
「待つって……」
「ブラックローズが解析を終えるまでです」
紗雪はそう答えたものの、閉じた扇子を握る手には力が入っていた。
平静を保とうとしているのだろう。だが、先ほどから遠くで響き続ける銃声へ、何度も視線が向いている。
無理もなかった。
囮になったのは榊原藍――今は怪盗ブラックローズを名乗る彼女だ。
相手は雪代こよみ。
純粋な戦闘能力では勝てないと、藍自身がはっきり認めた相手だった。
それでも、彼女は一人で行った。
保管庫のロックを解析しながら、こよみの追撃から逃げ続けるために。
また遠くで大きな音が響き、恋の肩が小さく揺れた。
「……藍さん、大丈夫ですよね」
「桜川さん」
紗雪は、側廊の奥ではなく恋の方を見た。
「はい」
「今は、信じる場面ですわ」
恋はすぐに答えられなかった。
しばらくしてから小さく頷き、震えの残る手を胸元で握り締める。
「……はい」
電子ロックの表示は、まだ変わらない。
二人は遠ざかる銃声を聞きながら、扉が開く瞬間を待ち続けた。




