第54話
博覧会会場の地上部は、いかにも現代的だった。
硝子と金属で構成された外壁。無駄のない照明。壁面に埋め込まれた案内ディスプレイ。人の動線を計算し尽くした通路。どこを見ても、最新技術を扱う企業の施設という印象が強い。
だからこそ、地下へ降りた瞬間、桜川恋は思わず足を止めた。
「……え?」
そこだけが、地上とはまるで異なる時代に取り残されていた。
壁は冷たい石造りで、古びた燭台が等間隔に並んでいる。床には赤黒い絨毯が敷かれ、通路の先には重厚な木製扉がいくつも見えた。
高い天井から吊るされたシャンデリアも、壁に並ぶ誰とも知れない人物の肖像画も、長い年月をそのまま閉じ込めたように薄暗い。
地上の無機質な近未来感とは正反対に、地下には古い洋館の面影がほとんど手つかずのまま残されていた。
「な、何ですかここ……」
白薔薇の怪盗衣装をまとった桜川恋――ホワイトローズが、声を潜めて呟く。
その前を進んでいた榊原藍――怪盗ブラックローズは、仮面越しに通路の先を確認しながら答えた。
「この施設は、元々巨大な洋館の跡地に建てられています。AI-Techが所有した時点で地上部は利便性を優先して改装されましたが、地下部分は元所有者――現在の博覧会主催者の要望により、可能な限り当時の状態で保存されています」
「保存っていうか、普通にホラー映画の舞台ですよね」
「雰囲気はありますわね」
怪盗プリンセスこと獅堂紗雪は、むしろこの状況を楽しんでいるようだった。白いマントを揺らしながら、古びた廊下を軽やかな足取りで進んでいく。
「地上の無粋な近代設備より、こちらの方がよほど怪盗向きですわ。やはり盗みには、歴史と陰影が必要ですもの」
「獅堂先輩、場の空気に飲まれるどころか、完全に自分のものにしてますね……」
「怪盗ですもの」
「便利な肩書きだなあ……」
恋は肖像画から目を逸らし、遅れないよう二人の後を追った。
ブラックローズの足取りには、少しの迷いもない。通路の角へ近づけば手前で速度を落とし、警備カメラの視界が外れる瞬間に滑り込む。足を止める位置も、再び動き出すタイミングも正確で、その一連の動作には淀みがなかった。
怪盗プリンセスも当然のようについていく。こちらは経験の差なのだろう。軋みそうな床板を自然に避け、照明の届かない壁際を選び、必要があれば装飾柱の陰に身を隠す。
問題は、その後ろを歩く恋だった。
「ホワイトローズ。歩幅が乱れています」
「すみません。床が鳴りそうで」
「桜川さん。視線が上に行きすぎですわ。絵画を見るのは後になさい」
「だって怖いんですよ、この絵とか。全部こっちを見てません?」
「見ていません」
「藍さん、即答しないでください」
「視線方向を解析しました」
「解析しないでください。余計怖いです」
薄暗い廊下への恐怖に加え、侵入しているという緊張と、いまだに落ち着かない怪盗衣装まで重なっている。それでも恋は二人から離れないよう、足元へ注意を払いながら進んだ。
やがて、廊下の先から規則正しい足音が聞こえてきた。
警備員の巡回だった。
ブラックローズが無言で片手を上げる。
合図を見た紗雪は、ためらうことなく装飾柱の陰へ滑り込んだ。恋も慌てて周囲を見回し、近くに垂れていた厚手のカーテンの裏へ身体を押し込む。
「っ……!」
布の隙間から廊下を窺うと、二人の警備員がこちらへ近づいてきた。手には懐中電灯があり、腰の通信機からは時折、短い通信音が漏れている。
二人とも会話はせず、周囲へ目を配りながら歩いていた。通常の巡回というより、何かが起こることを前提とした警戒態勢に見える。
恋は口元を押さえ、息を殺した。
だが、カーテンの前を通り過ぎようとした警備員の一人が、ふと足を止めた。
「……今、何か音がしなかったか?」
心臓が大きく跳ねる。
見つかる。
そう思った次の瞬間、廊下の暗がりから黒い影が滑り出した。
ブラックローズは足音一つ立てずに警備員の背後へ回り込み、手袋をはめた指で首元へ触れた。警備員の身体から瞬時に力が抜け、そのまま崩れ落ちる。
異変に気づいたもう一人が振り返るより早く、反対側では紗雪が白い布を大きく翻していた。布の動きに合わせて、ふわりと甘い香りが漂う。
警備員は声を上げることもできず、膝から床へ崩れ落ちた。
「……生きてますよね?」
カーテンの裏から出てきた恋が、倒れた二人を見ながら恐る恐る尋ねる。
「はい。短時間で回復します」
「こちらも睡眠香ですわ。もちろん非致死性です」
「怪盗って、思ったより実用的な道具が多いですね……」
「美学と実用性は両立しますの」
紗雪は何事もなかったように白い布を畳み、袖の内側へ戻した。
一方のブラックローズは、意識を失った警備員を手早く壁際の暗がりへ移動させている。
「巡回ログとの不一致を検知される前に進みます」
「はい」
三人は再び廊下の奥へ向かった。
事前にスコットが警備を強化している以上、本来ならここまで順調に進めるはずがない。警備員の数も、監視機器の密度も、通常より増しているはずだった。
それでもブラックローズは、警備システムの動きを最初から知っているかのように足を進めていく。センサーが反応する範囲を避け、警報へ接続された扉には近づかず、巡回経路が重なる場所では直前に速度を落とす。
どこが安全で、どこから先が危険なのか。恋には見えない境界線を、藍だけが正確に捉えているようだった。
「……なんか、驚くほどあっさり進んでません?」
恋が声を潜めると、紗雪は前方を警戒したまま答えた。
「油断は禁物ですわ。怪盗にとって、順調すぎる道ほど危険なものはありませんの」
「嫌なこと言わないでください」
「ですが、事実ですわ」
その時、ブラックローズが足を止めた。
目の前には、古い洋館の地下には不釣り合いなほど巨大な両開きの扉がそびえている。表面こそ重厚な木製に見えるが、中央には最新式の電子ロックが組み込まれ、隙間からは補強用の金属板も覗いていた。
「この先が大広間です。その奥に、保管庫へ続く通路があります」
「じゃあ、もう少しで……」
「はい。目的地点にかなり近いです」
恋は張りつめていた息を少しだけ吐き出した。
ここまで来た。
本当に、ここまで来てしまった。
この扉の先を抜ければ、解呪の宝珠がある。紗雪の呪いを解く手がかりへ、ようやく手が届くかもしれない。
ブラックローズが電子ロックへ手をかざした。
数秒の沈黙の後、短い電子音が鳴る。
内部のロックが外れ、重い扉が左右へゆっくりと開いていった。
その先には、地下とは思えないほど広大な空間が広がっていた。天井は高く、壁には古びた紋章が飾られ、床の中央を赤い絨毯が奥まで真っ直ぐに伸びている。
絨毯の先には、保管庫へ通じる扉があった。
そして、その前に一人の少女が立っていた。
白い髪を肩口で揃え、黒いスーツに身を包み、目元は濃い色のサングラスで覆われている。左右の手には一挺ずつライフルが握られ、どちらの銃口もこちらへ向けられていた。
雪代こよみだった。
「…………」
恋の思考が止まった。
何をしているのか。
どうしてここにいるのか。
なぜ黒いスーツにサングラスなのか。
そして、なぜ二挺のライフルを平然と構えているのか。
疑問が一度に押し寄せ、どれから口にすればいいのか分からない。
ブラックローズも扉の前で足を止めた。
隣では、怪盗プリンセスが扇子を握る手にわずかに力を込めている。
広い空間を満たしていた静けさが、三人とこよみの間だけで張りつめたものへ変わった。
「……こよみ」
ブラックローズが口を開く。
しかし、こよみの表情は変わらない。サングラスに隠されて視線は読めず、二挺の銃口だけが、三人の動きを正確に捉えていた。
「あなたは誰ですか」
平坦な声が大広間へ響く。
ブラックローズは答えず、こよみを見据えた。
「どうやら、『榊原藍』様ではないそうですが」
その一言に、恋の背中を冷たい汗が伝った。
今夜の藍は榊原藍ではなく、榊原藍に酷似した怪盗ブラックローズである。
そんな無理のある理屈を押し通してきた本人へ、こよみは同じ理屈をそのまま返している。
「では、確認します」
こよみは二挺のライフルをわずかに持ち上げた。
「あなたが、ブラックローズですね」
呼び捨てだった。
雪代こよみが、藍を呼び捨てにした。
いや、今の相手は榊原藍ではない。怪盗ブラックローズなのだから、理屈の上では何も間違っていない。
間違ってはいないのだが、聞いている恋の方が落ち着かなかった。
「こよみ。あなたがここにいる理由を説明してください」
「私はAI-Techから依頼を受け、臨時警備協力員として配置されています」
「スコット氏ですか」
「はい」
「私には報告がありませんでした」
「報告していません」
「なぜですか」
「あなたが『藍様』ではないからです」
こよみは一切表情を崩さなかった。
恋はその横顔を窺いながら、ある考えに行き当たる。
もしかして、怒っているのだろうか。
アメリカでの怪盗遠征へ誘われず、一人だけ置いていかれたことを。
だからといって、黒いスーツとサングラス姿で現れて二挺のライフルを構えるだろうか。
普通ならそんなことはしない。
だが、こよみなら構えるかもしれない。
「ホワイトローズ」
唐突に名前を呼ばれ、恋の肩が跳ねた。
「はいっ!?」
「思考が顔に出ています」
「すみません!」
「内容は問いません。ただし、現在の私は警備協力員です」
「はい……」
「警備員として依頼を受けた以上、侵入者は排除します」
言葉が終わるのと同時に、乾いた銃声が大広間へ響いた。
高い天井へ反響した音に、恋の身体が硬直する。
「――っ!」
頬のすぐ横を鋭い風が抜け、白薔薇の帽子に付いた飾りが小さく弾けた。
弾丸は恋の髪を数本だけ攫い、そのまま背後の壁へ深くめり込んでいる。
一瞬遅れて、自分が撃たれたのだと理解した。
「ひっ……!」
「非殺傷弾です」
こよみは何事もなかったように告げた。
「どうやら『藍様』は、今回の件を大事にするつもりがないようですので、殺すつもりはありません」
「こよみ!」
ブラックローズの声が鋭くなる。
それでも、こよみは動じない。
「ただし、当たりどころが悪ければ骨は折れます」
「ありがたくない警告ですわね……」
紗雪が扇子で口元を隠したまま、低く呟く。
恋は震える指で髪へ触れ、弾丸が掠めた辺りを確かめた。皮膚は切れていない。失ったのも数本の髪だけだった。
それでも、こよみが本気であることは十分に伝わった。
殺すつもりはない。だが、止めるためなら撃つ。
しかも、ためらいなく。
「応援は呼ばないのですか?」
ブラックローズが静かに尋ねる。
「怪盗の美学とやらに免じて、応援は要請しません」
こよみは二艇のライフルを構え直す。
「私一人で制圧いたします」
「随分と自信がありますのね」
紗雪が扇子を開き、腰をわずかに落とした。
こよみは表情を変えずに答える。
「応援を呼んでも、足手まといになりますので」
「補足がまったくありがたくありませんわね!」
「事実です」
再び大広間を沈黙が包んだ。
恋は浅くなった呼吸を整えようとしたが、正面に立つこよみから目を離せない。
黒いスーツ。
サングラス。
二挺のライフル。
生徒会室で淡々と記録を取っている、いつもの雪代こよみとはまるで違って見える。
今夜の彼女は、明確に敵として三人の前に立ちはだかっていた。
「ブラックローズ」
紗雪が声を潜める。
「勝算はありますの?」
ブラックローズはこよみから目を逸らさずに答えた。
「少なくとも、性能上私はこよみに勝てません」
「……今、何と?」
「性能上、私はこよみに勝てません。身体性能と武装を比較した場合、私はこよみに明確に劣ります」
恋の膝から力が抜けかけた。
あまりにも冷静で、救いのない戦力評価だった。
「藍さん……じゃなくて、ブラックローズ。それ、今言います?」
「正確な状況把握は必要です」
「正しくても、聞かされる側の心の準備ができてません!」
「ですが、勝機がないわけではありません」
ブラックローズは姿勢を低くした。肩を覆う黒い外套が、わずかな空気の動きに揺れる。
「こよみは、身体性能と武装の両面で私たちを上回っています。ただし、こちらの目的はこよみを撃破することではありません」
「突破ですわね」
「はい」
紗雪の目つきが変わった。
つい先ほどまでの余裕を含んだ表情が消え、獲物を狙う怪盗の顔になる。
「でしたら、怪盗の本領ですわ」
「え、待ってください。結局戦うんですか?」
恋が慌てて声を上げる。
ブラックローズは振り返らずに指示を出した。
「ホワイトローズ。あなたは後方へ。銃線から外れ、被弾を避けることを優先してください」
「被弾って言葉を普通に使わないでください!」
「プリンセス。左手の柱まで移動できますか」
「当然ですわ」
「私は正面から注意を引きます。その間に――」
「ブラックローズ」
こよみの声が作戦を遮った。
「作戦会議は終わりましたか」
「もう少し待ってもらえますか?」
「できません」
こよみが左右のライフルを同時に構えた。
二つの銃口が、それぞれの逃げ道を塞ぐように三人へ向けられる。
「警告は終了しました」
その瞬間、大広間の照明がわずかに明滅した。
ブラックローズが床を蹴る。
同時に怪盗プリンセスが白いマントを翻し、左側の柱へ向かって駆け出した。
一歩遅れて、恋も息を呑みながら後方へ身を退く。
正面では、雪代こよみが表情一つ変えないまま、二挺のライフルの引き金へ指をかけていた。
もう止まらない。
記録者が守る大広間で、怪盗たちの夜は、再び響いた銃声とともに幕を開けた。




