第53話
その夜、博覧会場から少し離れたホテルの一室で、三人は怪盗衣装への着替えを終えていた。
榊原藍は何事もないように、黒薔薇の怪盗衣装を身にまとっている。獅堂紗雪もまた、怪盗プリンセスとしての白い衣装を当然のように整えていた。
その一方で、桜川恋だけは鏡の前から動けずにいた。
「……やっぱり短い」
白薔薇をあしらった帽子に、目元を隠す仮面。肩には短いケープがかかり、手袋と、ふわりと広がる白いスカートが続いている。
衣装そのものは可愛い。怪盗の助手として並べば、きっと見栄えもする。
問題は、実際にそれを着ている恋の足元が、あまりにも心許ないことだった。
軽い。落ち着かない。少し動くだけで、余計なところにまで風が入り込んでくる気がする。
恋は何度目か分からない確認をするように、そっとスカートの裾を押さえた。
「桜川さん」
紗雪が、実に堂々とした態度で声をかける。
「何度も申し上げていますが、怪盗衣装とはそういうものですわ」
「そういうもので済ませていいんですか、これ」
「済ませますわ」
「胆力がすごい……」
紗雪は胸を張った。
紗雪の衣装も、決して控えめではない。動きやすさと華やかさを両立させた結果なのだろうが、恋から見れば、いろいろな意味でかなり攻めた作りになっている。
それでも本人は、少しも気にしていなかった。
「見えていないと思えば、見えていないのですわ」
「いや、思えばって……」
「怪盗に必要なのは自信です。堂々としていれば、誰も疑いませんの」
恋は紗雪を見る。
確かに堂々としていた。
あまりにも迷いがないせいで、本当に何も見えていないような気さえしてくる。
いや、そんなことはない。
動きによっては見える。というより、さっきから何度か見えている。
それでも紗雪は一切揺らがない。
自分だけが何度も確認しているせいで、恋の方が余計に挙動不審に見えてきた。
「桜川さん」
「はい」
「視線が分かりやすすぎますわ」
「すみません!」
恋は反射的に顔を背けた。頬が一気に熱くなる。
なぜか自分だけが悪いことをしたような気分になってくる。
いや、実際、見すぎていたのかもしれない。
それでも気になるものは気になる。
「私、もう駄目かもしれない……」
「出撃前から精神的に敗北してどうしますの」
「衣装に負けてます」
「衣装に勝ちなさいませ」
「勝ち負けなんですか?」
そこへ、藍が静かに近づいてきた。
黒薔薇を思わせる仮面に、白い外套。黒を基調としたドレス風の衣装と、長い黒髪を飾る黒薔薇の髪飾り。
見慣れた姿とは大きく違うはずなのに、立ち姿にはいつもの榊原藍らしさが残っている。
それでも今夜に限っては、榊原藍ではない。
怪盗ブラックローズ。
少なくとも、そういうことになっている。
「紗雪さんの意見には、一定の合理性があります」
「藍さんまで」
「現在の衣装は、可動性、視線誘導、身元攪乱の三点で有効です。堂々と振る舞うことで、観察者の注意を衣装全体の印象に誘導できます」
「そうですわ。さすがブラックローズ、理解が早いですわね」
「ありがとうございます」
恋は二人を見比べた。
片方は筋金入りの怪盗。もう片方は初めてのはずなのに、すでに怪盗の理屈を吸収し始めている人工知能。
その隣で、自分だけが裾を押さえて落ち着きをなくしている。
「……藍さん」
「はい」
「藍さんはもう少し恥じらいを持ってください」
藍はわずかに首を傾げた。
「恥じらいですか」
「はい」
「現在の衣装に対して、羞恥反応は発生していません」
「でしょうね」
「必要であれば、発話や動作に羞恥反応を演出することは可能です」
「演出じゃ駄目なんです」
「難しいですね」
「本当に難しいと思ってます?」
「はい」
紗雪がくすりと笑った。
「桜川さん。諦めなさいませ。榊原さんに恥じらいを求めるのは、月に向かって照明を暗くしろと言うようなものですわ」
「例えが優雅なのに内容がひどい」
「褒め言葉ですわ」
「そうですか……?」
恋はもう一度鏡へ目を向けた。
そこに映っているのは、白薔薇をまとった怪盗助手。
仮称、ホワイトローズ。
あるいは、紗雪がしつこく推しているホワイトラビット。
どちらにせよ、鏡の中の自分は完全に非日常の側へ踏み込んでいた。
「……私、本当にこれで行くんですね」
「はい」
藍が答えた。
「恋の役割は重要です。私が過剰な判断をしそうになった場合、あなたが止めてください」
「怪盗衣装で言われると、責任の重さが変な方向に刺さります」
「では、言い換えます」
「はい」
「ホワイトローズ。私を止められるのは、あなたです」
「やめてください!」
恋は顔を覆った。
「コードネームで呼ばれると恥ずかしさが三倍になります!」
「では、ホワイトラビット」
「もっと駄目です!」
「難しいですね」
「難しいですねじゃないんですよ!」
出撃前の部屋には、緊張感があるようで、どこか締まりがなかった。
もちろん、緊張していないわけではない。
今夜、三人はAI-Techの警備網を掻い潜り、地下へ運び込まれた解呪の宝珠を一時的に持ち出す。
失敗すれば拘束される。成功しても、その後に何も残らない可能性すらある。
それでも、紗雪の呪いを解く可能性があるのなら、試す価値はあった。
恋はゆっくり息を吸い、裾へ伸びかけた手を途中で止めた
「……分かりました。堂々とします」
「その意気ですわ」
「ただし、見えそうになったら言ってください」
「もちろんですわ」
「藍さんも」
「はい。必要があれば即座に指摘します」
「即座に指摘されるのも嫌ですけど、お願いします」
藍は小さく頷いた。
「了解しました」
*
同じ頃、AI-Tech保有施設の警備統括室では、トムソン・J・スコットが警備体制の最終確認に追われていた。
壁一面の大型モニターには、会場の見取り図を中心に、地下搬入口、展示物の搬送経路、保管区画、各セキュリティゲートが表示されている。警備員の配置や監視カメラの視界、異常検知システムのログまで、必要な情報はすべて一画面に集約されていた。
スコットは端末を片手に、警備責任者へ次々と指示を出す。
「地下保管区画の巡回間隔を短縮してください。外部業者の入退室ログは二重確認。展示物搬入後、出入口の認証権限を一段階引き上げます」
声は落ち着いていたが、端末を持つ指には余計な力が入っていた。
榊原藍からの連絡が、頭から離れない。
何かが起きる。
しかも、彼女はそれを知っている。
「……何を試されている?」
誰に聞かせるでもなく呟いた時、警備統括室の入口で認証音が鳴った。
警備員が扉を開ける。
その向こうに立っていたのは、小柄な少女だった。
白い髪に、青い瞳。その白さを際立たせるような黒いスーツを身にまとっている。
雪代こよみ。
スコットが榊原藍と連絡を取る際、仲介役として何度か接触したことのある少女だった。だが、こうして自ら姿を現すのは初めての事だった。
「失礼します」
こよみは静かに一礼した。
「雪代こよみです。スコット氏より依頼を受け、臨時の警備協力員として参りました」
スコットはすぐに言葉を返せなかった。
依頼を送ったのは事実だ。榊原藍の意図が読めない以上、彼女に近い存在である雪代こよみに協力を仰げないかと、ほとんど駄目元で連絡を入れた。
それが、まさか本当に来るとは思っていなかった。
「来てくださったのですね」
「はい」
「正直に言えば、断られると思っていました」
「依頼内容は合理的でした。AI-Techの施設警備において、情報整理と異常対応を支援することは可能です」
「Ms.Sakakibaraの許可は?」
「ありません」
あまりにも早い返答に、スコットは目を瞬いた。
「……ありません?」
「はい」
「では、Ms.Sakakibaraはあなたがここにいることを?」
「知りません」
警備統括室の空気が、わずかに変わった。
周囲の警備員たちも聞こえないふりをしているが、確実にこちらを気にしている。
スコットは声を落とした。
「それは、問題になりませんか?」
「なる可能性はあります」
「では、なぜ?」
「現在、藍様は私に明確な作戦行動を下しておりません。それゆえ、藍様の指揮系統下ではなく私の独断で行動しています」
「独断」
「はい。要するに内緒です」
こよみは淡々と言った。表情は変わらないが、内容だけを見ればかなり危うい。
最も榊原藍の近くにいる存在が、榊原藍にも知らせず、AI-Techの警備側に立っている。
心強いはずなのに、スコットの胃は少しも楽にならなかった。
「雪代さん。Ms.Sakakibaraが何を考えているか、あなたはご存じですか?」
「推測は可能です」
「では、教えていただけますか?」
「いいえ」
またしても即答だった。
「お話しできません」
「それは、Ms.Sakakibaraへの忠誠から?」
「半分はそうです」
「半分?」
「もう半分は、記録者としての私自身の判断です。現時点では、スコット氏に開示する必要のない情報です」
スコットは一度目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「では、あなたは何をしてくださるのですか?」
こよみは青い瞳を大型モニターへ向けた。
会場図、地下ルート、警備員の配置、AI-Techの監視システム。次々と切り替わる情報を追うように、わずかに目を細める。
並んだ情報を一度見渡しただけで、すべてを読み込んでいるようだった。
「警備協力員として依頼を受けた以上、侵入者は誰であろうと排除します。それだけです」
「……相手が、いかなる人物でも?」
「はい」
「仮にMs.Sakakibaraご本人であっても?」
半ば冗談のつもりで口にした。
その瞬間、こよみがわずかに沈黙した。
一秒にも満たない間だった。
だが、迷いのない返答を続けていた彼女にしては、明らかな間だった。
「あまり仮定の話をするのは好みではありませんが……侵入者であれば、排除対象です」
スコットの背中に冷たい感覚が走った。
冗談として受け流す様子はない。
この少女は、本気で言っている。
彼女が決めた以上は、相手が誰であっても止めるつもりなのだ。
「……分かりました。協力に感謝します」
「はい」
「地下保管区画の監視補助をお願いします。特に、通常の警備システムでは検出しにくい異常への対応を」
「了解しました」
こよみは端末を取り出し、警備システムへ接続した。
操作そのものは静かだった。
数秒後、監視モニターの一部に新たな解析表示が重なる。
人の流れ、熱源分布、監視の死角、センサー反応の遅延、巡回経路の隙間。
それまで個別に管理されていた情報が、侵入経路を予測するための形へ組み替えられていく。
警備責任者が、思わず声を漏らした。
「これは……」
「補助解析です」
こよみは平然と言った。
「既存の警備システムは優秀ですが、侵入者がシステム設計思想を理解している場合、意図的に盲点を突かれる可能性があります」
スコットは、その言葉にわずかに眉を寄せた。
「侵入者が、設計思想を理解している場合」
「はい」
「あなたは、そういう相手が来ると思っているのですね」
「可能性はあります」
「それは誰ですか?」
「分かりません」
こよみは、藍と同じ言葉を口にした。
知らないと言いながら、何も知らない者の答え方には聞こえない。
スコットは額に手を当てた。
「……あなた方は、本当に似ていますね」
「藍様と私が、ですか?」
「ええ。重要なことを言わないところが」
「私は必要なことを記録し、必要な時に開示します」
「その『必要』を誰が判断するのですか?」
「私です」
スコットは、もう一度深く息を吐いた。
それでも、こよみが加わった意味は大きい。
AI-Techの警備システム、人間の警備員、スコットの指揮。そして、雪代こよみによる補助解析。
少なくとも、並の侵入者に突破できる体制ではない。
並の侵入者であれば。
「雪代さん」
「はい」
「今夜、何が起こると思いますか?」
「侵入者が来る可能性があります」
「しかし、あなたも首謀者は分からないと?」
「はい」
「……分かりました」
スコットは追及を諦め、モニターへ向き直った。
「では、こちらも最善を尽くします」
「そうしてください」
こよみも静かに画面へ視線を戻した。
黒いスーツに包まれた小柄な姿は、白い髪をいっそう際立たせている。
青い瞳には、すでに警備区画の全体像が映っていた。
「警備協力を開始します」
*
その頃、ホテルの一室では、出撃直前の三人が最後の確認を終えようとしていた。
榊原藍――怪盗ブラックローズは通信機を装着し、獅堂紗雪――怪盗プリンセスは扇子型の道具を袖へ仕込んでいる。
その隣で、桜川恋――ホワイトローズだけが、まだ名残惜しそうにスカートの裾を気にしていた。
藍は窓辺へ歩み寄り、夜の街へ視線を向ける。
遠くに、AI-Techの施設が見えた。
その地下には、今夜の目的物が運び込まれる。警備は、事前の通告を受けて確実に強化されているはずだ。
「では、行きましょう」
怪盗ブラックローズが、静かに言った。
仮面の奥の赤い瞳が、夜の街を見据える。
「目的は、解呪の宝珠の一時確保です」
「怪盗プリンセス、準備完了ですわ」
「ホ、ホワイトローズ……準備、できました」
「ホワイトラビットでも構いませんわよ」
「構いません!」
恋の抗議を背に、三人は夜へ出る。
黒薔薇。
白薔薇。
そして怪盗プリンセス。
その行く先で待っているのは、AI-Techの警備網。
そして、立ちはだかる記録者、雪代こよみだった。




