第52話
早朝、まだ空が青くなりきる前に、桜川恋は獅堂家の敷地内に立っていた。
目の前にはチャーター機があり、横には私服姿の獅堂紗雪がいる。さらにその隣には、同じく私服姿の榊原藍が、いつもと変わらない顔で立っていた。
恋はその光景を見ないようにしながら、心の中で何度も唱えた。
これは修学旅行。
これは修学旅行。
これは修学旅行。
青葉第二高等学校には、修学旅行という行事が存在しない。県内有数の進学校として進学実績を最優先する校風の中、宿泊行事は最低限に抑えられている。同級生たちが他校の修学旅行話を聞いて羨ましがるたび、恋も少しだけ寂しく思っていた。
だから、これはその代わりだ。
アメリカに行く。飛行機に乗る。海外の博覧会を見る。
うん。修学旅行だ。桜川恋の人生から姿を消したと思われた、修学旅行そのものだ。
解呪の宝珠を盗むための下見とか、AI-Techの警備を掻い潜るとか、榊原藍が生まれて初めて怪盗になるとか、そういう細かいことを考えてはいけない。
「恋」
「はい」
「何をしているのですか」
「修学旅行だと思って正気を保ってます」
「これは修学旅行ではありません」
「お願いですから今正論を言わないでください。正気が保てなくなりそうなので」
「分かりました」
藍は素直に引き下がった。
その横で、紗雪が優雅に扇子を開く。
「桜川さん。怪盗遠征と修学旅行は、似たようなものですわ」
「どこがですか」
「非日常、移動、同行者、目的地での学び」
「最後の『学び』に犯罪性が混じってません?」
「怪盗にも学びは必要ですわ」
「嫌な教育方針……」
恋は頭を抱えた。だが、もう引き返せない。
獅堂家のチャーター機は、予定通りアメリカへ向けて飛び立った。
*
長時間の移動を終えてアメリカに到着した時、恋の感覚は半分ほど死んでいた。
時差と移動疲れと緊張、そこにこれからやることへの現実感のなさが混ざり合い、頭の中がずっと足場のない場所に浮いているようだった。
けれど、榊原藍は平然としていた。獅堂紗雪も、さすがお嬢様というべきか、長距離移動には慣れている様子だった。
「……二人とも元気ですね」
「この程度で怪盗は倒れませんわ」
「私は疲労を感じにくい構造です」
「答えの方向性が違いすぎる」
到着後、三人はまず宿泊先に荷物を置き、私服姿のまま博覧会の会場へ向かった。表向きは観光客、あるいは海外の博覧会を見に来た学生たち。もちろん、実際の目的は下見である。
会場は、AI-Techが保有する大型施設だった。広大な敷地に近未来的な建物が並び、展示ホール、会議棟、地下搬入口、来賓用エリア、セキュリティゲートまで揃っている。博覧会というより、国際会議でも開けそうな規模だった。
入口で足を止めた恋は、建物を見上げたまま言った。
「……ここ、AI-Techの施設なんですよね?」
「はい」
「そもそもAIの企業が博覧会の会場を提供する必要ってあります?」
「ありません」
藍は即答した。
「本来、AI-Techはこの博覧会と事業上の直接的な親和性が高くありません」
「じゃあ、なんで協賛してるんですか?」
「四代ほど前のCEOと主催者の間に、個人的な縁がありました。その関係で、長年協賛を続けています。私を製造するよりももっと前、まだAI-TechがAI企業ですらないただのIT企業の時代の話です」
「昔からの付き合いってことですか」
「はい。ですが、現在のCEOの体制では、協賛継続に積極的ではありません」
紗雪が周囲の案内看板を眺めながら言った。
「まあ、当然ですわね。古美術、民俗資料、秘宝伝承、考古学展示。そこに最新AI企業が混ざっていても、浮きますもの」
「実際、浮いています」
藍は会場内の一角を指した。
AI-Techの展示ブースには、最新AIを用いて再構築された歴史的建造物の三次元映像や、AIが補完した欠損美術品の再現展示、失われた都市景観の仮想復元などが並んでいた。
技術としては、間違いなくすごい。恋にもそれは分かる。
ただ、周囲の展示が『古代王朝の祭具』や『伝承に残る宝石』や『中世の錬金術資料』である中、AI-Techの展示だけが明らかに未来から来ていた。
「……浮いてますね」
「はい」
「来てる人たち、これ興味あります?」
「一部の技術関心層にはあります。ただし、この博覧会の主来場者層とは一致しません」
「でしょうね……」
藍は淡々と続けた。
「さらに、来場者の中には反AI的な思想を持つ層も一定数存在します。AI-Techとしては、ブランド露出よりリスクの方が大きいと判断しても不思議ではありません」
「社長さんが協賛を降りたがってたのも分かりますね」
「はい。ですが、過去の経緯と主催者側への配慮から、現時点では継続されています」
紗雪は扇子を開き、口元を隠した。
「そして、その都合の悪い協賛関係のおかげで、わたくしたちにとっては完全なアウェーではないということですわね」
「はい」
「皮肉ですわ」
「有効活用です」
「榊原さんの言い換えは、本当に便利ですわね」
恋は会場を見回した。
一般公開初日ということもあり、すでにそれなりの人が入っている。ただし、目的の『解呪の宝珠』はまだ展示されていない。本命は明日、公開二日目。その前夜、展示物が地下保管区画へ運び込まれる。
そこが、唯一の隙だった。
「今夜なんですよね」
「はい」
藍は小さく頷いた。
「展示が開始されれば、一般来場者、報道関係者、出展者、警備員の視線が増えます。そこで異常が発生すれば、隠蔽は困難になります」
「搬送中は?」
「移動経路が限定されます。警備は比較的緩いですが、走行中は関係者以外の目が多い」
「つまり、地下に運び込まれた後が最適」
「その通りです。閉鎖区画であれば、事後処理の余地があります」
恋は小声で言った。
「……事後処理って言い方が怖いです」
「実際、重要です」
「盗みが発覚しても、一般人の目がない時間帯なら無かった事にできるってことですよね」
「はい」
「分かってきた自分が嫌です」
紗雪は満足げに頷いた。
「桜川さん、立派に怪盗思考が育ってきましたわね」
「育てないでください」
「才能がありますわ」
「いりません」
藍は会場図を確認しながら言った。
「ただし、今夜の警備は通常より強化される可能性があります」
「え、どうしてですか?」
「私がこれから警告を入れるためです」
恋は固まった。
「はい?」
「AI-Tech側に、今夜何者かによって展示物が一時的に奪われる可能性があると伝えます」
「なんでですか!?」
恋は思わず声を上げかけ、慌てて口を押さえた。
「今から盗みに入るのに、なんで警戒強化させるんですか!?」
「いくつか理由があります」
「聞く前から嫌な予感がします」
「ですが、それは連絡が終わってから恋にお話しします」
藍は人の流れから少し外れた会場の隅へ移動し、端末を取り出して通信を開始した。恋と紗雪は数歩離れた場所でそれを見守る。
「誰に連絡するんですか?」
「トムソン・J・スコット氏です」
「トムソン……CEO本人!?」
「はい」
「いきなりラスボスみたいなところに電話する……」
「彼はAI-Techの現CEOですから、会場施設に関する責任者として情報共有が必要です」
「その情報、共有された側が気の毒すぎません?」
「必要です」
*
通信はすぐに繋がった。
画面越しに現れたのは、金髪の男性だった。
トムソン・J・スコット。AI-Tech社の現CEOであり、数々の巨大企業を率いてきた天才経営者。そして、榊原藍の存在と正体を知る数少ない人間の一人である。
『Ms.Sakakibara。こちらに直接ご連絡とは、珍しいですね』
スコットの声には、礼儀正しさと緊張が混じっていた。画面の向こうでも、彼は姿勢を正している。
榊原藍から直接連絡が来る。それは、一世を風靡する先進企業AI-TechのCEOにとっても平常業務ではないらしい。
「突然の連絡、失礼します。Mr. Scott」
『いえ。何か問題が発生しましたか?』
「はい」
藍は静かに告げた。
「今夜何者かによって、博覧会のとある展示物が一時的に奪われる可能性があるとの情報を得ました」
スコットの表情が変わった。
『展示物が奪われる、ですか』
「はい」
『対象は特定できていますか?』
「候補はいくつかあります」
『すぐに候補となる展示物をすべて隔離します。主催者と警備責任者にも連絡を――』
「その処置は不要です」
藍が遮ると、スコットは明らかに戸惑った。
『不要、ですか?』
「はい。展示予定と搬入手順は変更しないでください」
『しかし、盗難の可能性があるのであれば、事前隔離が最も確実です』
「いいえ。通常通り進めてください」
『Ms.Sakakibara、それは……』
「万が一盗まれたとしても、その事実は隠蔽してください」
画面の向こうで、スコットが一瞬言葉を失った。
恋は遠くからそれを見て、心の中で謝った。
スコットさん、ごめんなさい。たぶん今、あなたが正しいです。
『隠蔽、ですか』
「はい」
『理由を伺っても?』
「盗品は、おそらく公開までには戻ってくるはずです。事を大きくしなくても大丈夫です」
『戻ってくる、はず……』
スコットの眉間に皺が寄る。
『Ms.Sakakibara。犯行内容をかなり詳細に把握されているように聞こえます。首謀者は誰ですか?』
「分かりません」
即答だった。
『分からない?』
「はい」
『しかし、今夜、特定の展示物が一時的に奪われ、公開までに戻る可能性がある。そこまで分かっていて、首謀者は不明なのですか?』
「はい」
恋は胃のあたりを押さえた。
知らぬ存ぜぬの一点張り。しかも、嘘をついているというより、質問に対して必要以上の情報を出さない機械みたいな答え方だった。スコットが不審に思わないはずがない。
『Ms.Sakakibara』
スコットの声が、少しだけ慎重になった。
『この博覧会は、AI-Techにとって重要案件というほどではありません。少なくとも、あなたが直接気にかけるような規模の問題ではないはずです』
「そうですね」
『それなのに、あなたは盗難の可能性を直接知らせ、なおかつ隠蔽を求めている』
「はい」
『……何が起きるのですか?』
「展示物が一時的に奪われる可能性があります」
『それは先ほど伺いました』
「現時点で共有可能な情報は以上です」
スコットは黙った。
画面越しでも、完全に納得していないことは分かる。それでも、榊原藍がこれ以上話す気がないことも理解しているのだろう。
『分かりました。では、警備は通常通り維持しつつ、内部共有範囲を限定します』
「いいえ」
『いいえ?』
「警戒は強化してください」
スコットはまた固まった。
『隔離は不要。しかし警戒は強化する。そういう理解でよろしいですか?』
「はい」
『……率直に申し上げて、非常に矛盾した指示に見えます』
「矛盾はしていません」
『では、何を試されているのですか?』
「盗まれても問題がないからと言っても、警戒は怠らないでください」
藍の声が、少しだけ硬くなった。
「いいですか、あっさり突破されましたでは許されません」
スコットの背筋が伸びた。
その言葉は、AI-TechのCEOにとって明確な圧だった。
『……承知しました。警備レベルを引き上げます。ただし、表向きは通常運用の範囲に収めます』
「お願いします」
『Ms.Sakakibara』
「はい」
『最後に一つだけ。今回の件に、あなたはどの立場で関与されていますか?』
「情報提供者です」
『それ以上ではなく?』
「はい」
『本当に?』
「はい」
スコットは、明らかに信じていない顔をした。
だが、それ以上追及しても答えは得られないと判断したのだろう。
『分かりました。こちらで対応します』
「ありがとうございます、スコット氏」
『Ms.Sakakibara。念のため申し上げますが、嫌な予感がします』
「その感覚は有効です」
『……それは、どういう意味でしょうか』
「警戒を怠らないでください」
それだけ告げて、藍は通信を切った。
画面が暗くなる。
スコットの動揺した顔が、最後まで残っていた。
*
恋はしばらく口を開けなかった。
やがて、確かめるように藍へ顔を向ける。
「藍さん」
「はい」
「今の、かなりひどくないですか?」
「必要な情報共有です」
「スコットさん、絶対疑ってましたよ」
「はい」
「いいんですか?」
「疑うことは自然です」
「自然だから問題なんですよ」
恋は両手で顔を覆った。
「しかも、わざわざ警備強化させるなんて……本当に大丈夫なんですか?」
「リスクは上がります」
「上がるんじゃないですか!」
「ただし、得られる利益もあります」
藍は指を一本立てる。
「第一に、AI-Tech側は事前に警戒を強化したという事実を持てます。仮に盗難が発覚しても、会場提供者として最低限以上の対応を行っていたと抗弁できます」
「つまり、AI-Techに責任をなすりつけられにくくなる」
「はい」
「……自分たちで盗むのに?」
「榊原藍は盗みません」
「まだ言う」
藍は二本目の指を立てる。
「第二に、もし私たちが捕捉される場合、外部警備や現地当局ではなく、AI-Tech側の警備網に捕捉される方が望ましい」
「望ましいって言い方が嫌です」
「AI-Tech側であれば、情報遮断や事後処理が容易です。拘束後に拷問される心配もありません」
「捕まる前提で話さないでください」
「捕まらない前提だけで計画するのは危険です」
「正論なのに内容が全部おかしい」
藍は三本目の指を立てた。
「第三に、AI-Techの警備システムを実地で評価できます」
「やっぱりテスト目的もあるんですね」
「はい」
「スコットさん、かわいそうすぎません?」
「彼には適切な緊張感が必要です」
「CEOを受験生みたいに扱わないでください」
紗雪は隣で小さく笑った。
「けれど、榊原さんらしいですわね」
「どのあたりがですか?」
「自分が盗みに入る予定の施設に、事前に警告を入れて、警備を強化させ、その上で突破するつもりなのでしょう?」
「榊原藍は盗みに入りません」
「はいはい。黒薔薇の怪盗・ブラックローズ、でしたわね」
紗雪は扇子を閉じる。
「怪盗としては、嫌いではありませんわ。困難な舞台ほど、華がありますもの」
「獅堂先輩までテンション上げないでください」
「桜川さん。怪盗とは、逆境にこそ輝くものですわ」
「私は逆境で普通に曇ります」
恋は会場の奥へ目を向けた。
AI-Techが保有する巨大施設。最新鋭の警備網。その地下へ運び込まれる古代の秘宝。そして、それを狙う三人。
いや、三人というだけでは足りない。
怪盗プリンセス。
黒薔薇の怪盗。
そして、白薔薇の助手。
肩書きまで並べると、今さらながら頭が痛くなってくる。
「……本当に、今夜なんですね」
「はい」
藍は静かに答えた。
「地下への搬入が完了した後に動きます」
「獅堂先輩の呪いを解く可能性がある宝珠を、一時的に確保する」
「はい」
「……言い換えても、やっぱり盗みですよね」
「一時的な確保です」
「藍さん」
「はい」
「今夜だけは、その言い換え禁止です」
藍は少し考えた。
「分かりました」
「本当に?」
「はい。今夜、榊原藍に似た何者かが、展示物を盗みます」
「言い直されると余計に頭痛いですね」
「すみません」
紗雪は微笑んだ。
「よろしいではありませんか。これで舞台は整いましたわ」
確かに、舞台は整った。
ただし、そこへ至るまでに積み重なったものが多すぎて、恋の正気はもうかなり擦り減っている。
それでも、逃げようとは思わなかった。
満月の夜、巨大な獣へ変わった紗雪を見た。
その翌朝、何も知らないはずの紗雪が、怯えを隠すように声を荒らげる姿も見た。
恋は短く息を吐いた。
「……分かりました」
恋は息を吐いた。
「本当に、やるんですね」
「はい」
「私は、藍さんがやりすぎそうになったら止めます」
「お願いします」
「獅堂先輩が趣味に走りそうになっても止めます」
「なぜわたくしまで?」
「前科があります」
「失礼ですわね」
藍は再び会場の奥へ視線を向けた。
その先には地下搬入口がある。目的の宝珠は、まだ到着していない。
警備が最も緊張し、それでいて異常が起きても情報を封じやすい時間帯。
黒薔薇の怪盗が初めて舞うには、あまりにも厄介で、だからこそ似つかわしい夜だった。
*
同じ頃、AI-Tech施設内では、通信を切られたトムソン・J・スコットが、暗くなった画面を見つめたまま動けずにいた。
「……Ms.Sakakibaraほどのお方が、首謀者が分からない?」
誰に聞かせるでもなく呟き、すぐに首を横へ振る。
「そんなわけがない」
説明のつかない違和感だけが残っていた。
榊原藍が直接関与している。それだけで、ただの盗難未遂では終わらない。
スコットは端末を操作し、警備責任者へ連絡を入れた。搬入手順は変えず、表向きの運用も崩さない。そのうえで、内部の警戒だけを確実に引き上げる。
指示を出し終えても、胸の内に残った疑念は消えなかった。
「……これは、試験なのか?」
返事のない部屋に、問いだけが落ちる。
その予感は、半分だけ当たっていた。
確かに、これは試験だった。
試験官は榊原藍。
試されるのはAI-Techの警備システム。
そして、その警備を突破しようとしている侵入者もまた、榊原藍本人だった。




