第51話
獅堂家の衣装部屋の隣には、訓練室があった。
訓練室、という名前だけならまだ分かる。けれど、桜川恋が足を踏み入れたそこは、一般家庭にある部屋の範囲を完全に越えていた。
天井は高く、壁には衝撃吸収材が張られ、床には厚いマットが敷かれている。片側には展示ケースを模した訓練用ガラスケース。反対側には赤外線センサー、足場、ロープ、ワイヤー、投擲用の小道具が整然と並んでいた。
恋はその光景を前に、しばらく黙った。
獅堂家には、怪盗を育てる施設まである。
「……獅堂先輩」
「何ですの?」
「ここ、本当にご自宅ですよね?」
「ええ。獅堂家の訓練室ですわ」
「怪盗前提の訓練室が家にあるの、だいぶ終わってませんか?」
「失礼ですわね。元々は護身術と舞踏練習用ですわ」
「舞踏練習用からワイヤーと赤外線センサーは生えないと思います」
恋がそう言うと、獅堂紗雪は扇子を開き、口元を隠した。衣装部屋にいた時と同じように、怪盗に関わる話になると、どこか得意げな空気がにじむ。
「細かいことを気にしていては、夜を舞えませんわよ」
「私、夜を舞いたくて来たわけじゃないんですけど……」
その横で、榊原藍は黒薔薇の怪盗衣装のまま、机の上に並べられた道具を一つずつ確認していた。
どれも見慣れないものばかりだったが、その中に一つだけ、紗雪にも覚えのあるものが混じっていた。
透明に近い細いワイヤー。
以前、博物館裏で獅堂紗雪を拘束した、あの簡易ファイバーだった。
「榊原さん」
紗雪の声が低くなった。
「それ、わたくしを捕まえた時のものですわね?」
「はい」
「堂々と持ってこないでくださる?」
「今回の任務に応用可能と判断しました」
「わたくしに使った道具を、わたくしの前で怪盗道具扱いする神経、なかなかですわね」
「有効性は実証済みです」
「実証対象がわたくしなのですけれど!?」
恋は少し離れた場所で、そのやり取りを聞いていた。
白薔薇の怪盗衣装。短めのスカート。追加されたケープ。衣装部屋で多少は落ち着いたつもりだったが、こうして訓練室に来ると、動くたびにまた裾が気になる。
恋はそっとケープの位置を直しながら、藍の手元のワイヤーを見た。
「藍さん、それ危なくないですか?」
「通常使用では危険性を抑えています」
「通常使用じゃない時があるんですか?」
「誤作動、誤操作、想定外の接触が発生した場合です」
「それを危ないって言うんですよ」
「そのため、事前に試験します」
藍はワイヤーの小型射出装置を手に取り、訓練室の中央へ向かった。その動きに迷いはない。怪盗衣装を着ていても、やっていることはいつもの藍だった。
「これは対象を傷つけず、動きを制限するための拘束ファイバーです。一定以上の力が加わると締めつけを自動調整し、血流阻害を避ける構造になっています」
「説明だけ聞くと安全そうですけど、実物を見ると不安しかないです」
「恋は触れないでください」
「触りませんよ」
「特に、その足元のラインを越えないでください」
「足元?」
恋は下を見た。
床には薄く白い線が引かれている。訓練用の目印らしいが、衣装の裾とケープに気を取られていた恋は、自分の靴先がその線にほとんど触れていることに気づくのが遅れた。
ぴ、と小さな電子音が鳴った。
「……え?」
次の瞬間、床から何かが跳ねた。
細いワイヤーが恋の足首に絡み、腰のあたりをすくい、肩の下を通って、あっという間に身体を支えた。
「ひゃっ!?」
視界が反転した。
床が遠ざかる。天井が近づく。白いケープがふわりと揺れ、帽子が落ちそうになり、仮面が少しずれた。
気づいた時には、恋は訓練室の中央で宙吊りになっていた。
「…………」
「…………」
「…………」
訓練室に沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは、宙吊りになった本人だった。
「藍さん」
「はい」
「これ、何ですか」
「誤作動ではありません。正常作動です」
「そこを聞いてるんじゃないです!」
恋は空中でじたばたしようとした。
恋は空中で身じろぎしようとした。けれどワイヤーは絶妙な位置で身体を支えていて、暴れても大きくは動けない。痛くはない。苦しくもない。
ただ、今すぐ床に戻りたかった。
「桜川さん!」
紗雪が慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですの!?」
「身体は大丈夫です! 精神が大丈夫じゃないです!」
「榊原さん! 早く下ろしなさいませ!」
「待ってください。姿勢安定性を確認しています」
「確認している場合ですの!?」
「安全な降下手順を選択しています」
「では早く選択なさいませ!」
藍は端末を操作しながら、恋を見上げた。
「恋。痛みはありますか?」
「ないです!」
「呼吸に問題は?」
「ないです!」
「めまいは?」
「あります! 主に状況のせいで!」
「身体的異常ではないと判断します」
「冷静に判断しないでください!」
恋はどうにかケープを押さえようとした。だが、腕の可動域が微妙に制限されている。ワイヤーは安全なのかもしれないが、恋にとっては別の意味でまったく安全ではなかった。
「藍さん!」
「はい」
「見えてないですよね!?」
藍は恋の衣装とワイヤーの位置を確認した。
そして、極めて丁寧に答えた。
「現在は問題ありません」
「現在は!?」
「ただし、恋が不用意に身体を捻ると危険です」
「やっぱり危ないじゃないですか!」
「そのため、動かないでください」
「動けないんですけど!」
紗雪が片手で顔を覆った。
「榊原さん。今の返答は、人として最悪寄りですわ」
「私は人ではありません」
「そういう意味ではありませんわ!」
藍は数歩近づき、恋の真下ではなく少し横に立った。
その位置取りに気づいて、恋は一瞬だけ息を止めた。藍はちゃんと視線を外している。少なくとも、からかうために見ているわけではない。
それでも、状況がひどいことに変わりはなかった。
「恋。今から降下させます」
「お願いします。本当にお願いします」
「急降下はしません。三秒かけて床に下ろします」
「優しくお願いします」
「はい」
藍が端末を操作した。
ワイヤーがわずかに緩み、恋の身体がゆっくり下がっていく。ようやく床に戻れると思った、その途中で、別のワイヤーが帽子の飾りに引っかかった。
ぴん、と軽い音がした。
恋の身体が中途半端な高さで止まる。
「……藍さん?」
「想定外の干渉が発生しました」
「想定外多くないですか!?」
「帽子の装飾がワイヤーに絡んでいます」
「だからこの衣装、装飾多すぎるって言ったんですよ!」
紗雪が胸を押さえた。
「装飾に罪はありませんわ!」
「今まさに罪を犯してます!」
「美学には多少のリスクが伴いますの!」
「私は美学で吊られたくなかったです!」
藍は恋の近くまで移動し、絡まったワイヤーを確認した。
「恋。少しだけ帽子に触れます」
「はい……」
「頭を動かさないでください」
「これ以上動いたら何が起きるか分からないので動きません」
藍は静かな手つきで、帽子の飾りからワイヤーを外した。指先は正確で、余計な接触はない。
それでも恋の顔は熱かった。
宙吊り。怪盗衣装。目の前に藍。さらに紗雪もいる。ここまで条件が揃うと、もう何に対して怒ればいいのか分からなくなってくる。
「……藍さん」
「はい」
「これ、記録されてませんよね?」
藍は沈黙した。
恋は嫌な予感がした。
「藍さん?」
「安全検証ログとして、ワイヤー作動データのみ保存されています」
「映像は?」
「映像記録は行っていません」
「本当ですか?」
「はい」
恋は少しだけ安心した。
その瞬間、テーブルに置いてあった端末から平坦な声が響いた。
『補足します。私の遠隔記録にも映像は含まれていません』
「こよみさん!?」
恋が宙吊りのまま叫んだ。
端末の向こうの声は、何事もなかったように続く。
『はい。雪代こよみです』
「なんでいるんですか!」
『遠隔記録担当です』
「聞いてないです!」
『藍様からは、必要な道具試験の記録補助を依頼されています』
「じゃあ今の私も補助記録に入ってるんですか!?」
『現在の分類は、道具試験中の想定外事象です』
「想定外事象にしないでください!」
藍が静かに言った。
「こよみ。その記録は非公開です」
『了解しました。分類Qも併記しますか?』
「しなくていいです!」
恋が即座に叫んだ。
紗雪は扇子で口元を隠しながら、肩を震わせている。
「獅堂先輩、笑ってますよね?」
「笑っていませんわ」
「絶対笑ってますよね?」
「怪盗助手として、貴重な経験ですわね」
「笑ってる人の言い方です!」
ようやくワイヤーが完全に解除され、恋はふわりと床に下ろされた。
足が床についた瞬間、恋はその場にしゃがみ込んだ。身体より先に、気力の方が床へ落ちた気がした。
「……もう嫌です」
「怪我がなくて何よりです」
「藍さん、今はそういう優しさが刺さります」
「すみません」
藍は恋のケープの位置を整えた。
何気ない動作だったが、恋は少しだけ固まる。
「乱れていました」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
紗雪がそこで咳払いした。
「とはいえ、榊原さん」
「はい」
「これは実戦投入前に調整が必要ですわね」
「同意します」
「桜川さんが引っかかったからよかったものの、現地で誤作動したら目も当てられませんわ」
「私が引っかかってよかったみたいに言わないでください」
「実際、事前に問題が判明したのはよいことですわ」
「獅堂先輩まで藍さんみたいなこと言い始めた……」
藍は端末に修正項目を打ち込んでいく。恋が床に座り込んだまま見上げると、黒薔薇の怪盗衣装の袖口が小さく揺れていた。
「起動ラインの視認性が低すぎました。味方側には識別可能なマーカーを追加します」
「最初からお願いします」
「また、衣装装飾との干渉を避けるため、帽子周辺の装飾配置も修正が必要です」
「それは美学に関わりますわ」
「安全性が優先です」
「美学も安全性の一部ですわ」
「安全性に美学は含まれません」
「含まれますわ!」
と紗雪が真面目に言い合っている。
その横で、恋は床に座ったまま、訓練室を見回した。
明日、アメリカへ行く。AI-Techが協賛する博覧会に潜入する。解呪の宝珠を調べる。そして、おそらくこういう道具も使うのだろう。
その道具で、たった今、自分はいきなり宙吊りになったわけなのだが。
「……藍さん」
「はい」
「私、本当に明日行くんですか?」
「はい」
「今から不安が三倍くらいになったんですけど」
「不安要素が具体化されたため、対策可能です」
「前向きすぎる」
「恋」
藍は端末から顔を上げた。
仮面の奥の赤い瞳が、静かに恋を見る。
「先ほどの作動で、ワイヤーの問題点が判明しました。あなたのおかげです」
「……そう言われると、怒りづらいです」
「ありがとうございます」
「でも、次からは私じゃないもので試してください」
「はい」
藍は素直に頷いた。
「次は紗雪さんで試します」
「なぜですの!?」
紗雪が声を上げた。
「過去に拘束実績があるため、比較データが取れます」
「取りませんわよ! 二度と御免ですわ!」
「では、訓練用ダミーで試します」
「最初からそうしてくださいませ!」
恋は思わず笑ってしまった。
少しだけだった。けれど、ついさっきまで宙吊りにされて、床に座り込むほど消耗していたのに、藍と紗雪のやり取りを見ていると、肩の力が少し抜けた。
明日の任務は危険だ。どう考えても普通ではない。
それでも、一人ではない。
こよみの声が、最後に淡々と響いた。
『記録。ワイヤー試験中、桜川恋が想定外に拘束・宙吊り状態となる。負傷なし。精神的損耗あり。装備改修項目、多数』
「こよみさん」
『はい』
「精神的損耗は消してください」
『事実です』
「事実でも消してください」
『では、表現を修正します。精神的負荷、顕著』
「悪化してます!」
訓練室に、恋の声が響いた。
黒薔薇の怪盗は静かに修正項目を打ち込み、怪盗プリンセスは扇子の奥で笑いをこらえ、白薔薇の助手は床に座ったまま頭を抱える。
アメリカ行きまで、あと半日もない。
準備は順調……ではないかもしれない。




