第50話
アメリカへ飛び立つ前日。
桜川恋は、獅堂家の一室で足を止めたまま、しばらく動けずにいた。
案内されたのは衣装部屋のはずだった。けれど、壁一面に並ぶドレス、硝子ケースに収められた仮面、宝石のように輝く装飾品、帽子、手袋、ケープ、ブーツ、リボン、チェーン、コサージュ、用途の分からない小型道具まで目に入ると、その言葉では少し足りない気がした。
部屋というより、劇場の舞台裏に迷い込んだようだった。
「……獅堂先輩」
「何ですの?」
「これ、全部私物ですか?」
「ええ。一部は怪盗用、一部は舞踏会用、一部は撮影用、一部は趣味ですわ」
「趣味の比率が大きそうですね」
「否定はしませんわ」
獅堂紗雪は胸を張った。先日、呪いについて話していた時とは、目の光が違う。並んだ衣装へ向ける視線は明るく、どこか誇らしげで、怪盗プリンセスという名乗りが急に現実味を帯びて見えた。
呪いを解くために怪盗をしている。恋はそう聞いている。けれど衣装を前にした紗雪を見ていると、その理由だけで片づけていいのか、少し怪しくなってくる。
「榊原さん。まずはあなたからですわね」
「はい。よろしくお願いします」
藍と紗雪が試着室らしき空間に入ってから数分後、カーテンが開き、藍が戻ってきた。
いつもの制服ではない。
黒を基調とした怪盗衣装に、白い外套。胸元には黒薔薇の装飾があり、細いチェーンが肩から胸元へ流れている。袖口には繊細な刺繍が入り、顔には黒い仮面。長い黒髪には、同じく黒薔薇を象った髪飾りが添えられていた。
恋はすぐに言葉を出せなかった。
あまりにも似合っていた。制服を脱いだだけなのに、生徒会長としての榊原藍から少し輪郭がずれて、夜会の奥にふっと現れる正体不明の誰かに見える。仮面の奥の赤い瞳がこちらを向いた瞬間、恋は小さく息を詰めた。
「恋。どうしましたか?」
「……いえ」
「似合っていませんか?」
「似合ってます。似合いすぎて困ってます」
「困る必要はありません」
「あります。藍さん、怪盗の才能が強すぎます」
「そうですか」
藍は自分の袖口を確認した。
「可動域に問題はありません。装飾が多い割に、行動阻害は少ないですね」
「当然ですわ」
紗雪は満足げに扇子を開いた。
「怪盗衣装とは、美しく、優雅で、なおかつ動けなければなりませんの。見た目だけの衣装など、夜を舞う者には不要ですわ」
「参考になります」
「榊原さんが素直に吸収しているのが、妙に怖いですわね」
「必要な知識ですので」
「藍さん、本当に怪盗になる気満々ですね……」
恋が呟くと、藍は静かに首を振った。
「榊原藍として怪盗になるわけではありません」
「その理屈、まだ通すんですね」
「はい。私は榊原藍に似た風貌の何者かです」
「言い張りが強い」
紗雪は藍の周囲を一周しながら、外套の裾やチェーンの位置、仮面の角度を確かめていく。
「問題ありませんわ。黒薔薇、仮面、白外套。冷たい美貌。完璧ですわね」
「ありがとうございます」
「ただし、榊原さん」
「はい」
「怪盗としては少々真面目すぎますわ」
「真面目すぎる」
「ええ。もっと余裕と、挑発と、謎めいた雰囲気が必要ですわ」
「発話パターンを変更しますか?」
「それですわ! そういうところですわ!」
紗雪がびしっと扇子で藍を指した。
「怪盗は発話パターンを変更するのではありません。演じるのですわ」
「演じる」
「ええ。夜の中に、もう一人の自分を咲かせるのです」
「なるほど」
「藍さん、変な納得してる……」
恋は藍と紗雪を交互に見た。藍が怪盗の美学を学んでいる。しかも教えているのは獅堂紗雪だ。ただでさえ危ういものに、薔薇の飾りと仮面が足されていくような気がした。
「では、次は桜川さんですわね」
「……私、やっぱり普通の服じゃ駄目ですか?」
「駄目ですわ」
「即答」
「あなたは榊原さんの助手役ですもの。衣装の統一感が必要ですわ」
「助手じゃなくて止め役なんですけど」
「止め役にも衣装は必要ですわ」
「必要かな……」
恋は差し出された衣装を見た。
白を基調とした怪盗衣装。小さな帽子に薔薇の飾り。白い仮面。ふわりと広がるスカート。胸元にはリボンと宝石風の装飾があり、手袋、ケープ、細いチェーンまで揃っている。
可愛いとは思う。思うのだが、視線は自然とスカートに吸い寄せられた。短い。かなり短い。怪盗衣装として動きやすさを重視しているのは分かる。分かるが、恋の中の常識が、これは心もとない、と強く訴えていた。
「獅堂先輩」
「何ですの?」
「これ、短くないですか?」
「動きやすさを考慮した結果ですわ」
「動きやすさって、全部を許す言葉じゃないですよね」
「安心なさい。下には専用のインナーを着用しますわ」
「それでも気持ちの問題が」
「怪盗に必要なのは覚悟ですわ」
「私、怪盗になりに来たわけじゃないんですけど……」
結局、恋は押し切られた。
*
着替え終えた恋は、鏡の前で固まっていた。
白い怪盗衣装。仮面。帽子。薔薇の飾り。ふわりとしたスカート。普段の制服姿とはまるで違っていて、鏡の中にいるのが自分ではないように見える。そこまでは、まだよかった。
問題は、やはりスカートだった。
恋は両手で裾を押さえた。
「……短い」
「よくお似合いですわ、桜川さん」
「ありがとうございます。でも短いです」
「可憐ですわ」
「可憐さより安心感がほしいです」
紗雪は満足げだった。藍は恋をじっと見ている。その視線に気づいた瞬間、恋はさらに裾を押さえた。
「藍さん」
「はい」
「見えてないですよね?」
藍は即答した。
「静止状態では見えていません」
「静止状態では」
「はい」
「動いたら?」
「動きによっては見えます」
「ばっさり!」
恋はその場でしゃがみ込みそうになった。
「そこは嘘でも大丈夫って言ってください!」
「虚偽の安全情報は危険です」
「今は精神的安全情報が欲しかったんです!」
「では、精神的安全性を考慮して言い直します」
「お願いします」
「動き方に注意すれば、見える可能性を低減できます」
「安全になってないです!」
紗雪が横で優雅に頷いた。
「榊原さんの判断は正確ですわね」
「獅堂先輩も納得しないでください!」
「ですが、桜川さん。怪盗行為では跳躍、着地、屈伸、回避行動が発生しますわ。衣装の挙動把握は重要ですのよ」
「言ってることは正しいのに、内容が恥ずかしいです」
藍は恋の周囲を一歩回った。
「裾の構造上、正面よりも横方向の回転時に注意が必要です」
「分析しないでください」
「必要な確認です」
「藍さん、最近『必要な確認』で何でも押し切ってませんか?」
「その傾向はあります」
「自覚があるなら直してください」
「努力します」
「信用できない返事です」
紗雪は衣装ラックから薄い白のケープを取り出した。
「では、こちらを追加しましょう。動きの際に後方と側面を隠せますわ」
「最初からください!」
「衣装の完成度との兼ね合いがありましたの」
「私の尊厳の方を優先してください」
「もちろん尊厳も考慮しておりますわ」
「本当ですか?」
「ええ。七割ほど」
「残り三割!」
「美学ですわ」
「美学に負けた……」
ケープを追加すると、恋はようやく少し息を吐けた。それでも裾の存在は消えない。一歩歩き、止まり、振り返って、つい裾を押さえる。また歩いて、また押さえる。鏡の中の自分も、同じ動作をぎこちなく繰り返していた。
藍はそれを見て、静かに言った。
「恋」
「はい」
「怪盗任務中にその動作を繰り返すと、逆に不自然です」
「分かってますけど!」
「視線誘導にもなります」
「最悪の指摘です」
「ですので、事前に慣れる必要があります」
「慣れるって言われても……」
藍は自分の外套を軽く払った。黒と白の衣装が、音もなく揺れる。同じ怪盗衣装なのに、藍は少しも乱れない。立ち姿も、視線も、呼吸の間も、いつものままだった。
スカート丈で命を削られている恋とは、生きている世界が違うのかもしれない。
「藍さんは平気なんですね」
「はい。衣装に対する羞恥反応はありません」
「でしょうね」
「ですが、恋が落ち着かない理由は理解できます」
「本当ですか?」
「はい。あなたは衣服の露出度そのものより、他者の視線を意識しています」
「急に正確に刺してこないでください」
「すみません」
藍は少しだけ考え、言った。
「では、私が視線管理を行います」
「視線管理?」
「現地で恋に不適切な視線を向ける人物がいれば、私が対応します」
「対応」
「はい」
「具体的には?」
「状況によります」
「その言い方、一番怖いやつです」
紗雪は楽しそうに笑った。
「よろしいではありませんか。榊原さんがいれば、並の相手は目を合わせる前に敗北しますわ」
「それはそうかもですけど」
「恋」
藍が静かに呼ぶ。
「はい」
「少なくとも、私はあなたを笑いません」
恋は返事をしそこねた。藍は仮面越しに、まっすぐこちらを見ている。
「不安であれば、衣装を調整します。動きにくければ変更します。あなたが本当に嫌なら、同行方法そのものを再検討します」
「……藍さん」
「はい」
「そういう真面目なことを、その格好で言わないでください」
「なぜですか?」
「怪盗衣装なのに、いつもの藍さんすぎて混乱します」
「発話パターンを変更、いえ、演じてみましょうか?」
「今はしなくていいです」
「分かりました」
恋は少しだけ笑った。スカートは短いし、不安も残っている。明日のアメリカ行きも、解呪の宝珠も、怪盗行為も、どれも平然と受け止められるものではない。
それでも、藍は笑わないと言った。紗雪も、ふざけているようで衣装の端を何度も確かめている。獅堂紗雪の長い夜を終わらせられるかもしれない。その可能性の前で、自分だけ後ろに下がるのは、たぶん違う。
「……分かりました。これで行きます」
「よろしいですわ」
紗雪が満足げに微笑む。
「白薔薇の助手と、黒薔薇の怪盗。実に映えますわね」
「名前がつきそうな言い方やめてください」
「怪盗名は重要ですわよ」
「まだ決めてなかったですね……」
藍は少し考えた。
「榊原藍としての名前は使用できません」
「でしょうね」
「では、黒薔薇に関連する名称が適切でしょうか」
紗雪の目が輝く。
「怪盗ブラックローズ」
「直球ですね」
「分かりやすさは大事ですわ」
「でも藍さんがブラックローズって名乗るの、なんか直球すぎません?」
「では、黒薔薇の夜想曲」
「獅堂先輩、急に盛りましたね」
「怪盗名とは盛るものですわ」
恋はため息をついた。
「私には変な名前つけないでくださいね」
「白薔薇の小鳥」
「却下で」
「白銀の見習い」
「却下で」
「裾を気にする白兎」
「絶対却下です!」
藍が静かに言った。
「ホワイトローズでよいのではありませんか」
「それもそれで安直すぎません?」
「では、正式なコードネームが決まり次第、別途設定します」
「コードネームって言い方になると急に任務感が……」
「実際、任務です」
「そうでした」
紗雪は二人を見ながら、少しだけ表情を和らげた。
「……不思議ですわね」
「何がですか?」
「わたくし、誰かと怪盗衣装を選ぶ日が来るとは思っていませんでしたの」
その声は、いつもの華やかさより少し低かった。
恋は紗雪を見る。怪盗プリンセスとして夜を歩き、呪いを隠し、満月を避け、誰にも言えないまま秘宝を探してきた人。その紗雪が今、藍と恋の前で衣装を選んでいる。アメリカへ行くために。解呪の宝珠を探すために。
恋は鏡から目を離した。
「獅堂先輩」
「何ですの?」
「明日、頑張りましょう」
紗雪は一瞬黙った。
それから、いつものように扇子を開く。
「当然ですわ」
その声は強かった。
「怪盗プリンセスに、黒薔薇の怪盗。そして……裾を気にする白兎」
「だからそれは却下です!」
恋が叫ぶ。
藍は静かに頷いた。
「記録上は仮称として残しておきます」
「残さないでください!」
「非公開です」
「非公開でも嫌です!」
衣装部屋に、三人分の声が響いた。豪奢な鏡の中には、黒薔薇の仮面をつけた榊原藍と、白薔薇の怪盗衣装を着た桜川恋が映っている。その横で、獅堂紗雪が満足げに笑っていた。
明日、三人はアメリカへ向かう。解呪の宝珠を求め、AI-Techの警備を掻い潜り、榊原藍が生まれて初めて怪盗として夜を舞う。その予定が、鏡の中の衣装と重なって、急に形を持って見えた。
恋は鏡の中の自分を見て、最後にもう一度だけ裾を押さえた。
「……本当に見えてないですよね?」
藍は少しだけ視線を下げ、そして丁寧に答えた。
「今は見えていません」
「今はって言わないでください!」




