第57話
雪代こよみからの応答が途絶えた。
最初のうち、スコットは通信の遅延だと考えていた。地下区画には旧洋館の構造がそのまま残されており、厚い石壁や複雑に入り組んだ通路の影響で、地上部ほど通信環境が安定していない。多少のノイズや一時的な遮断であれば、事前の想定にも含まれていた。
しかし、三十秒が過ぎ、一分が経ち、さらに二分を超えても、こよみからの応答は戻らなかった。
「Ms.Yukishiro、聞こえますか」
スコットは端末へ呼びかけたが、返答はない。
代わりに、大型モニターへ次々と異常警告が表示された。地下西側区画を中心に、衝撃、扉の損壊、壁面振動、銃器反応。別々の場所で検知されたはずの警告が、何かを追うように奥へ移動している。
スコットは片手で額を押さえた。
「……何が起きている」
警備責任者も、モニターを見つめたまま困惑を隠せずにいた。
「地下西側区画で、複数の構造物破損を検知しています」
「Ms.Yukishiroによるものですか?」
「おそらくは。ただ、動きが速すぎます。雪代さんの補助解析が途切れて以降、監視網だけでは追跡経路を確定できません」
警備カメラの映像も、粉塵や衝撃によって断続的に乱れている。映ったかと思えば、次の瞬間には黒い影が画面の外へ消え、その直後に別の区画で新たな破損警告が出ていた。
嫌な予感は、すでに予感と呼べる段階を越えている。
スコットは数秒だけ考え、端末を閉じた。
「私が地下へ向かいます」
「スコット様、それは危険です」
「警備員を同行させます。ここで不完全な映像を見ていても、状況は把握できません」
警備責任者が止めるより早く、スコットは統括室を出た。
*
地下区画へ足を踏み入れた瞬間、スコットは地上との落差に足を止めかけた。
硝子と金属で構成されたAI-Techの施設とは異なり、そこには古い洋館の面影が濃く残っていた。石造りの壁に、壁際の燭台。床には赤い絨毯が敷かれ、廊下の先には重厚な木製扉が並んでいる。
もっとも、今はその雰囲気を味わっている場合ではなかった。
扉の一つは蝶番ごと外れ、廊下の中央へ倒れている。壁にはいくつもの弾痕が穿たれ、本棚らしき家具の残骸と破れた紙片が床一面に散らばっていた。
「……これを、Ms.Yukishiroが?」
思わず口にした直後、スコットは否定しきれずに黙った。
普通ならあり得ない。
だが、今日姿を見せた雪代こよみは、二挺のライフルを携え、侵入者を相手に一切手加減するつもりがないと断言していた。あの少女なら、障害物を避けるより破壊する方が早いと判断しても不思議ではない。
スコットは二人の警備員を後ろへ控えさせ、足元の瓦礫を避けながら慎重に廊下を進んだ。
その時、前方の曲がり角から黒い影が飛び出してきた。
黒薔薇をあしらった仮面。白い外套と、夜会服を思わせる黒い怪盗衣装。そして、仮面の奥にある赤い瞳。
スコットの足が止まる。
「……Ms.Sakakibara?」
名前を呼ばれた黒薔薇の怪盗は、廊下の中央でぴたりと静止した。
仮面越しの赤い瞳が、まっすぐにスコットへ向けられる。
見間違えようがなかった。
黒い長髪も、赤い瞳も、わずかな乱れすらない姿勢も、その異様なまでに整った所作も、すべて榊原藍そのものだった。違っているのは、普段とはかけ離れた怪盗衣装だけである。
「Mr.Scott」
怪盗は、榊原藍と同じ声で彼の名を呼んだ。
聞きたいことはいくらでもあった。なぜここにいるのか。何をしているのか。先ほどの警告は何だったのか。
それでも、最初に口から出たのは、目の前の姿に対する素朴な疑問だった。
「……そのお姿は、一体?」
「私は榊原藍ではありません」
怪盗は即答した。
スコットはしばらく言葉を返せなかった。
「……はい?」
「私は榊原藍ではありません」
「いえ、しかし」
「ブラックローズです」
「ブラック……」
「ローズです」
念を押すように訂正され、スコットは改めて目の前の人物を見た。
どう見ても榊原藍だった。
だが、本人は榊原藍ではなく、ブラックローズという別人であると主張している。しかも、どうやら冗談として済ませるつもりはないらしい。
「Ms.Sakakibara」
「もう一度言います、ブラックローズです」
「……ブラックローズ、様」
「様をつけるほどの関係性は構築していないはずですが」
「では、ブラックローズ……あなたは、なぜここに?」
「通過中です」
「通過中」
「はい」
「この地下区画は現在、警備封鎖されております」
「承知しています」
「承知していて、通過を?」
「はい」
スコットはこれまで、巨大企業の経営者として数え切れないほどの交渉を経験してきた。
政治家、投資家、規制当局、軍関係者、敵対的な株主、感情的な報道関係者。相手が誰であっても、話を続ければ最低限の論点整理くらいはできた。
だが、目の前の黒薔薇の怪盗には、その経験がまるで役に立たない。
榊原藍と同じ顔と声を持ちながら、榊原藍ではないと言い張る何者か。そのうえ、警備封鎖中の施設を通過しているだけだと平然と答えている。
「……先ほどの警告は、これを指していたのですか?」
「その質問には回答できません」
「あなたが関係しているのですね?」
「私は榊原藍ではありません」
「それは答えになっていません」
「回答可能な範囲では、これが最も正確です」
「正確ではありません」
「そうですか」
ブラックローズは、ほんの少しだけ首を傾げた。
その仕草まで、普段の榊原藍と同じだった。
スコットは眉間を押さえたくなるのを堪えた。
「Mr.Scott」
「はい」
「警備は強化されていますね」
「あなたがそう指示したからです」
「私は指示していません。榊原藍が情報提供を行った可能性はあります」
「同一人物でしょう」
「いいえ」
「……そうですか」
これ以上追及しても、同じ答えが返ってくるだけだろう。
少なくとも今は、この無理のある前提を受け入れなければ会話そのものが進まない。
ブラックローズは一瞬だけ背後へ視線を向けた。
遠くから、何かが砕ける音が響く。壁か扉か、あるいは大型の家具が破壊された音かもしれない。
「失礼します」
「待ってください」
「急いでいます」
「私はこの施設の管理責任者です。警備区画への侵入を見過ごすわけにはいきません」
「施設保全に関しては、後ほどAI-Tech側で処理してください」
「AI-Tech側で、とは」
「詳細は榊原藍に確認してください」
「あなたではなく?」
「はい」
それだけ告げると、ブラックローズは再び駆け出した。
白い外套と黒い裾が翻り、その姿は古い廊下の曲がり角へ消えていく。
スコットは、止める言葉すら見つけられないまま背中を見送った。
「……何なんだ」
思わず英語で漏らした言葉に、答える者はいない。
代わりに、廊下の奥から轟音が返ってきた。
曲がり角の先にある壁が、内側から爆ぜるように砕ける。石片と木片が廊下へ飛び散り、後ろにいた警備員たちは声を上げて後退した。
立ち込める粉塵の向こうから、黒いスーツ姿の少女が現れる。
白い髪には石粉がかかり、サングラスはいつの間にか額の上へ押し上げられていた。両手に握られているのは、先ほどのライフルではなく一挺のショットガンだった。
雪代こよみである。
「Ms.Yukishiro!?」
スコットが声を上げると、こよみはその場で足を止めた。
スーツの肩には埃が付着しているものの、表情には少しの乱れもない。
「Mr.Scott」
「一体、何をしているのですか」
「侵入者であるブラックローズを排除しています」
こよみは迷いなく答えた。
スコットは、たった今消えていった怪盗の背中を思い出した。
ブラックローズ。
どう見ても榊原藍だった人物。
その人物を、雪代こよみは本気で侵入者として追跡しているらしい。
二人で示し合わせた芝居なのかとも考えたが、周囲の被害を見る限り、演技にしてはあまりにも本格的だった。
本気なのか。
冗談なのか。
あるいは、本気で冗談を成立させようとしているのか。
スコットには判断できなかった。
「……Ms.Yukishiro」
「はい」
「あなたは、あの人物が誰か分かっているのですか?」
「ブラックローズです」
「それはMs.Sakakibaraでは?」
「『榊原藍』様ではないそうです」
こよみは事実を確認するような口調で続けた。
「本人がそう主張しています」
スコットは頭を抱えそうになった。
榊原藍が持ち出した理屈を、こよみもそのまま採用している。
ただし、受け入れているだけではない。その理屈を逆手に取り、普段なら従属すべき相手を、容赦なく侵入者として扱っている。
「……あなた方は、なぜそういう部分だけ徹底して論理的なのですか」
「論理は重要です」
「今はそういう話ではありません」
「そうですか」
こよみはショットガンを持ち直し、ブラックローズが消えた方向へ身体を向けた。
スコットは慌てて呼び止める。
「待ってください。なぜ建物を破壊しているのですか?」
「最短経路を確保するためです」
「ここはAI-Techの施設です」
「はい」
「地下部分は、元所有者の要望によって保存されている歴史的構造でもあります」
「はい」
「破壊してはいけない場所です」
「私は警備を引き受けただけで、施設の保全については命じられておりません」
スコットは完全に言葉を失った。
「……何ですって?」
「保全は依頼として命じられていなかったはずですが」
「いや、通常、警備には施設保全も含まれます」
「侵入者の排除が最優先です」
「排除のために施設を破壊しては、本末転倒ではありませんか?」
「侵入者を逃がす方が問題です」
「しかし、修復には莫大な費用と時間がかかります」
「AI-Techの技術であれば修復可能です」
「そういう問題ではありません」
「では、どういう問題でしょうか」
あまりにも真っ直ぐに問い返され、スコットは返答に詰まった。
こよみの判断は、どこか決定的に間違っている。
しかし、彼女の中では一貫しているのだろう。
依頼されたのは侵入者の排除。施設保全は明示されていない。ならば、追跡を妨げる壁や扉は障害物として破壊してよい。
そんなはずはない。
だが、その当然がこよみには共有されていない。
「Ms.Yukishiro。あなたには、Ms.Sakakibaraと似たところがあります」
「ありがとうございます」
「褒めていません」
「そうですか」
「話が通じないところです」
こよみは少しだけ首を傾げた。
「会話は成立しています」
「成立しているだけです」
「それだけでは不十分ですか?」
「十分ではありません」
廊下の奥から、かすかな足音が響いた。
逃走を続けるブラックローズのものだろう。
こよみの青い瞳が、即座に音の方向へ向く。
「追跡を再開します」
「待ってください」
「今は一刻を争っています」
「せめて、これ以上の破壊は最小限に抑えてください」
「努力します」
「その返事は信用できません」
「では、記録しておきます」
「記録ではなく実行してください」
こよみは一瞬だけ沈黙し、依頼内容を更新するように小さく頷いた。
「了解しました。施設への損害を、可能な範囲で抑制します」
「可能な範囲で、ですか」
「はい」
完全な保証ではない。
それでも、これ以上押し問答を続けている間に侵入者を見失えば、こよみはさらに強引な手段へ出るかもしれない。
スコットは深く息を吐き、それで妥協することにした。
すると、こよみは何かを補足するように口を開いた。
「なお、先ほどの壁面破壊は必要な措置でした」
「……どの壁面破壊ですか」
「直近三件、すべてです」
「三件……」
「はい」
スコットは、粉塵の向こうへ遠い目を向けた。
自分はAI-TechのCEOとして、日々、世界規模の事業や問題に対処しているはずだった。
それなのに今は地下洋館の廊下で、怪盗姿の直属の上司に相当する人物から「同一人物ではない」と無理を押しつけられ、その直後にはショットガンを手に建物を破壊している臨時警備員から「保全は命じられていません」と告げられている。
意味は分かる。
だが、どうしても納得はできなかった。
「Ms.Yukishiro」
「はい」
「一つだけ確認します」
「何でしょうか」
「あなたは、Ms.Sakakibaraの命令で動いているのではないのですね?」
「はい」
「本当に独断なのですね?」
「はい。内緒です」
「その『内緒』は、私にとって非常に重いのですが」
「承知しています」
「承知しているのなら――」
「追跡を再開します」
こよみは、それ以上の会話を打ち切った。
ショットガンを構え直し、粉塵の残る廊下を駆け出す。小柄な背中はすぐに曲がり角の先へ消え、数秒後には、また何かが壊れる音が響いた。
スコットはしばらくその場に立ち尽くし、やがて天井を仰いだ。
「……これは本当に隠蔽できるのか?」
背後にいた警備員の一人が、おそるおそる尋ねた。
「スコット様、今後はどうなさいますか?」
スコットはすぐには答えられなかった。
壊れた壁と倒れた扉を眺め、遠くから響く銃声へ耳を澄ませた後、ようやく疲れ切った声を絞り出す。
「地下区画の映像記録は、閲覧権限を限定した上で保全してください。外部への通報は、まだ止めておきます。施設の損害については……後で考えます」
「承知しました」
「それから、医療班を待機させてください」
「侵入者を拘束した場合に備えて、ですか?」
「いいえ。主に、我々の精神衛生のためです」
警備員は返事に困り、口を閉ざした。
スコットは、こよみが消えた廊下をもう一度見つめる。
榊原藍も、雪代こよみも、極めて優秀で、論理的で、目的を達成する能力に長けている。
それなのに、普通の人間が当然共有しているはずの前提が、時折まるごと抜け落ちている。
会話は成立する。
理屈も通っている。
ただし、こちらが期待する方向には、決して話が進まない。
「……Ms.Sakakibara」
スコットは誰にも聞こえない声で呟いた。
「あなたは一体、何をしているのですか」
答えは返ってこなかった。
代わりに、遠くの廊下から再び銃声が響き、その直後に大きな破壊音が地下区画を震わせた。
AI-Techの警備能力を確かめるために始まったはずの試験は、スコットの想定をはるかに超えて、物理的にも精神的にも破壊的なものになりつつあった。




