第48話
獅堂家は、まるで豪邸だった。
まるで豪邸、ではない。
本当に豪邸だった。
大きな門をくぐった先には、手入れの行き届いた庭が広がり、中央には噴水まである。外灯に照らされた植栽も、玄関へ続く石畳も、恋が知っている「高校生の家」という言葉からはあまりにも遠かった。
桜川恋は、門をくぐった時点で帰りたくなっていた。
ここにいていい人間の格ではない。
「……藍さん」
「はい」
「ここ、学校の生徒の家ですよね?」
「はい。獅堂紗雪さんの自宅です」
「自宅って、こんなに広くていいんですか?」
「法的には問題ありません」
「そういう話じゃないです」
恋が引き気味に呟く横で、榊原藍はいつも通りの平静さだった。
この豪邸を前にしても一切ひるまず、むしろ門の構造や監視カメラの配置、植栽の死角、敷地内の警備導線まで淡々と確認しているように見える。
「……藍さん、今なんか物騒なこと考えてません?」
「侵入経路と脱出経路を確認していました」
「やっぱり物騒でした」
「安全確認です」
「獅堂先輩の家で脱出経路を確認しないでください」
やがて、屋敷の玄関前に獅堂紗雪が姿を現した。
金髪縦ロールに、上品なワンピース姿。普段以上にお嬢様感が強く、屋敷の前に立つ姿も妙に絵になっている。ただ、その表情は少し硬かった。
「ごきげんよう、榊原さん、桜川さん」
「こんばんは、獅堂紗雪さん」
「こ、こんばんは、獅堂先輩」
恋は頭を下げる。
紗雪は二人を見て、小さく息を吐いた。
「本当に来ましたのね」
「はい。約束しましたので」
「榊原さんはともかく、桜川さんまで来るとは思いませんでしたわ」
「私も、来てからちょっと思ってます」
「正直ですわね」
「でも、獅堂先輩を一人にするのも嫌だったので」
紗雪は少しだけ目を伏せた。
それから、ふいと顔を逸らす。
「……そういうところ、本当にお人好しですわね」
「よく言われます」
「今日も褒めていますわ」
「ありがとうございます」
そのやり取りを見て、藍が静かに口を開く。
「獅堂紗雪さん。準備はできていますか?」
「ええ」
紗雪の声から、先ほどまでの軽さが消えた。
「地下施設へ案内しますわ」
*
獅堂家の地下には、もう一つの屋敷があるようだった。
長い階段を下りるたびに、外の豪奢な空気は遠ざかっていく。厚い扉があり、何重にも施されたロックがあり、壁は普通のコンクリートではない、金属とも石材とも言い切れない鈍い光沢を持つ素材で覆われていた。
恋は思わず呟いた。
「……これ、映画で見るやつですよね」
「実際には映画より合理的に設計されています」
「藍さん、そこ評価するんですね」
「はい。衝撃吸収、遮音、破損時の二次被害抑制が考慮されています」
「榊原さんに褒められても、あまり嬉しくありませんわね……」
紗雪は苦笑した。
地下最奥。
そこに、隔離施設はあった。
広い円形の空間だった。天井は吹き抜けになっており、地下からでも空の様子が見える。中央には何も置かれていない。隣には制御室があり、強化ガラス越しに内部を見られる構造になっていた。
「満月の夜、わたくしはこの中に入ります」
紗雪は静かに言った。
「鎮静剤は、外部から投与できるようになっていますわ。けれど、変貌が進みすぎると効くまでに時間がかかりますの」
「投与タイミングが重要ですね」
「ええ。ですから、今夜は榊原さんが早く観察を終わらせることに期待していますわ」
「最善を尽くします」
「桜川さん」
「はい」
「危険だと思ったら、すぐに離れてくださいませ」
「はい。でも、できるだけここにいます」
「……本当に、変わった方ですわね」
紗雪は困ったように笑った。
それから、自分から隔離室の中へ入った。
扉が閉まり、ロックがかかる。
重い音が、地下空間に響いた。
*
夜が更けていく。
時計の針が進むたびに、紗雪の様子は少しずつ変わっていった。
最初は、いつもの彼女だった。背筋を伸ばし、強がるように笑い、強化ガラス越しに恋たちへ軽口を叩いている。
「それにしても、観察される側というのは落ち着きませんわね」
「すみません」
「桜川さんが謝ることではありませんわ。主に榊原さんのせいです」
「否定はしません」
「否定しなさいませ」
だが、満月が雲の切れ間から姿を現した頃、紗雪の言葉は少しずつ途切れ始めた。
まず耳が生えた。
続いて尻尾が現れた。
そこまでは、以前の藍の部屋で見た変化と同じだった。だが、今回はそこで終わらない。
「……っ、来ますわ」
紗雪が、自分の腕を押さえた。
声が震えている。
「榊原さん……桜川さん……わたくしが、わたくしでいられるうちに、言っておきますわ」
「はい」
「危ないと思ったら、絶対に近づかないでくださいませ」
「分かりました」
「約束ですわよ」
「はい。約束します」
恋が答えた瞬間、紗雪の瞳が揺れた。
そこからは早かった。
身体が軋むように変化していく。骨格が、人の形から外れていく。背が伸びるなどという生易しいものではなかった。身体そのものが巨大化し、輪郭が別の生き物へ塗り替えられていく。
着ていた保護衣は変化に耐えきれず、裂けていった。
恋は反射的に息を呑む。
藍は即座に言った。
「恋。視線を下げないでください。観察対象は全体挙動です」
「は、はい」
恋は慌てて顔を上げる。
恐怖と衝撃で、何を見ればいいのかも分からない。ただ、目の前で起きていることが、人間の変身という言葉では到底足りないことだけは分かった。
獣。
いや、違う。
獣というより。
「……龍、みたい」
思わず、恋は呟いた。
隔離室の中央にいたのは、巨大な魔獣だった。
四肢は力強く、背中には硬質な鱗のようなものが走り、尾は床を打つだけで鈍い衝撃を響かせる。獣であり、龍に近い。かつての獅堂紗雪の面影は、金色の毛並みと瞳の奥にかすかに残るだけだった。
そして、その瞳から理性が消えていく。
「鎮静剤投与準備」
藍の声が、冷静に響いた。
制御盤が反応する。
恋は横で固唾を呑んだ。
巨大化した紗雪が、低く唸る。
次の瞬間、隔離室の壁へ突進しかけた。
床が揺れた。
「藍さん!」
「今です」
藍が操作する。
隔離室内の装置が作動し、鎮静剤が投与された。
巨大な獣が激しく身をよじる。壁に尾が打ちつけられ、重い音が響く。恋は思わず一歩下がったが、藍は動かなかった。赤い瞳で、変化の推移を見ている。
「心拍上昇。筋緊張増大。投与後反応あり。鎮静効果、発現まで十七秒」
「十七秒って、長くないですか!?」
「今は長いですね」
「冷静に言わないでください!」
十七秒。
たった十七秒。
けれど、恋には一分にも十分にも感じられた。
紗雪だったものが、もう一度壁に向かって身を低くする。しかし、今度は踏み込む前に動きが鈍った。唸り声が弱まり、巨大な身体がゆっくりと床に崩れていく。
尾が最後に一度だけ床を叩き、それきり動きが止まった。
恋は、ようやく息を吐いた。
「……止まった」
「はい。鎮静状態に入りました」
「獅堂先輩は……大丈夫なんですか?」
「現時点では、生命反応は安定しています」
「よかった……」
恋はその場に座り込みそうになった。
だが、まだ終わっていない。
藍は端末に視線を落とし、淡々と記録を続けている。
「完全変貌時の形態は、事前申告の『獣』より大型かつ複合的です。龍型形質に近い要素が確認できます」
「龍って、そんなことあるんですか」
「現象として発生しています」
「それはそうですけど……」
隔離室の中で、巨大な獣は静かに眠っていた。
恋は、ガラス越しにそれを見る。
怖い。
怖いに決まっている。
けれど同時に、胸が痛かった。
あれは獅堂紗雪だ。普段は優雅で、強がりで、恥ずかしがりで、怪盗行為をしてまで呪いを解こうとしている人。その人が、満月の夜には自分でなくなってしまう。
「……ずっと、こんな夜を過ごしてたんですね」
恋の声は、小さかった。
藍は答えなかった。
ただ、記録端末に指を置いたまま、静かに隔離室を見ていた。
*
数時間後。
月が傾き、夜が薄くなり始めた頃、変化は逆向きに始まった。
巨大な身体が、少しずつ縮んでいく。鱗のような硬質な表面が消え、毛並みが薄れ、尾が短くなり、四肢が人の形を取り戻していく。
変貌の時とは違って、それは静かだった。
苦しげではあるが、暴れることはない。やがて、隔離室の中央に獅堂紗雪が倒れていた。元の姿に戻っている。当然、変貌に耐えきれなかった衣服は残っていない。
恋は一拍遅れて状況を理解し、顔を真っ赤にした。
「タ、タオル! タオルありますか!?」
「右側の棚にあります」
藍が即答する。
「早く言ってください!」
「恋が動き出すまで待っていました」
「待たなくていいです!」
恋は慌てて棚から大きなタオルを取り出し、隔離室の扉が安全解除されたのを確認して中へ入った。
藍も続く。
恋は視線をできる限り逸らしながら、紗雪の身体にタオルを被せた。
「獅堂先輩、大丈夫ですか? 聞こえますか?」
紗雪はしばらく反応しなかった。
やがて、ゆっくりと目を開ける。
「……ん……」
ぼんやりした瞳が、恋を捉えた。
次に、自分にタオルが被せられていることに気づく。さらに、恋がすぐ近くにいることに気づき、恋の視線が必死にあちこちへ逃げていることにも気づいた。
紗雪の顔が、一気に赤くなった。
「……桜川さん」
「は、はい!」
「あなた、まさか」
「違います!」
「まだ何も言っていませんわ!」
「違うんです!」
紗雪はタオルを握りしめたまま、起き上がろうとする。まだ力が入らないのか、少しふらついた。
恋は反射的に支えようとした。
だが、それが悪かった。
「触らないでくださいませ、スケベですわ!」
「ご、誤解です!」
「何が誤解ですの!? 目を覚ましたら、あなたがすぐ近くにいて、わたくしにタオルを――!」
「それは! その! 藍さんが!」
「私ですか?」
藍が横から静かに言った。
恋は必死に訴える。
「藍さんも説明してください!」
「恋は、変身解除後の獅堂紗雪さんの尊厳保護のため、速やかにタオルを被せました」
「そうです! そういうことです!」
「なお、恋は視線を極力逸らしていました」
「そうです!」
「ただし、完全に逸らせていたとは言い切れません」
「藍さん!?」
紗雪の目が鋭くなる。
「桜川さん?」
「違うんです! いや、違わない部分もあるかもしれないですけど、意図的ではなくて!」
「最低の弁明ですわ!」
「本当にすみません!」
紗雪は片手を上げかけた。
ビンタが飛ぶ。
恋は反射的に目を閉じた。
しかし、その手は途中で止まった。
紗雪は数秒、恋を見ていた。顔を真っ赤にして、涙目で、必死に弁解している一年生。そして、自分にかけられたタオル。状況を考えれば、悪意がないことは分かる。
分かるのだが。
「……誤解であることは理解しましたわ」
「ありがとうございます……!」
「ですが」
「ですが?」
「あなたの視線には、疑惑が残ります」
「なんでですか!?」
「先ほどから、わたくしの顔を見る時間より、タオルの位置を確認する時間の方が長いですわ」
「それはズレたら大変だからです!」
「本当に?」
「本当に!」
「榊原さん」
「はい」
「判定を」
「恋の主張には一定の合理性があります」
「ほら!」
「一方で、視線挙動に過剰な動揺が含まれていることも事実です」
「藍さん!」
「総合判定としては、悪意なし。ただし、挙動不審です」
「それは否定できませんわね」
「できるだけ否定してください!」
紗雪は深くため息をついた。
タオルをしっかり押さえたまま、顔を逸らす。
「……まあ、助けていただいたことには感謝しますわ」
「はい……」
「ですが、桜川さん」
「はい」
「今後しばらく、あなたを見る目は少し変わります」
「どういう方向にですか」
「そういう寄りですわ」
「なんでだ……」
恋は膝から崩れ落ちそうになった。
藍は横で静かに記録端末を確認している。
「獅堂紗雪さん。意識回復後の反応は良好です」
「この状況で良好と言われても、まったく嬉しくありませんわ」
「恋への評価項目が追加されました」
「追加しないでください!」
「非公開記録です」
「非公開でも嫌です!」
紗雪は疲れ切った顔でタオルを抱え直した。
恋は両手で顔を覆っている。
藍だけが、いつものように平静だった。
隔離施設の空気は、数時間前とはまるで違っていた。
満月の恐怖。巨大な獣への変貌。鎮静剤。長い夜。そのすべてを越えた先にあったのは、なぜか桜川恋の名誉が軽く傷つくという、ひどく日常的な混乱だった。
それでも、紗雪は生きていた。
誰も傷つかなかった。
夜は越えられた。
だから、藍は静かに告げた。
「今回の観察は、大きな成果がありました」
「その成果に、桜川さんの不名誉は含まれますの?」
「副次的事象です」
「含まれてるじゃないですか……」
恋が力なく呟く。
紗雪はそんな恋を見て、少しだけ笑った。
「まあ、桜川さん」
「はい……」
「次に同じ状況になったら、もっと堂々となさい」
「堂々としたら余計に駄目じゃないですか!?」
「では、もっと上手に目を逸らしなさいませ」
「努力します……」
「努力する時点でやはり怪しいですわね」
「詰んでる……」
藍は二人を見て、わずかに目を細めた。
満月の夜は、ひとまず終わった。呪いはまだ解けていない。謎はむしろ増えた。
けれど、獅堂紗雪はもう完全な孤独ではなかった。
その代償として、桜川恋の評価に妙な項目が追加されたが。




