第47話
榊原藍の自室に来るのは、桜川恋にとって久しぶりだった。
以前来た時にも思ったが、部屋は恐ろしく整っている。余計な物がなく、生活感も薄い。相変わらず人間の部屋というより、榊原藍が「人間の生活空間とはこの程度である」と判断して構成したサンプルルームに近かった。
「……相変わらず綺麗ですね、藍さんの部屋」
「ありがとうございます。恋が最後に来た時から、配置は大きく変更していません」
「そういうところ、本当に藍さんって感じです」
「それは評価ですか?」
「半分くらいは」
「では、半分だけ受け取ります」
藍はいつもの丁寧な声で答えた。
その向かいで、獅堂紗雪は落ち着かない様子で立っていた。金髪縦ロールも、整った制服も、背筋の伸びた立ち姿も、いつも通りなら空間ごと自分のものにしてしまうほどの迫力がある。けれど今は、肩に入った力が隠しきれていなかった。
「……本当に、ここで観察なさるの?」
「はい。日没時の発現を確認するだけであれば、この部屋で十分です」
「わたくしとしては、十分ではないのですけれど」
「場所の問題ですか?」
「羞恥心の問題ですわ!」
紗雪は思わず声を上げた。
恋は気まずそうに視線を逸らす。
この場にいる理由は分かっている。獅堂紗雪の呪いを調べるため。夜になると発現する耳と尻尾を、藍が観察するため。理屈としては分かる。けれど、理屈が分かったところで、目の前で誰かの身体変化を観察する気まずさが消えるわけではなかった。
「あの、獅堂先輩。私、外に出てた方がいいですか?」
「……いえ」
紗雪は少しだけ迷ったあと、扇子を開いて口元を隠した。
「桜川さんは、いてくださいませ」
「いいんですか?」
「榊原さんと二人きりの方が、精神的に追い込まれますわ」
「それは分かります」
「恋」
藍が静かに呼んだ。
「なぜ即答したのですか?」
「経験則です」
「なるほど」
「納得しないでくださいませ!」
紗雪の抗議をよそに、藍は机の上へ小型の記録端末を置いた。カメラのような露骨な形ではなく、センサー類をまとめた小さな黒い板のような装置だった。
「映像記録は行いません」
藍が先に言った。
紗雪が警戒したことを察したのだろう。
「身体変化の時刻、体温、周辺音、微細な動作反応のみを記録します。個人の尊厳に関わる情報は保存対象から除外します」
「……最初からそう言いなさいませ」
「はい。以後、説明順序を修正します」
「本当に修正する気はありますの?」
「あります」
「信用なりませんわね……」
紗雪は窓の外を見る。
夕陽が、街の向こうへ沈みかけていた。部屋の中にも淡い橙色の光が差し込み、その色が少しずつ弱くなっていく。空の青が薄れ、夕方から夜へ移り変わるにつれて、紗雪の表情も硬くなっていった。
「……そろそろですわ」
恋は思わず息を呑んだ。
藍は静かに紗雪を見ている。その視線は冷たくはない。けれど、逃がさない精密さがあった。
日が沈む。
部屋の中の影が濃くなる。
その瞬間、紗雪の頭上で髪がわずかに揺れた。
金髪の縦ロールの隙間から、ふわりと何かが押し出されるように現れる。柔らかな毛並みを持つ、獣の耳だった。空気の震えに反応するように、先端が小さく揺れている。
続いて、背後で制服のスカートのあたりが不自然に動いた。
「……っ」
紗雪が肩を強張らせる。
次の瞬間、尻尾が現れた。
作り物ではない。揺れ方も、反応も、身体の一部として自然すぎる。生徒会室で話は聞いていた。けれど、実際に目の前で見るのとはまったく違った。
「……本当に、出るんですね」
「桜川さん」
「す、すみません」
「いえ。事実ですわ。事実ですけれど……」
紗雪は顔を真っ赤にしていた。普段の優雅さが崩れかけている。本人は必死に平静を装っているのに、耳がぴくぴくと動き、尻尾が落ち着きなく揺れてしまっていた。
「獅堂紗雪さん」
「……何ですの」
「耳と尻尾の反応が、感情状態と連動しています」
「言わないでくださいませ!」
「羞恥、緊張、警戒の三要素が強いようです」
「分析しないでくださいませ!」
「分析しないと観察になりません」
「観察にも限度がありますわ!」
恋は横で小さく咳払いした。
「藍さん、もう少しこう……言い方を」
「分かりました」
藍は紗雪に向き直る。
「獅堂紗雪さん。とても分かりやすいです」
「悪化していますわよ!」
「藍さん、それは言い方を変えただけです」
「難しいですね」
「本当に難しいと思ってます?」
「はい」
藍は真面目に頷いた。
その真面目さに、紗雪はさらに疲れたように額を押さえた。
「……あなた、本当に人間ではないのですわね」
「はい」
「こういう時、人間はもう少し遠慮するものですわ」
「次から努力します」
「次からが多すぎますわ!」
「自己進化型、ですので」
とはいえ、藍の観察は乱暴ではなかった。紗雪が本気で嫌がる動作はしないし、無断で触れもしない。距離を取り、センサーを確認し、紗雪の反応を言葉で記録していく。
それでも紗雪にとっては十分すぎるほど恥ずかしいらしく、耳はずっと忙しく動いていた。
「……榊原さん」
「はい」
「その目で見られると、非常に落ち着きませんわ」
「観察中ですので」
「ですわよね!」
「必要であれば、視線を外します」
「必要ですわ」
「分かりました」
藍は素直に視線を少し下げた。
それで紗雪は一瞬だけ安心した。だが、すぐに気づく。藍は視線を外しても、センサーで全部見ている。
「……意味がありませんわね?」
「完全にはありません」
「正直すぎますわ!」
恋は思わず笑いそうになって、慌てて口元を押さえた。
紗雪がじろりと見る。
「桜川さん?」
「笑ってません」
「笑いかけていましたわ」
「すみません。ちょっとだけ」
「あなたもなかなか失礼ですわね」
「すみません……でも、その、獅堂先輩の耳、感情が出すぎてて」
「言わないでくださいませ!」
紗雪の耳がぺたんと伏せた。
その瞬間、恋は胸を押さえた。
「……かわいい」
「桜川さん!?」
「す、すみません! 今のは本当に声に出すつもりなくて!」
「出ていましたわ! はっきり出ていましたわ!」
藍が端末を確認する。
「恋の発言により、獅堂紗雪さんの心拍数が上昇しました」
「記録しないでくださいませ!」
「非公開記録です」
「非公開なら何でも許されると思っていらっしゃいますの!?」
「思っていません」
「では消しなさいませ!」
「検討します」
「消す気がない返事ですわ!」
部屋の中に、妙な賑やかさが生まれていた。
呪い。観察。身体変異。言葉だけなら重い。けれど、今この場にある空気は、思ったよりも暗くなかった。紗雪は恥ずかしさで爆発しそうになっているが、それでも逃げ出してはいない。恋も戸惑いながら、紗雪を化け物としては見ていない。
藍は、いつも通り情報として見ている。
そのいつも通りが、ある意味では一番公平だった。
「獅堂紗雪さん」
藍が言った。
「日没時の発現については、おおよそ確認できました」
「そうですの。では、本日の観察は終了でよろしいですわね」
「はい。第一段階は終了です」
紗雪は嫌な予感がした。
「第一段階?」
「次は、満月の夜の変貌を確認したいと考えています」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
恋も顔を上げる。
「藍さん、それって……」
「はい。獅堂紗雪さんが完全な魔獣形態になる現象です」
紗雪の表情から、羞恥の色が少し消えた。
代わりに、緊張が浮かぶ。
「……それは、今夜のようにはいきませんわよ」
「分かっています」
「分かっていませんわ。満月の夜のわたくしは、わたくしではありません。理性がありませんの。今のように話すことも、止まることもできませんわ」
「聞いています」
「普通の部屋など、容易く壊れますわ」
「その可能性も考慮しています」
藍は淡々と答えた。
だが、軽く見ているわけではない。
その声には、先ほどまでとは違う慎重さがあった。
「ですので、この部屋では行いません」
「では、どこで?」
「獅堂家に、隔離施設がありますね」
紗雪の耳が止まった。
完全に止まった。
「……そこまでご存じですの?」
「推測です。満月の夜に理性を失うのであれば、鎮静剤だけで管理するのは不十分です。財力、家格、秘密保持の必要性を考えると、専用の隔離空間がある可能性が高いと判断しました」
「本当に嫌なほど当ててきますわね」
「ありますか?」
「……ありますわ」
紗雪は観念したように答えた。
「獅堂家の地下に、隔離施設があります。壁も床も通常の建材ではありません。万が一暴れても、外には出られないようになっています」
恋は息を呑んだ。
「そんな場所が……」
「お嬢様にも、色々と事情がありますの」
紗雪は自嘲気味に笑った。
その笑みは、先ほどまでの羞恥とは違って、少しだけ寂しかった。
「満月の夜、わたくしはそこに入ります。そして鎮静剤を打って、朝までやり過ごす。それがいつもの流れですわ」
「……怖くないんですか?」
恋が思わず聞いた。
紗雪は一瞬、答えなかった。
耳が小さく伏せる。
「怖いに決まっていますわ」
静かな声だった。
「ですが、怖がっても月は止まりませんもの」
恋は何も言えなくなった。
藍も少しだけ沈黙した。
その沈黙は、観察のためではなかった。
紗雪の言葉を、きちんと受け取るための間だった。
「獅堂紗雪さん」
「何ですの」
「次の満月の夜、私と恋が隔離施設に同席してもよろしいですか」
「桜川さんも?」
紗雪は驚いたように恋を見る。
恋も驚いていた。
「私もですか?」
「はい」
「いや、私は専門知識とかないですけど」
「あなたは、必要です」
藍は恋を見た。
「私だけでは、獅堂紗雪さんが不安を感じる可能性が高いです」
「……まあ、それはそうですわね」
「獅堂先輩、否定しないんですね」
「正直、榊原さんだけに見られるのは怖すぎますわ」
「分かります」
「恋」
「はい」
「私への評価が一貫していませんか」
「一貫してます」
「そうですか。それは結構」
藍はそれ以上追及しなかった。
紗雪は少し迷った。
満月の夜を他人に見せる。それは、耳や尻尾どころの話ではない。怪物になる自分。理性を失う自分。美しくも優雅でもない、呪いそのものの姿。
それを見られる。
怖くないはずがなかった。
「……分かりましたわ」
紗雪は小さく息を吐いた。
「数日後、次の満月の夜。獅堂家の地下隔離施設にご案内します」
「ありがとうございます」
「ただし、条件があります」
「はい」
「万が一、危険だと判断した場合、即座に退出してくださいませ。わたくしは、その時の自分を止められません」
「分かりました」
「桜川さんもですわ」
「はい。分かりました」
恋は真剣に頷いた。
紗雪はその顔を見て、少しだけ目を細める。
「……あなた、本当に変わっていますわね」
「私ですか?」
「ええ。普通なら、逃げますわよ」
「逃げたい気持ちはあります」
「正直ですわね」
「でも、獅堂先輩が怖いって言ったので」
恋は少しだけ迷いながら、それでも続けた。
「怖いって言った人を、そのまま一人にするのは、何か嫌です」
紗雪は黙った。
耳が、ほんの少しだけ立ち上がる。
尻尾の揺れが、さっきより穏やかになった。
「……お人好しですわね」
「よく言われます」
「褒めているのですわ」
「えっ」
「そこで驚かないでくださいませ」
藍が端末を確認する。
「獅堂紗雪さんの警戒反応が低下しました」
「榊原さん」
「はい」
「今の流れで観察結果を挟まないでくださいませ」
「すみません」
「本当に台無しですわ」
「善処します」
紗雪はため息をついた。
しかし、そのため息は先ほどより少し軽かった。
窓の外は、完全に夜になっていた。
ガラスに映る自分の姿を見る。金髪縦ロール。制服。獣の耳。尻尾。その姿には、何度見ても慣れない。
けれど今日は、その隣に二つの影がある。
黒髪の人工知能。
桃色の髪の一年生。
どちらも普通ではない。どちらも簡単には理解できない。けれど、少なくとも今この瞬間、自分を怪物として扱ってはいなかった。
「……榊原さん」
「はい」
「次の満月、本当に見るおつもりですのね」
「はい」
「後悔しても知りませんわよ」
「後悔は、事後に発生する感情です。必要であれば、その時に処理します」
「本当に人間らしくありませんわね」
「はい」
「認めるところも腹立たしいですわ」
紗雪はそう言って、少しだけ笑った。
恋も、つられて小さく笑う。
藍だけは、いつものように静かに二人を見ていた。
「では、次の観察は獅堂家地下隔離施設で行います」
「観察と言われると、やはり腹立たしいですわ」
「では、立ち会い」
「少しだけましですわね」
「では、次の立ち会いは獅堂家地下隔離施設で行います」




