第45話
予告状。
怪盗として、それは本来、優雅な作法だった。
獅堂紗雪――怪盗プリンセスにとっても、予告状とは舞台を整えるための儀式である。いつ、どこで、何を狙うのかを告げ、その上で警備をすり抜ける。そこまで含めて、怪盗という存在は成立する。
だが、今夜の予告状には、いつもの美学とは別の意味があった。
榊原藍。
昨夜、別の美術館で自分の前に現れた、青葉第二高等学校の生徒会長。あの少女は、怪盗プリンセスの正体が獅堂紗雪であることを最初から見抜いていた。しかも、仮装でごまかしていたはずの耳が、飾りではないことにまで気づいた。
だから紗雪は、試すことにした。
予告状を出せば、警察は動く。警備も増える。報道には乗らずとも、関係者の間では確実に情報が回る。もし榊原藍が本当に何らかの捜査機関、あるいは警察と関係を持つ人間ならば、現場に現れるまでの過程で、その輪郭が少しは見えるはずだった。
逆に、現れなければ。
それはそれで、榊原藍が警察系統とは別の権限で動いているという判断材料になる。
「……予告状まで実験に使うことになるとは、怪盗として少々不本意ですわね」
博物館の屋根の上で、紗雪は月を見上げた。
仮面。白い怪盗衣装。夜風になびくマント。頭上には獣の耳があり、背後では尻尾がゆるく揺れている。
予告状に指定した時刻まで、あとわずか。
館内には警備員と警察官が配置されている。想定以上に厳重だが、それ自体は大きな問題ではない。紗雪が本当に気にしているのは、榊原藍がどこにいるかだった。
「さて、榊原さん。あなたは、どちら側のお方ですの?」
紗雪は静かに屋根から身を翻した。
*
結論から言えば、榊原藍は現れなかった。
少なくとも、館内には。
予告時刻と同時に、博物館の警備は一気に緊張を増した。警察官の足音、無線の声、非常灯の光。展示室の空気は目に見えない糸で張られたように固くなり、怪盗プリンセスはその中をかろうじてすり抜けた。
狙いは、古代祭具として展示されていた小さな装飾具だった。伝承では、獣の魂を鎮めるために用いられたとされる品で、本物かどうかは分からない。それでも、調べる価値はあった。
紗雪は展示ケースの前に降り立ち、素早く目的の品を確認した。
「……違いますわね」
手に取るまでもなかった。
秘宝ではない。呪いを解くものでもない。ただ、古く、美しく、そして無力な品。
紗雪は小さく息を吐いた。
その直後、廊下の向こうで声が上がった。
「いたぞ!」
「ケモ耳女だ!」
「逃がすな!」
「……まあ、そうなりますわよね」
紗雪はマントを翻した。
今夜の目的は、もはや盗みではない。
榊原藍の反応を見ること。
そして今のところ、その反応はない。
ない。
ないのだ。
「現場には来ない……?」
走りながら、紗雪は考える。
警察と直接連携しているなら、この場にいてもおかしくない。しかし姿はない。指揮系統にも気配がない。ならば、榊原藍は警察の関係者ではない。少なくとも、表の警察機構に属しているわけではない。
「では、あなたは何者ですの……!」
背後から追手が迫る。
紗雪は階段を使わず、吹き抜けの手すりを足場にして下階へ降りた。警察官たちが驚きの声を上げる。その反応を聞きながら、紗雪は出口へ向かった。
派手にやりすぎた。
今さら悔やんでも遅い。
*
裏口から外に出た瞬間、冷たい夜気が肺に入った。
紗雪は建物の壁際に身を寄せ、大きく息を吐く。
「……っ、思ったより厳しかったですわね」
警察はまだ館内を探している。外周警備もいるだろうが、今の位置は死角だった。ここで一度呼吸を整え、屋根伝いに離脱する。紗雪がそう判断した、その瞬間だった。
何かが、足元から跳ねた。
「――っ!?」
縄。
いや、縄のように見える何かだった。
細く、しなやかで、しかし異常に強い。それが紗雪の足首に絡み、次の瞬間には腕ごと身体を締め上げていた。
紗雪は反射的に身を捻る。
だが、遅い。
拘束は一瞬で完成した。両腕は動く余地を奪われ、マントごと身体に巻きつけられる。倒れかけた身体は、さらに別の線に支えられるように引き止められた。
地面に叩きつけるためではない。
逃がさないための拘束だった。
その目的に対して、あまりにも正確すぎる。
「なっ……何ですの、これは……!」
「拘束用の簡易ファイバーです」
声がした。
落ち着いた、丁寧な声。
聞き覚えのある声。
紗雪は顔を上げた。
建物の影、外灯の届かない位置に、榊原藍が立っていた。青葉第二高等学校の制服姿で、黒髪を夜風に揺らし、赤い瞳でこちらを見ている。
「こんばんは、怪盗プリンセス」
「……榊原さん」
紗雪は歯噛みした。
来なかったのではない。
館内に来なかっただけだ。
警察の中にも、警備の中にもいなかった。榊原藍は最初から外で待っていたのだ。逃げ出す瞬間、一番警戒が緩む瞬間を。
「あなた……警察と連携していたわけではありませんのね」
「はい」
「では、なぜここが分かりましたの?」
「逃走経路を推定しました」
「推定でここまで正確に?」
「はい」
「本当に嫌なお方ですわね」
「よく言われます」
「でしょうね」
藍は近づいてくる。
紗雪は拘束を解こうとしたが、ファイバーは動けば動くほど締め方を変え、力の逃げ道を奪っていく。痛めつけるためではない。逃げさせないためだけに組まれた構造だった。
それが余計に腹立たしかった。
藍は紗雪の前に立った。
そして、ためらいなく手を伸ばす。
「失礼します」
「何を――」
仮面に指がかかる。
紗雪は反射的に顔を背けようとしたが、拘束されていて大きくは動けなかった。抵抗らしい抵抗もできないまま、アイマスクが外される。
夜気が素顔に触れた。
整った顔立ちが露になる。青葉第二高等学校二年、獅堂紗雪。
もう隠しようがなかった。
「……満足ですの?」
「確認は完了しました」
「ええ、そうでしょうね。お察しの通りですわ。わたくしが獅堂紗雪。怪盗プリンセスの正体です」
紗雪は観念した。
ここまで来れば、言い逃れはできない。けれど、藍の反応は薄かった。驚かない。勝ち誇らない。責めもしない。まるで、それはもう済んだ項目だと言わんばかりに、淡々と視線を動かしている。
「では、次の確認を行います」
「次?」
藍の手が、紗雪の頭上に伸びた。
獣の耳に触れる。
紗雪の肩が跳ねた。
「ちょっ、何をなさいますの!?」
「耳の状態を確認しています」
「許可しておりませんわ!」
「すみません。短時間で終えます」
「そういう問題ではありませんの!」
藍は構わず、耳の付け根、動き、反応を観察した。乱暴ではない。痛みもない。だが、あまりにも遠慮がない。
まるで、生物標本と精密機械の両方を同時に検査しているような手つきだった。
「装飾品ではありませんね。皮膚、筋肉、神経反応が連動しています」
「実況しないでくださいませ!」
「聴覚器官として機能していますか?」
「答える義務はありませんわ!」
「耳介の反応速度から見て、通常の人間より音源定位能力が高い可能性があります」
「聞いていませんわよね!?」
紗雪は顔を赤くして抗議する。
だが、藍は真剣だった。
本当に真剣だった。
だからこそ余計にたちが悪い。
次に、藍の視線が背後へ移った。
紗雪は嫌な予感がした。
「まさか」
「尻尾も確認します」
「なさいませんわ!」
「失礼します」
「失礼すれば何でも許されると思っていらっしゃいますの!?」
藍は尻尾にも軽く触れた。
紗雪は拘束されたまま、全力で身をよじる。それでも藍は淡々と、動きの連動、筋肉の緊張、反射的な揺れ方を確認していく。
「こちらも本物ですね」
「見れば分かりますでしょう!」
「視覚情報だけでは断定できません」
「だからといって触る必要がどこにありますの!」
「あります」
「断言なさらないでくださいませ!」
藍はようやく手を離した。
紗雪は肩で息をしながら、赤い顔で藍を睨む。正体を暴かれたことよりも、耳と尻尾を検査されたことの方が、精神的な被害は大きかった。
敗北感がすごい。
「……あなた、国家機関の方か何かではありませんの?」
「違います」
「では、何ですの」
「青葉第二高等学校の生徒会長です」
「それで通ると思っていらっしゃいますの?」
「はい」
「通りませんわよ!」
藍は少しだけ首を傾げた。
「少なくとも、学内では通ります」
「ここは学外ですわ!」
「そうですね」
「そうですね、ではありませんわ!」
遠くから警察官の声が聞こえた。
こちらへ近づいてくる気配はまだない。だが、長くはいられない。紗雪はファイバーの隙間を探りながら、藍を睨み続けた。
「榊原さん。まさかこのまま警察に引き渡すおつもり?」
「いいえ」
「では、何が目的ですの?」
「あなたと話すことです」
「今まさに話していますわ」
「ここでは不十分です」
藍は紗雪の外されたアイマスクを手に持ったまま、静かに言った。
「明日、生徒会室で待っています」
「……は?」
「放課後で構いません」
「待ちなさい。どういう意味ですの?」
「そのままの意味です」
「わたくしが行くとお思い?」
「来ると思います」
「なぜ?」
「この状況を放置すれば、あなたは私が何をどこまで知っているか分からないままになります」
「……」
「そして、私はあなたの耳と尻尾が本物であることを確認しました」
「……脅迫ですの?」
「いいえ。招待です」
「脅迫に限りなく近い招待ですわよ、それは」
「そう聞こえたなら、表現を訂正します」
「訂正なさい」
「明日、生徒会室に来てください。あなたが来ない場合、私は別の方法であなたに接触します」
「悪化しましたわ!」
藍はアイマスクを紗雪の足元に置いた。
それから一歩下がる。
「では、明日」
「ちょっとお待ちなさい」
「はい」
「これを外してくださいませ」
紗雪は拘束されたまま、ファイバーを示した。
藍はそれを見た。
そして、何食わぬ顔で言った。
「自力で外せる強度に調整してあります」
「そういうことではありませんわ!」
「警察がここに到達するまでの時間を考慮すると、十分間に合います」
「それをあなたが言いますの!?」
「はい」
「外しなさい!」
「明日、生徒会室で待っています」
「榊原さん!」
藍はそれ以上答えなかった。
夜の影へ歩き出す。足音は静かで、すぐに遠ざかっていった。紗雪は拘束されたまま、呆然とその背中を見送る。
「……本当に置いていきましたの?」
返事はない。
榊原藍は、すでに姿を消していた。
*
その後の獅堂紗雪は、怪盗プリンセス史上もっとも優雅ではなかった。
「っ……このっ、なんですの、この縄……!」
ファイバーは切れない。ほどこうとすれば滑る。無理に暴れれば、余計に動きづらくなる。だが、藍の言った通り、完全に脱出不能というわけではなかった。
力の入れ方。身体の角度。尻尾の位置。耳で拾う警察の足音。紗雪はそれらを総動員して、必死に拘束を緩めていく。
遠くで警察官の声が近づいてきた。
「裏手を確認しろ!」
「こっちにも回れ!」
「……っ、冗談ではありませんわ!」
ようやく片腕が抜けた。
次に肩。
マント。
足首。
最後に尻尾に絡んだ細い一本をほどくのに、紗雪は本気で泣きそうになった。
「尻尾に絡めるなんて、最低ですわ……!」
どうにか拘束を外し、アイマスクを拾う。すぐに装着し直し、紗雪は屋根へ跳んだ。
その数秒後、警察官が裏手に駆け込んでくる。
「いないぞ!」
「逃げたか!」
紗雪は屋根の上からそれを見下ろし、大きく息を吐いた。
逃げ切った。
だが、完全に負けた。
実験は失敗。榊原藍の正体は分からず仕舞い。それに加えて、自分の正体と、耳と、尻尾を確認された。
最悪である。
「……榊原藍」
紗雪は夜空を見上げた。
月は雲の間に隠れている。今夜はまだ、獣になるほどではない。けれど、胸の奥には別の意味で獣のような焦りがあった。
「生徒会室……」
行くべきではない。
絶対に罠だ。
だが、行かなければ、榊原藍は別の方法で接触してくる。あの少女ならやる。必ずやる。
「……本当に、なんて方ですの」
紗雪はマントを翻した。
怪盗プリンセスは夜の街へ消えていく。その背中で、尻尾が不機嫌そうに揺れていた。
翌日、青葉第二高等学校の生徒会室へ向かうことになる未来を、半ば確信しながら。




