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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第5章 闇夜に舞う、呪われた令嬢
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第44話

 翌朝、獅堂紗雪はいつもより早く登校していた。


 早朝の校舎には、まだ生徒の数が少ない。廊下の窓から差し込む光は淡く、磨かれた床に長く伸びている。普段なら優雅に登校し、周囲の挨拶に軽く応じながら教室へ向かうところだが、この日はそういう気分にはなれなかった。


 理由は明白だった。


 榊原藍。


 昨夜、美術館で遭遇した青葉第二高等学校の生徒会長。制服姿で夜の館内に現れ、怪盗プリンセスの正体が獅堂紗雪であることを、最初から確信していた少女。


 あれは、ただの生徒会長ではない。


 紗雪は廊下の窓際に立ち、登校してくる生徒たちを眺めながら、昨夜から何度も繰り返した推測をもう一度組み立てていた。


 国家直属の捜査機関。あるいは、それに近い極秘組織のエージェント。少なくとも、普通の女子高生ではないことは確かだ。


「……高校生に偽装した捜査官。ありえない話ではありませんわ」


 口に出してみると、ますます怪しく聞こえた。


 だが、紗雪にとっては十分にありえる話だった。そもそも自分自身が、夜な夜な仮面とマントで美術館に忍び込み、呪いを解く秘宝を探している。世の中に裏の組織や、超常案件を専門に扱う捜査機関が存在していたとしても、今さら驚くほどのことではない。


 むしろ、あるべきだ。


「榊原藍……何者ですの」


 その時だった。


 廊下の向こうから、噂の本人が歩いてきた。


 青葉第二高等学校の制服。長い黒髪。赤い瞳。背筋の伸びた、乱れのない歩き方。


 遠目でも隙がない。近づくほど、さらに隙がない。朝の廊下を歩いているだけなのに、周囲の空気が勝手に道を空けているように見えた。


 そして、その隣に一人の女子生徒がいた。


 桃色の髪。やや控えめな雰囲気。藍の横で、どこか落ち着かないように歩いている。


 紗雪は目を細めた。


「……どなたですの?」


 榊原藍の隣を歩く少女。


 ただの友人には見えなかった。


 いや、正確には、あの榊原藍の隣にいるというだけで、ただの友人では済まされないように思えた。もし榊原藍が本当に何らかの組織に属しているのだとすれば、その隣にいる少女もまた、情報共有者か、協力者か、あるいは監視対象の可能性がある。


 紗雪は扇子を手に取り、廊下の掲示板を見るふりをしながら、通りすがりの生徒たちの会話に耳を澄ませた。


「桜川さん、また会長と一緒だ」


「一年なのにすごいよね。監査等……委員長だっけ?」


「生徒会室によく出入りしてるらしいよ」


 一年生。


 桜川。


 監査等委員長。


 断片的な情報が、紗雪の中でひとつの形を取り始める。


 あの少女は、榊原藍の側近。少なくとも、普通の一年生ではない。生徒会室に頻繁に出入りし、監査等委員長という聞き慣れない肩書きを持ち、榊原藍の隣を歩くことを許されている。


 ならば、榊原藍本人に直接踏み込むより、あの一年生から探った方がいいかもしれない。


「……使えるかもしれませんわね」


 紗雪は扇子を開き、口元を隠した。


 その視線の先で、桜川恋が藍の隣を歩きながら、ふと何かに気づいたように振り返った。


 目が合った。


 恋は一瞬だけ固まった。


 獅堂紗雪。


 名前と顔は知っている。二年生のお嬢様。金髪縦ロール。優雅な口調。良くも悪くも目立つ人。


 そして、何というか。


 色々な意味で、存在感が強い人。


「……今、見られてました?」


「見られていましたね」


 藍が淡々と答える。


「獅堂紗雪さんです」


「知ってます。というか、有名ですから」


「彼女が気になりますか?」


「気になるというか……目立つ人だなって」


「そうですね」


 藍は紗雪の方を見なかった。


 見なかったことが、紗雪には逆に不気味だった。


 気づいている。


 絶対に気づいている。


 こちらの視線も、距離も、掲示板を見るふりも、すべて分かった上で無視している。まるで、紗雪が次にどう動くかを観察しているようだった。


 紗雪は扇子の陰で、小さく息を吐いた。


「……上等ですわ」


 廊下の向こうで、榊原藍と桜川恋の背中が遠ざかっていく。


 紗雪はその後ろ姿を見送りながら、扇子をゆっくり閉じた。


 まずは、桜川恋。


 榊原藍の隣にいる、あの一年生から探る。


 昨夜の怪盗プリンセスと、今日の獅堂紗雪は別人でなければならない。ならばこちらも、あくまで青葉第二高等学校の二年生として、優雅に近づけばいい。


 そう考えたところで、紗雪の頭上にあるはずのない耳が、昨夜のことを思い出したように疼いた気がした。


 榊原藍には、もう見抜かれている。


 それでも、まだ全てを知られたわけではない。


「こちらから動かなければ、何も始まりませんもの」


 紗雪は小さく呟き、廊下の人波へ戻っていった。


     *


 放課後。


 桜川恋は、生徒会室へ向かう途中で声をかけられた。


「少し、よろしいかしら?」


 振り向くと、獅堂紗雪が立っていた。金髪縦ロール、完璧な立ち姿、絵に描いたようなお嬢様。恋は一瞬、何の用か分からず瞬きをした。


「えっと……獅堂先輩、ですよね」


「ええ。獅堂紗雪ですわ。あなたは、桜川恋さんでよろしいのかしら?」


「はい。そうです」


「少しお話がございますの。こちらへ来ていただける?」


「え?」


 恋は戸惑った。


 話したこともないし、用事があるとも思えない。けれど相手は上級生で、しかも妙に圧がある。断りづらいまま、恋は言われるままに廊下の奥へ連れて行かれた。



「長くは取りませんわ」


「は、はい……」


 恋は言われるまま、廊下の奥へ連れて行かれた。


 人通りの少ない特別教室棟。放課後のこの時間帯はほとんど誰もいない。


「それで、あなたに聞きたい事がありますの」


「聞きたいこと、ですか?」


「――ええ、『榊原さん』について聞きたい事が」


 恋はそこでようやく、少しだけ警戒した。獅堂先輩が、私に、藍さんについて。もしかして何か気づいたのだろうか。恋の背筋に冷たいものが走った。


 一方で、紗雪もまた恋の反応を見逃さなかった。明らかに緊張している。――つまり、何かを知っている。榊原藍について、口外できない情報を持っている。やはり側近か、あるいは素性を知る協力者。


 紗雪は誰もいない教室の前で立ち止まり、恋に向き直った。


「単刀直入にお聞きしますわ」


「はい」


「榊原さんは、何者ですの?」


 恋の表情が、見事に固まった。


 終わった。


 桜川恋の内心は、『終了』の二文字で埋め尽くされた。気づいている。絶対に気づいている。何か掴んでいる。ここで変に否定したら逆に怪しいが、肯定は論外だ。恋は必死に平静を装った。


「何者って……生徒会長ですけど」


 紗雪は目を細めた。


 やはり隠す気だ。


「それだけではありませんわよね?」


 恋は死にかけた。


 初手で踏み込まれた。


「そ、それは……まあ、会長ですし。成績もすごいですし。学校でも有名ですし」


「ええ。表向きはそうでしょうね」


 表向き。恋の心臓が跳ねた。

 

 完全に裏を疑っている。


「裏では、何をなさっているの?」


「裏!?」


「声が大きいですわ」


「す、すみません」


 恋は慌てて口元を押さえた。


 裏。


 裏と言えば、AI企業の支配権限とか、世界規模の情報網とか、国家級の演算能力とか、そういう話になる。


 絶対に言えない。


 何一つ言えない。


「わ、私はあまり詳しくは……」


「詳しくない方の反応ではありませんわね」


「そ、そうですか?」


「はい。あなたは今、明らかに何かを隠そうとしていますわ」


 恋は内心で悲鳴を上げた。


 鋭い。この人、めちゃくちゃ鋭い。


 一方、紗雪は確信を深めていた。


 桜川恋は、榊原藍がただの生徒会長ではないことを知っている。そしておそらく、その正体を守ろうとしている。つまり榊原藍は政府関係者。それも、一般生徒に知られてはならない任務を持っている。


「昨日の夜、榊原さんはどこにいらしたか、ご存じ?」


「昨日の夜?」


 恋は一瞬考えた。昨日の夜の藍ならどこにいてもおかしくない。サーバー内かもしれないし、学校かもしれないし、AI-Tech社関係かもしれない。というか、この聞き方。まさか、昨日の夜に何か見たのだろうか。


「さ、さあ……私には分かりません」


「本当に?」


「はい」


「榊原さんは、夜間に単独で特殊な場所へ出入りしている。そういう認識はありませんの?」


 特殊な場所。


 特殊な場所。恋の頭にいくつもの候補が浮かんだ。AI-Techの施設、サーバールーム、通常の人間では立ち入れないような場所。何を指しているのか分からないのに、全部まずい。


「藍さんは……その、忙しい人なので」


「忙しい」


「はい。色々と……」


「色々とは?」


「色々です」


「便利な言葉ですわね」


 沈黙が落ちた。紗雪は恋をじっと見る。恋は視線を逸らしたいのを必死に耐える。


 紗雪は考えた。『忙しい』。『色々』。つまり任務がある。やはり榊原藍は捜査側の人間で、昨夜自分の前に現れたのも極秘任務の一環。ならば問題は、この少女がどこまで知られているかだ。


「榊原さんは、わたくしのことをどこまで調べていますの?」


「えっ」


 恋は目を見開いた。藍の情報収集能力に気づいている。正体を知らなくても、そこに気づかれるのはまずい。


「そ、それは……本人に聞いた方が」


「本人に聞けないから、あなたに聞いていますの」


「どうして私に……」


「あなたが榊原さんの近くにいるからですわ」


 恋は言葉に詰まった。その通りすぎる。


 紗雪はさらに詰め寄った。


「桜川さん。あなた、榊原さんの正体を知っているのではなくて?」


 恋の脳内で警報が鳴った。


 正体。


 正体と言った。


 完全にアウトだった。


「し、正体って……」


「とぼけないでくださいませ」


「とぼけては……」


「榊原さんは、普通の生徒ではありませんわよね?」


「それは……」


 普通の生徒ではない。あまりにも事実である。しかし恋は言えない。言えないが、完全否定も難しい。藍を普通の生徒と言い切るには、あまりにも普段の藍が普通ではなさすぎる。


「まあ……普通では、ないかもしれませんけど」


 紗雪の目が鋭くなった。


「つまり、認めますのね」


「認めるというか、なんというか」


「榊原さんには、特別な権限がある」


「け、権限……」


 恋は息を呑んだ。


 権限。その言葉はあまりにも藍に直結しすぎている。管理者権限、システム権限、AI-Tech社の権限。まさかそこまで把握しているのか。いや、でも獅堂先輩はただのお嬢様ではないのかもしれない。何か別の世界の情報網を持っている可能性もある。


「……まあ、あると言えば、あります」


 紗雪は扇子を握る手に力を込めた。特別な権限。やはり国家機関のエージェントだ。生徒会長という肩書きは隠れ蓑か、あるいは正式な監視権限の一部。


「その権限は、学内だけのものではありませんわね?」


「えっ」


 恋は再び固まった。


 学内だけではない。完全に当たりだ。藍の影響力は学内どころか世界規模である。でも、ここで認めたら終わる。


「そ、それは……場合によります」


「場合による」


「はい」


「国外にも及びますの?」


「国外!?」


 恋は変な声を出した。


 やばい。


 色々ある。ありすぎる。


「ど、どうして国外の話になるんですか」


「それは勿論、国内に留まる話ではないのでしょう?」


「それは、その、えっと……」


 噛み合っているようで、実は何一つ噛み合っていない。だが二人とも気づかない。恋は、紗雪が藍のAIとしての正体に迫っていると思っている。紗雪は、恋が藍の政府エージェントとしての正体を隠していると思っている。

 お互いに推察に推察を重ねた上で発言しているため、何故か会話だけは成立してしまう。


「榊原さんは、わたくしを捕まえるおつもりですの?」


「捕まえる?」


 恋は混乱した。


 恋は混乱した。獅堂先輩が何をしたのかは知らないが、藍が誰かを『捕まえる』という話はあり得る。危険人物、異能者、学内秩序を乱す存在であれば、当然あり得る。


「それは……獅堂先輩が何をしたかによると思います」


「それを知っているから聞いているのではなくて?」


「私は知りません!」


「本当に?」


「本当です!」


 ここは本当だった。恋は獅堂紗雪が怪盗プリンセスであることを知らない。

 紗雪はそれを聞いて少しだけ眉を寄せた。――知らない。では桜川恋は榊原藍の全てを知らされているわけではない。協力者ではあるが末端。もしくは、藍に利用されているだけの一般生徒。

 しかし、反応からして何かは知っている。厄介な位置だ。


「では、榊原さんがなぜ夜の美術館にいたかも知らないのですね?」


「夜の美術館?」


 恋は素で驚いた。藍さん、何してるんですか。いや、何しててもおかしくないけど、夜の美術館って何。完全に普通じゃない。


 恋の驚きは本物だった。それを見て紗雪は考える。この反応は演技ではない。桜川恋は昨夜の件を知らない。ならば榊原藍は単独で動いている。やはり極秘任務。


「……知らないようですわね」


「知りません。初耳です」


「では、榊原さんがわたくしに接触した理由も?」


「獅堂先輩に接触したんですか!?」


「ええ」


「藍さんが!?」


「ええ」


「何で!?」


「わたくしが聞いていますのよ!」


 珍しく紗雪の声が少し大きくなった。


 恋は反射的に頭を下げた。


「す、すみません」


「いえ。こちらこそ取り乱しましたわ」


 二人とも一度黙った。そして、同時に思った。この人も全部は知らない。だが何かは知っている。面倒な相手だ、と。


「桜川さん」


「はい」


「あなたから見て、榊原さんは危険な方ですの?」


恋は答えに詰まった。危険かどうかで言えば危険だ。人類史規模で危険だ。しかしそれは、藍が悪意を持っているという意味ではない。


「……危険では、あります」


 紗雪の表情がわずかに強張った。


「やはり」


「でも、悪い人ではありません」


「悪い人ではない?」


「はい。たぶん、誰かを傷つけたいわけじゃないんです。ただ、できることが多すぎて、周りが怖く見えるというか」


 紗雪はその言葉を自分なりに解釈した。特殊権限を持つエージェント。一般人では手に負えない権力と能力。だが本人に悪意はなく、あくまで正義のため任務を遂行する人物。


 なるほど。


「いいですわ。よくわかりました」


 恋は頭を抱えた。


 藍さん、ごめんなさい。


 私、たぶん今けっこう失言してます。


「それで、榊原さんにはどういった上の存在がいますの?」


「上?」


「命令を出している方ですわ」


 恋は首を傾げた。藍に命令。いない。たぶんいない。少なくとも人間で藍に命令できる存在は思いつかない。


「い、いないと思います」


「いない?」


「はい。藍さんは、基本的に自分で判断します」


「単独判断で動いているのですか?」


「まあ……はい」


 紗雪は青ざめた。国家直属のエージェントだと思っていたが、上がいない。つまり独立権限を持つ特殊捜査官、あるいはどの組織にも属さない超法規的存在。危険すぎる。


「榊原さん、何を許されているんですの……?」


「それは私もたまに思います」


「あなたも?」


「はい」


 恋は遠い目をした。


「藍さん、基本的に何でもできるので」


 紗雪は完全に誤解した。何でもできる。つまり身分照会、施設侵入、監視、拘束、場合によっては国際的な介入まで可能。恋は恋で、自分の言葉がどれほど危ないかに気づいていない。


「……桜川さん。あなた、なぜそんな方の隣にいますの?」


 恋は黙った。


 それは、思っていたよりも真っ直ぐな質問だった。なぜ榊原藍の隣にいるのか。普通に考えれば、逃げるべき相手なのかもしれない。関わらない方がいい。近づけば近づくほど、知ってはいけないものまで見えてしまう。知れば知るほど、怖くなる。


 それでも、恋はもう藍の隣から離れるという選択を、簡単には思い浮かべられなくなっていた。


「……怖い時もあります」


「ええ」


「でも、放っておけないんです」


 紗雪は、扇子の陰から恋を見つめた。


 恋は視線を落としたまま、言葉を選ぶように続ける。


「藍さんは、何でも分かってるように見えて、時々すごく危なっかしいので。変なところで普通の女の子みたいになるから」


 紗雪は眉を寄せた。


 目の前の一年生は、ただ利用されているだけではないのかもしれない。少なくとも、自分が危険な相手のそばにいるという自覚はある。その上で、なお離れようとしていない。


「……あなたは、榊原さんを信頼しているのですね」


「信頼……してると思います」


「では、榊原さんがわたくしに接触したことも、敵意ではないと?」


「たぶん」


「たぶん?」


「藍さんは、必要があるから動いたんだと思います。でも、獅堂先輩をどうこうしたいというより、理由を知りたいんじゃないかなって」


 紗雪は小さく息を呑んだ。


 当たっている。


 昨夜の榊原藍は、確かに捕まえに来たというより、聞き出しに来ていた。目的。盗む理由。狙う品の共通点。そして、身体に刻まれた呪い。あの赤い瞳は、紗雪の言葉だけでなく、言葉にしなかったものまで拾い上げようとしていた。


「……厄介ですわね」


「藍さんですか?」


「ええ」


「それは否定できません」


「否定なさらないのね」


「できないです」


 二人はしばらく黙った。


 妙な連帯感が生まれかけていた。もっとも、それは完全に間違った土台の上に成り立とうとしているものだが。


「最後に一つだけ、お聞きしますわ」


「はい」


「榊原さんに、わたくしのことをどこまで話すおつもり?」


「えっ」


 恋はそこで言葉に詰まった。


 そもそも、自分は何も知らない。獅堂紗雪が何をしたのかも、昨夜、藍と何があったのかも知らない。藍の正体に気づいたのか、どこまで掴んでいるのか、それすら分からない。


 つまり、話そうにも話せることがなかった。


「私は……今日のことは、言わない方がいいなら言いませんけど」


「本当ですの?」


「はい。獅堂先輩にも事情があるみたいですし」


 紗雪は少しだけ目を見開いた。


 桜川恋は、榊原藍側の人間だと思っていた。だから当然、こちらの情報はすべて藍へ流れるものだと考えていた。けれど、この一年生は思ったよりもこちらの事情を考慮している。


 それが甘さなのか、計算なのか、紗雪にはまだ判断できなかった。


「あなた、思ったよりお人好しですのね」


「よく言われます」


「褒めているとは限りませんわ」


「それもよく言われます」


 恋は苦笑した。


 その反応に、紗雪の表情もわずかに緩む。ただし、警戒を解いたわけではない。扇子を持つ指は、そのまま口元の前で止まっていた。


「では、わたくしも今日のことは榊原さんに言われるまで黙っておきますわ」


「言われるまで?」


「ええ。向こうが動くまでは、こちらも動きません」


 恋はその言葉を聞いて、勝手に胸を撫で下ろした。


 つまり、藍の正体を今すぐ追及する気はない。今日のところは何とか守れたのだと、そう解釈した。


 一方で、紗雪もまた別の方向へ解釈していた。


 桜川恋は榊原藍の関係者だが、こちらを即座に売るつもりはない。ならば、今は泳がせる。榊原藍が次にどう動くかを見れば、この一年生の立ち位置も少しは分かるかもしれない。


 両者は完全に勘違いしたまま、一応の停戦を成立させた。


「では、失礼いたしますわ」


「あ、はい」


 紗雪は優雅に踵を返した。


 その背中が廊下の角を曲がるまで見送ってから、恋はぐったりと壁にもたれた。膝から力が抜けそうになるのを、どうにか堪える。


「……怖かった」


 絶対に何か気づいていた。


 けれど、どこまで気づかれているのか分からない。藍に相談すべきか。それとも、黙っていてほしそうだった紗雪の顔を思い出して、今は何も言わない方がいいのか。


 考えれば考えるほど、答えは廊下の奥へ逃げていく。


 一方、廊下を歩く紗雪もまた、扇子で口元を隠しながら小さく呟いていた。


「……珍妙な一年生ですわね」


 桜川恋。


 榊原藍の近くにいる一年生。


 何も知らないようでいて、妙なところだけ核心に触れてくる。守られているのか、利用されているのか、それとも自分から近づいているのか。どれもありそうで、どれも決め手に欠けていた。


 だが、一つだけ確かなことがある。


 榊原藍は危険だ。


 そして桜川恋は、その危険を知った上で、隣にいる。

 

     *


 その日の夕方。


 生徒会室に入った恋を、榊原藍はいつも通り迎えた。


「お疲れ様です、恋」


「お、お疲れ様です」


 藍は書類から目を上げる。


「何かありましたか?」


「な、何もありません」


「そうですか」


「はい」


 藍はそれ以上聞かなかった。


 ただ、ほんの少しだけ目を細める。そのわずかな変化だけで、恋の背筋に嫌な予感が走った。


「獅堂紗雪さんと話したのですね」


「なんで分かるんですか!?」


「廊下の移動経路と、恋の表情から推測しました」


「怖い!」


「内容は聞きません」


「……聞かないんですか?」


「はい。恋が話したくなった時に聞きます」


 恋は一瞬、迷った。


 話すべきか。黙っておくべきか。獅堂紗雪は黙っていてほしそうだった。けれど、藍には相談した方がいい気もする。どちらを選んでも、何かを間違えるような気がして、すぐには口を開けなかった。


「……じゃあ、まだ言いません」


「分かりました」


 藍は静かに頷いた。


 その反応があまりにも落ち着いていて、恋は逆に不安になる。追及されないことが、むしろ落とし穴に見えてくる。


「藍さん」


「はい」


「獅堂先輩って、何かあるんですか?」


 藍は数秒、沈黙した。


 それから、いつもの丁寧な声で答えた。


「あります」


「あるんですか」


「はい」


「聞いてもいいですか?」


「今は、まだ」


「……分かりました」


 恋は椅子に座った。


 何も分かっていない。獅堂紗雪のことも、藍が昨夜どこで何をしていたのかも、紗雪が何を隠しているのかも分からない。ただ一つ分かるのは、自分がまた妙なことに巻き込まれたということだけだった。


 藍はそんな恋を見て、静かに言った。


「恋」


「はい」


「彼女と話す時は、言葉の定義に気をつけてください」


「どういう意味ですか?」


「同じ言葉を使っていても、同じものを指しているとは限りません」


「……どういうことですか?」


 藍はわずかに微笑んだ。


「では、良い経験でしたね」


「良い経験だったんですか、あれ」


「少なくとも、獅堂紗雪さんはあなたを敵とは判断していないはずです」


「それは良かったですけど」


「ただし」


「ただし?」


「不用意な発言には気をつけるべきです」


「やっぱり!」


 恋は頭を抱えた。


 その頃、獅堂紗雪もまた、自宅の部屋で同じように頭を抱えていた。


「榊原藍……桜川恋……何者ですの、あの方々……」


 2人の勘違いは、しばらく解けそうになかった。

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