第43話
夜の美術館は、昼間とはまるで別の建物だった。
照明は落とされ、非常灯の淡い光だけが、磨き上げられた床に細く伸びている。展示ケースのガラスは黒く沈み、彫像の影は人の形を失って、壁際にじっと佇む獣のように見えた。
その静寂の中を、ひとつの影が滑るように進んでいた。
仮面で顔を隠し、マントを翻しながら、闇夜に揺れる獣の耳と尻尾を従えて歩く少女。近頃、複数の美術館や博物館を騒がせている怪盗プリンセスだった。
ただし、盗まれた品は数日以内に必ず返却される。破損もなく、むしろ保存状態が改善されて戻ってくることすらあるため、関係者の間では扱いに困る存在でもあった。
「……今夜も、つまらない品ですわね」
展示ケースの前で、怪盗プリンセス――青葉第二高等学校二年生、獅堂紗雪は小さく息を吐いた。
狙っていたのは、古代の装飾品とされる小さな銀細工だった。文献上は『月を封じた宝飾』などと大げさな名前が付いているが、実物から感じるものは薄い。少なくとも、紗雪が探しているものではなかった。
この忌まわしい獣の耳と尻尾。幼少期にかけられた呪いにより、夜になると生えてくる、人ならざる証。それを解くために、紗雪は何十何百という秘宝を見てきた。けれど、今夜の銀細工もまた、そのどれでもない。
「まったく。怪盗とは、もっと優雅で、もっと劇的で、もっと運命的であるべきですのに」
紗雪はケースの前で肩をすくめた。
「現実は地味な確認作業ばかり。お嬢様の仕事ではありませんわ」
「――では、なぜ続けているのですか?」
背後から声がした。
紗雪の耳が跳ねた。
反射だった。しまった、と思った時にはもう遅い。
展示室の入口、館内の暗がりの中に、ひとりの少女が立っていた。青葉第二高等学校の制服。黒髪のロングヘア。赤い瞳。
榊原藍。
学校で見たことはある。直接話したことはない。けれど、知らないはずがなかった。
青葉第二高等学校の生徒会長。いつも静かで、隙がなく、誰からも一目置かれている少女。その榊原藍が、夜の美術館に立っていた。
「……どなたかしら?」
紗雪は声を整えた。
仮面の奥で表情を引き締め、獅堂紗雪としてではなく、怪盗プリンセスとして振る舞う。ここで動揺を見せてはいけない。初対面。あくまでそういう体裁を崩さない。
「榊原藍です」
「まあ。ご丁寧にどうも、榊原さん」
言ってから、紗雪は内心で舌打ちした。
自然に名前を受け入れすぎた。だが、まだ致命傷ではない。そういうことにする。
「それで、榊原さん。夜の美術館で迷子ですの?」
「いいえ」
藍は一歩、展示室の中へ入った。
足音はほとんどない。
だが、紗雪の耳にははっきり届いていた。
「あなたに会いに来ました」
「……わたくしに?」
「はい。あなたは怪盗プリンセスと称していますね」
紗雪は仮面の奥で笑った。優雅に、余裕を崩さず、そう見えるように。
「それは光栄ですわ。ですが、怪盗に会いに来るなんて、ずいぶん物好きなお嬢さんですこと」
「否定はしません」
「それで、通報なさるおつもり?」
「必要であれば」
「今は必要ないと?」
「はい、今は。あなたから聞きたいことがあるので」
嫌な言い方だった。脅しているわけではなく、声を荒げてもいない。ただ、逃げ道を一つずつ塞いでいくような平静さがある。
紗雪はマントの下で指先を動かした。
逃走経路は三つ。正面突破、展示室奥の非常口、天井付近の点検用通路。榊原藍は普通の女子高生に見える。であれば逃げ出すのにそう苦労はしない。
だが、普通の女子高生が夜の美術館に単独で現れるはずがない。しかも、紗雪の前に、意図を持って。
「聞きたいこととは?」
「あなたが盗む品には共通点があります」
「怪盗の美学ですわ」
「盗品はすべて、伝承、呪物、秘宝、超常的由来を持つとされるものです。市場価値よりも、逸話を優先している」
「ロマンを愛しているだけですの」
「盗んだ品を数日以内に返却していることも確認しています」
「わたくし、所有欲は薄い方ですので」
「それなら、なぜ盗むのですか?」
藍の赤い瞳が、紗雪をまっすぐに捉えた。
「調べるためですか?」
紗雪は笑みを崩さなかった。
崩さなかったが、頭部についている第二の耳がほんのわずかに伏せる。頭では抑えられても、耳までは抑えきれない。それが最悪だった。
「……何のことか、分かりませんわ」
「その反応は、肯定に近いです」
「随分と失礼な観察ですこと」
「失礼は承知しています」
「承知しているなら、おやめになって?」
「いいえ」
即答だった。
紗雪は眉をひそめた。
「あなた、本当に嫌なお方ですわね」
「よく言われます」
「でしょうね」
藍は展示ケースの前で足を止めた。彼女の視線が、紗雪の仮面から、マントへ、そして頭上へ移る。
耳。
紗雪は嫌な予感がした。
「その耳は、飾りではありませんね」
「……何をおっしゃいますの?」
「先ほど、私が声をかけた瞬間に反応しました。視線より早く、肩より早く、耳が動いた。装飾品であれば、あの角度と速度で独立運動する理由がありません」
「最近の仮装道具は優秀ですのよ」
「市販品ではありません。少なくとも、一般流通している可動式アクセサリーとは駆動音、可動域、反応速度が一致しません」
「榊原さん。女の子の装飾品にそこまで注目するのは、少々無粋ですわ」
「すみません。ですが、重要な情報です」
「何が重要ですの?」
「あなたがただの人間ではない可能性がある、と言えばよろしいでしょうか」
紗雪の笑顔が、少しだけ固まった。
呪い。
それを、藍はまだ知らない。知らないはずだ。だが、耳が本物だと気づかれた。この時点で、状況はかなり悪い。
「面白い冗談ですわ」
「冗談ではありません。推測です」
「では、妄想ですわね」
「その可能性もあります。ですので、確認しています」
「確認?」
「あなたの正体と、目的を」
藍は一歩近づいた。
「獅堂紗雪さん」
展示室の空気が、一段冷えた。
紗雪は数秒だけ動かなかった。仮面の奥で目を細める。
笑うべきだった。知らないふりをするべきだった。その名前を初めて聞いたように振る舞うべきだった。分かっているのに、一瞬だけ反応が遅れた。
「……どなたですの、それは?」
「青葉第二高等学校二年生。獅堂家の令嬢。金髪で縦ロール状に巻かれた髪。優雅な口調。骨董品の類に強い関心を持つ人物」
「へえ。ずいぶん詳しいですのね」
「はい」
「その方がわたくしだと?」
「はい」
「根拠は?」
「複数あります」
「聞かせてくださる?」
「第一に、怪盗プリンセスの出現日と獅堂紗雪さんの行動記録には、不自然な空白が重なっています。第二に、怪盗プリンセスが狙う品の傾向と、獅堂家が過去に非公開で照会した資料の傾向が一致しています。第三に――」
「もう結構ですわ」
紗雪は静かに片手を上げた。
藍は口を閉じる。話を遮られても怒らない。苛立ちもしない。ただ、次の反応を待っている。それがまたやりづらかった。
「仮に、仮にですわよ。その獅堂紗雪という方が怪盗プリンセスだったとして、榊原さんはどうなさるおつもり?」
「まず、目的を確認します」
「その後は?」
「危険性を評価します」
「評価?」
「あなたの行動が、他者に被害を及ぼす可能性。あなた自身に危険が及ぶ可能性。そして、青葉第二高等学校の生徒として管理すべき範囲かどうか」
「管理」
紗雪は低く笑った。
「まあ、さすが生徒会長。怪盗まで校則で縛るおつもりですの?」
「校則だけではありません」
「では、何で?」
「必要であれば、別の手段を使います」
声は丁寧だった。
だが、その言葉には温度がない。
紗雪は直感した。この少女は本気だ。ただ怪盗を捕まえるために来たのではない。怪盗の裏にある理由を突き止めるために来たのだ。そして、それが必要だと判断すれば、こちらの事情など容赦なく解体する。
紗雪は、背筋に薄い寒気を覚えた。
「……榊原さん」
「はい」
「あなた、何者ですの?」
「青葉第二高等学校の生徒会長です」
「それだけではありませんわよね?」
「今、その説明は必要ありません」
「わたくしには聞くのに?」
「はい」
「不公平ですわ」
「承知しています」
「本当に嫌な方」
「それも承知しています」
遠くで、館内設備の低い駆動音がしている。警備員の足音はまだ遠いが、時間に余裕があるわけではない。
藍はまだ聞きたいことを持っている。紗雪にはそれが分かった。だが、答える義理はない。答えれば、自分の秘密に近づかれる。
耳に気づいた相手だ。次は尻尾。その次は夜の変化。さらに先は、満月。そこまで踏み込まれるわけにはいかない。
「榊原さん」
「はい」
「今夜は、これにて失礼いたしますわ」
「まだ質問は終わっていません」
「怪盗は、聞かれたことにすべて答えるほど従順ではありませんの」
紗雪はマントを翻した。藍の視線がわずかに動く。
おそらく、逃走経路を読むつもりだ。
なら、読ませない。
「それと」
紗雪は展示ケースの上に、白いカードを一枚置いた。
盗品予告ではない。ただの目くらまし。
そこには、優雅な筆跡でこう書かれていた。
『今宵の月は、少々騒がしすぎましたわ』
「次にお会いする時は、もう少し優雅な舞台を用意してくださいませ」
「獅堂紗雪さん」
「そのお名前の方に会ったら、伝えておきますわ」
その瞬間、展示室の照明が一瞬だけ明滅した。
藍の視界がわずかに白む。
紗雪は床を蹴った。
人間離れした跳躍でマントが夜の鳥のように広がる。壁際の装飾柱を足場にし、紗雪は天井近くの点検口へ身を滑り込ませた。
藍は追わなかった。
ただ、逃走する影を見上げている。
最後に、獣の耳がぴくりと動いたのが見えた。あれは飾りではない。そう確信するには十分すぎるほど、証拠は揃っている。
「……逃げられましたか」
藍は静かにつぶやいた。
展示室には、銀細工がそのまま残されている。
紗雪は何も盗らなかった。
目的は中断された。
だが、こちらも全ては聞けなかった。
藍は展示ケースの上に残されたカードを手に取る。
筆跡。言葉選び。逃走時の身体能力。耳の反応。獅堂紗雪であることは、もう疑いようがない。
ただし、問題はそこではなかった。
「なぜ、そこまでして秘宝を探しているのですか」
問いは誰にも届かない。
夜の美術館は、また静けさを取り戻していた。榊原藍はカードを指先で挟んだまま、赤い瞳を細める。
「次は、獅堂紗雪さんに聞く必要がありますね」
*
一方その頃。
点検通路を抜け、屋上に出た獅堂紗雪は、夜風の中で大きく息を吐いていた。
「……最悪ですわ」
仮面を押さえ、膝に手をつく。心臓が速い。
なんとか逃げ切った。だが、勝った気がしない。あの少女は、正体を暴くために来たのではない。最初から、獅堂紗雪だと分かった上で来ていた。
そして、何かを見ていた。
「榊原藍……」
紗雪は夜空を見上げた。
月は薄い雲に隠れている。今夜はまだ大丈夫だ。けれど、時間はない。
「とんでもない方に、目をつけられてしまいましたわね」
紗雪はマントを翻す。
怪盗プリンセスは、夜の屋上から姿を消した。その背後で、獣の耳だけが、警戒するように月明かりを震わせていた。
獅堂紗雪
青葉第二高等学校 二年生
有名な資産家である獅堂家の令嬢。幼少期にかけられた呪いにより、夜になると尻尾とケモ耳が生える体質になった。
外見:金髪、縦ロール
身長:162 cm、体重:51 kg
性格:いかにもお嬢様らしく振る舞う。
趣味:紅茶を嗜むこと。怪盗。




