第42話
カチャ、と玄関の扉が開く音がした。
(……帰ってきたか)
黒鷹は、リビングでタブレットを睨みながら報告書の体裁を整えていた。
この前の新人が提出してきたデータが、思った以上に盛り気味だったため、文面の整合性を調整していたのだ。
制服の足音。だらしなくスリッパを履く音。──いつもの帰宅パターン。
何も問題ない、はずだった。
「ただいまー……」
「……」
普段と変わらぬ気だるそうな声が響き、続けて――
「失礼します。お邪魔しますね、黒鷹さん」
……場違いな、やけに丁寧な声が聞こえた。
黒鷹は一瞬、動きを止めた。
「………………」
ゆっくりと顔を上げる。
リビングの戸口に、並んで立つ二人の女子高生。
一人はもちろん宵闇灯。そして、もう一人は――
「……おい、何でお前がここにいる」
「自発的な訪問です。宵闇さんが呼んだわけではありません」
きっぱりと答える榊原藍。制服姿。髪は整えられ、表情は相変わらずの無表情気味だ。
「はぁ?」
「お二人の食生活が極めて偏っているという報告を受けました。夕飯の栄養バランスを見直す必要があります」
「誰からの報告だよ……」
「昨日の夕飯がインスタント焼きそば、その前がレトルトカレー、そのまた前は冷凍餃子とカップスープ、でしたよね?」
言いながら、彼女はエプロンを取り出し、さっと首からかける。
手には買い物袋が。どうやら本気らしい。
「……」
「あなた方二人が一つ屋根の下に住むと決めたのは、私です。そしてその結果、どちらかが栄養失調になれば、責任は私にある。ゆえに、夕飯を作ります」
黒鷹は思わず額を押さえた。
たしかに、二人の同居を許可したのは榊原藍だった。
しかし、ここまで首を突っ込んでくるとは思っていなかった。
隣で宵闇灯は、特に否定も肯定もせず、ぽつりとつぶやいた。
「まぁ……ちゃんとしたごはん、久しぶりだから。別に、いいけど」
まんざらでもなさそうな顔である。
黒鷹は溜息をついた。
「……で、その見返りってのは?」
「もちろん、宵闇さんには後日、私の実験に付き合っていただきます」
宵闇灯は目を伏せたまま、微かに肩をすくめる。
「またか……」という反応だが、拒否する気配はない。
黒鷹は、眉を顰めたまま二人を見比べた。
この実験とやらの内容に踏み込む気は、全く起きない。
どうせロクなもんじゃない。
「……勝手にしろ。ただし、部屋は荒らすなよ」
「了解しました」
榊原藍はそのままキッチンへ向かい、無駄のない動きで調理器具を取り出し始めた。
まるで自宅であるかのように、まっすぐ迷いなく動くその様に、黒鷹は言葉を失う。
まさか──この部屋で、家庭の匂いがする日が来るとは思わなかった。
「……」
彼は椅子に沈みながら、心の中でだけ毒づく。
(……ったく、好き勝手しやがって)
だが、それ以上に何かを言う気にはなれなかった。
すでに、夕餉の支度をする生徒会長の背中からは、言葉を挟む余地などなかったから。
テーブルの上に並んだ夕食は、彩り豊かだった。
栄養バランスに優れた和洋折衷の家庭料理──だが、いずれも手際よく調理された形跡があり、味も香りも「家庭」の域を優に超えていた。
鶏むね肉の南蛮漬け、小松菜と油揚げの煮びたし、五穀米のごはんに、豆腐とワカメの味噌汁。
副菜としてキャロットラペと、ヨーグルトのソースを添えたキウイ。箸をつけるのが惜しいほど整った献立。
「……いただきます」
「……いただきます」
宵闇灯と黒鷹が、少しズレて声を揃えた。
榊原藍は手を合わせながらも、すでに食事量と栄養バランスを把握しているらしく、食べるそぶりはない。ただ、水だけを口に運ぶ。
「……なんで食わない」
黒鷹が目を細めて問う。
「自分で調理したものの味見は済ませました。私は別に、空腹ではありませんので」
平然と返され、黒鷹はわずかに眉をしかめる。
一方、宵闇灯はマイペースに箸を進めていた。手際よく、しかしゆっくりと。
「……うん、ちゃんとしてる。おいしい」
「ありがとうございます。あなたが倒れると、私にとっても色々と面倒なので」
微笑み一つ浮かべずにそう返す榊原藍に、宵闇灯は小さく目をそらした。
「……で、いつ帰るんだ」
黒鷹が、味噌汁の椀を置きながら問う。
その問いに、藍はさらりと告げた。
「明日です」
「……」
「泊まっていきます」
「……」
「食材はすべて明朝の分も想定して購入していますし、調理器具の配置も把握しました。環境としては問題ありません」
言っている内容は理路整然としているが、問題は「誰がそれを頼んだのか」という点に尽きる。
黒鷹は額を押さえ、深く息をついた。
「……あのな。お前、泊まるって簡単に言ってるが──」
「私は高校生です。外泊には保護者の同意が必要です。ですが現状私に保護者に相当する存在はいるものの、私の行動を制限する意志はありませんので」
その事実が、逆に状況をややこしくしている。
「……お前、最初からそのつもりで来たな」
「はい」
即答だった。
「はぁ……」
「別にいいじゃん。ごはんも作ってくれるし、手伝いとかもしてくれるし……私、楽で助かる」
宵闇灯がぽそりと口を挟んだ。
「お前、今までも何もしてなかっただろ」
「そうだけど。でも、おいしいし」
そう言って、再び箸を進める。
まるで犬猫に餌を与えるような気軽さで、彼女は藍の作る飯に満足していた。
「黒鷹さん」
「あ?」
「あなた、カロリー摂取量に対して、筋肉量の維持が追いついていません。明日以降、プロテイン入りの飲料も導入する予定です」
「……頼むから勝手に俺の生活を設計するな」
「……ご安心ください。設計ではありません。最適化です」
やれやれ、と黒鷹は心底疲れた様子で椅子に沈み込んだ。
だが、夕飯の箸は止まらない。
──妙な三人暮らしが、こうして幕を開けていた。
*
食事を終えて食器を片付け、時計の針が日付の境界に近づいても──
誰一人として、寝床の話を切り出さなかった。
その沈黙を、仕方なしに破ったのは黒鷹だった。
「……で。どこで寝るつもりなんだ、お前」
榊原藍のことだ。
「どこでも構いません。私は、そういうふうに作られてますので」
「作られてる……?」
言い回しが妙に引っかかるが、気にしたら負けな気がして、それ以上は追及しなかった。
部屋にある寝具は、基本的にふたつ。
一つは宵闇灯がいつも使っている布団。もう一つは、リビングにある年季の入ったソファーだ。
そして黒鷹本人は──
(……俺はいつも、自室の椅子)
仮眠だけの生活に慣れすぎているせいで、今さら布団が増えたところでどうこうする気もない。
ただ、この妙な三角構成の中で、誰かが気を遣ったり、何かが誤解されたりするのは面倒だった。
「私は、いつものでいいよ」
宵闇灯が言う。「いつもの」とは、言うまでもなく布団のことだ。
「ソファーでも、床でも、壁でも。私は気にしません」
藍の淡々とした主張に、黒鷹は一度頭を掻いた。
「──好きにしろ。俺は部屋に戻る」
それだけを言い残し、自室のドアを乱暴に開けて、閉めた。
(……面倒くさいガキどもだ)
額を押さえてため息をつきながら、背もたれの深い椅子に身体を沈める。
静かな夜だった。
部屋の灯りが落ちた後も、リビングには微かな月明かりが射していた。
カーテンの隙間から差し込むそれは、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
ソファに腰掛けた榊原藍は、足を組みながら、隣に敷かれた布団に視線を落とす。
「眠れないのですか?」
問いかけに、返事はない。
だが、聞こえている気配はある。宵闇灯は横になったまま、まばたき一つせず天井を見ていた。
沈黙。
──数十秒が過ぎてから、ようやく返ってきたのは、息に混じるような一言だった。
「……まだ、眠くない」
「そうですか」
「ここは、どうですか?」
再び問いが投げられる。
宵闇灯は、首をほんの少しだけ横に倒した。
「……別に。静か」
「静かなのは、良いことです。ですが、静かすぎるのは──思考に沈む原因にもなります」
「考えるようなこと、ないよ」
そう返した宵闇灯は、ゆっくりと目を閉じる。
「……でも、会長さんは……あるんでしょ?」
僅かに開いた瞳が、薄く光る月明かりに照らされていた。
藍は、わずかに間を置いてから口を開いた。
「ええ、考えなければならないことはたくさんあります。……ただ、あなたにその一つでも背負わせたいとは思っていません」
灯は、それに対して何も言わなかった。
だが──たった一度だけ、まぶたの裏で何かを噛みしめるように、眉がわずかに寄った。
そして。
「……寝る」
それだけを言い残して、再び目を閉じる宵闇灯。
「はい。おやすみなさい、灯さん」
榊原藍は静かに立ち上がり、窓際の椅子に腰を下ろす。
その姿はまるで、夜を見張る番人のようだった。
──それ以上、言葉は交わされなかった。
*
目を覚ました時には、もう陽が昇っていた。
──とはいえ、目を覚ましただけで、布団の中から出る気力はない。
宵闇灯は天井を見上げながら、まばたき一つせず、ただ静かに時間の流れを感じていた。
身じろぎもせず、部屋の空気と同化するように、ぬるく横たわっている。
しばらくして、聞き慣れない衣擦れの音がした。
視線を動かす。
窓際の椅子に寄りかかっていたはずの榊原藍が、既に制服姿で、整然と身支度を終えていた。
「……起きていたんだ?」
ぼそりと灯が呟く。寝起きとも思えぬ、かすれた声。
藍は小さく頷きながら、襟を直していた手を止めた。
「はい。五時には。ですが……あなたの眠りを妨げたくなかったので」
宵闇灯はそれに何も返さず、ただ目を閉じた。
起きる理由も、急ぐ理由も、特にない。
けれど、制服に袖を通す音だけが、遠く背中を押してくる。
しばらくして、灯はもそもそと布団から這い出し、髪の毛をくしゃくしゃのまま立ち上がった。
そして一言。
「……制服、どこだっけ」
「昨日、脱ぎっぱなしでしたよ。ソファの背に掛けておきました」
「ありがと」
そう言ったきり、灯は歯を磨くでも、顔を洗うでもなく、そのまま制服に腕を通していく。
鏡を覗く気配はない。整える素振りも、興味もない。
けれど、着こなしは妙に手慣れていて、どこか整って見えるのが不思議だった。
「……おはよう」
タイミングを測ったように、自室から黒鷹が出てきた。
藍が挨拶を返し、灯は振り向きもせず、うっすらと口元を開いた。
「……ん。おはよう」
まるで眠ったまま喋っているような、気の抜けた挨拶。
だが、黒鷹はそれに苦言を呈するでもなく、無言でコーヒーを淹れ始めた。
いつもの、青くて、少し乾いた、だらしない朝。
その真ん中に、榊原藍の存在だけが、異質なほど整然としていた。
*
玄関先には、すでに制服姿の榊原藍と宵闇灯が並んでいた。
片や、絵に描いたような整然たる身だしなみ。
片や、ボサボサの髪にネクタイの結び目も曖昧なままの気だるげな様相。
「それでは、行ってまいります」
靴を履き終えた藍が、背筋を伸ばして黒鷹に頭を下げた。
「……はいはい。二度と来るな」
黒鷹は扉の縁に凭れながら、コーヒー片手にうんざりした声を返す。
しかし藍は一切表情を変えず、淡々と応じた。
「次はまた、あなたたちの食生活の乱れが著しくなったときです」
言い切ったその目は、どこか冷たい機械のような確信を宿している。
あくまで学校の保健衛生管理の一環であるとでも言いたげだった。
「……せめて不法侵入じゃない手段で来いよ」
「はい、次回は玄関チャイムを鳴らしてから入ります」
それを侵入前提と受け取った黒鷹が額に手を当てた頃、
すでに宵闇灯はドアを開けて、ふわりと日差しの中へ歩き出していた。
「じゃ、行ってきまーす……」
まるで遠足にでも向かうかのような、気の抜けた声。
それでも藍が隣に並ぶと、自然と少しだけ歩く速度が整う。
並んで歩く二人の背中を見送りながら、黒鷹はぼそりと吐き捨てた。
「……誰が見たって、絶対こいつらの方が異常だろ」
彼の呟きに答える者は、もういなかった。




