第41話
休日の朝だというのに、黒鷹の部屋には緊張感が漂っていた。
コートを羽織り、腰にホルスターを装着するその手つきは、やけに手慣れていて静かだった。
玄関先。準備を終えた黒鷹が、居間でソファに寝そべっている宵闇灯へと声をかける。
「……行ってくる」
「んー……」
曖昧な声と共に、布団ではなく毛布のようにソファに絡みついた彼女が、だるそうに手だけをひらひらと振る。
黒鷹は呆れ混じりにひと息吐き、わざとらしい声で続ける。
「一応、お前の同胞を殺しに行くんだが」
「……あー……」
ようやく少しだけ顔を上げた宵闇灯。
しかし、その反応は驚くほど薄かった。
「種族としての繋がりとか、全然ないし。……昔はあったみたいだけど」
まるで「隣町の知らない親戚の葬式」の話でもするような、他人事の声だった。
「今はそういうの、どーでもいいかな」
黒鷹は靴紐を結びながら、ちらとだけ横目で宵闇を見た。
ソファに寝そべったまま、カーテンの隙間から差す光に手をかざしている。
「……冷てぇな。吸血鬼ってのは、みんなそんなもんか?」
「わかんない。私は……そういうの、教わってないから」
それは言い訳でも、皮肉でもなかった。
ただ、事実として。宵闇灯は「そういう関係の中で育ってこなかった」――ただそれだけだった。
「行ってらっしゃい。……無事に戻ってくるとは思ってるけど、気をつけて」
黒鷹は返事をせず、無言で玄関のドアを開ける。
閉じる直前、後ろからまた彼女の声が飛んできた。
「帰り、コンビニ寄ってくるなら……プリン買ってきて」
その緩さに、殺気も使命感も吹き飛びそうになりながら――
「……どこのガキだよ、お前は」
とだけ吐き捨てて、ドアを閉めた。
*
任務地は、郊外の老朽化した廃倉庫群。
かつて物流の中継地点だったその区域は、今やすっかり人の気配を失い、瓦礫と風の音が支配する空間になっていた。
遮蔽物の影に身を隠しながら、黒鷹は隣に立つ人物へ視線を移す。
新しく配属された若い部下――口調も服装もいかにも『現場に慣れていない』といった印象だった。
「……あの、黒鷹さん」
「ん?」
「その……先に謝っておきます。俺、前任の人は『黒鷹さんに切られた』って聞かされてて……今日もちょっと、緊張してて」
黒鷹はほんの一瞬だけ目を細め、そして無言のまま視線を前方へ戻す。
その言葉には釈明の色も、恐る恐るの探りも滲んでいた。
だが黒鷹は、ため息一つ吐かず、ただ淡々と――
「違うな」
とだけ返した。
「俺が言って異動させたわけじゃねえ。……『異動させたがってた』奴がいただけだ」
部下は意味が掴めず戸惑ったが、それ以上の説明はされなかった。
「ま、真に受けるな。俺は別に使えるかどうかで人を選んじゃいねえ」
不意に、黒鷹が背中のバッグから銀製のナイフを取り出し、装備を確認する。
血族狩りに必要な道具は全て揃っていた。だが、相手の正体を探る気は、今のところなかった。
「大事なのは、誰の指示で、どこへ向かってるか……それだけだ」
「……はい!」
緊張しながらも返事する部下の声が、冷たい風にかき消される。
――榊原藍。
全ての元凶は、結局、あの少女だ。
口を出すまでもなく、やりたいように手を回してくる。
そう心の中で呟きながら、黒鷹は夜の廃倉庫へと足を踏み入れた。
*
倉庫の一角。
朽ちた鉄骨とスチールの臭い、そして乾いた血の香りが混じっていた。
床に横たわるのは、かつて人だったモノ――今はただの「標的」。
銀のナイフが、その心臓を正確に貫いている。
黒鷹は、その場に膝をつき、ナイフの柄に手をかけた。
ゆっくりと引き抜く。血はすでに止まりかけていた。肉体は灰へと崩れ――そして消えていく。
「……終わったな」
呟く声に、背後の部下が駆け寄る。
「黒鷹さん、目標確認。完全に消失。被害なしです」
「報告しとけ。処理完了。……撤収だ」
「了解です」
部下が無線に応答する声を背に、黒鷹は無言で立ち上がる。
──宵闇灯の顔が、一瞬脳裏をかすめた。
吸血鬼の血を引く少女。
今は自分の部屋で、昼寝でもしているだろう。
正直、今回の任務前、少しだけ懸念していた。
目の前の標的に、あの無防備で飄々とした少女の顔が重なり、躊躇いが生まれるのではないか。
手を止めてしまうのではないかと。
だが――結果は、この通りだ。
殺すべき相手がいた。だから殺した。
何も迷いはなかった。手も、心も、震えなかった。
むしろ、自分が「いつも通り」にそれをこなしている事実に、少しだけぞっとした。
(……思ったより、仕事に染まり切ってるらしい)
淡々と処理をこなす己を、まるで他人のように俯瞰する感覚。
感情の希薄な実行者としての自分に、黒鷹は小さく鼻を鳴らした。
倉庫の外へ出ると、夜風が頬を撫でた。
殺すことに、理由はいらない。
殺すことに、同情は必要ない。
今までも、これからも。
*
扉の鍵を開け、黒鷹がブーツの泥を軽く払いながら部屋へ入る。
玄関からはリビングの様子は見えないが、薄くテレビの音が漏れていた。
内容までは聞き取れない。だが――声は一つだけだった。
案の定、ソファにはひとり、宵闇灯が座っていた。
昼間とまったく同じ姿――薄手のパーカーに、ダボっとした部屋着のパンツ。
無造作に崩した姿勢のまま、足先だけ小さく揺れている。
表情はぼんやりとしていて、画面に集中しているようでもなかった。
黒鷹がコートを脱いで壁にかけたタイミングで、ようやくゆっくり顔を向けてきた。
「おかえり。……ちゃんと殺してきた?」
「……ああ。心配されなくても、標的はちゃんと始末してきた」
「ふーん」
まるで買い物帰りのような会話だが、宵闇灯にとってはこれが日常なのだろう。
黒鷹は一瞬、足を止める。だが、言葉を挟むことはしなかった。
ダイニングの机に置いてあったタブレットが光る。
先ほど現場から送らせた報告書の草稿が届いたらしい。
(……俺は国語の先生じゃないんだがな)
殺しよりも、こちらの方が骨が折れる。
コーヒーを片手に腰を下ろすと、黒鷹は渋い顔でデータを開いた。
「……ったく。何だこれ」
ぼやきながら、数か所に赤を入れる。
ただ、全体の構成自体はそこまで悪くない。初任務にしては上出来な方だ。
黒鷹はタブレットの通信機能を立ち上げ、短く指示を送る。
> 「報告書の文面、ざっと確認した。構成は許容範囲だ。内容は手直ししとけ。あとは自分で提出しろ。」
送信ボタンを押し、カップを口元に運ぶ。
報告書なんてのは、本来こんなに手間のかかるものじゃなかった。
……昔の部下たちは、もう少し気が利いてたな、とふと思う。
「……疲れた?」
いつの間にか、宵闇灯が隣の椅子に座っていた。
距離が近い。パーソナルスペースという概念が彼女には存在しないのかもしれない。
「いや。いつも通りだ」
「ならいいや。……おやすみ」
すっと立ち上がって、自室へと戻っていく。
あの娘の生活リズムは、黒鷹にとっていまだに読めなかった。
夜型のようでいて、昼間も寝ている。人間的な生理に近いようでいて、どこか“ずれて”いる。
だが、そんな違和感さえも、最近は不思議と疲労感を増す要因にはならなかった。
ただの“居候”に過ぎないのに、存在が妙に空気のようで。
──それが逆に、落ち着かなくもない。
「……ま、どうでもいいか」
タブレットの画面が自動で暗転する。
黒鷹は、浅く背もたれにもたれた。
任務完了。報告終了。
そしてまた、次の日常が始まる。
*
電子署名を終え、ファイルが本部サーバーにアップロードされるのを新任の部下はじっと見守っていた。
黒鷹に送った下書きは、赤字で真っ赤に染め上げられて戻ってきた。
誤字脱字はもちろん、表現の曖昧さ、報告項目の不足、情報の取捨選択――すべてに、的確かつ簡潔な添削が入っていた。
「すごいな……」
文面は淡々としていたが、明らかに現場を見ていなければ出てこない文脈がいくつも散りばめられていた。
それに導かれるように篠田は再構成し、ようやく今、提出に漕ぎ着けたところだった。
報告完了の通知が届いて間もなく――
>【受信:本部業務連絡端末/送信元:XX(調査課)】
>件名:任務報告書の件について
篠田はその差出人の名に見覚えがなかったが、メールを開くとすぐに、
ある人物についての質問が飛び込んできた。
---
>XXです。突然の連絡、失礼します。
>今回の任務報告、確かに受領いたしました。
>非常に整った報告書でしたが……失礼ながら、かなり手直しされていたように見受けられました。
>黒鷹さんと行動されたとのことでしたが、実際のところ、現場での様子はどうだったのでしょうか?
---
「……ああ」
添削内容を見抜かれている。
彼は苦笑いを浮かべながらも、妙な気分だった。
(やっぱ有名なんだな、黒鷹さん……)
簡潔に返答を打ち込む。
---
>件名:Re: 任務報告書の件について
>
>XX様
>ご連絡ありがとうございます。
>
>ご指摘の通り、報告書は黒鷹さんからの添削を受けております。
>実のところ、現場では想像以上に冷静かつ的確な判断をされる方で、
>私は完全に補佐に回っていた形です。
>
>ご本人は無口で怖そうな印象でしたが、必要な指示は常に明確で、、、
>なんというか、現場で信頼できるタイプでした。
>
>またご縁があれば、ご一緒したいと思っています。
>ご本人は迷惑かもしれませんが。
>
---
返信を送った直後、再び短いメッセージが届いた。
---
>そうですか。やはり、ですね。
>彼は本部にいた頃から、そういう人でした。
>また、何かあれば教えてください。
>――あ、もし機会があれば、黒鷹さんに「本部で待ってます」と伝えてください。
>……きっと、無視されるとは思いますが。
>
---
部下は、何となく微笑んだ。
冷たく、寡黙な上司だと思っていた男が、こうも人に慕われていたということに。
その直後――
>【黒鷹】:
>報告書、本部まで通ったみたいだな。
>次からは添削ナシでも通るように頑張れ。
部下は思わず背筋を伸ばした。




