第40話
薄暗い部屋に、キーボードの音だけが響いていた。
画面には「対象個体・宵闇灯、排除完了」の一文。
報告書の末尾をどう締めくくるかを考えながら、黒鷹は椅子にもたれて缶コーヒーを啜る。
(……俺は一体、何をやってんだか)
静かなため息を漏らしたその時だった。
玄関の鍵が、勝手に開く音がした。
「……」
反応する間もなく、ドアが開き、まるで当然のように、あの少女が入ってくる。
日傘を持って、気だるげな歩調で――
宵闇灯が。
「……おい」
「……」
無言で靴を脱ぎ、部屋に上がり込み、そのままソファに崩れるように腰を下ろす。
黒鷹は天を仰ぐ。
「……何のつもりだ、お前」
「……住めって言われたから。ここ」
「……誰にだよ」
「えっと……生徒会長?」
「……」
黒鷹は額を押さえた。
(安全の保証って、そういうことかよ、あのクソガキ……)
苦虫を噛み潰すような顔をしながら、報告書の「排除完了」の文字を睨みつける。
「……一度は殺されかけた相手の家に、よくノコノコ上がり込めたもんだな」
黒鷹の言葉に、灯は首を傾けるだけ。
「……別に。もう終わった事だし」
「……」
気まずい沈黙。
黒鷹は少しだけ視線を逸らしながら、口を開いた。
「……お前が知ってるかは知らないが、お前の祖父は俺が始末した――十年前の東京で。人間の子どもを餌にしてた外道だったが、それでも、お前の祖父を殺している事には変わりない。そんな人間と一緒に住めるのか?」
灯は、まったく動じた様子も見せず、ただぽつりと呟く。
「……そうなんだ。おじいちゃん、なんか悪人だったって、誰かが言ってたのは聞いたことあるけど。会った事ないし……別にどうでもいい」
「……」
黒鷹は返す言葉を見つけられなかった。
静かにキーボードの前に戻り、再び報告書の締めに目を戻す。
『排除完了――』
(――標的は、すぐそこにいるというのに)
それでも、黒鷹はそのまま文面を確定させる。
送信ボタンを押す瞬間、背後から宵闇の声がふわりと落ちてきた。
「ねえ、冷蔵庫にお茶とか入ってないの?」
「ねぇよ」
「……じゃあ、コーヒー飲んでいい?」
「勝手にしろ」
(……あのクソガキ、責任取れよ)
そう毒づきながらも、黒鷹は椅子の背に身を沈めた。
その背後で、宵闇灯が缶コーヒーのプルタブを開ける音が、まるでこの部屋の日常の一部であるかのように響いていた。
──夜。
照明の落ちた部屋。窓の外では、遠くの街灯が微かに点滅していた。
黒鷹の自室は静かで、ただ一つ、くぐもった通話音だけが空気を振動させていた。
『……申し訳ありません。ご連絡が遅れました』
「別に気にしてねぇよ。どうせまた本部がドタついてたんだろ?」
スピーカー越しの声は、丁寧ながらもどこか申し訳なさそうだった。
本部時代の元部下。デスクワークのエキスパートで、当時から黒鷹を表立って尊敬していた男だ。
『ええ……先ほどまで、システム全体が停止していたんです。復旧作業でずっと缶詰でした。 おかげで、報告書が山積みに。上からは『問題なさそうなものは矢継ぎ早に通せ』とだけ……』
「へぇ。雑な処理だな」
『ええ……でも、黒鷹さんの報告はちゃんと確認しましたよ。上もさっき承認しました。あの人たちは中身は読んでいないと思いますけど。いやあ、それにしても現場の混乱の中で単独で任務を完遂されるとは……やはり、現役でいてくださるのがありがたいです』
「お前がそれを判断する立場かよ」
『いえ、個人的な感想です……すみません』
そう言いつつも、端々に憧れが滲み出ていた。
黒鷹は思わず、ソファの肘掛けに肘を預けながら視線をやった。
その先では、宵闇灯が床に置かれたラグの上で仰向けになり、天井をぼんやりと見上げていた。目は開いているが、明らかに何も考えていない。
(その始末対象が、部屋で寝転がってるんだもんな)
『あの……そういえば、先日の件……セキュリティに関する指摘、上層部でも話題になっていましたよ。実際、今回のシステム障害の発端も『外部からの一時的な操作干渉』が原因だったようで。詳細は伏せられましたが、黒鷹さんが警鐘を鳴らしていた通りです。やはり、お見通しで……』
(……『外部からの干渉』、ね)
脳裏に浮かぶのは、整った制服姿、無表情で目だけが異様に赤く輝く少女。
──榊原藍。
どう考えても、あの『人間の形をした怪物』が絡んでいる。わざとシステムを麻痺させ、報告処理を簡略化させた。その結果、黒鷹の任務完遂報告が、ほぼ無条件で通った――。
『それと……黒鷹さん、やっぱりもう戻って来ないんですか? 本部に。 こっちの現場も、だいぶ動きが出てきてて……その……また一緒に――』
「勘弁してくれ。俺はこっちが性に合ってる」
黒鷹は即答する。
無言が数秒続いた後、元部下の声が、どこか寂しげに聞こえた。
『……わかりました。ご無理は言いません。ただ、何かあったら、また僕に連絡ください』
「……ああ」
通信が切れ、部屋に再び静寂が戻る。
静けさが戻った部屋で、黒鷹はソファからゆっくりと立ち上がった。
「ふぅ……」
伸びをしながら、自分の報告書のバックアップファイルを確認する。
宵闇灯──消滅確認。任務完遂と記されたその行には、まるで何もなかったかのように整った文体が並んでいた。
だが、振り返れば、宵闇灯。
こちらの視線に気づくと、仰向けのままぼそりと呟く。
「……なんか、食べ物ある?」
「ねぇよ」
「……じゃあ寝る」
ごろん、と横向きになる少女。
黒鷹は、その姿を見下ろしながら気づいた。
(……なるほどな。こいつを俺が匿っておけば、組織の他の人間に見つかることもない)
宵闇灯が外部に露見すれば、黒鷹の報告書の『虚偽』が発覚する。
だが逆に言えば、黒鷹が真実を隠す側に回っていれば、すべての整合性は保たれる。
榊原藍の狙いがどこまで先を読んでいたのかは分からない。
「……クソガキが」
そう吐き捨てながら、黒鷹は再び報告書のファイルを閉じた。
そのデータが、事実として組織の記録に刻まれ続ける限り――
少なくとも、黒鷹の任務は、完遂されたことになるのだ。
*
午後三時過ぎ。人気のない駅前の喫煙スペースで、黒鷹は煙草を咥えたまま、無言で腕時計を見つめていた。
定刻通り、足音がコツコツと響いてくる。振り返ると、制服姿の女子高生──榊原藍が、手に鞄すら持たずに歩いてきた。
「……来る必要なんてなかっただろ、わざわざ」
黒鷹は煙を吐き捨てながら、開口一番そう言った。
藍は軽く頷きながらも、悪びれた様子はない。
「ええ。確かに、直接会う必要はなかったと思います。でも――『誰かに覗かれている可能性』もありますので」
わざとだ。間違いなく確信犯。
黒鷹はその言葉に眉をひそめたが、すぐに煙草の火を揉み消すと、壁に背を預けたまま言葉を続ける。
「……あの日、俺と行動していた部下。異動になったんだが」
「はい。とても迅速に、ですね」
「『何故か』な」
「ええ、『何故か』です」
藍の口元が僅かに緩む。明らかに狙った配置換えだった。
黒鷹は苦々しく呟いた。
「居候になるなんて話、聞いてねぇぞ」
「私は言いましたよ。『安全を保証してもらいます』と」
「……」
「宵闇灯にとって一番安全な場所。それが、あなたの監視下です。そしてあなたにとっても、既に標的を始末済みであるという報告を保つには、彼女が手元にいる方が都合が良い。違いますか?」
それは詭弁に近い、完璧な正論だった。
「…………チッ」
舌打ちした黒鷹に、藍はもう一歩だけ距離を詰める。そして──
「ただ、ひとつだけ。念のため、確認させてください」
赤い目が、射貫くようにこちらを見つめてくる。
「あなた……一般的な倫理観は、お持ちですよね?」
「……は?」
「居候が未成年の女子だという事実に対して、過剰な好奇心を持っていたりしませんよね?例えば……他者には言いづらいような、個人的な嗜好など」
黒鷹は呆れたように顔をしかめた。
「……俺にそういう趣味はねぇよ」
「それなら良かったです」
コクリと一礼し、藍はまた何事もなかったように立ち直った。
黒鷹は軽く首を回しながら、ぶっきらぼうに吐き捨てる。
「……こっちの監視体制の方が万全って話か」
「ええ。覗かれて困るようなものがある人ほど、独り言は録音されるものですよ」
またしてもわざとらしく意味深な言い方をする。
黒鷹はもうそれ以上なにも言わず、無言で藍の背中を見送った。
その去り際、藍はふと振り返り、最後に一言だけ。
「では、引き続き……よろしくお願いします。黒鷹さん」
赤い瞳が、今度は『冗談半分、本気半分』の揶揄を込めて細められる。
黒鷹は頭をかきながら、舌打ちを一つ漏らした。
「……クソガキが」




