第39話
静けさが戻ってきた。
恋は遊具の柱に手をついて、息を整えていた。膝が、少し震えていた。怖かったのだと、落ち着いてから気がついた。
宵闇灯が戻ってきた。
目は、少しずつ色が薄れていた。真紅から、じわじわと青に戻っていく。
「……ごめんね」
「何がですか」
「血」
「貸したんです。謝らなくていいです」
宵闇灯はしゃがみ込んだ。力が抜けたような動作だった。先ほどの速さが嘘のように、またいつもの、漏れていくような佇まいに戻っていた。
「……疲れた」
「そうですよね」
恋も隣にしゃがんだ。
傷口は、もう血が出ていなかった。たいした量ではなかったのかもしれない。それでも、指先がじんじんと疼いていた。
「……なんで来てくれたの」
「藍さんに頼まれたからです」
「それだけ?」
恋は少し考えた。
「……先輩が、ここにいると思ったから」
「……それって同じ意味じゃないの」
「少し違います」
宵闇灯はそれ以上は聞かなかった。夜空を見上げて、目を細めた。真紅はほとんど消えて、いつもの青に戻りつつあった。
「……恋ちゃん、怖くなかった?」
「怖かったです」
「じゃあなんで前に出たの」
「分かりません」
正直に答えた。
先ほど、男の前に半歩出たとき、自分でも理由が分からなかった。力があるわけでも、策があるわけでもなかった。それでも足が動いた。
「……そっか」
宵闇灯は短く言った。
それから、また空を見た。
「……血、美味しかったよ」
「それは良かったです」
「普通は嫌がるところだよ、そこ」
「嫌ではなかったので」
宵闇灯は少しだけ、目を細めた。笑っているのか、そうでないのか、相変わらず判断のつかない顔だった。
しばらく、二人とも黙っていた。
虫の声が、公園に戻ってきていた。遠くで、風が木を揺らす音がした。
「……そういえば」
宵闇灯が、ふと思い出したように口を開いた。
「もしかしたら、眷属になっちゃうかもね」
「……はい?」
「恋ちゃんが」
恋は、宵闇灯を見た。
宵闇灯は相変わらず夜空を見上げていた。こちらを見ていない。今しがた天気でも確認したかのような口ぶりだった。
「……それは、どういう意味ですか」
「吸血鬼に血を吸われたら眷属になるって話、聞いたことない?」
「……聞いたことは、ありますが」
「……実際にそうなるのかは知らないけど」
最後の一言が、ひどく軽かった。
恋は数秒、固まった。
情報を整理しようとした。眷属。吸血鬼。血を吸われた。自分の指先。さっきの疼き。
「…………」
「……どうかした?」
「どうかしたじゃないです」
恋の声が、少し上がった。
「なんでそれを先に言わなかったんですか!?」
「……聞かれなかったし」
「聞く前に言うことってあるじゃないですか、そういう大事なことは」
「……大事だったの?」
「大事ですよ!?」
宵闇灯がようやくこちらを見た。眠そうな目だった。きょとんとしているような、していないような顔。
「……でも恋ちゃん、どうぞって手出してきたじゃん」
「それはそうですけど、そういう話じゃなくて」
「……なるかもしれないって言っただけで、なるとは言ってないし」
「かもしれないの時点で言ってほしかったです」
「……ごめん」
謝った。あっさりと。悪びれているのかいないのか、判断のつかない声で。
恋はため息をついた。
怒っているのか、呆れているのか、自分でもよく分からなかった。ただ、何か大事なことが起きているような気がするのに、宵闇灯の温度があまりにも低いせいで、怒りの持っていき場所がどこにもない。
「……本当に、なるんですか」
「……さあ。クォーターだし、私。純血じゃないから効果薄いかもしれないけど」
「かもしれないが多すぎませんか」
「……ヴァンパイアのこと、あんまり詳しくないんだよね、私も」
それは本当のことのようだった。
宵闇灯は少し考えるように、指先を見た。それからまた、夜空に目を戻した。
「……なったとしても、べつに悪いことばかりじゃないと思うけど」
「どういう意味ですか」
「……眷属って、主人のことが気になるようになるらしいから」
「…………」
「……まあ、民間伝承レベルの話だけど」
恋は宵闇灯を見た。
宵闇灯は空を見ていた。
その横顔が、揶揄っているのか、本気なのか、どちらとも取れる顔をしていた。というより、宵闇灯の顔はいつもそういう顔をしている。
「……先輩」
「うん」
「眷属になった場合、どうすればいいんですか」
「……さあ。会長に聞けば? 詳しそう」
「詳しそうって、先輩の実験してる人ですよね」
「……うん」
「なんで自分で聞かないんですか」
「……面倒だから」
恋はもう一度、ため息をついた。
立ち上がって、宵闇灯に手を差し伸べた。
宵闇灯はそれを見て、一秒置いてから、その手を取った。
「……重いよ、私」
「大丈夫です」
恋は引き上げた。宵闇灯は思ったより軽かった。
二人で、公園の入口の方へ歩き始めた。
指先の疼きは、まだ続いていた。
気のせいかもしれない。気のせいではないかもしれない。
恋にはまだ、判断がつかなかった。




