第38話
今から1時間ほど前に遡る。藍が恋を呼び止めたのは放課後のことだった。
「少し、時間はありますか」
生徒会室の扉を出たところで、藍が廊下で待っていた。何かを選んでいる目だった。普段は全てを把握した上で話しかけてくる藍が、言葉を選んでいる。
それだけで、恋は「良い話ではない」と判断した。
「あります」
「……宵闇灯さんのことです」
藍は一度、廊下の左右を確認した。
「今夜、彼女を狙う集団が現れます」
「集団、というのは」
「ヴァンパイアハンターです。宵闇灯さんを排除するための、組織的な動きがある」
恋は黙った。
「今夜ですか」
「日没以降、どこかで接触を試みると考えています」
「藍さんは」
「私はこよみと共に、敵対勢力の対処に当たります」
「私は」
藍はそこで少し間を置いた。
「宵闇灯さんに、今夜は外に出ないよう伝えてほしいと思っていました。ただ——」
「ただ?」
「彼女は、私の言うことを聞かない可能性があります」
恋は、それが事実であることを知っていた。宵闇灯は「どうせ暇だし」という理由で実験に応じる人だ。「今夜は危険です」と言われて、「そうですか」と大人しく部屋に閉じこもるとは思えない。
「……分かりました。危ないと判断したら、宵闇先輩を連れて逃げ出します」
「無理にとは言いません」
「でも、他に頼める人がいないから言っている、ということですよね」
藍は一秒、止まった。
「……そうです」
「分かりました」
恋は鞄を持ち直した。
「宵闇先輩は今日もあそこにいますか」
「おそらく」
「行ってきます」
藍は何も言わなかった。
ただ、恋が歩き出した後、背中に向けて一言だけ届いた。
「……気をつけて」
*
恋は宵闇灯の手を引いた。宵闇灯は特に抵抗しなかった。二人で校舎の裏手から出て、隣接する公園の方へ走る。夜の公園は暗く、街灯の間隔が広かった。
走りながら、恋は後ろを振り返った。
追ってきている。
一人だった。男だ。黒鷹の部下らしき人物が、無線を持ちながらこちらを追跡している。訓練された走り方だった。恋たちよりずっと速い。
「――っ、先輩、もっと速く」
「……これが限界」
宵闇灯の足は遅かった。体質的なものなのか、他に理由があるのか。いずれにしても、このままでは追いつかれる。
公園の奥まった場所、遊具の陰に入ったとき、恋は足を止めた。
行き止まりだった。
フェンスに囲まれた狭い一角。出口は来た方向しかない。そしてその方向から、足音が近づいてくる。
「……まずい」
「……ごめんね、私のせいで」
「謝らなくていいです」
恋は周囲を見回した。フェンスは高さが二メートル近くある。登れないことはないかもしれないが、時間がかかる。
足音が止まった。
入口に、人影が立っていた。
「対象確認。もう一人は——」
男が無線に向かって低く言いながら、ゆっくり近づいてくる。手に、何かを持っていた。
恋は宵闇灯の前に、半歩出た。
意味がないことは分かっていた。自分には戦う力も、防ぐ力もない。それでも、半歩出た。
男が、止まった。
「……どいてくれ。君に用はない」
「どきません」
「怪我をするぞ」
「どきません」
男は少し間を置いた。それから、ため息をついた。
「……黒鷹さんには、適当にあしらえと言われたけど」
「大きな声で、人を呼びますよ」
男の表情が、わずかに変わった。
その時、恋の背後で、小さく息を吐く音がした。
「……ねえ」
宵闇灯の声だった。
「何ですか」
「……退いて」
その声が、いつもと違った。
平坦なのは同じだった。ただ——底の方が、変わっていた。さっきまで漏れていくようだった声に、何かが満ちてきているような。
恋はそれを感じて、男から視線を外した。
宵闇灯の目が、変わっていた。眠そうだったはずの虹彩の奥に、暗い紅が滲み始めていた。
「……先輩」
「退いて」
今度は一言だった。
恋が横にずれると、宵闇灯が前に出た。
男と向き合う。華奢な体が、街灯の光の中に立つ。男が宵闇灯の目を見て、一瞬だけ動きを止めた。
宵闇灯は少しの間、黙っていた。
「……私はどうなってもいいんだけど」
ぽつりと、言った。独り言のような声量だった。
「恋ちゃんが怪我するのは」
また、間があった。
「……嫌」
それだけだった。
それだけなのに、恋は何かが喉に詰まったような感じがした。宵闇灯が「嫌」と言うのを、恋は聞いたことがなかった。何を聞いても「別に」「どうせ」「よくあること」と返してきた人が、今初めて「嫌」と言った。
「——血、借りていい?」
振り返らずに、宵闇灯が恋に言った。
「……今この状況ですか」
「今じゃないと、役に立てない」
男が動こうとした。宵闇灯はそれを視界の端で捉えながら、恋の方を向いた。
頼んでいる目だった。
宵闇灯が誰かに頼む顔を、恋は初めて見た。
「……どこですか」
「どこでも」
「じゃあ」
恋は自分の左手を差し出した。指先を。
「おい、お前ら、何してる」
男の声は、宵闇灯には届いていないようだった。
宵闇灯は一瞬だけ目を細めた。それから、恋の指先をそっと持った。
「……ちょっと痛いよ」
「分かってます」
痛みは、思ったより鋭かった。息を呑んだが、声は出さなかった。宵闇灯の口が離れた瞬間、傷口が引き攣るように疼いた。
静けさが一秒あった。
それから——
宵闇灯の目が、真紅に染まった。
今度は実験室で見たものとは違った。外側から染まるのではなく、内側から光が溢れるように、一瞬で全体が変わった。白い髪が、月光を受けてわずかに揺れた。
「……ありがとう」
声が、少し変わっていた。音程は同じ。でも、何かが違う。水が満ちるような、低く重い質感。
宵闇灯は恋の前に出た。
男が、一瞬だけ足を止めた。
「……なんだ、その目は」
「……見たことないんだ」
宵闇灯の声は、依然として淡々としていた。ただ、さっきまでとは別の淡々さだった。
「ヴァンパイアの目、って言えば分かる……?」
男が後退した。武器を構え直す動作の途中に、宵闇灯が動いた。
速かった。
恋の目には、ほとんど追えなかった。一歩、踏み込んだかと思うと、男の持っていた武器が宙を舞っていた。音がした。男が体勢を崩した。宵闇灯はそれ以上は追わなかった。
ただ、男の前に立って、下から見上げた。
「……逃げるなら勝手にして」
小さな声だった。
脅しでも、威圧でもなかった。本当にただ、許可を出しているような言い方。
男は、無線を持ったまま数秒固まっていた。それから、走った。
*
焼けたアスファルトの上に、煙が立ち昇る。
粉砕された地面の中心に、黒鷹は片膝をついていた。
肩口から血が流れている。だが、骨まではいっていない。
命を奪われなかったのは、単に榊原藍の判断があったからに過ぎない。
目の前には、いまだ無表情のままの少女――雪代こよみ。
そして、彼女の背後から歩いてくる、制服姿の少女――榊原藍。
「こよみ、これ以上は不要です」
藍が制止をかけると、こよみはその場で静止する。
ハンマーを肩に乗せ、ただ命令に従うように動かない。
黒鷹は息を切らしながら、立ち上がろうとするが、
そのとき、無線から部下の声が飛び込んできた。
『黒鷹さん……申し訳ございません、対象の排除に失敗してしまいました。何やら血を吸ってから一瞬でーー』
「……もういい。撤退しろ」
黒鷹はそれ以上の報告を聞くことなく、無線を切った。
(ターゲットに抵抗の意志はなかったはずだが……隣にいたあのガキが何か仕向けたか?)
肩から息を吐き、ゆっくりと藍の方へと視線を向ける。
藍はまるで最初からすべてを予定していたかのような顔で言った。
「……黒鷹さん。ここからは交渉です」
「……」
「あなたには、任務に成功したと報告していただけないでしょうか」
その一言で、黒鷹の目が細められる。
明らかに何かを知っている口ぶりだ。
藍は、続けた。
「宵闇灯さんの生存に繋がる記録や通信ログは、こちらで削除しておきます。 あなたの報告に矛盾が残ることはありません」
「……まるで、俺が今回の任務に失敗することを前提に動いていたような言い草だな」
「そうなる可能性も含めて、すべてを記録・観察するのが私の役目ですから」
黒鷹は苦笑した。喉がひりつくほど乾いていた。
「報告を偽造しろってことか。上から追及されれば——」
「されませんよ」
藍は遮った。静かに、しかし確実に。
「完了とだけ報告しておいた方が、彼らもあなたも余計な詮索をせずに済む。——そういう組織ではありませんでしたか」
沈黙が落ちる。
図星だったのは言うまでもない。
藍は、さらに言葉を重ねる。
「これであなたには、任務を遂行したという結果だけが残る。 その代わりとして――今後、あなたには宵闇灯の安全を保証していただきます」
それは、脅迫でも依頼でもない。
淡々とした条件提示だった。
黒鷹はしばらく目を閉じ、深く考える。
宵闇灯に対して特別な感情はない。
だが、殺す理由もない。
命令の完了という結果を守れるなら――
それで十分だった。
「……条件は飲もう。だが一つだけ」
「はい」
「……これ以上、俺の報告書を読むな。気分が悪い」
それを聞いた藍は、珍しく少しだけ口元を緩める。
「検討します」
そう言い残し、榊原藍は踵を返した。
雪代こよみが無言で彼女に従い、その場を後にする。
後に残された黒鷹は、
ただ夜空を見上げることしかできなかった。




