第37話
黒鷹はしばらく動かず、そのまま玄関に立ち尽くしていた。
やがて深く息を吐き、コートの裾を払いながら、ドアを開ける。
宵闇灯を――始末しに行く。
夜の帳が完全に下りきった校舎裏。
運動部の喧騒も消え、ただ虫の声と風の音だけが空気を埋めていた。
そんな静けさの中、宵闇灯はいつものように校舎の影で日傘を差し、
ぼんやりと虚空を見つめていた。夜なのに、日傘は閉じないまま。
その傘に、コツリと音が響いた。
「……お前に恨みはないんだがな」
声とともに、宵闇の視界に黒いコートの男が現れる。
男は懐からゆっくりと銀色のナイフを取り出し、手の中で軽く回してみせた。
淡い月光に照らされ、それはまるで儀式の道具のように冷たく輝いていた。
宵闇は瞬きもせず、その刃を見つめた。
直感的に分かる。それは再生を拒絶する毒だ。
彼女のような存在にとって、唯一無二の死を刻む可能性のある刃。
だが。
「……ふぅん」
宵闇の反応は、それだけだった。
逃げる素振りも、警戒する姿勢もない。
むしろ、軽く息を吐き出したような諦観だけが漂っていた。
黒鷹はわずかに眉を動かし、数歩距離を詰める。
彼の後方、木陰には部下が静かに身を潜め、遠隔から様子を見守っていた。
「……お前、分かってるんだろ?この銀のナイフがどういう代物か」
宵闇はコクリと小さく頷いた。
「うん。知ってるよ。治んない、やつだよね……でも、別にいいよ。私、別に生きたいってわけでもないし」
黒鷹は、ほんの一瞬だけ沈黙した。
そして苦笑を漏らす。
「……抵抗でもしてくれちゃ、こっちもやり易いんだがな」
本当に呟いただけだった。
誰に向けたでもなく、ただ空気に混ぜるような言葉。
宵闇は首を傾げ、問い返すこともない。
ただ、ほんの少しだけ、傘を右手に持ち替えた。
まるで、どちらの腕を切り落とされても大丈夫なように。
冷たい月光の下、黒鷹が手にした銀のナイフが静かに宵闇灯へと近づく。
宵闇灯は動かない。
ただ、ぼんやりと夜空を見上げていた。
そんな彼女を見つめながら、黒鷹は迷いなくナイフを振り下ろそうとした。
その瞬間。
バァンッ!
静寂を引き裂く狙撃音。
次の瞬間、黒鷹の手から銀のナイフが弾き飛ばされた。
硬質な音を立てて、ナイフが闇の中を弧を描き、地面へと転がる。
「……チッ、一体どこから――」
黒鷹の眼光が鋭く空を探る。しかし、どこにも姿はない。
発射された方向は分かる。だが、音も、気配も、何もない。
その一拍の隙を突くように、誰かの手が宵闇灯の腕を引いた。
「先輩、立ってください!」
振り返ると、そこには見慣れない桃色の髪をした女子高生がいた。
驚いたような、だが慣れているような表情で宵闇を引き起こす。
「……あれ、恋、ちゃん、どうしてここに……?」
「後ででいいんで、今はとにかく逃げましょう!」
恋はそう言って、抵抗しない宵闇を抱えるようにしてその場から連れ出していった。
黒鷹が追おうと、足を一歩踏み出したその時――
「追跡は、お控えください」
澄んだ声が、背後から届く。
振り返ると、そこには一人の少女。
月明かりに浮かぶ黒髪と赤い瞳。
榊原藍。
「……銃も扱えるのか、会長さんよ」
黒鷹はすでに、この少女があの狙撃の関係者であることを察していた。
だが藍は、首を横に振る。
「いいえ。私は銃火器の扱いはできません。私はあくまで、観察者ですので」
「じゃあ、誰が……」
言いかけた黒鷹に、藍が一歩後ろへ下がる。
「武力行為は私の専門ではないので」
その言葉と同時に――
ドォンッ!!
空から地を割るような衝撃。
建物の屋上から飛び降りた影が、黒鷹のすぐ横へと叩きつけられた。
舞い上がる瓦礫の中に、現れたのは武装状態の白髪の少女――雪代こよみ。
両手には、ハンマーと重装支援装備。目には冷たい光。
黒鷹はナイフを拾い上げることなく、一歩後退して構えを取る。
「なるほど……今時の生徒会長はこんなご立派な護衛もついてるんだな」
「護衛ではありません。彼女はあくまで、記録者です」
藍の瞳が、宵闇灯の逃げた先を見つめる。
黒鷹の口元にわずかな苦笑が浮かぶ。
「……面倒くせぇにも程があるな」
粉塵がようやく晴れたその場所に、黒鷹は静かに足を止めた。
瓦礫の中央には、無機質な瞳でこちらを見据える雪代こよみ。
両手に構えた巨大なハンマーが、まるで審判の鐘のように鈍く空気を震わせる。
「……さて」
黒鷹は一度、腰の無線に手を添えた。
短く一言だけ命じる。
「……おい。対象が同じ高校の生徒と一緒に逃走した。対象を追え。即刻処理しろ」
『了解しました、追跡開始します。その別の生徒はどうします?』
「殺すな。ただのガキだ。適当にあしらっておけ」
通信が切れる。
榊原藍が静かに眉を寄せた。
「お前らと違って、一緒に逃げたガキはただの一般人だろ。ヴァンパイアに肩入れする理由もなけりゃ、力もない」
その言葉に、藍は一度視線を落とし、ふと口元に笑みを浮かべた。
「確かに。彼女は交戦能力を有していません。ですが――咄嗟の判断力に関しては、私は高く評価しています」
「……判断力?」
「あなた方のような訓練された者でも、あの場面で適切に動けたとは限らない。彼女は誰かを守るという行動を、思考する前に実行した」
黒鷹は短く鼻を鳴らす。
「……そうかい」
黒鷹はコートの裾を払うと、ゆっくりと足を踏み出した。
「でかい玩具だが、使いこなせるのか?」
こよみは何も答えない。
ただ、静かに一歩、黒鷹に向かって踏み込む。
踏みしめる音は、まるで起動の合図。
冷気すら孕む空気が、ふたりの間を裂く。
藍はその場から動かない。
彼女にとって、もはや戦いは観察対象でしかなかった。
「……こよみ。戦闘開始」
こよみの目が淡く光る。
ハンマーの柄に刻まれた文様が、ぼんやりと青く灯る。
黒鷹はコートの内側からナイフとは異なる武器――折りたたみ式の軍用トンファーを引き抜いた。
「この歳で女子高生とガチでやり合う羽目になるとはな」
静かな夜に、開戦の音が響く。
(――来る)
黒鷹が一歩、右にずれると同時。
雪代こよみのハンマーが縦に落ちた。
轟音。地面が爆ぜ、衝撃で破片が舞い上がる。
黒鷹はそれを正面から見据えたまま、最小限の動きで――横へ一歩、滑るように抜ける。
(速いが……避けられない速度じゃない)
次の瞬間、こよみは踏み込む。
横薙ぎ。重量を乗せたハンマーの振り抜き。
コンクリの壁すら砕く威力。真正面から受ければ即死。
しかし黒鷹は、寸前でしゃがみ込み――脇をすり抜けた。 そのまま回転を利用してトンファーを振るう。狙うは手首。
ガンッ!!
だがこよみは片手で柄を握り直し、トンファーの一撃を受け止めた。 衝撃が抜けきらぬうちに、後方へ飛び退く。
「……普通の人間の反応速度ではありません」
「お前に言われたくねえよ」
黒鷹は息を吐く。汗はかいていない。だが、確実に削られている。
相手は――無表情で殺しに来る記録装置。表情に揺らぎはない。呼吸も一定。
「……ああ、そっちがそのつもりなら」
黒鷹はポケットから閃光弾を取り出し、地面に投げつける。 白い閃光が夜を裂く。
だがこよみは一切反応を見せなかった。
機械的なセンサーで目視を補完しているのか、動きに全くブレがない。
――トン。
気配が変わった。
振り下ろされるハンマー。二段目の攻撃――フェイントではなく実打。
黒鷹はそれを真正面から受けるように見せかけ、重心を崩す。
背後に回り込むように転がり、こよみの脚を払うようにトンファーを打ち込む。
しかし、驚異的な動体視力により、こよみは脚を引いた。
だが、それでも隙がゼロではない。
黒鷹はわざとバランスを崩すように前へ倒れ込む――ふらついた“ように見せかける”。
こよみの目が、その動きを捉える。
次の瞬間。
「――っ!」
黒鷹はこよみの死角に滑り込み、左肘で鳩尾を抉るように突き上げた。
肉を叩いた音。だが、感情のこもった声は出ない。
こよみは瞬時にバックステップで距離を取るが、その目には動揺の色は映っていなかった。
「分析中……」
「悪いが、俺も時間がないんでな」
そう言いながら、黒鷹は内ポケットからもう一本のトンファーを引き抜いた。
二本の武器を交差させ、姿勢を低く落とす。
こよみは無言のまま、ハンマーを構え直す。電子音が走る。武装の駆動音だ。
――戦闘再開。
だが、黒鷹の目は冷静だった。
(本気でやり合えば、勝てる相手じゃねえ)
だが、殺される前に抜けることは可能。そう確信していた。
なぜなら黒鷹は、誰よりも戦場から生き延びる技術を磨いてきた男なのだから。




