第36話
午後、人気のない校舎裏。
煙草に火を点けようとした黒鷹の手が、気配と共に止まる。
「こんにちは、黒鷹さん」
その声は、あの日と同じ口調で、同じ距離感で、突然に届いた。
見ると、この前話しかけてきた黒髪の少女が、いつの間にか立っていた。
「……また、お前か」
黒鷹は火を点けずに煙草をしまい、無言のまま立ち上がる。
無警戒なようでいて、全神経を張り詰めていることは、彼女も分かっていた。
「先日のお話、まだ気にされているようですね。報告書の件でしょうか?」
黒鷹は、少し黙った後、低い声で訊ねた。
「――どうやって、読んだ?」
「お望みであれば、詳細に説明しますよ」
彼女はまるで「誰でもできることです」とでも言いたげな口ぶりで言葉を続けた。
「まず、貴方の所属機関は証明書の失効管理が形骸化しています。中間CA証明書の一つが失効済みであるにもかかわらず、検証側はCRLもOCSPも参照していませんでした。その結果、本来無効であるはずの証明書チェーンが、有効な経路として扱われていました。次に、ファイル共有基盤におけるアカウントのライフサイクル管理が機能していません。退職者および異動者のアカウントが無効化されないまま、読み取り権限を保持していました。私が使用したのはそのうちの一つです。その上、報告書の提出フローには、メタデータをサニタイズする工程がありません。編集者UPN、端末のホスト名、改訂履歴が文書内に残存しており、提出前のスクラブも運用されていない状態でした。いずれも過去に指摘のあった既知の不備であり、侵入に高度な技術は――」
「……もういい」
黒鷹は手を上げて制止する。
聞くほどに虚しくなるだけだ。
あまりに技術的な解説は、もはや情報戦というより、解体ショーのようですらあった。
だが、彼女は構わず続ける。
「お望みであれば、あなたの人事評価や査定情報、次の異動候補も抽出可能ですが……知りたいですか?」
「結構だ」
皮肉にすらならない善意の提供。
黒鷹は深くため息をついた。
「そうですか。それでは今日はこの辺りで」
彼女はそう言うと、背を向けこの場を立ち去ろうとした。数歩だけ歩いた後、突然何かを思い出したかのように急に立ち止まった。
「……そうですね。一方的に私があなたの情報を知っているというのは、フェアではありません」
そしてそのまま振り返らず、彼女は小さく言った。
「榊原藍。それが、私の名前です」
その声は、機械のように冷たく整っていた。
だが、黒鷹にはそれが人間の形をした何かが、名前という概念を持っていると告げられたような気がしてならなかった。
彼女が去った後、黒鷹はふと呟いた。
「……ほんと、碌な時代じゃねぇな」
そして彼は煙草を再び取り出した。
今度こそ火を点け、深く吸い込む。
煙の向こうに、彼女の影はもうなかった。
*
夜。
自宅の灯が、唸るように鈍く明滅していた。
黒鷹はいつものように、報告書の整理を終えたところだった。
数日前から尾行していた対象――宵闇灯に関しての観察記録には、ひと言だけこう記してある。
>「当面、実害なし」
吸血衝動の抑制、自発的攻撃性の欠如。そのどれをとっても、今のところは危険種とは判定し難い。
少なくとも、人類に対して脅威足りうる要素は欠けている――黒鷹の目には、そう映っていた。
だからこそ、本部から送られてきた無機質な文面は、予想外だった。
「対象、宵闇灯。
実態判定により、即時・排除の命令。
理由:潛在的脅威種指定第二号。
実行者:現地責任者、黒鷹」
一拍の沈黙。
黒鷹は返事をせず、黙って端末の電源を切る。
そして――短く、吐き捨てた。
「……下らねぇ」
自分の下した「無害」の判定が、あっさりと否定されたこと。
あまつさえ、“潜在的脅威”などという定義で、命を狩ることが命じられたことに。
「――あいつの祖父の件か?」
思い返す。
宵闇灯の祖父――本名不明。かつて関東の一帯を支配していた高位の純血種。
十年ほど前、黒鷹自身が処理した相手だ。
だが、宵闇灯とは直接的な関係は一切なかった。そもそも、彼に子がいたことすら、ましてや孫がいる事など知らなかったほどだ。
唯一の接点が「血縁」ならば――その程度の理由で、命を奪うのか。
「くだらん家系主義だな」
だが、それでも引き金は引ける。
黒鷹はそういう男だった。
ただ一つ、気になることがあった。
――榊原藍の存在だ。
数日前、彼女は唐突に現れ、唐突に名乗った。
まるで、「自分が黒鷹の報告書を見ている」と、わざと知らせるように
(……まさか、こっちが排除命令を受けることまで、読んでいたか?)
あり得ない話ではない。
彼女の知性、行動、態度。すべてが「ただ者ではない」と示していた。
仮に、命令内容も監視されているとすれば。
「……そうだとしても、任務は任務だ」
誰が見ていようと、何が仕組まれていようと――
それを理由に任務を放棄することはできない。
黒鷹は立ち上がる。
トレンチコートの内ポケットには、銀のナイフ。
銃では意味をなさない。殺すなら、間近で心臓を貫くしかない。
夜風が静かに吹く中、黒鷹は背を向けた。
任務が、始まる。
コートの襟を立て、ドアノブに手をかけたその瞬間。
ポケットの中で、小さく振動音が鳴った。
――通知名:【非通知設定】
黒鷹は一瞬だけ眉をひそめた後、何事もなかったかのように応答ボタンを押した。
「……もしもし、『高木』ですが」
すぐに、あの少女の声が聞こえてきた。
「こんばんは、『黒鷹さん』。お出かけのご様子ですね」
その声音に、敵意も、皮肉もない。
だが、明らかに何かを知っている口調だった。
黒鷹は返答をせず、ただ黙って聞いていた。
すると、予想通り――いや、予想以上に直球な問いが飛んできた。
「宵闇灯さんを始末する命令が下ったということでしょうか?」
一拍。
黒鷹の足が止まる。
(……やはり、どこまで漏れている)
だが、それを認める必要はない。
黒鷹はわずかに笑みを含んだ声で応じた。
「……さて。俺はただ、夜の散歩が好きなだけでね」
「その割には装備が重そうです」
即答だった。
明らかに見ている。どこかから。
黒鷹はそれ以上、言葉を重ねない。
この少女とやり取りを重ねれば重ねるほど、情報が吸い取られていく。
それでも、相手は構わず言葉を続けた。
「生徒会長として、申し上げておきます。
宵闇灯さんは、青葉第二高等学校の生徒です。
我が校の生徒の安全は、私が保証させていただきます」
口調は丁寧。だが、これは宣戦布告ではない。
あくまで、静かな通告。
黒鷹は無言のまま、視線を窓の外に投げた。
月が雲間に隠れ、街の灯りだけが夜を照らしている。
やがて、静かに返す。
「それは……お前の立場からの発言か。個人としての意見か」
「私としての意見です。私が、宵闇灯さんに興味を持っているという、ただそれだけのことです」
黒鷹は受話器を持つ手に、わずかに力を込めた。
「……俺は命令に従うだけだ。感情は関係ない」
「ええ、それがあなたの仕事ですから」
「――私も、私の仕事を遂行するまでです」
通信が切れる。




