第35話
コーヒーが欲しい。ただそれだけだった。
この学校の裏手側から少し離れた公園にある古びた自販機は、周囲の喧騒から外れた場所にあり、誰にも気づかれずに立ち寄れる。
缶コーヒーに手を伸ばしかけたその時、不意に背後から声がかかった。
「こんにちは」
聞き慣れない声。だが、忘れられる声でもない。
黒鷹はわずかに目を細めながら、振り返った。
そこに立っていたのは、青葉第二の制服を着た黒髪の女子生徒。
整った顔立ち。感情の乏しい瞳。わずかながら、以前の『無線越しの声』と重なる。
(……来たか)
「……あいさつされる筋合いがあったかね、嬢ちゃん」
「礼儀ですから」
言葉に毒はなかった。だが、どこか全てを見透かしているような静けさを孕んでいる。
黒鷹は再び自販機に目を向け、コインを投入しながら何気なく問う。
「俺に何か用か?」
「いえ。ただ、確認したいことがひとつだけあったので」
缶が落ちる音と同時に、彼女の声が重なる。
「この前の報告書に、私を記載しなかったのは、何故ですか?」
黒鷹の指が一瞬、止まった。報告書の存在など、本来知りようがない。
黒鷹は缶を取り出し、ゆっくりとプルタブを引いた。
「書く価値があると思わなかった。俺の主観でそう判断しただけだ」
「判断、ですか。あなたは判断をされる立場の方ではなかったかと」
「今は現場の人間だよ。判断ぐらい自分でする」
少女は黒鷹の言葉を静かに受け止めるように、わずかに瞬きを一度だけした。
「……なるほど。では、あなたの主観に関して、ひとつ質問しても?」
「言ってみな」
「私は、あなたにとって脅威ですか?」
一拍、空白が落ちる。
黒鷹は缶を傾けながら、その問いの真意を探った。
質問に裏があるのか、それとも本当にただの情報収集なのか。それすらも読めない。
「さあな。判断は保留中だ」
「……公平なご対応、ありがとうございます」
彼女は微笑みすら浮かべず、言った。
その時、黒鷹の無線が小さく震えた。
部下からの連絡。だが、今応答すべきか、一瞬だけ迷う。
すると、彼女がほんの少しだけ口元を動かし――
「どうぞ。私のために、部下からの通信を止める必要はありません」
「……誰も部下から来たなんて言ってないぞ」
「ただの推測です」
にこりともしないまま、語りかけるその様は、どこまでも理路整然と、そして無機的だった。
黒鷹はため息混じりに、無線のボタンを押す。
「……こちら黒鷹。何かあったか」
通信の向こうから、少し慌てた部下の声が返ってくる。
彼女は何も言わず、ただ隣でじっと会話を聞いていた。
(こいつは……一体何者だ)
その問いは、コーヒーの苦味と共に、黒鷹の胸の中に残り続けていた。
*
「……了解した。こっちは特に異常なし。今日は上がっていいぞ」
黒鷹が通信を切ると、無線機からはただ静寂だけが返ってきた。
目の前にはまだ、制服姿の少女が立っていた。
さっきまでの会話が、ただの幻だったかのように、静かに、無言で佇んでいる。
その存在感はただの女子生徒の枠を超えていた。
彼女はふと、空を仰ぎ見るように首を傾けた。まるで、時間の終わりを計測するかのように。
「……そろそろ、失礼しますね」
「おう、もう喋ることもねぇ」
黒鷹は缶コーヒーを片手に、気だるげに答えた。
少女は一歩、二歩と後ずさるように歩き始める。
そして――踵を返す直前、ふと振り返り、
わざとらしくない、ごく自然な口調で、こう言い残した。
「それでは――『黒鷹』さん。どうか、良い午後を」
黒鷹の目が、わずかに細くなる。
(……俺の名前)
名前は出していなかったはずだ。
この少女は、間違いなく、黒鷹が書いた報告書を読んでいる。
彼の背を微かに汗が伝った。
(どこで、どうやって……いや、考えてもしかたねえか)
そう結論づけるしかない。
彼女の背中が、静かに歩道の先へと消えていく。
黒鷹はため息を吐いた。
「ったく、俺の仕事は害虫駆除のはずなんだがな……」
いつの間にか、缶コーヒーはぬるくなっていた。
*
暗い部屋の中、唯一の明かりはデスク上の古いモニターと、缶ビールの銀色の反射だけだった。
黒鷹はぼんやりと画面を見つめながら、何かを考えていた。
しばらくして、旧式の回線を繋ぎ直し、通信を開く。
「……おう、まだ仕事してたのか」
数秒の間の後、若干くぐもった声が返ってきた。
『……黒鷹さん? まさか黒鷹さんの方から連絡くるとは思いませんでしたよ。どうかされました?』
「別に。ただ、ちょっと気になってな」
黒鷹は、椅子にもたれかかりながら缶を指先で転がす。
「お前、覚えてるか? 俺が本部にいた頃、報告書の保管体制、あれ酷かっただろ」
『……は、はあ。まあ、正直あの頃は……パスワードすら付いてない報告書とか、平然と共有フォルダに放置されてましたね』
黒鷹は鼻で笑う。
「だろ? 俺が久々に自分で書いたもんでな。ふと気になった」
『え、もしかして……何か漏れてたんですか?』
「いや、そういうことじゃねえ。ただ、今も昔と変わらず、報告書が外部に流出する可能性があるんじゃないかって話だ」
『う……正直、ゼロではないです。あれから改善はされてますが、完璧とは……』
「だろうな」
黒鷹の声には、怒りも焦りもなかった。だが、どこか諦念混じりの警戒が滲んでいた。
『……あの、何かありました?』
「いや、別に。ただの老婆心だ。たまに思い出すだけだよ、あの頃のクソみてえな仕事をな」
『……そ、そうですか』
黒鷹は立ち上がり、通信機のスイッチに指をかける。
「……ああ、それと。お前さ」
『はい?』
「俺の報告書、今誰が読める状態になってる?」
『一応、暗号化されてますけど……上長と、システム担当、あと特別閲覧権限のある一部だけのはずです』
「そうか。……なら、いい」
小さな「ピッ」という音だけが部屋に残り、缶ビールの炭酸が微かに弾ける音と混じった。
彼は一言、誰に向けるでもなく、ぽつりと呟いた。
「――読めねぇはずの報告を、平然と引用してくるガキがいるのは何でなんだよ」
冷蔵庫の中には、今夜もまた、ろくに冷えてない缶コーヒーが並んでいた。




