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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第4章 吸血鬼の末裔と狩人
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第35話

 コーヒーが欲しい。ただそれだけだった。


 この学校の裏手側から少し離れた公園にある古びた自販機は、周囲の喧騒から外れた場所にあり、誰にも気づかれずに立ち寄れる。

 缶コーヒーに手を伸ばしかけたその時、不意に背後から声がかかった。


「こんにちは」


 聞き慣れない声。だが、忘れられる声でもない。


 黒鷹はわずかに目を細めながら、振り返った。


 そこに立っていたのは、青葉第二の制服を着た黒髪の女子生徒。

 整った顔立ち。感情の乏しい瞳。わずかながら、以前の『無線越しの声』と重なる。


(……来たか)


「……あいさつされる筋合いがあったかね、嬢ちゃん」


「礼儀ですから」


 言葉に毒はなかった。だが、どこか全てを見透かしているような静けさを孕んでいる。


 黒鷹は再び自販機に目を向け、コインを投入しながら何気なく問う。


「俺に何か用か?」


「いえ。ただ、確認したいことがひとつだけあったので」


缶が落ちる音と同時に、彼女の声が重なる。


「この前の報告書に、私を記載しなかったのは、何故ですか?」


 黒鷹の指が一瞬、止まった。報告書の存在など、本来知りようがない。

 黒鷹は缶を取り出し、ゆっくりとプルタブを引いた。


「書く価値があると思わなかった。俺の主観でそう判断しただけだ」

 

「判断、ですか。あなたは判断をされる立場の方ではなかったかと」


「今は現場の人間だよ。判断ぐらい自分でする」


 少女は黒鷹の言葉を静かに受け止めるように、わずかに瞬きを一度だけした。


「……なるほど。では、あなたの主観に関して、ひとつ質問しても?」


「言ってみな」


「私は、あなたにとって脅威ですか?」


 一拍、空白が落ちる。


 黒鷹は缶を傾けながら、その問いの真意を探った。

 質問に裏があるのか、それとも本当にただの情報収集なのか。それすらも読めない。


「さあな。判断は保留中だ」


「……公平なご対応、ありがとうございます」


 彼女は微笑みすら浮かべず、言った。


 その時、黒鷹の無線が小さく震えた。

 部下からの連絡。だが、今応答すべきか、一瞬だけ迷う。


 すると、彼女がほんの少しだけ口元を動かし――


「どうぞ。私のために、部下からの通信を止める必要はありません」


「……誰も部下から来たなんて言ってないぞ」


「ただの推測です」


 にこりともしないまま、語りかけるその様は、どこまでも理路整然と、そして無機的だった。


 黒鷹はため息混じりに、無線のボタンを押す。


「……こちら黒鷹。何かあったか」


 通信の向こうから、少し慌てた部下の声が返ってくる。


 彼女は何も言わず、ただ隣でじっと会話を聞いていた。


(こいつは……一体何者だ)


 その問いは、コーヒーの苦味と共に、黒鷹の胸の中に残り続けていた。





「……了解した。こっちは特に異常なし。今日は上がっていいぞ」


 黒鷹が通信を切ると、無線機からはただ静寂だけが返ってきた。


 目の前にはまだ、制服姿の少女が立っていた。

 さっきまでの会話が、ただの幻だったかのように、静かに、無言で佇んでいる。


 その存在感はただの女子生徒の枠を超えていた。


 彼女はふと、空を仰ぎ見るように首を傾けた。まるで、時間の終わりを計測するかのように。


「……そろそろ、失礼しますね」


「おう、もう喋ることもねぇ」


 黒鷹は缶コーヒーを片手に、気だるげに答えた。


 少女は一歩、二歩と後ずさるように歩き始める。


 そして――踵を返す直前、ふと振り返り、


 わざとらしくない、ごく自然な口調で、こう言い残した。


「それでは――『黒鷹』さん。どうか、良い午後を」


 黒鷹の目が、わずかに細くなる。


(……俺の名前)


 名前は出していなかったはずだ。

 この少女は、間違いなく、黒鷹が書いた報告書を読んでいる。


 彼の背を微かに汗が伝った。


(どこで、どうやって……いや、考えてもしかたねえか)


 そう結論づけるしかない。


 彼女の背中が、静かに歩道の先へと消えていく。


 黒鷹はため息を吐いた。


「ったく、俺の仕事は害虫駆除のはずなんだがな……」


 いつの間にか、缶コーヒーはぬるくなっていた。





 暗い部屋の中、唯一の明かりはデスク上の古いモニターと、缶ビールの銀色の反射だけだった。

 黒鷹はぼんやりと画面を見つめながら、何かを考えていた。


 しばらくして、旧式の回線を繋ぎ直し、通信を開く。


「……おう、まだ仕事してたのか」


 数秒の間の後、若干くぐもった声が返ってきた。


『……黒鷹さん? まさか黒鷹さんの方から連絡くるとは思いませんでしたよ。どうかされました?』


「別に。ただ、ちょっと気になってな」


 黒鷹は、椅子にもたれかかりながら缶を指先で転がす。


「お前、覚えてるか? 俺が本部にいた頃、報告書の保管体制、あれ酷かっただろ」


『……は、はあ。まあ、正直あの頃は……パスワードすら付いてない報告書とか、平然と共有フォルダに放置されてましたね』


 黒鷹は鼻で笑う。


「だろ? 俺が久々に自分で書いたもんでな。ふと気になった」


『え、もしかして……何か漏れてたんですか?』


「いや、そういうことじゃねえ。ただ、今も昔と変わらず、報告書が外部に流出する可能性があるんじゃないかって話だ」


『う……正直、ゼロではないです。あれから改善はされてますが、完璧とは……』


「だろうな」


 黒鷹の声には、怒りも焦りもなかった。だが、どこか諦念混じりの警戒が滲んでいた。


『……あの、何かありました?』


「いや、別に。ただの老婆心だ。たまに思い出すだけだよ、あの頃のクソみてえな仕事をな」


『……そ、そうですか』


 黒鷹は立ち上がり、通信機のスイッチに指をかける。


「……ああ、それと。お前さ」


『はい?』


「俺の報告書、今誰が読める状態になってる?」


『一応、暗号化されてますけど……上長と、システム担当、あと特別閲覧権限のある一部だけのはずです』


「そうか。……なら、いい」



 小さな「ピッ」という音だけが部屋に残り、缶ビールの炭酸が微かに弾ける音と混じった。


 彼は一言、誰に向けるでもなく、ぽつりと呟いた。


「――読めねぇはずの報告を、平然と引用してくるガキがいるのは何でなんだよ」


 冷蔵庫の中には、今夜もまた、ろくに冷えてない缶コーヒーが並んでいた。


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