第34話
宵闇灯の後を追っていた政府直属の国家安全保障組織――その中でヴァンパイアハンターとして勤める黒鷹とその部下は、学外の住宅街にて一旦尾行を分割し、それぞれ別の通りから灯の動向を監視していた。
勿論、彼らの存在は公には明かされていない。彼らの表の肩書は国家公務員であり、待遇も一般の公務員と何ら変わりはない。
ただ、市民に害をなす存在を抹消するという、公に見えない形で国家に奉仕する存在にすぎない。
ヴァンパイアハンターの活動は通常2人で行われる。
部下とその直属の上司がターゲットにつき、当該ヴァンパイアの生態・危険性について検証を行う。――検証の結果、危険性が認められれば本部から抹殺の指令が下される。
当然、目撃者が発生しないように目立つ行動を避けながら、監視・偵察を行う。そのためお互いから見える様子・状況を逐次確認し、連携を行う。
しかし、数分後。
「……いったい、何してやがる」
部下からの定時報告が、来ない。
静寂の中、黒鷹はコートの内ポケットから無線機を取り出し、指でスイッチを押す。
「応答しろ。どうした」
しばしの沈黙の後――ノイズ混じりの電波の向こうで、しかし明確な女性の声が返ってきた。
『申し訳ありませんが、彼は今、応答できない状態です』
聞き覚えのない声。年齢も不明。ただ一つ言えるのは、異様に整っている、ということだった。
無感情な言葉。無駄がなく、冷えた空気を帯びている。
「……誰だ。何者だ、お前は」
黒鷹は顔をしかめず、声も荒げず、ただ問いかけた。敵か味方か以前に、相手が何なのかが分からない。その手の相手こそ、最も警戒すべき存在だ。
数秒後、無線越しに、即座の応答。
『そちらの質問に、私が答える義理はないはずです』
冷徹な即答。挑発でも敵意でもなく、ただ論理的に整えられた一文。
黒鷹は、その一言だけで状況を悟った。
厄介な相手だ。
正体も戦闘力も不明。下手に動けばこちらに損害が出る。部下はすでに接触されている。これ以上追うだけ損だと、経験が静かに告げていた。
黒鷹は、煙草をくわえたまま、再び無線のスイッチを押す。
「……いいだろう。こっちはもう引く。ただ、部下だけは無事に返してくれないか」
静かな交渉。
一拍置いて、相手の声が返る。
『……あなた方の目的は、ヴァンパイアということでよろしかったでしょうか?』
黒鷹は目を細めた。
この声の主は、ヴァンパイアの存在を知っているが、こちらの素性までは把握していない。だが同時に、そういう情報が伝わる立場にいるということは、只者ではないのは確かだ。
「そうだ。それ以外に興味はない。お前がそうでないなら、こっちから仕掛ける理由もない」
黒鷹の返答に、女の声はしばらく沈黙する。
『承知しました。彼は追跡を放棄したと見なし、解放します。ただし……』
「ただし?」
『再びこちらの領域に侵入する場合は、交渉の手順を踏んでいただきます。次は、無線越しで済むとは限りませんので』
黒鷹は、ゆっくりと息を吐いた。
なるほど。やはりこれは、厄介すぎる相手だ。
「了解した。感謝する、名も知らぬ誰かさん」
応答は、なかった。
無線は沈黙を取り戻し、ただノイズだけがかすかに空気を震わせていた。
*
夕暮れが迫る人気のない裏通りにて、黒鷹はゆっくりと歩み寄る部下の姿を確認した。
無事だ。傷もない。だが、ただの無事とは違う――そう思わせる“何か”が、その顔には刻まれていた。
「……無事で何より」
黒鷹の言葉に、部下は軽く頭を下げた。その仕草に、無言の動揺がにじんでいる。
「何があった?」
問いは簡潔だった。圧はない。だが、その背後にある意味の重さは、部下にも充分に伝わった。
しばしの沈黙の後、部下はゆっくりと語り始めた。
「尾行中に……ターゲットと同じ制服を着た女子生徒に、声をかけられました。黒髪で、赤い目の」
「それで?」
「いえ……こっちに全く怯える様子がなかったんです。真っ直ぐ歩いてきて、私の前に立って、『これで通信を行なっているんですね』って……それだけ言って、無線を――」
言い終わる前に、黒鷹はゆっくりと目を閉じて、煙草に火を点けた。
「……その時、お前は動けなかったのか?」
「……いえ。動こうとしたんですが……いや、違います。動けたはずなんです。でも……動くよりも前に、相手が」
その言葉に、黒鷹は小さく鼻で笑った。
「なるほどな……面倒な奴に手を出されたもんだ」
煙を吐き出しながら、黒鷹は懐から別の無線機――予備機を取り出し、電源を落とした。部下は、まだ釈然としない表情を浮かべている。
「あの、これって、報告は……?」
尋ねた部下に、黒鷹は短く告げる。
「今日の報告は俺がやる。お前はもう帰っていい」
「……しかし」
「いいんだ」
その声に、有無を言わせぬ重みがあった。
「どうせありのままを書いても更に面倒が増えるだけだ。だったら俺が適当にまとめて、丸めて出す。それが一番事を大きくしないで済む。実際、こっちに被害はない」
部下は、しばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「……わかりました」
そのまま踵を返し、去っていく背中を見送りながら、黒鷹は宵闇灯のシルエットを思い浮かべる。
そして、その彼方にいた、黒髪の少女。
「……『目撃者』のカテゴリに入れていいかどうかも怪しいな、あれは」
呟きは、煙に溶けた。
*
夜。
コートを脱ぎ、グラスにバーボンを注ぎながら、黒鷹はデスク前の椅子に深く腰を下ろした。
部屋の明かりは最小限。暖色の小さなランプだけが、書類の束を照らしている。
手元の端末には、監視任務の標準報告フォーマット。
「対象:宵闇 灯」
――まだ「下書き」のままだ。
黒鷹はグラスを一口傾けながら、今日の出来事を思い返していた。
尾行中、部下が無線を奪われた。
奪ったのは、制服を着た女子生徒――宵闇灯とは別人。
不詳の異質。
《そちらの質問に答える道理はありません》
黒鷹は額に指をあて、ため息をついた。
(……脅威ではある。だが、吸血鬼ではない、はずだ)
そう、例の少女は吸血鬼ではない。
少なくとも現時点で、宵闇灯を討伐する上で、あの少女は障害とは言えない。
それに――
(名前も、正体も、能力も不明な相手の話を報告書に書いたところで、上が納得するとは思えん)
黒鷹は手元の端末を操作し、報告フォームをシンプルに書き換えていく。
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《報告書》
任務コード:V-1289
対象:宵闇 灯
概要:対象は引き続き非攻撃的。尾行中に特段の異常なし。対象の行動に不審な点は見られず、現時点で討伐優先度の再評価は不要。
備考:部下1名による監視任務継続中。交代要請はなし。
次回報告期限:1週間後。
以 上
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保存。送信完了。
報告書には、「彼女」のことなど一切触れていない。
グラスの中の酒が残り少なくなったのを確認し、黒鷹はぽつりと呟いた。
「……面倒に巻き込まれるのは好きじゃないんでな」
沈黙。
窓の外には、街の灯がぼんやりと揺れている。
その中心――青葉第二高等学校が、彼の視界の端にぼんやりと映っていた。
*
夜半。
黒鷹の私室。
送信を終えたばかりの端末が、不自然に早いタイミングで着信音を鳴らした。
画面に表示された名前を見て、黒鷹は片眉を上げる。
「……おいおい、もうチェックしたのかよ」
苦笑しながら通話に応じると、向こうの声は――やや遠慮がちだった。
《……お疲れ様です、黒鷹さん。あの、今って少しだけお時間いただけますか?》
「お前か。相変わらず律儀だな、確認係」
《いや、そういうわけじゃ……いや、まあ、はい。実はですね――》
少しの沈黙。
次の言葉は、あまりにも想定通りだった。
《……どうして今回は、自分で報告書を?》
黒鷹は、手元のグラスを回しながら、短く息をついた。
「気分だよ。たまには書きたくなる日もある」
《……黒鷹さんが気分で報告書を書くような人じゃないことは、皆知ってるんですけど……》
語尾に「すみません」とでも付きそうな気配。
黒鷹は、苦笑混じりに言葉を返した。
「要するに、上にそのまま上げると『これ』が通らなそうだから、事前確認ってわけだろ?」
《……お察しの通りで》
「本部の連中は、書いてないことを読もうとするからな。書いてある通りだって言っても信じやしねぇ」
それは苛立ちでも、愚痴でもなく。
ただ知っていたことを確認しただけのように、黒鷹は淡々と語った。
そして――
《……そろそろ、こっちに戻ってきてくれませんか?》
少しの沈黙。
「……勘弁してくれよ」
即答だった。
苦笑すら浮かべることなく、まるで二度目はないとでも言うような調子で。
《……やっぱり、ですよね》
「こっちは空気がうまい。虫も少ない。上からの小言も飛んでこない。しばらくはここにいるよ」
《ええ。……了解です》
通話が終わる直前、微かに笑うような気配があった。
画面が消え、部屋に再び静寂が戻る。
黒鷹はグラスを取り、残りのバーボンを口に含む。
窓の外には、月明かりに照らされた校舎の屋根。
静かな夜。
だが、報告書には記されなかった「黒髪の少女」の幻影が、脳裏からは離れなかった。
「――書かないってのも、判断の一つだろうが」
ぽつりと呟き、空になったグラスを静かに置いた。
*
無人のオフィスに、キーボードを叩く音が小さく響く。
先ほど黒鷹に電話をかけていた――黒鷹のかつての直属の部下だった男は、薄暗い室内で一人、報告書類の整理を続けていた。
「……あの人、やっぱり持ってるな」
そう呟いた声は、誰にも届かない。
本来であれば突っ返されてもおかしくない、文量の少ない簡素な報告。
内容も抽象的で、何も起きなかったと強調するような文面。
しかし、上司は目を通すなり――
「黒鷹か。……なら、いいだろ。通しておく」
それだけだった。
(……相変わらず、ですね)
男は内心で苦笑する。
本部で働く多くの職員が、上層部の細かさに辟易している中で、黒鷹の名前だけは例外的に通る。
それは信頼でも、威圧でも、実績でもある。
それら全てが混ざり合い、まるで取り扱い注意の印鑑のように機能していた。
(昔から……本当に、変わらない)
男の視線は、ふと壁にかけられた古いチーム写真に向かう。
そこには、かつての本部作戦課の面々が並んでいた。
端に立つ黒鷹だけは、カメラの方を見ていなかった。
(あの頃から……やっぱり、遠い存在だな)
後輩であり、部下でありながらも、彼には一度たりとも本音をぶつけたことはなかった。
あの人が本部を去ると決めた日も、理由を聞けなかった。――いや、たぶん、誰も聞かなかった。
「……戻ってくる気はないんでしょうね。やっぱり」
画面には、任務完了の文字と共に処理済みとなった報告ファイル。
その左下には、『黒鷹』の電子署名。
(……あの人が選んだ距離を、こっちが勝手に詮索する権利はないか)
男は、タブレットの画面をスリープにし、背もたれに身を預けた。
静かな、深夜の本部。
仮眠を取る者も、資料を睨む者もいない。
ただ、自分一人だけが、その静けさの中にいる。




