第33話
灰色の雲が垂れ込める午後、青葉第二高等学校の校庭の隅に、ひときわ異質な存在が立っていた。
宵闇灯――日傘を差した長身の少女は、校舎の影に腰掛けるように立ち、静かに空を見上げている。動かない。まるで時間から切り離されたように、校庭の喧騒とは無関係の世界に存在していた。
「アレが次のターゲットか」
その様子を、数百メートル離れた廃ビルの屋上から観察している男がいた。
黒鷹。コートを翻し、銀のナイフと拳銃を携えた中年の男――地球上で最も多くのヴァンパイアを葬ったとされる存在。
「……人間にしか見えませんね」
双眼鏡を覗いていた若い部下がそう呟いた。顔には緊張と好奇心が入り混じったような表情が浮かんでいる。
黒鷹は無言でタバコをくわえ、火をつける。火をつけてから一拍置いて、目を細めた。
「お前、ヴァンパイアを見るのは初めてか」
問いではなく、確認のような言葉。部下が頷くより早く、黒鷹は無造作に懐から拳銃を抜いた。
乾いた銃声が、ビルの静寂を引き裂いた。
宵闇灯の胸に一発。仰け反り、倒れる。傘が手を離れ、風に煽られて校庭を転がる。周囲には誰もいない。撃たれた本人は、しばらく何が起きたのか分からず呆然とし、ゆっくりと自分の胸に手を当てる。
そこには、既に肉と骨が再生しはじめていた。
赤黒い血が滲む衣服の下、心臓に届く寸前の傷が、ゆっくりと、しかし確実に修復されていく。
「……見た方が早いだろ」
黒鷹は無言のまま銃を収め、タバコを指先で地面に落とす。まるでこの行動に何の意味も、何の興奮もないかのように。
「俺は帰って寝る。お前はしっかり見張っておけ」
「は、はい……!」
部下の声に振り向くこともせず、黒鷹はそのまま背を向け、静かに非常階段を下りていった。
一方、校庭では宵闇灯が上体を起こし、よろよろと立ち上がっていた。彼女は辺りを見回すが、どこから撃たれたのか、誰が撃ったのか、何も分からない。
ただ一つ確かなのは、風に揺れる日傘がすぐそばに転がっているということだけだった。
*
宵闇灯は、転がった日傘を拾い上げた。
白い布地に土がついている。骨は折れていない。少しだけ曲がった柄を指で直し、いつものように頭上へ差す。
胸元は濡れていた。
制服の下で、傷はもうほとんど塞がっている。皮膚の下に残っていた弾の感触も、肉が押し出すようにして外へ落ちた。小さな金属片が、足元の土に転がる。
しばらく校庭の端に立ったまま、周囲を見回した。
誰もいない。
撃った相手も、銃声の方角も、はっきりとは分からない。遠くからだった。たぶん、校外。日差しの届かない曇り空の下で、灯は自分の胸元を押さえた。
痛みはもう薄い。
けれど、撃たれた、という事実だけは残っていた。
灯は少し考えてから、校舎へ向かった。
日傘を差したまま、廊下を歩く。すれ違った生徒が一瞬だけこちらを見る。血の跡に気づいた者もいたかもしれない。だが、灯が何も言わずに歩いているせいか、声をかけてくる者はいなかった。
第二棟の奥。
以前、榊原藍に呼ばれた部屋の前で、灯は足を止めた。
ノックをする前に、中から声がした。
「どうぞ」
灯は扉を開けた。
部屋の中には、榊原藍だけがいた。
机の上には端末が一台。画面には、灯にはよく分からない文字列が並んでいる。藍は椅子に座ったまま、赤い瞳をこちらへ向けた。
「宵闇さん」
「うん」
「予定していた検査日は本日ではありません」
「そうだね」
灯は部屋に入り、扉を閉めた。
藍の視線が、灯の胸元で止まる。
制服の左胸。小さな穴。乾きかけた血の跡。普通なら立っていられないはずの痕跡が、そこにあった。
「負傷していますね」
「もう治った」
「負傷した事実は消えません」
「うん」
灯は空いている椅子に腰を下ろした。
日傘は閉じない。曇り空でも、屋内でも、彼女はそれを手放さない。白い傘の影が、横顔に薄く落ちていた。
「撃たれた」
藍の手が止まった。
「撃たれた、とは」
「銃で」
「銃撃を受けたということですか」
「たぶん」
「場所は」
「校庭の隅。いつもいるところ」
「時刻は」
「少し前」
「撃った人物は確認できましたか」
灯は首を横に振った。
「分からない。音がして、胸が痛くなって、倒れた。日傘が飛んだ」
「銃声の方向は」
「遠く。校外、かも」
藍は端末へ指を走らせた。
校庭周辺の監視記録。校外カメラ。周辺ビルの位置。射線。距離。いくつもの情報が画面に浮かび、瞬く間に整理されていく。
灯はそれを眺めていた。
自分が撃たれた話をしているのに、藍の方がよほど静かに見えた。けれど、画面の切り替わりは速い。無駄がない。いつもより少しだけ、急いでいるようにも見える。
「銃弾は体内に残っていますか」
「出たと思う」
「回収しましたか」
「してない」
「現場に残っている可能性がありますね。後で確認します」
「うん」
灯は自分の胸元を見下ろした。
穴の開いた制服。
そこだけが、自分が撃たれたことを覚えている。
「心臓に達していましたか」
「少し手前」
「即死相当の負傷ではなかった」
「たぶん」
「再生速度は通常通りですか」
「いつもと同じくらい」
「痛覚は」
「一瞬だけ」
「恐怖は」
灯は少し黙った。
藍は画面から視線を外し、灯を見ている。
「分からない」
「分からない、ですか」
「びっくりはした。痛かったし。けど、怖かったかは分からない」
灯は白い傘の柄を指でなぞった。
「でも、見られてる感じはした」
「以前からですか」
「最近、少し」
「尾行、または監視の可能性があります」
「うん」
「あなたに敵対する心当たりは」
「私に?」
「はい」
灯は目を伏せた。
答えを探すような沈黙ではなかった。多すぎるものの中から、どこまで言葉にするか迷っているような間だった。
「吸血鬼狩り……みたいなのかな」
藍の指が、そこで止まった。
「吸血鬼狩り」
「うん」
「それは、吸血鬼を専門に狩猟、討伐する人物または組織を指す表現ですか」
「たぶん。そういう話、あるでしょ。吸血鬼を殺す人。銀の弾とか、杭とか、十字架とか」
「なるほど。少しお待ち下さい」
藍は静かに言い、端末を操作する。
灯は少しだけ横から顔を覗かせた。
「……これ?」
「はい」
画面に、新しい項目が表示される。
ヴァンパイアハンター。
灯はその文字を見た。
「そういう名前なんだ」
「対外的には、別の名称ですが。国家直属の組織のようです」
「ふうん」
「あなたを吸血鬼、または吸血鬼に類する存在として認識し、攻撃した可能性があります」
「私は四分の一だけどね」
「相手がその差異を識別しているとは限りません」
「そうかも」
灯は椅子に深く沈んだ。
藍は端末の画面を見つめている。表情は変わらない。けれど、灯にはその赤い目が、何かを遠くまで見ようとしているように見えた。
「調べる価値がありますね」
藍は言った。
灯は瞬きをする。
「調べるの?」
「はい。宵闇さんに対する銃撃が発生した以上、放置できません」
「私、死なないよ」
「今回死亡しなかったことと、次回も死亡しないことは同義ではありません」
「そう」
「また、攻撃対象があなたのみである保証もありません」
「他の人も?」
「可能性はあります」
藍の声は淡々としていた。
「現時点で、ヴァンパイアハンターという存在は私の管理対象外です。情報が不足しています。攻撃手段、目的、行動範囲、判断基準。全て確認する必要があります」
「大変そう」
「必要な作業です」
灯は小さく欠伸をした。
撃たれた直後とは思えないほど、いつも通りだった。だが、指先だけは日傘の柄を離さない。白い指が、少しだけ強く握っている。
藍はそれを見た。
「しばらく単独行動を控えてください」
「面倒」
「必要です」
灯は唇をわずかに尖らせた。
「息苦しい」
「撃たれるよりは安全です」
「そうかな」
「そうです」
灯はしばらく藍を見ていた。
藍も視線を外さない。
やがて、灯は小さく頷いた。
「分かった。なるべく」
「なるべく、では不十分です」
「……努力する」
「記録します」
「うん」
藍は端末に入力を続けた。
校庭。廃ビル。射線。目撃者なし。宵闇灯、銃撃負傷、再生確認。想定対象、ヴァンパイアハンター。
それらの文字が、静かな部屋の中で増えていく。
灯は窓の方を見た。
灰色の雲はまだ空に残っていた。日差しは弱い。それでも、彼女は日傘の影から出なかった。
「会長」
「はい」
「もし、その吸血鬼狩りがまた来たら」
「対応します」
「私が相手しなくても?」
「あなたは被害対象です。対応主体は、状況に応じて私が決定します」
「ふうん」
灯は少しだけ目を細めた。
「頼もしいね」
「評価として受領します」
「褒めたつもり」
「そのように記録します」
灯は小さく息を吐いた。
部屋の外では、誰かの足音が遠く通り過ぎていく。校内はいつも通りだった。生徒たちは部活をして、教師は職員室で仕事をして、放課後の学校は放課後の学校として動いている。
その端で、一人の生徒が撃たれた。
そして榊原藍は、初めてヴァンパイアハンターという存在を記録した。
灯は胸元の穴を指でつまんだ。
「制服、どうしよう」
「替えを用意します」
「早いね」
「必要経費です」
「生徒会で落ちるの?」
「適切な名目を検討します」
灯は少しだけ笑ったように見えた。
藍はそれを記録せず、画面に視線を戻した。
新しい脅威の項目は、まだ空欄が多い。
けれど、そこには確かに名前が入った。
ヴァンパイアハンター。




