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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第4章 吸血鬼の末裔と狩人
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第32話

 あれから数日が経った。


 実験室の存在も、宵闇灯という人物も、そこで行われていることも、恋の中ではもう「知っていること」として処理されていた。少なくとも、そのつもりだった。


 放課後、生徒会室に寄ろうとしたところで藍の姿がなかった。こよみが「第二棟の方に向かわれました」と教えてくれた。


 ああ、実験室か。


 恋はその足で向かった。


 別に気にしていない。単純に、用件を伝えに行くだけだ。藍もいつも「何かあれば」と言っている。それだけの話だ。


 第二棟の三階、廊下の突き当たり。番号のない扉。


 恋は軽くノックした。返事はなかった。


 扉は開いていた。


「藍さん、少しいいですか」


 言いながら、恋は扉を開けた。


 開けた。


 開けてしまった。


 室内は薄暗かった。間接照明の落ち着いた明かりの中に、二人の人物がいた。


 宵闇灯が、椅子に座っていた。


 榊原藍が、その正面に立っていた。


 制服の衿が、開いていた。


 藍の首元が、露わになっており、灯の顔が、その首元に、埋まっていた。


「……」


 恋の思考が、止まった。


 知っている。これは実験だ。ヴァンパイアとしての吸血反応を観察するための、科学的な実験だ。頭の中ではちゃんと分かっている。分かっているのだが。


 藍の首元にかかる灯の白い髪が、照明に照らされて妙に綺麗で。


 藍の制服の衿が乱れていて。


 二人の間に、あの薬品の匂いとは別の、何か——


「あ、っ——」


 声が出た。


 自分でも分からないうちに、一歩、後退した。


 扉を、閉めた。


 廊下に出た。


「……」


 静かだった。


 廊下には誰もいなかった。夕方の光が斜めに差し込んでいて、遠くから運動部の声が聞こえていた。


 恋はその場で、壁に背中をつけた。


 何でもない。何でもないことは分かっている。


「……何でそういう反応するの、私」


 誰にでもなく、呟いた。


 まるで見てはいけないものを見てしまったかのような反応を、自分がしたという自覚がある。そしてその反応が何に起因するのか、考えれば考えるほど余計なことを考えてしまいそうで、恋は額に手を当てた。


 扉が、開いた。


「……恋?」


 藍だった。


 衿を直していた。タオルを首元に当てていた。いつも通りの、整った顔をしていた。


「……」


「用件があって来たのですか」


「……はい」


「では、どうぞ」


「…………」


 恋は藍を見た。


 藍は恋を見ていた。特に何も言わない。何も思っていないのか、気を遣っているのかも分からない顔で、ただ次の言葉を待っていた。


「……藍さん」


「何ですか」


「紛らわしいので、やめてください」


「何が、でしょうか」


「分かってます。実験だって分かってます。頭では」


「はい」


「だから余計なんですよ。頭では分かってるのに何か変な感じになる私が、まるで変なことを考えてる人みたいで、それが」


「…………」


「……紛らわしいんですよ、見た目が」


 言い切った。


 藍は数秒、恋を見ていた。


「……衿を直せばよかったですか」


「そういう話じゃないですが、それはそれで直してください」


「以後、気をつけます」


「お願いします」


「了解しました」


 沈黙が落ちた。


 恋は壁から背中を離した。


「用件を言います」


「はい」


「次の委員長会議の日程なんですが」


「聞きます」


「……本当に今から普通に話します」


「はい」


「……絶対何も思ってないですよね、藍さん」


「何を、でしょうか」


「いえ」


「?」


「いいです、何でも」


 恋が用件を伝え始めたとき、背後から扉が少し開く音がした。


「……ねえ、恋ちゃん」


 宵闇灯だった。


 扉の隙間から、眠そうな顔を半分だけ出して、恋を見ていた。


「……何ですか。ていうか恋ちゃんって何ですか」


「さっき、すごい顔して出てったね」


 急にちゃん付けで呼ばれたことについて突っ込んだのに、あっさり流されてしまった。


「……別に、すごい顔はしてないと思います」


「してた」


「…………」


「赤かったよ、顔」


「寒かっただけです」


「今日、あったかいけど」


「……体感温度は人によって違うので」


宵闇灯は少しだけ目を細めた。眠そうな、いつもの目だった。ただその奥に、何かがあった。笑っているような。笑っているとは少し違うような。


「……また来てね。恋ちゃん」


「……なんで急にちゃん付けなんですか」


「面白いから」


「面白い……」


「うん」


それだけ言って、宵闇灯は扉を閉めた。


「…………」


 恋は藍を見た。


 藍は少しだけ目を細めた。


「宵闇灯さんは、人のことが好きな方です」


「あれが好意の表現なんですか」


「彼女なりの、ということです」


「……分かりました」


「では用件を」


「……はい」


 廊下に残った二人は、そのまま何事もなかったように用件を済ませた。


 ただ恋は帰り道、一つだけ考えた。


 宵闇灯が、面白いから、と。


 それが揶揄いなのか、本当のことなのか、どちらでもあるのか。


 この学校の住人は、恋の知らない距離感で人に触れてくる。


 それにどう返したらいいのかは、まだ少し、分からなかった。

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