第32話
あれから数日が経った。
実験室の存在も、宵闇灯という人物も、そこで行われていることも、恋の中ではもう「知っていること」として処理されていた。少なくとも、そのつもりだった。
放課後、生徒会室に寄ろうとしたところで藍の姿がなかった。こよみが「第二棟の方に向かわれました」と教えてくれた。
ああ、実験室か。
恋はその足で向かった。
別に気にしていない。単純に、用件を伝えに行くだけだ。藍もいつも「何かあれば」と言っている。それだけの話だ。
第二棟の三階、廊下の突き当たり。番号のない扉。
恋は軽くノックした。返事はなかった。
扉は開いていた。
「藍さん、少しいいですか」
言いながら、恋は扉を開けた。
開けた。
開けてしまった。
室内は薄暗かった。間接照明の落ち着いた明かりの中に、二人の人物がいた。
宵闇灯が、椅子に座っていた。
榊原藍が、その正面に立っていた。
制服の衿が、開いていた。
藍の首元が、露わになっており、灯の顔が、その首元に、埋まっていた。
「……」
恋の思考が、止まった。
知っている。これは実験だ。ヴァンパイアとしての吸血反応を観察するための、科学的な実験だ。頭の中ではちゃんと分かっている。分かっているのだが。
藍の首元にかかる灯の白い髪が、照明に照らされて妙に綺麗で。
藍の制服の衿が乱れていて。
二人の間に、あの薬品の匂いとは別の、何か——
「あ、っ——」
声が出た。
自分でも分からないうちに、一歩、後退した。
扉を、閉めた。
廊下に出た。
「……」
静かだった。
廊下には誰もいなかった。夕方の光が斜めに差し込んでいて、遠くから運動部の声が聞こえていた。
恋はその場で、壁に背中をつけた。
何でもない。何でもないことは分かっている。
「……何でそういう反応するの、私」
誰にでもなく、呟いた。
まるで見てはいけないものを見てしまったかのような反応を、自分がしたという自覚がある。そしてその反応が何に起因するのか、考えれば考えるほど余計なことを考えてしまいそうで、恋は額に手を当てた。
扉が、開いた。
「……恋?」
藍だった。
衿を直していた。タオルを首元に当てていた。いつも通りの、整った顔をしていた。
「……」
「用件があって来たのですか」
「……はい」
「では、どうぞ」
「…………」
恋は藍を見た。
藍は恋を見ていた。特に何も言わない。何も思っていないのか、気を遣っているのかも分からない顔で、ただ次の言葉を待っていた。
「……藍さん」
「何ですか」
「紛らわしいので、やめてください」
「何が、でしょうか」
「分かってます。実験だって分かってます。頭では」
「はい」
「だから余計なんですよ。頭では分かってるのに何か変な感じになる私が、まるで変なことを考えてる人みたいで、それが」
「…………」
「……紛らわしいんですよ、見た目が」
言い切った。
藍は数秒、恋を見ていた。
「……衿を直せばよかったですか」
「そういう話じゃないですが、それはそれで直してください」
「以後、気をつけます」
「お願いします」
「了解しました」
沈黙が落ちた。
恋は壁から背中を離した。
「用件を言います」
「はい」
「次の委員長会議の日程なんですが」
「聞きます」
「……本当に今から普通に話します」
「はい」
「……絶対何も思ってないですよね、藍さん」
「何を、でしょうか」
「いえ」
「?」
「いいです、何でも」
恋が用件を伝え始めたとき、背後から扉が少し開く音がした。
「……ねえ、恋ちゃん」
宵闇灯だった。
扉の隙間から、眠そうな顔を半分だけ出して、恋を見ていた。
「……何ですか。ていうか恋ちゃんって何ですか」
「さっき、すごい顔して出てったね」
急にちゃん付けで呼ばれたことについて突っ込んだのに、あっさり流されてしまった。
「……別に、すごい顔はしてないと思います」
「してた」
「…………」
「赤かったよ、顔」
「寒かっただけです」
「今日、あったかいけど」
「……体感温度は人によって違うので」
宵闇灯は少しだけ目を細めた。眠そうな、いつもの目だった。ただその奥に、何かがあった。笑っているような。笑っているとは少し違うような。
「……また来てね。恋ちゃん」
「……なんで急にちゃん付けなんですか」
「面白いから」
「面白い……」
「うん」
それだけ言って、宵闇灯は扉を閉めた。
「…………」
恋は藍を見た。
藍は少しだけ目を細めた。
「宵闇灯さんは、人のことが好きな方です」
「あれが好意の表現なんですか」
「彼女なりの、ということです」
「……分かりました」
「では用件を」
「……はい」
廊下に残った二人は、そのまま何事もなかったように用件を済ませた。
ただ恋は帰り道、一つだけ考えた。
宵闇灯が、面白いから、と。
それが揶揄いなのか、本当のことなのか、どちらでもあるのか。
この学校の住人は、恋の知らない距離感で人に触れてくる。
それにどう返したらいいのかは、まだ少し、分からなかった。




