第31話
説明は、思ったより長かった。
ヴァンパイアという存在の概要。宵闇灯がその血を四分の一引いていること。吸血行為を行わなくとも生存は可能だが、血液を摂取した場合に特異的な身体変化が起きること。藍がこの研究を始めた経緯——ただしその部分は「ヴァンパイアという生態を正確に把握する必要があった」という説明に留まった。
恋は黙って聞いた。
途中で口を挟まなかったのは、怒っているからでも呆れているからでもなく、単純に情報の整理が追いついていなかったからだ。ヴァンパイア。実験。藍の口から出てくる言葉は全て明確で淀みがないのに、それが組み合わさるとどうしても現実感が薄れる。
「……一つ確認いいですか」
藍の説明が一段落したところで、恋は口を開いた。
「何ですか」
「今日これから、実験をするということですよね」
「はい」
「宵闇灯先輩は今日も、その——血液を摂取するということですか」
「そうです。ただし今回は、通常とは異なる組成のものを使います」
恋は宵闇灯を見た。
宵闇灯は特に表情を変えていなかった。自分の話をされているのに、どこか他人事のような顔で実験台の端をぼんやり眺めている。
「……嫌じゃないんですか」
思わず聞いた。
宵闇灯はゆっくりと恋の方を向いた。
「……何、が?」
「実験体されること」
「……別に」
「別に、って」
「……どうせ暇だし」
それだけ言って、また視線を戻した。「どうせ暇だし」。それがこの人の世界の軽さなのか、それとも深さなのか、恋にはまだ分からなかった。
藍がテーブルの上に、小さなトレイを用意していた。アルコール綿と、細い注射器。それから、小さなガラス容器が一本。中身は——液体だった。赤みがかった、少しだけ透明感のある液体。
「……今日使うのは」
藍がそれを指しながら言った。
「人工血液をベースに、特定の物質を添加したものです」
「……まず人工血液ってなんですか」
「私の体を流れる、血液に限りなく近い組成と役割を持った液体のことです。見た目上も、数値上も人間の血液と見分ける事は限りなく困難です」
藍が淡々と説明する。今まで恋はどこかで藍の事をロボットかのように捉えていた節もあったため、急に目の前にいるAIは血の通った存在であるという事実に多少ついていけなくなる。
「そもそも、藍さんにも血が流れていること自体初めて知ったんですけど」
「正確には人工血液です」
「……じゃあそれでいいです。でも、なんで人工血液を?」
「今までの結果から、人間の血液を投与した場合と人工血液を投与した場合で宵闇さんの反応に違いが見られた事が観察されました」
「違い……例えば?」
「宵闇さんが血液を摂取した場合、まず目の色が紅く染まります。そして吸血衝動が生まれるとともに、身体能力が飛躍的に上昇します。おそらく、平均的な人間の出力の5倍は出ると思っていいでしょう」
「しかし、人工血液を摂取した場合は何も起こりませんでした。組成をどれだけ血液に近づけても、一切反応はなし。これは仮説ですが、血液に流れる生命力そのものを起因として反応を示している可能性があります」
生命力。急に科学的でない単語が出てきて恋は呆気に取られるが、真面目な顔で語る藍とそれを平然と聞き流す宵闇灯を見るに、まるで的外れな事を言っているわけでもなさそうだ。
「そこで、今回は趣向を変えてみます」
「趣向……?」
「宵闇灯さんのヴァンパイアとしての本能を、直接刺激する作用を持つ物質、それを人工血液に添加しました」
恋は少しの間、その言葉を咀嚼した。
「……本能を刺激って、どういう意味で」
「吸血衝動を引き起こします」
恋はもう一度、宵闇灯を見た。
宵闇灯はすでに実験台の椅子に腰かけていた。袖を少し捲って、腕の内側を出していた。どうやら注射の準備をしているらしい。慣れた動作だった。
「……先輩、本当に大丈夫なんですか」
「どうせ会長が何とかするよ……多分」
「何とかって」
「……いつものことだし」
その言い方が、妙に信頼に満ちていた。感情的な信頼ではなく、事実の確認に近い淡々とした信頼。この人は藍を「何とかしてくれる存在」として把握していて、それ以上でも以下でもない。
藍が消毒を済ませて、注射器を取り上げた。
「恋」
「はい」
「私が要求するまで、途中で止めようとしないでください」
「……はい」
「何があっても、です」
そのひと言の重さを、恋は飲み込んだ。
注射から最初の数分は、何も起きなかった。
宵闇灯は椅子に座ったまま、特に表情も変えずにいた。藍は少し離れた位置のモニターに向かい、何かを入力している。恋は壁際の椅子に座って、ただ見ていた。
時計の音だけが聞こえるような静けさだった。
「……これ」
宵闇灯が突然、口を開いた。
「今回のやつ、前と違う」
「そうですか」
藍は振り向かずに答えた。
「……なんか、変な感じ」
「どのように、変ですか」
「……暖かい、というか」
宵闇灯は自分の腕を見ていた。注射した部位ではなく、もっと全体を、内側から見るような目で。
「胃の辺りから、何かが広がってる感じ」
「記録します」
藍の指がキーボードを叩く音がした。
恋はじっと宵闇灯を見ていた。
変化は、少しずつ起きていた。
最初に気づいたのは、宵闇灯の姿勢だった。椅子にもたれかかって力の抜けていた体が、少しずつ緊張を帯びていく。それから、呼吸。ゆっくりとしていた吸いが、微妙に変わっていく。深くなる、というより——何かを探すような呼吸になっていった。
「……先輩」
声に出しかけて、恋は飲み込んだ。声をかけるなと言われていた。
宵闇灯の目が、少しずつ変わっていた。
青かった目の中に、赤が滲んでいた。絵の具のような赤ではなく、もっと鮮やかな、内側から光るような赤。それが毛細血管のように広がって、やがて虹彩の中心から縁まで、ゆっくりと染め上げていく。
綺麗だと思った。
不謹慎なことは分かっていても、そう思った。赤といっても、恋の知っている榊原藍が持つ目の色とも、また違った色。それこそ血に染まったような、そんな色。
宵闇灯の唇が少し開いた。
「……っ」
小さな声だった。苦しいとも、痛いとも違う声。何かに引っ張られているような——抗っているような、そういう声。
「藍さん」
我慢できずに声を出したのは、宵闇灯の手が実験台の端を強く握ったからだった。指が白くなるほどに。
「見ていてください」
藍は落ち着いた声で言った。
「大丈夫ですか、これ」
「予定の範囲内です」
「予定の範囲内に見えないんですが」
「見えなくても、そうです」
宵闇灯の体が、前に傾いた。
両手で実験台を押さえて、顔を伏せている。白い髪が垂れて、表情が見えない。呼吸が速くなっていた。それでも、まだ何かに抗っていた。声を出さないように、動かないように。
藍がモニターから離れた。
ゆっくりと、宵闇灯の方へ歩いていく。
「宵闇灯さん」
「……っ、来ないで」
「限界ですか」
「……たぶ、ん」
「無理をする必要はありません」
「……っく、」
低い、抑えた声だった。それが、恋の背中を怖くした。宵闇灯が何かを「抑えている」音だった。
藍は宵闇灯の前で止まった。
それから、静かに自分の制服の衿を、少し引いた。
首元が、露わになった。
恋は息を呑んだ。
「……ちょ、藍さん」
「静かにしていてください」
「でも」
「大丈夫」
一言だった。それだけで、恋は黙った。
宵闇灯の顔が、ゆっくりと上がった。
赤い目が、藍の首元を見ていた。
それは、恋の知っている宵闇灯の目ではなかった。眠そうで、距離感があって、何事にも淡々としていた先ほどまでの目ではなく——もっと剥き出しの、制御が外れた目だった。
「……ごめ」
何かを言おうとして、言えなかった。
宵闇灯の体が前に動いた。ガタン、と音がした。
藍は、微動だにしない。
「――藍さんっ!」
恋が叫び終わるのと同時に、宵闇灯が藍の腕を掴み、首元に歯を突き刺す。――速い。今までのどこか漫然とした動きからは想像もできないくらいの速度で藍のもとへ飛びつき、身動きを封じた。
「フ――ッ」
宵闇灯は藍の首筋に噛みつき、荒い息のまま何かを吸い上げていく。吸血。今まで言葉として聞いていた単語が、実体を伴って目の前で行われている。どくどくと聞こえてくるような錯覚まで覚えるその行為は、血ではなく、まるで藍という存在を貪るかのようだった。
「……っ、大丈夫です、恋。これもまだ予定の範囲内です」
首筋を噛まれたまま、恋に向かって声をかける藍。しかし痛みを伴っているのだろうか、宵闇灯が掴む藍の腕には僅かに力が籠っている。そしてその間にも、藍の首からは宵闇灯の口から溢れた血液が滴っている。通常の人間なら、既に失血死してもおかしくない量だ。
「でも、藍さん、血が」
「安心してください。血液といっても、私の流れる血液は恋のように体内に必須なものではありません。ですから、全量を失っても死にはしません」
冷静に説明を続ける藍。しかしそうはいっても、目の前で行われる惨い行為を見るのには中々堪えるものがある。
「それに、そろそろ効き始める頃です」
「効き始めるって、何が――」
そう恋が口にした瞬間、宵闇灯の身体から力が抜け、その場でぺたりと倒れ込んだ。さっきまでの凶暴性が、嘘のように大人しくなっている。いや、大人しくなっていると言うよりこれは――
「宵闇先輩、気を失ってる……?」
静けさが戻ってきた頃、恋はまだ壁際で固まっていた。
宵闇灯は眠っていた。
藍の腕の中で、子供のように静かに眠っていた。体の力が完全に抜けて、白い髪が乱れたまま、規則正しく寝息を立てている。赤かった目は閉じられていて、今は穏やかな顔だった。
藍がゆっくりと宵闇灯を実験台の上に横たえた。
その動作の間中、恋は視線がどこに向ければいいのか分からなかった。
「……藍さん」
「はい」
「これは」
「はい」
「これは、どういう状況ですか」
「私の人工血液に循環させていた鎮静剤の作用が予定通り機能しました。宵闇灯さんは今から、一時間程度眠ります」
「そういう話じゃなくて」
恋は床を見た。
藍の首元を見た。
もう一度、床を見た。先ほどまでの吸血行為によって、実験室は酷い有様だった。ここに何も知らない人が入ってきたら、確実に何かの殺人事件だと誤解される。いや、まあほぼ事件である事に変わりはないのだが。
「……清掃が必要ですね」
藍は首元を白いタオルで押さえながら、極めて平静に言った。
「必要ですね、じゃなくて」
「安心してください。人間の血液とは違って、床に染みつくような事はありません。ご協力いただけますか」
「します、しますけど」
恋はすでに立ち上がっていた。棚の端に清掃用品が収納されているのが見えた。おそらく、この部屋には最初から備えてあるのだろう。定期的に使われているから。
「藍さん、首は大丈夫なんですか」
「問題ありません」
「問題ないって言える状況じゃないと思うんですが」
「事前に処置をしています。止血は済んでいます」
「……事前に」
「はい」
恋は雑巾を手に取って、床にしゃがんだ。それから手を止めた。
「……藍さん」
「何ですか」
「毎回、これをしているんですか」
「吸血に至るのは今回が初めてです。今までは本能の刺激が不十分でした」
「じゃあ今回は意図して、吸血するように仕向けたということですか」
「そうです」
「首を自分で晒して」
「はい」
「……それを、事前に計画していたということですか」
「はい」
恋はしばらく黙った。
藍は宵闇灯の状態をモニターで確認しながら、首元のタオルを取り替えていた。血が滲んでいた。それでも「問題ない」と言う。おそらく本当に問題ないのだろう。この人の言う「問題ない」は、基本的に事実だ。
だからこそ、何かが引っかかった。
「藍さん」
「何ですか」
「痛くなかったんですか」
一拍、間があった。
「……観測に支障はありませんでした」
「そういうことを聞いているんじゃなくて」
「……痛覚センサーは正常に機能しています」
「それが答えですか」
「……そうなります」
恋は少しの間、藍の横顔を見た。
モニターを見ている横顔は、いつも通りだった。乱れていない。感情の揺れも見当たらない。それが答えなのか、それとも答えを持っていないのかは、恋には判断できなかった。
「……終わったらちゃんと手当てしてください」
「分かりました」
「自分でできますか」
「こよみに頼みます」
「こよみさんに頼む前に自分でやってください」
「……分かりました」
恋は雑巾を動かした。確かに、床に飛び散った藍の血液は驚くくらい綺麗に拭き取れる。まるで水に溶かした絵の具のように。かといって匂いは本物の血のような鉄っぽさを感じる。おそらくしっかり鉄分もふくまれているのだろう。
薬品の匂いのする部屋の中で、実験台の上の宵闇灯は静かに眠り続けていた。窓の外では、誰も知らない放課後が夕暮れに向かっていた。
恋は清掃しながら、一つだけ、はっきりと分かったことがあった。
思ったよりも榊原藍は、知的好奇心が強いのかもしれない。




