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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第3章 戌
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第29話

 翌日の朝、桜川恋は病院にいた。


 大きな怪我をしたわけではない。


 少なくとも、本人はそのつもりだった。


 廃工場で謎の男たちに囲まれ、音無緋色が人を殺す現場を見て、戌井涼と音無緋色の戦いの前に立ち、最後には足から力が抜けて榊原藍に抱きかかえられた昨日のことを思えば、むしろ身体が無事だっただけでも奇跡に近いのかもしれないが、それでも恋の感覚としては、怪我というより、精神的な疲労の方がよほど深刻だった。


 だが、翌朝起きてベッドから降りようとした瞬間、その認識はあっさり覆された。


「……痛い」


 右足首が、ちゃんと痛かった。


 昨日の夜、榊原藍にお姫様抱っこで運ばれている最中、藍は恋の身体の傾きや足首の角度に違和感を覚えたらしく、別れ際に「明日の朝一番で病院へ行ってください」とかなり真面目な顔で言っていた。


 その時の恋は、正直なところ、藍がまた過保護気味に判断しているだけだと思っていた。


 けれど実際に朝を迎えてみれば、歩こうとするたびに足首へ鈍い痛みが走り、昨日はどうしてこれに気づかなかったのかと自分でも不思議になるくらいだった。


 アドレナリンというものはすごい。


 すごいが、できればもう二度と実感したくない。


「捻挫ですね」


 診察室で医者にそう言われた瞬間、恋は急に現実へ戻ってきたような錯覚を覚えた。


 昨日までの出来事は、どこか現実味が薄かった。


 だが、病院の診察室で「捻挫ですね」と言われると、急に足元へ戻される。


 自分は戦闘員でも、異能者でも、サイボーグでも、アンドロイドでも、AIでもない。


 少し走って、少し無理をして、気づかないうちに足を挫く普通の女子高生なのだと、包帯を巻かれる感触と一緒に思い知らされた。


 診察が終わると、ロビーには榊原藍が待っていた。


 制服姿で椅子に座っているだけなのに、病院のロビーという日常的な空間の中でも不思議と浮いて見えないのは、彼女がどこにいても自分の輪郭を崩さないからなのか、それとも周囲の方が勝手に藍の存在へ空気を合わせてしまうからなのか、恋にはいまだによく分からない。


「恋」


 藍は立ち上がり、恋の足元へ視線を落とした。


「診断結果は」


「捻挫でした」


「やはり」


「やはりって言われると、ちょっと悔しいです」


「すみません」


 藍はすぐに謝った。


 その素直さが、また少し悔しかった。


「昨日、恋が立てなくなるまで、歩行と走行の挙動に大きな異常は見られませんでした。通常時であれば気づけた可能性がありますが、戦闘後の興奮状態と疲労の影響で、痛覚反応が遅延していたものと思われます」


「アドレナリンってやつですか」


「はい」


「藍さんでも、お姫様抱っこするまで気づかなかったんですね」


「はい。申し訳ありません」


「いや、謝らないでください。ドジったのは私なので」


 恋は慌てて手を振ろうとして、足首に体重がかかりかけ、少し顔をしかめた。


 藍の手がすぐに伸びる。


 支えるというより、倒れる可能性を先回りして消すような手つきだった。


「無理に動かないでください」


「はい……」


「歩けますか」


「歩けます。たぶん」


「その“たぶん”は信用できません」


「ですよね」


 恋は苦笑した。


 病院のロビーには、会計を待つ人や、子供を連れた親や、松葉杖をついた中学生らしき生徒がいて、昨日の廃工場の空気とはあまりにも違っていた。


 その違いが、少しだけありがたかった。


 戻ってこられたのだと思えたからだ。


「音無さんは、どうなるんですか」


 恋は、ロビーの自動ドアの向こうを見ながら聞いた。


 昨日、廃工場から姿を消した音無緋色。


 戌井涼を殺すと言い続け、それでも恋の言葉で一度だけ刃を下ろした少女。


 あのまま終わるとは思えない。


 むしろ、これからの方が怖い。


「要管理対象です」


 藍は答えた。


「要管理」


「はい。音無緋色さんは危険性を有していますが、同時に青葉第二高等学校の生徒でもあります。本校の生徒である以上、生徒会の管理対象内です」


「管理対象って言い方、相変わらず強いですね」


「別の表現にしますか」


「いえ、藍さんらしいので大丈夫です」


「そうですか」


 藍は少しだけ考えるように目を伏せた。


「今回の件で、音無緋色さんの行動原理はある程度明確になりました。戌井涼さんへの執着、自身の存在価値への疑念。それらが複合しています」


「……難しいですね」


「はい」


「でも、昨日の音無さん、少しだけ止まりました」


「恋の言葉で」


「止まったのか、本人が言ってたように興が削がれただけなのか、私には分からないですけど」


「それでも、止まりました」


 藍はそう言った。


「それは事実です」


 恋は返事に困った。


 自分が何かをしたという実感は薄い。


 ただ怖くて、止めたくて、もう誰にも死んでほしくなくて、気づいたら前に出ていただけだった。


 それが良かったのかどうかも分からない。


 一歩間違えれば、自分が殺されていたかもしれない。


 いや、一歩どころではない。


 最初から最後まで、ずっと危なかった。


「今回の恋は、私にとっても想定外の行動が多くありました」


「悪い意味でですか」


「いいえ。多くは期待以上でした」


 恋は思わず藍を見た。


 藍は、いつものように真面目な顔をしている。


「廃工場への同行、現場での観察、音無緋色さんへの介入。危険性は高かったですが、結果として事態の悪化を防いだ側面があります」


「褒められてます?」


「はい」


「藍さんにそう言われると、嬉しいより先に怖いです」


「なぜですか」


「次からもっと危ない役割を振られそうなので」


「それは避けます」


「本当ですか」


「はい。ただし、あなたの行動予測に修正が必要です。一度、チューニングを行うべきですね」


「チューニング」


 恋は、いろんな意味で嫌な予感がした。


「私、機械じゃないんですけど」


「はい。恋は人間です」


「じゃあチューニングって何ですか」


「恋の判断傾向、危険時の行動、他者への介入可能性、身体的限界を踏まえた支援計画の再調整です」


「言い方を詳しくしても、嫌な予感は消えませんでした」


「なるべく負担の少ない形にします」


「なるべくって言った」


「はい」


 恋はため息をついた。


 足首は痛い。


 昨日の疲れも残っている。


 なのに、藍と話していると、少しずついつもの調子が戻ってくる気がした。


 それがいいことなのかどうかは分からない。


 でも、少なくとも病院のロビーで一人でいるよりはずっとよかった。


「帰りましょうか」


 藍が手を差し出した。


 恋は少し迷ってから、その手を取った。


 包帯を巻いた足で歩くのは思った以上に難しく、体重のかけ方を少し間違えるだけで痛みが走る。


 藍は恋の歩幅に合わせ、急がず、引っ張らず、けれど倒れそうな時には確実に支えてくれた。


 自動ドアが開き、朝の空気が入ってくる。


 恋は藍に手を取られたまま、一歩ずつ外へ出た。


 右足は痛む。


 歩き方もぎこちない。


 それでも、ちゃんと前へ進めた。


     *


 放課後、生徒会室はいつも通り騒がしかった。


「怪我をしたのかい、桜川さん。大丈夫? 薬師だった僕が見てあげようか?」


 不破廻が心配しているのか、からかっているのか、本気で前世の記憶を参照しているのか分からない顔で言った。


 恋は包帯を巻いた足を椅子の下へ少し引っ込める。


「大丈夫です。病院行きました」


「現代医療か。信頼できるね。前世では薬草を間違えるだけで大変なことになったから」


「何の話ですか」


「思い出したら言うよ」


「思い出さなくていいです」


 隣では、鶴見秋臣が会計資料を確認しながら、眼鏡の奥で数字を睨んでいた。


「桜川さん」


「はい」


「今回の包帯代、湿布代、診察に伴う交通費の処理についてですが、会長から説明を受けています」


「え、何で鶴見先輩がその話を?」


「生徒会活動中の負傷として扱うか、私的負傷として扱うかで、帳簿上の処理が変わります」


「帳簿に載るんですか、私の捻挫」


「生徒会活動中の負傷ということであれば、当然載ります。数字は嘘をつかない」


「私の足首を数字にしないでください」


 鶴見は真面目な顔で続ける。


「会長からは『桜川恋の行動は生徒会関連事案への協力に基づくものであり、必要経費として処理する』との指示が出ています」


「藍さん!」


 恋は会長席を振り向いた。


 藍は平然と書類を読んでいる。


「はい」


「私の包帯代まで生徒会の会計に入れないでください!」


「必要経費です」


「必要経費って言えば何でも通ると思ってませんか!」


「思っていません。鶴見さんが精査します」


「だから余計嫌なんです!」


 鶴見は頷いた。


「不正な支出は認めません。ただし、今回は合理性があります」


「合理性で私の捻挫を処理しないでください!」


「恋、安心してください。金額は軽微です」


「そういう問題でもないです!」


 不破が横から口を挟む。


「軽微な怪我で済んでよかった、ということだね」


「急にまともなこと言わないでください」


「たまには言うよ」


「たまにはなんですね」


 こよみはそのやり取りを端末に記録していた。


「記録。桜川恋、捻挫に伴う経費処理に心理的抵抗を示す」


「こよみさん、記録しなくていいです」


「必要記録です」


「必要かなあ……」


 生徒会室には、紙をめくる音、鶴見が電卓を叩く音、不破の前世由来らしき曖昧な発言、こよみの記録音、そして藍の静かな声が混ざっていた。


 騒がしい。


 普通とは言えない。


 けれど、今の恋には、その騒がしさが少しだけ心地よかった。


 昨日の廃工場の静けさより、ずっといい。


 血の匂いのする通路より、ずっといい。


 誰かが倒れて二度と起き上がらない場所より、書類と予算と前世と記録で揉めているこの部屋の方が、ずっと息がしやすかった。


 恋は包帯を巻いた足をそっと動かし、少しだけ痛みに顔をしかめながら、それでも小さく笑った。


     *


 同じ頃、音無緋色は屋上にいた。


 青葉第二高等学校の屋上。


 フェンスの向こうには、いつも通りの校庭が見える。


 部活動の声。


 ボールの音。


 誰かの笑い声。


 そのどれもが、緋色には遠かった。


 緋色はフェンスにもたれ、昨日のことを考えていた。


 桜川恋の声。


 やめてください、と震えながら、それでも前に出てきた少女。


 殺すことしかできないと、自分で決めてしまうことになる。


 あの言葉が、耳の奥に残っている。


 なぜ、自分は止まったのか。


 なぜ、あそこで下がったのか。


 戌井涼は目の前にいた。


 高揚もあった。


 殺し合いの熱も残っていた。


 あのまま続けていれば、たぶん自分は倒されていただろう。


 それでも、刃を向け続けることはできた。


 なのに、やめた。


 興が削がれた。


 そう言った。


 それは嘘ではない。


 だが、全部でもない。


 何かを見られた気がした。


 自分でも見たくないものを、桜川恋に言葉で触られた気がした。


 殺しの才能しかない。


 なら、殺し続けるしかない。


 そう思っていた。


 戌井涼を殺せば、何かが分かるかもしれない。


 戌井の名を奪えば、自分が何者なのか分かるかもしれない。


 だが、もしかすると。


 戌井涼を殺すという手段そのものが、いつの間にか目的になっているのかもしれない。


 何かを知るために殺すのではなく、殺すことを続けるために、知りたいふりをしているのかもしれない。


「……分からない」


 緋色は小さく呟いた。


 分からない。


 今でも分からない。


 自分が何になりたいのか。


 戌井涼に何を見ているのか。


 殺した先に何があるのか。


 それでも、やるべきことは変わらない。


 戌井涼を殺す。


 その結論だけは、まだ緋色の中から消えていなかった。


 ただ、その言葉の形が、昨日までとは少し違って見える。


 目的なのか。


 手段なのか。


 執着なのか。


 それとも、ただの逃げ道なのか。


 答えはまだ出ない。


 緋色はフェンスから身体を離し、屋上の扉へ向かって歩き出した。


 足音はしない。


 いつものように。


 殺し屋として育てられた身体は、今日も迷いなく動く。


 けれど、その胸の奥には、昨日までなかった小さな引っかかりが残っていた。


 それらが、緋色の中でまだ答えのないまま沈んでいる。


 だからこそ、音無緋色はまた戌井涼を追う。


 殺すために。


 そして、もしかすると、自分が本当に何を求めているのかを知るために。

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