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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第3章 戌
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第28話

 管理棟の奥へ近づくにつれて、空気は明らかに変わっていった。


 正面ホールで倒れていた男たちには、まだ呻き声があった。腕を押さえ、膝を抱え、顎を打たれて意識を失いながらも、そこにはまだ命の気配が残っていた。


 だが、管理棟へ続く通路には、それがなかった。


 床に倒れている里の逸れ者たちは、もう起き上がらない。呼吸を取り戻すことも、痛みに身を捩ることも、誰かを呼ぶこともない。戦闘の跡はあるのに、音だけが不自然に抜け落ちているその通路は、まるで暴力そのものが通り過ぎた後に、必要なものだけを持ち去っていったようだった。


 桜川恋は、思わず足を止めかけた。


 見てはいけないものを見ている、と思った。


 けれど、目を逸らすこともできなかった。


 戌井涼が正面から突入して倒した相手たちとは違う。雪代こよみが制圧した相手とも違う。そこにあるのは、戦闘不能ではなく、終わりだった。


 誰がやったのかは、考えるまでもなかった。


 音無緋色。


 少し前、廊下で自分の首元にナイフを突きつけた少女。


 あの少女が通った場所なのだと、恋は理解した。


「恋、足元を見すぎないでください」


 隣から、榊原藍の声がした。


 いつも通り丁寧で、静かな声だったが、その声にもわずかに硬さがあるように聞こえた。


「……はい」


 返事をしたものの、恋の声は掠れていた。


 藍はそれ以上、何も言わなかった。


 雪代こよみは前方を見据え、戌井涼は一度だけ通路の床を見てから、表情を変えないまま歩き続けた。


 その無表情が、今は少しだけ怖かった。


 怒っているのか。


 悲しんでいるのか。


 それとも、ただ慣れているだけなのか。


 恋には分からなかった。


 やがて、通路の先にある広い作業場へ辿り着いた。


 元は管理棟の搬入スペースだったのだろう。天井は高く、錆びたクレーンのレールが残り、壁際には古い棚や機械の残骸が並んでいる。割れた窓から夕方の光が差し込み、埃と鉄の匂いに混じって、もっと重い匂いが漂っていた。


 その中央に、音無緋色が立っていた。


 制服は乱れている。


 頬には薄く擦れた跡があり、袖口にも赤黒い汚れがついている。


 それでも、彼女の立ち姿に疲労はなかった。


 むしろ、呼吸は熱を帯び、目はぎらつき、殺し合いの連戦によって身体の奥に火がついたような、危うい高揚が全身から滲んでいた。


 その少し後ろに、東雲葵がいた。


 腕の拘束は解かれている。


 立ってはいるが、完全に自由というわけではなさそうだった。足元が少し不安定で、壁に手をつきながらこちらを見ている。大きな怪我はなさそうだが、顔色は悪い。


「葵」


 戌井が、短く呼んだ。


 その声を聞いた瞬間、葵の表情が変わった。


 怒りと安堵が同時に混じったような、ひどく不器用な顔だった。


「――涼」


 だが、葵が何か言うより早く、緋色がこちらを振り向いた。


 戌井涼を見つけた瞬間、その顔が歪んだ。


 笑ったようにも見えた。


 泣きそうにも見えた。


 けれど次の瞬間、緋色は喉の奥から絞り出すように叫んでいた。


「戌井ッ!」


 彼女の身体が跳んだ。


 人間の踏み込みではなかった。


 床を蹴った音が遅れて響き、視界から消えたかと思った瞬間には、もう戌井の目の前にいる。


 両手に握られた短い刃が、左右から戌井の首と脇腹を狙った。


 戌井は黙って竹刀を動かした。


 弾くというより、置いた。


 そこに来ると最初から分かっていた場所に、竹刀をただ置いただけに見えた。


 刃は逸れ、緋色の身体が流れる。


 だが緋色は止まらない。


 着地と同時に身体を捻り、低い姿勢から膝裏を狙い、さらに反転して喉元へ刃を突き上げる。


 戌井は半歩下がり、竹刀の柄で手首を受け、肩をずらし、刃の軌道を殺した。


 その動きには派手さがなかった。


 緋色の攻撃は速い。


 ひとつ間違えば、それだけで命を奪う動きだった。


 それなのに、戌井はすべてを静かに処理していく。


 その差が、見ている恋にも分かってしまうほど明確だった。


「何で」


 緋色が低く呟いた。


 次の瞬間、さらに速度が上がる。


 刃が光る。


 足音が消える。


 身体の小ささを利用して、戌井の懐へ潜り込もうとする。


 だが、戌井の竹刀がそれを阻む。


 何度も。


 何度も。


 緋色の刃は届かない。


 戌井の服の端を裂くことすらできない。


「何で届かない!」


 叫びと共に、緋色の刃が振るわれる。


 戌井は受け流す。


「何が足りない。速さ?力?間合い?私は、ちゃんとやってきた。ちゃんと殺してきた。誰よりも早く、誰よりも静かに、誰よりも正確に、全部覚えた。全部できた。なのに、何で!」


 緋色の声が、作業場に響く。


 それは戌井へ向けた怒りであり、自分自身への問いでもあった。


「何でお前は捨てられる?何でお前は普通の顔ができる?何で私は、まだここにいる!?戌井になれなかった私は、何になればいいんだッ!」


 刃が振るわれる。


 戌井は黙って捌く。


 その沈黙が、緋色をさらに苛立たせているようだった。


「答えろ!」


 緋色が吼えた。


 戌井は答えなかった。


 ただ、次の一撃を竹刀で受け、緋色の腕を押し返した。


 その動きはあまりにも静かで、あまりにも冷静だった。


 緋色の中で燃え上がっているものに、戌井はまだ手を伸ばさない。


 それが、恋には耐えられなかった。


「やめてください!」


 気づけば、恋は前に出ていた。


 藍が止めようとした気配があった。


 こよみが一歩動いた。


 葵が「おい」と声を上げた。


 それでも恋は止まれなかった。


 足は震えていた。


 さっきからずっと、怖かった。


 床に倒れている人間を見た。


 緋色が人を殺した場所を歩いた。


 今も目の前で、殺し合いに近いものが起きている。


 一歩間違えば、自分も巻き込まれて終わる。


 そんなことは分かっていた。


 分かっていたのに、声が出てしまった。


「音無さん、もうやめてください!」


 緋色の動きが止まった。


 ほんの一瞬だけ。


 刃を構えたまま、緋色が恋を見る。


 その目は荒れていた。


 血走り、熱を帯び、何かを壊さなければ自分が壊れるとでも言いたげな目だった。


「邪魔しないで」


「邪魔します」


 恋は、自分でも驚くほどはっきりと言った。


 怖い。


 怖くて仕方がない。


 それでも、ここで黙っていたら、緋色はまた戌井へ向かっていく。


 そして戌井は、たぶん彼女を殺さずに止める。


 だが、それで終わるのか。


 それで緋色の中にあるものが消えるのか。


 恋には、そうは思えなかった。


「私、音無さんのこと何も知りません。戌井先輩のことも、今日聞いた話の全部を分かってるわけじゃありません。でも、今の音無さんが、戌井先輩を殺したら何かが分かると思ってるなら、それは違うと思います」


「何が分かるの」


「分かりません」


「なら黙ってて」


「分からないから言ってるんです」


 恋の声は震えていた。


 それでも、止まらなかった。


「戌井先輩を殺しても、音無さんが何になればいいかなんて、たぶん誰も教えてくれません。音無さんの答えをくれるものじゃないと思います」


「知ったようなことを」


「知りません。だから、これ以上、殺してほしくないんです」


「……」


「音無さんが何になればいいのか、私には分かりません。でも、ここで誰かを殺し続けたら、たぶん本当にそれしかなくなります。殺すことしかできないって、音無さんが自分で決めてしまうことになります」


 緋色の表情が、わずかに揺れた。


 恋の言葉が届いたのかは分からない。


 ただ、緋色の呼吸が少しだけ変わった。


 荒く燃えていたものが、一瞬だけ熱を失ったように見えた。


 緋色は戌井を見た。


 戌井は竹刀を構えたまま、何も言わない。


 その沈黙は、今度は拒絶ではなかった。


 待っているようにも見えた。


 緋色は、しばらく戌井を見ていた。


 それから、小さく息を吐いた。


「……帰る。興が削がれた」


 刃が下がる。


 恋の膝から力が抜けそうになった。


 緋色は袖の中へ刃を戻し、倒れている里の逸れ者たちを一瞥もせず、作業場の奥へ向かって歩き出した。


「音無」


 戌井が初めて声をかけた。


 緋色は立ち止まらなかった。


「次は、こうはいかない」


 それだけ残して、音無緋色は壊れた窓枠へ足をかけ、外の鉄骨へ身を躍らせるようにして姿を消した。


 誰も、すぐには追わなかった。


 追えなかった、という方が正しいのかもしれない。


 作業場には、ようやく息を吐けるだけの静けさが戻った。


「……涼」


 東雲葵が、壁から手を離して歩いてきた。


 まだ足元は少しふらついている。


 それでも、彼女は自分の足で戌井の前まで来た。


 戌井は竹刀を下ろす。


「葵」


「遅えよ」


 第一声がそれだった。


 恋は一瞬、何を言うのかと思った。


 礼でも、安堵でも、怒鳴り声でもなく、ただの文句。


 だが、その声は少しだけ震えていた。


 戌井は短く答えた。


「すまない」


「ほんとだよ。何やってんだ。人質に取られてんのに、来るの遅すぎだろ」


「すまない」


「二回言えば済むと思ってんのか」


「思っていない」


「じゃあ何か言え」


「無事でよかった」


 葵は、そこで言葉を詰まらせた。


 ほんの一瞬だけ。


 それから顔を逸らし、乱暴に舌打ちした。


「……そういうことを急に言うな」


「そうか」


「そうだよ」


 口先では文句ばかりだった。


 けれど、それが彼女なりの感謝なのだと、恋には何となく分かった。


 強がりで、乱暴で、素直ではなくて、それでも戌井が来たことに心底安堵している。


 戌井もそれを分かっているのか、特に反論しなかった。


 恋は、その光景を見てようやく息を吐いた。


 東雲葵は無事だった。


 戌井涼も無事だった。


 音無緋色は去った。


 里の逸れ者たちはもう動かない。


 終わった。


 少なくとも、今この場は。


 そう思った瞬間、足から力が抜けた。


「……あれ」


 視界が傾く。


 身体が自分のものではなくなったように、膝が勝手に折れた。


 さっきまで立っていられたのは、たぶんアドレナリンのおかげだったのだろう。


 廃工場に突入し、死体を見て、緋色の殺気を浴び、戌井と緋色の戦いを見て、最後には自分で前に出て止めようとした。


 一歩間違えば死んでいた。


 何度も。


 その現実に、身体の方が遅れて気づいたのだ。


「恋」


 倒れる前に、藍の腕が伸びた。


 床へ落ちるはずだった身体が、ふわりと支えられる。


 次の瞬間、恋は横抱きにされていた。


 お姫様抱っこだった。


「……藍さん?」


「立てますか」


「立てない、かもしれません」


「では、このまま移動します」


「いや、そうなんですけど、あの、ここでお姫様抱っこは」


「歩行困難と判断しました」


「判断は正しいですけど、気持ちが追いつかないです」


「すみません」


 謝りながらも、藍は下ろす気配がなかった。


 恋は抵抗しようとしたが、手足に力が入らない。


 完全に限界だった。


 藍の腕の中は安定していて、悔しいことに、ものすごく安心した。


 東雲葵が、その様子を呆れたように見ていた。


「何だそれ」


「桜川さんの身体状態が限界に近いため、搬送します」


 藍が丁寧に答える。


「いや、そういう意味じゃねえよ」


 葵は片手で額を押さえた。


 緊張が切れたせいか、その顔には先ほどまでの強張りが薄れている。


 隣にいた戌井が、ふと葵を見た。


 そして、いつもの調子で言った。


「お前もああされたいのか」


 一瞬、空気が止まった。


 葵が噴き出した。


「はっ……!? ば、馬鹿言ってんじゃねえよ!この馬鹿!」


「違うのか」


「違うに決まってんだろ! 何であたしがお前に、ああ、ああいう……!」


「別に俺とは言っていない」


「うるせえ!」


 葵の顔が、分かりやすく赤くなっていく。


 恋は藍の腕の中で、ぼんやりとそれを見ていた。


 さっきまで命のやり取りをしていたはずなのに、急に空気が変わっている。


 あまりにも唐突で、身体は限界なのに、少しだけ笑いそうになった。


「戌井さん」


 こよみが淡々と言った。


「現在、東雲葵さんにも軽度のふらつきが確認されます。必要であれば搬送補助を推奨します」


「こよみさん、今それ言います?」


 恋が弱々しく突っ込む。


 葵はさらに顔を赤くした。


「いらねえ!1人で歩ける!」


「そうか」


 戌井は短く頷いた。


 葵は何か言いたげに口を開いたが、結局言葉にならず、乱暴にそっぽを向いた。


 その横顔を見て、恋はようやく思った。


 助かったのだ、と。


 本当に。


 そして、全部が終わったわけではないにしても、今だけは帰れるのだと。


 藍は恋を抱えたまま、静かに出口へ向かう。


 戌井は葵の少し横を歩き、葵は文句を言いながらも、その距離を拒まなかった。


 こよみは最後尾で周囲を警戒しながら、淡々と生存者と死者の確認を続けている。


 廃工場の外には、もう夜が降り始めていた。


 その暗がりのどこかで、音無緋色がまだ戌井涼の背中を追っているのだとしても。


 今この瞬間だけは、桜川恋には、榊原藍の腕の中の温度だけで十分だった。


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