第28話
管理棟の奥へ近づくにつれて、空気は明らかに変わっていった。
正面ホールで倒れていた男たちには、まだ呻き声があった。腕を押さえ、膝を抱え、顎を打たれて意識を失いながらも、そこにはまだ命の気配が残っていた。
だが、管理棟へ続く通路には、それがなかった。
床に倒れている里の逸れ者たちは、もう起き上がらない。呼吸を取り戻すことも、痛みに身を捩ることも、誰かを呼ぶこともない。戦闘の跡はあるのに、音だけが不自然に抜け落ちているその通路は、まるで暴力そのものが通り過ぎた後に、必要なものだけを持ち去っていったようだった。
桜川恋は、思わず足を止めかけた。
見てはいけないものを見ている、と思った。
けれど、目を逸らすこともできなかった。
戌井涼が正面から突入して倒した相手たちとは違う。雪代こよみが制圧した相手とも違う。そこにあるのは、戦闘不能ではなく、終わりだった。
誰がやったのかは、考えるまでもなかった。
音無緋色。
少し前、廊下で自分の首元にナイフを突きつけた少女。
あの少女が通った場所なのだと、恋は理解した。
「恋、足元を見すぎないでください」
隣から、榊原藍の声がした。
いつも通り丁寧で、静かな声だったが、その声にもわずかに硬さがあるように聞こえた。
「……はい」
返事をしたものの、恋の声は掠れていた。
藍はそれ以上、何も言わなかった。
雪代こよみは前方を見据え、戌井涼は一度だけ通路の床を見てから、表情を変えないまま歩き続けた。
その無表情が、今は少しだけ怖かった。
怒っているのか。
悲しんでいるのか。
それとも、ただ慣れているだけなのか。
恋には分からなかった。
やがて、通路の先にある広い作業場へ辿り着いた。
元は管理棟の搬入スペースだったのだろう。天井は高く、錆びたクレーンのレールが残り、壁際には古い棚や機械の残骸が並んでいる。割れた窓から夕方の光が差し込み、埃と鉄の匂いに混じって、もっと重い匂いが漂っていた。
その中央に、音無緋色が立っていた。
制服は乱れている。
頬には薄く擦れた跡があり、袖口にも赤黒い汚れがついている。
それでも、彼女の立ち姿に疲労はなかった。
むしろ、呼吸は熱を帯び、目はぎらつき、殺し合いの連戦によって身体の奥に火がついたような、危うい高揚が全身から滲んでいた。
その少し後ろに、東雲葵がいた。
腕の拘束は解かれている。
立ってはいるが、完全に自由というわけではなさそうだった。足元が少し不安定で、壁に手をつきながらこちらを見ている。大きな怪我はなさそうだが、顔色は悪い。
「葵」
戌井が、短く呼んだ。
その声を聞いた瞬間、葵の表情が変わった。
怒りと安堵が同時に混じったような、ひどく不器用な顔だった。
「――涼」
だが、葵が何か言うより早く、緋色がこちらを振り向いた。
戌井涼を見つけた瞬間、その顔が歪んだ。
笑ったようにも見えた。
泣きそうにも見えた。
けれど次の瞬間、緋色は喉の奥から絞り出すように叫んでいた。
「戌井ッ!」
彼女の身体が跳んだ。
人間の踏み込みではなかった。
床を蹴った音が遅れて響き、視界から消えたかと思った瞬間には、もう戌井の目の前にいる。
両手に握られた短い刃が、左右から戌井の首と脇腹を狙った。
戌井は黙って竹刀を動かした。
弾くというより、置いた。
そこに来ると最初から分かっていた場所に、竹刀をただ置いただけに見えた。
刃は逸れ、緋色の身体が流れる。
だが緋色は止まらない。
着地と同時に身体を捻り、低い姿勢から膝裏を狙い、さらに反転して喉元へ刃を突き上げる。
戌井は半歩下がり、竹刀の柄で手首を受け、肩をずらし、刃の軌道を殺した。
その動きには派手さがなかった。
緋色の攻撃は速い。
ひとつ間違えば、それだけで命を奪う動きだった。
それなのに、戌井はすべてを静かに処理していく。
その差が、見ている恋にも分かってしまうほど明確だった。
「何で」
緋色が低く呟いた。
次の瞬間、さらに速度が上がる。
刃が光る。
足音が消える。
身体の小ささを利用して、戌井の懐へ潜り込もうとする。
だが、戌井の竹刀がそれを阻む。
何度も。
何度も。
緋色の刃は届かない。
戌井の服の端を裂くことすらできない。
「何で届かない!」
叫びと共に、緋色の刃が振るわれる。
戌井は受け流す。
「何が足りない。速さ?力?間合い?私は、ちゃんとやってきた。ちゃんと殺してきた。誰よりも早く、誰よりも静かに、誰よりも正確に、全部覚えた。全部できた。なのに、何で!」
緋色の声が、作業場に響く。
それは戌井へ向けた怒りであり、自分自身への問いでもあった。
「何でお前は捨てられる?何でお前は普通の顔ができる?何で私は、まだここにいる!?戌井になれなかった私は、何になればいいんだッ!」
刃が振るわれる。
戌井は黙って捌く。
その沈黙が、緋色をさらに苛立たせているようだった。
「答えろ!」
緋色が吼えた。
戌井は答えなかった。
ただ、次の一撃を竹刀で受け、緋色の腕を押し返した。
その動きはあまりにも静かで、あまりにも冷静だった。
緋色の中で燃え上がっているものに、戌井はまだ手を伸ばさない。
それが、恋には耐えられなかった。
「やめてください!」
気づけば、恋は前に出ていた。
藍が止めようとした気配があった。
こよみが一歩動いた。
葵が「おい」と声を上げた。
それでも恋は止まれなかった。
足は震えていた。
さっきからずっと、怖かった。
床に倒れている人間を見た。
緋色が人を殺した場所を歩いた。
今も目の前で、殺し合いに近いものが起きている。
一歩間違えば、自分も巻き込まれて終わる。
そんなことは分かっていた。
分かっていたのに、声が出てしまった。
「音無さん、もうやめてください!」
緋色の動きが止まった。
ほんの一瞬だけ。
刃を構えたまま、緋色が恋を見る。
その目は荒れていた。
血走り、熱を帯び、何かを壊さなければ自分が壊れるとでも言いたげな目だった。
「邪魔しないで」
「邪魔します」
恋は、自分でも驚くほどはっきりと言った。
怖い。
怖くて仕方がない。
それでも、ここで黙っていたら、緋色はまた戌井へ向かっていく。
そして戌井は、たぶん彼女を殺さずに止める。
だが、それで終わるのか。
それで緋色の中にあるものが消えるのか。
恋には、そうは思えなかった。
「私、音無さんのこと何も知りません。戌井先輩のことも、今日聞いた話の全部を分かってるわけじゃありません。でも、今の音無さんが、戌井先輩を殺したら何かが分かると思ってるなら、それは違うと思います」
「何が分かるの」
「分かりません」
「なら黙ってて」
「分からないから言ってるんです」
恋の声は震えていた。
それでも、止まらなかった。
「戌井先輩を殺しても、音無さんが何になればいいかなんて、たぶん誰も教えてくれません。音無さんの答えをくれるものじゃないと思います」
「知ったようなことを」
「知りません。だから、これ以上、殺してほしくないんです」
「……」
「音無さんが何になればいいのか、私には分かりません。でも、ここで誰かを殺し続けたら、たぶん本当にそれしかなくなります。殺すことしかできないって、音無さんが自分で決めてしまうことになります」
緋色の表情が、わずかに揺れた。
恋の言葉が届いたのかは分からない。
ただ、緋色の呼吸が少しだけ変わった。
荒く燃えていたものが、一瞬だけ熱を失ったように見えた。
緋色は戌井を見た。
戌井は竹刀を構えたまま、何も言わない。
その沈黙は、今度は拒絶ではなかった。
待っているようにも見えた。
緋色は、しばらく戌井を見ていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……帰る。興が削がれた」
刃が下がる。
恋の膝から力が抜けそうになった。
緋色は袖の中へ刃を戻し、倒れている里の逸れ者たちを一瞥もせず、作業場の奥へ向かって歩き出した。
「音無」
戌井が初めて声をかけた。
緋色は立ち止まらなかった。
「次は、こうはいかない」
それだけ残して、音無緋色は壊れた窓枠へ足をかけ、外の鉄骨へ身を躍らせるようにして姿を消した。
誰も、すぐには追わなかった。
追えなかった、という方が正しいのかもしれない。
作業場には、ようやく息を吐けるだけの静けさが戻った。
「……涼」
東雲葵が、壁から手を離して歩いてきた。
まだ足元は少しふらついている。
それでも、彼女は自分の足で戌井の前まで来た。
戌井は竹刀を下ろす。
「葵」
「遅えよ」
第一声がそれだった。
恋は一瞬、何を言うのかと思った。
礼でも、安堵でも、怒鳴り声でもなく、ただの文句。
だが、その声は少しだけ震えていた。
戌井は短く答えた。
「すまない」
「ほんとだよ。何やってんだ。人質に取られてんのに、来るの遅すぎだろ」
「すまない」
「二回言えば済むと思ってんのか」
「思っていない」
「じゃあ何か言え」
「無事でよかった」
葵は、そこで言葉を詰まらせた。
ほんの一瞬だけ。
それから顔を逸らし、乱暴に舌打ちした。
「……そういうことを急に言うな」
「そうか」
「そうだよ」
口先では文句ばかりだった。
けれど、それが彼女なりの感謝なのだと、恋には何となく分かった。
強がりで、乱暴で、素直ではなくて、それでも戌井が来たことに心底安堵している。
戌井もそれを分かっているのか、特に反論しなかった。
恋は、その光景を見てようやく息を吐いた。
東雲葵は無事だった。
戌井涼も無事だった。
音無緋色は去った。
里の逸れ者たちはもう動かない。
終わった。
少なくとも、今この場は。
そう思った瞬間、足から力が抜けた。
「……あれ」
視界が傾く。
身体が自分のものではなくなったように、膝が勝手に折れた。
さっきまで立っていられたのは、たぶんアドレナリンのおかげだったのだろう。
廃工場に突入し、死体を見て、緋色の殺気を浴び、戌井と緋色の戦いを見て、最後には自分で前に出て止めようとした。
一歩間違えば死んでいた。
何度も。
その現実に、身体の方が遅れて気づいたのだ。
「恋」
倒れる前に、藍の腕が伸びた。
床へ落ちるはずだった身体が、ふわりと支えられる。
次の瞬間、恋は横抱きにされていた。
お姫様抱っこだった。
「……藍さん?」
「立てますか」
「立てない、かもしれません」
「では、このまま移動します」
「いや、そうなんですけど、あの、ここでお姫様抱っこは」
「歩行困難と判断しました」
「判断は正しいですけど、気持ちが追いつかないです」
「すみません」
謝りながらも、藍は下ろす気配がなかった。
恋は抵抗しようとしたが、手足に力が入らない。
完全に限界だった。
藍の腕の中は安定していて、悔しいことに、ものすごく安心した。
東雲葵が、その様子を呆れたように見ていた。
「何だそれ」
「桜川さんの身体状態が限界に近いため、搬送します」
藍が丁寧に答える。
「いや、そういう意味じゃねえよ」
葵は片手で額を押さえた。
緊張が切れたせいか、その顔には先ほどまでの強張りが薄れている。
隣にいた戌井が、ふと葵を見た。
そして、いつもの調子で言った。
「お前もああされたいのか」
一瞬、空気が止まった。
葵が噴き出した。
「はっ……!? ば、馬鹿言ってんじゃねえよ!この馬鹿!」
「違うのか」
「違うに決まってんだろ! 何であたしがお前に、ああ、ああいう……!」
「別に俺とは言っていない」
「うるせえ!」
葵の顔が、分かりやすく赤くなっていく。
恋は藍の腕の中で、ぼんやりとそれを見ていた。
さっきまで命のやり取りをしていたはずなのに、急に空気が変わっている。
あまりにも唐突で、身体は限界なのに、少しだけ笑いそうになった。
「戌井さん」
こよみが淡々と言った。
「現在、東雲葵さんにも軽度のふらつきが確認されます。必要であれば搬送補助を推奨します」
「こよみさん、今それ言います?」
恋が弱々しく突っ込む。
葵はさらに顔を赤くした。
「いらねえ!1人で歩ける!」
「そうか」
戌井は短く頷いた。
葵は何か言いたげに口を開いたが、結局言葉にならず、乱暴にそっぽを向いた。
その横顔を見て、恋はようやく思った。
助かったのだ、と。
本当に。
そして、全部が終わったわけではないにしても、今だけは帰れるのだと。
藍は恋を抱えたまま、静かに出口へ向かう。
戌井は葵の少し横を歩き、葵は文句を言いながらも、その距離を拒まなかった。
こよみは最後尾で周囲を警戒しながら、淡々と生存者と死者の確認を続けている。
廃工場の外には、もう夜が降り始めていた。
その暗がりのどこかで、音無緋色がまだ戌井涼の背中を追っているのだとしても。
今この瞬間だけは、桜川恋には、榊原藍の腕の中の温度だけで十分だった。




