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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第3章 戌
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第27話

 戌井涼が初めて東雲葵と出会ったのは、まだ互いに中学生にも満たない年齢の頃だった。


 その頃の戌井涼は、すでに「戌井」だった。


 七十八代目。


 里の中で最も優秀な者に与えられる、名誉であり、役職であり、呪いでもある名字を背負い、子供の姿をしていながら、すでに何人もの命を奪っていた。


 里を出たばかりの戌井に与えられた任務は、指定暴力団「東雲会」の頭目、東雲葵の父親の護衛だった。


 暴力団の頭目の護衛としては、戌井はあまりにも幼かった。


 背丈もまだ低く、顔立ちにも幼さが残り、初めて見る者の多くは、なぜこんな子供がここにいるのかと目を疑った。


 だが、東雲会の幹部たちは、すぐにその目を改めた。


 戌井涼は、子供ではなかった。


 少なくとも、彼らが考える意味での子供ではなかった。


 襲撃者が現れれば、誰よりも早く動き、拳銃を抜くより前に手首を切り落とし、刃物が届くより先に喉を潰し、逃げようとする者の背中を斬った。


 その動きに怒りはなく、恐怖もなく、誇りすらなかった。


 ただ、依頼された役割を果たすための処理があるだけだった。


 だから、東雲葵と初めて顔を合わせた時も、戌井は特に何も思わなかった。


「お前、私と同じくらいの歳だろ。ほんとに護衛なのか」


 最初にそう言ったのは、葵の方だった。


 屋敷の庭の片隅で、戌井が壁際に立っていると、葵は警戒心を隠そうともしない目でこちらを見上げていた。


 まだ背も低く、声も幼く、けれど目だけは妙に強かった。


 普通の人間なら、戌井のようなものを前にすれば怖がる。


 少なくとも、戌井涼の周りにいる大人たちはそうだった。


「ああ」


「ガキじゃねえか」


「お前もだ」


「うるせえ」


 それが最初の会話だった。


 お互いに、本心を見せることはなかった。


 戌井はそもそも本心の見せ方を知らなかったし、葵は葵で、暴力団頭首の娘という立場の中で、弱さを見せることを許されずに育っていた。


 そういう環境の中で、葵は最初から子供でいることを半分ほど諦めていた。


 そして戌井涼もまた、子供でいることなど最初から知らなかった。


 似ていたわけではない。


 境遇も、役割も、背負わされたものも違う。


 それでも、二人はどこかで分かっていた。


 互いに、普通の子供ではいられなかったのだと。


 それが理由だったのかは分からないが、2人は少しずつ話すようになった。


 葵は戌井に、屋敷の中で誰が信用できて誰が信用できないかを教えた。


 戌井は葵に、廊下の角で気配を消す時にどこへ立てば見つかりにくいかを教えた。


 葵はそれを「嫌な遊びだな」と言いながらも覚え、戌井は葵が転びそうになった時だけ、何も言わずに手を伸ばした。


 それが友情だったのかどうか、当時の戌井には分からなかった。


 ただ、葵といる時間は、任務の中ではなかった。


 少なくとも、誰かを殺すために呼吸を整えている時とは違っていた。


 だが、その日々は長く続かなかった。


 東雲会を取り巻く抗争は、次第に激化していった。


 敵対組織との銃撃、内部の裏切り、警察の圧力、利権を巡る争い。


 頭首の周囲にいる人間の数は増え、同時に信用できる人間の数は減っていった。


 そしてある夜、戌井は護衛対象である東雲会頭目から、別の命令を受けた。


「葵を殺せ」


 命令は短かった。


 理由も説明された。


 抗争が激化する中、一人娘という存在は東雲会にとってあまりにも大きな弱みになっている。


 人質にされる前に、敵に利用される前に、弱点を消す。


 頭目は、そう言った。


 自分の娘を、組織のために、いや、自分の保身のために切り捨てようとしていた。


 戌井は納得しなかった。だが、納得の有無は彼にとって関係はなかった。


 依頼は依頼である。


 戌井とは、事情を問わず、感情を排し、与えられた命を奪うための名前だった。


 だからその夜、戌井涼は東雲葵を殺すために、彼女の部屋へ向かった。


「よお」

 

 葵は、起きていた。


 布団にも入らず、部屋の中央に座ったまま、扉が開くのを待っていたように、こちらを見ていた。


 驚きはなかった。


 怒りもなかった。


 涙もなかった。


 ただ、どこか諦めたような顔をしていた。


「来ると思ってた」


 葵は言った。


 声は少しだけ掠れていたが、震えてはいなかった。


「親父だろ」


「ああ」


「そうか」


 それだけだった。


 戌井は、今まで多くの人間を殺してきた。


 そのほとんどは、自分の死に納得していなかった。


 命乞いをする者がいた。


 怒鳴る者がいた。


 呪う者がいた。


 なぜ自分が、と叫ぶ者がいた。


 自分は悪くない、あいつが悪い、あの時こうしていれば、と、最後の最後まで自分の死を他人のせいにしようとする者ばかりだった。


 それが普通なのだろう。


 人は、自分の死を簡単には受け入れられない。


 殺される理由を理解していても、それを納得できるわけではない。


「さっさと殺せよ」


 なのに、東雲葵は違った。


 彼女は誰も責めなかった。


 父親を罵らなかった。


 東雲会を恨まなかった。


 戌井に命乞いもしなかった。


 ただ、自分が弱みになったのだと、そういう場所に生まれたのだと、そういう父親の娘だったのだと、子供のくせに理解して、受け入れていた。


 それは戌井涼にとって、初めて見る死にゆく者の顔だった。


 そして、初めて殺してはいけないと思った顔だった。


「……何で、抵抗しない」


 戌井は聞いた。


 その問いを口にした時点で、もう戌井ではなかったのかもしれない。


 戌井ならば、聞かない。


 戌井ならば、考えない。


 戌井ならば、殺す。


 葵は少しだけ笑った。


「抵抗したら、殺さねえのか」


 戌井は答えられなかった。


「だろ」


 葵は目を伏せた。


「なら、いい」


 その言葉が、戌井の中の何かを壊した。


 事情を排し、感情を排し、人の命を奪う。


 それが戌井という役割であり、そのために作られたのが自分だった。


 だが、その役割は、この少女の前で初めて意味を失った。


 殺せと言われたから殺す。


 必要だから殺す。


 依頼だから殺す。


 そんな言葉が、急にひどく空っぽなものに思えた。


 結局戌井涼は、その夜、東雲葵を殺せなかった。


 そこから先は、一瞬の出来事だった。


 命令に背いた戌井は、東雲会にとって裏切り者になった。

 幹部が動き、銃を持った男たちが部屋を囲み、葵ごと消すつもりで襲いかかってきた。


 戌井は、それをすべて殺した。


 葵を背に庇いながら、廊下に現れた者を斬り、階段を塞いだ者を折り、銃を向けた者の喉を潰し、命令を出した東雲会頭目の首を取った。


 依頼を達成できなかった。


 それどころか、依頼主を殺した。


 その事実は、すぐに里へ伝わった。


 里は戌井涼を許さなかった。


 戌井という名前を与えられた者が、依頼に背き、護衛対象を殺し、依頼主を殺した。


 それは里の掟に対する最大の反逆だった。


 刺客が送られた。


 ひとりではない。


 何人も。


 同じ技術を持つ者たち。


 同じ呼吸を知る者たち。


 同じように、人を殺すために育てられた者たち。


 戌井涼は、それもすべて殺した。


 最初は葵を守るためだった。


 次第に、別の意味を持つようになった。


 戌井という名をこれ以上残してはいけない。


 事情を問わず、感情を排し、命令だけで人を殺す名前を、これ以上生んではならない。


 だから戌井涼は里へ戻った。


 そして、里を壊した。


 現存する他の戌井を殺した。


 過去に名を継いだ者も、里を離れてなお名を持ち続けていた者も、これからその名を継ごうとしていた者の未来も、すべて終わらせた。


 その中には、音無緋色のように、戌井という名へ手を伸ばしていた者もいた。


 彼女からすれば、それは奪われたのだろう。


 夢も、証も、自分が何者かになるための道も。


 だが、それでも戌井涼は止まらなかった。


 戌井という名前そのものが、間違いだったからだ。


 それ以降、戌井涼は人を殺さなくなった。


 殺せなくなったのではない。


 殺す力は残っている。


 殺し方も忘れていない。


 身体は今でも、刃物の角度を見れば急所までの距離を計算し、相手の呼吸を見れば踏み込みの瞬間を予測し、骨の折れる音と命の消える音を区別できる。


 それでも殺さない。


 東雲葵を守るために。


 そして、戌井という名前が積み上げてきた過ちと罪を、自分だけは忘れないために。


 血の匂いが、現在へ引き戻す。


 管理棟へ続く通路の奥で、音無緋色が誰かを殺している。


 戌井涼は、竹刀を握る手にわずかに力を込めた。


 葵を助ける。


 音無緋色を止める。


 そして、過去から伸びてくるその名の残滓を、もう一度断ち切る。


 それが今、自分がここにいる理由だった。

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