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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第3章 戌
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第26話


 指定された場所は、青葉第二高等学校からそう遠くない廃工場だった。


 かつて何を作っていたのかも分からない、錆びた鉄骨と割れた窓ガラスだけが残る建物で、夕方の光が沈みきる前の空の下。外壁には古い企業名の痕跡だけがかすかに残り、敷地を囲むフェンスには何度も切られては雑に補修された跡があり、そこが長い間まともな管理の手から外れていた場所であることは、近づくだけで分かった。


 戌井涼は、その廃工場を見ても足を止めなかった。


 竹刀袋を肩にかけたまま、表情ひとつ変えず、ただ指定された地点へ向かって歩いていく。


 榊原藍はその半歩後ろを歩き、雪代こよみはさらにその横で周囲の熱源と人影を確認しながら進み、桜川恋は、どう考えても自分が来ていい場所ではないという現実を全身で噛みしめながら、三人の後を必死についていった。


「……藍さん」


「はい」


「私、本当に来てよかったんですか」


 恋は小声で聞いた。


 声を潜めたのは、周囲に敵がいるかもしれないからというより、自分の不安が大きく響いてしまうのが怖かったからだった。


「はい。恋には、状況の確認役をお願いします」


「確認役」


「私とこよみ、戌井涼さんだけで突入した場合、判断が戦闘と制圧に偏ります。あなたには、東雲葵さんの状態、現場の異常、不審な違和感を見てほしい」


「私が見て分かるんですか」


「分かることもあります」


「……それ、私が足手まといじゃない理由になります?」


「なります」


 即答だった。


 恋はそれ以上言えなくなった。


 怖くないわけではない。


 むしろ、怖い。


 廃工場に向かって歩いているだけで膝が少し震えているし、今にも物陰から音無緋色のような誰かが飛び出してくるのではないかと、視線が勝手に左右へ揺れる。


 けれど、藍が必要だと言った。


 そう思うと、逃げたいという気持ちと、逃げてはいけないという気持ちが、胸の中で不格好にぶつかった。


「戌井さん」


 藍が声をかける。


「正面から入るつもりですか」


「ああ」


「相手はあなたが単独で来ることを想定しています。正面入口は罠の可能性が高いです」


「だろうな」


「それでも?」


「俺が正面から入れば、向こうは俺を見る」


 戌井は足を止めずに言った。


「その間に、別の誰かが動ける」


 藍は一瞬だけ沈黙した。


 そして、小さく頷いた。


「合理的です」


「藍様」


 こよみが、藍の方を見ずに言った。


「建物内に複数の熱源を確認。正面側に六、二階通路に二、奥の管理棟付近に三。地下に近い位置にも一名、反応があります」


「東雲葵さんですか」


「判定不能です。拘束されている可能性のある低活動熱源が一つあります」


「分かりました」


 藍は視線を廃工場へ向ける。


「戌井涼さんは正面から。こよみは右側面から侵入し、二階通路を制圧してください。私は恋と左側から入り、東雲葵さんの安全を確認します」


「藍様」


「はい」


「桜川さんの護衛優先度は」


「最優先です」


「了解しました」


「ちょ、ちょっと待ってください」


 恋は思わず声を上げた。


「私、藍さんと行くんですか」


「はい」


「こよみさんと一緒の方が安全では?」


「こよみは制圧に回ります。あなたが同行すると危険です」


「藍さんは?」


「私は非戦闘型ですが、回避と状況判断は可能です」


「それ、安全なんですか」


「安全とは言えません」


「言えないんですね」


「ですが、最善です」


 恋は、最善という言葉がこんなに信用できないこともあるのだと知った。


 戌井は、そのやり取りを聞いていたが、特に何も言わなかった。


 ただ、廃工場の正面入口の前で足を止め、竹刀袋から竹刀を取り出した。


 特注の竹刀。


 外見だけなら、部活動で使うものと大きくは変わらない。


 だが、それを握った瞬間、戌井涼という存在の輪郭が変わった。


「邪魔だ」


 短い言葉と同時に、戌井は扉を蹴った。


 錆びついた鉄扉が、内側へ吹き飛ぶ。


 轟音。


 埃。


 その音に反応して、建物内の影が一斉に動いた。


 普通なら、そこから銃声か悲鳴が続くはずだった。


 だが、最初に響いたのは、竹刀が空気を裂く音だった。


     *


 戌井涼の突入は、戦闘というより、解体に近かった。


 殺しではない。


 だが、優しくもない。


 正面入口から飛び出してきた男が懐から刃物を抜くより早く、戌井の竹刀が手首を叩き、刃物が床に落ちる前にその男の膝が砕かれ、続いて背後から飛びかかろうとした別の男の顎へ竹刀の柄が入り、意識を刈り取られた身体が古いコンクリートの床へ崩れ落ちた。


 その一連の動きに、無駄はなかった。


 骨を砕き、関節を外し、呼吸を奪い、意識を落とす。


 殺さないという選択は、弱さではない。


 この場においては、むしろ異常な制御だった。


「来たぞ!」


「戌井だ!」


「囲め!」


 叫び声が重なる。


 だが、その声の中には、恐怖が混じっていた。


 里の人間なら知っている。


 戌井涼という名前が、何を意味するのかを。


 歴代最高傑作。


 怪物。


 その怪物が、竹刀一本で真正面から入ってきた。


 それだけで、罠を張った側の足元が揺らいでいた。


「なんなんだよ、この化物!!」


 戌井は答えなかった。


 返事の代わりに、一歩踏み込む。


 その一歩で間合いが消える。


 男の肘が折れ、肩が外れ、足払いで身体が宙を舞い、壁に叩きつけられる。


 戌井涼は、殺さずに敵を潰していく。


 その光景は、かえって残酷ですらあった。


     *


 同じ頃、建物の裏手では、音無緋色が割れた窓枠から内部へ滑り込んでいた。


 音はなかった。


 足場にした鉄骨も、踏み込んだコンクリートも、彼女の存在を鳴らさない。


 正面で戌井が暴れているせいで、建物内の注意はほとんどそちらへ向いている。雪代こよみが側面から突入したことで二階通路も混乱し、榊原藍と桜川恋が左側の通路へ入った気配もある。


 戌井涼を殺す。


 それが、いつもの目的だった。


 しかし今だけは違う。


 この状況を作った連中を殺す。


 戌井涼を獲物としてしか見ていない不愉快な連中を、まず始末する。


 それが先だった。


 奥の管理棟へ続く通路には、見張りが二人いた。


 片方は正面の騒ぎに気を取られ、もう片方は通信機に向かって何かを叫んでいる。


 緋色は、二人の間を抜けるように進んだ。


 ひとり目の首元に刃を滑らせ、倒れる前に身体を支え、音が出ないよう壁際へ沈める。


「な、なんだお前――」


 ふたり目が振り向く。


 遅い。


 緋色の手が胸元へ入り、短い刃が心臓の位置を正確に貫く。


 男は声を出せないまま膝をつき、緋色はその目が完全に濁る前に、もう次の扉へ向かっていた。


 そこに迷いはなかった。


 殺さないために手間をかける戌井とは違う。


 緋色は、殺すために最短を選ぶ。


 痛みも、恐怖も、後悔も、与えることに興味はない。


 ただ、相手を終わらせる。


 それだけだった。


 管理棟の奥、低い活動熱源があった部屋の扉には、古い電子錠と、後付けの南京錠が二重にかけられていた。


 緋色は電子錠を無視し、蝶番の隙間へ刃を入れて金具を壊した。


 扉が少しだけ開く。


 中には、東雲葵がいた。


 椅子に縛られ、両腕を後ろで拘束され、口元には布が噛まされている。


 制服は乱れていたが、大きな怪我はない。


 それでも目だけは死んでいなかった。


 むしろ、扉から入ってきた緋色を、噛み殺さんばかりの目で睨んでいた。


 緋色は、その目を見て少しだけ足を止めた。


 この女が。


 戌井涼の隣にいる女。


 戌井涼が、殺しを捨ててまで普通の場所に立っている理由。


 この女が、戌井を変えたのか。


 そう思った。


 思った瞬間、胸の奥に小さな棘のようなものが刺さった。


 嫉妬なのか、怒りなのか、興味なのか、自分でも分からない。


 だが、今はそれを考える時間ではなかった。


 緋色は葵の口元の布を外した。


「っ、お前、一年か」


 解放された瞬間、葵は低く唸るように言った。


 怯えはなかった。


 拘束されているくせに、今すぐ噛みついてきそうな声だった。


「黙ってろ」


「あ?」


「助けに来たわけじゃない。こいつらの計画を潰しに来ただけ」


 緋色はそう言いながら、拘束を切った。


 縄が落ちる。


 葵は腕を前に戻し、手首を軽く回した。


 痛みはあるのだろう。


 だが、顔には出さない。


「……戌井のやつは」


「来てる」


 その一言で、葵の表情が変わった。


 怒りが少しだけ引き、代わりに別の感情が浮かぶ。


 安堵に近いもの。


 けれど、それを認めたくないように、葵はすぐに舌打ちした。


「あの馬鹿、ひとりで来たのか」


「ひとりじゃない」


「誰がいる」


「私が知るか」


 葵は立ち上がろうとして、足元が少しふらついた。


 薬でも使われていたのかもしれない。


 緋色はそれを見て、顔をしかめる。


「動けないのか」


「誰に聞いてんだ」


「動けないなら置いていく」


「動けるに決まってんだろ」


 葵は椅子の背を蹴るようにして立ち上がった。


 その瞬間、通路の向こうから足音が近づいてきた。


 三人。


 いや、四人。


 正面の騒ぎに気づき、こちらへ戻ってきた殺し屋たちだった。


「中に誰か来てるぞ!」


「人質を――」


 最後まで言わせなかった。


 緋色が扉の影から飛び出す。


 ひとり目の喉を裂き、ふたり目の刃を手首ごと逸らしながら胸を刺し、三人目が銃を抜こうとするより早く、床を蹴って距離を潰す。


 銃声は鳴らなかった。


 鳴る前に、男の指が動かなくなったからだ。


 葵は、その光景を黙って見ていた。


 普通の人間なら、目を背ける。


 悲鳴を上げる。


 吐くかもしれない。


 だが、東雲葵は顔をしかめただけだった。


 元暴力団頭首の娘。


 そういう世界に全く触れずに生きてきたわけではない。


 それでも、目の前の少女の殺し方は、その世界の暴力とは質が違っていた。


 速く、静かで、何より迷いがない。


「てめえ……」


 葵が低く言う。


「まさか」


「そう」


「私は戌井と同じ」


 緋色は、それだけ言った。


 葵の目が細くなる。


「同じ、だと」


「でも、違う」


 緋色は倒れた男たちを見下ろした。


「私は戌井じゃない」


 葵は、その言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。


 だが、遠くから聞こえる音が、その説明になっていた。


 正面側では、戌井涼が敵を倒している。


 骨を折り、関節を潰し、意識を奪い、それでも命だけは残している。


 こちら側では、音無緋色が敵を殺している。


 必要な分だけ近づき、必要な場所を刺し、二度と立ち上がれない形で終わらせている。


 同じ里から来た二人。


 同じ殺しの技術を持つ二人。


 けれど、今選んでいる道は、真逆だった。


「戌井が人を殺さなくなったのは、あんたのせいなのか?」


 緋色が唐突に聞いた。


 葵は一瞬だけ黙った。


「……お前に答える義理はねえよ」


「そう」


「知りたいのか」


「分からない」


 緋色は、少しだけ葵を見た。


 その目は、さっきまで人を殺していた時よりも、ずっと迷子のようだった。


「でも、あんたを見れば分かるかと思った」


「は?」


「何でもない」


 足音がまた近づく。


 今度はもっと多い。


 緋色は刃を握り直した。


「下がってろ、邪魔だから」


「てめえな」


 葵が言い返そうとした瞬間、通路の向こうから男たちが飛び込んできた。


 緋色は、もう葵を見ていなかった。


 その身体が低く沈む。


 次の瞬間、音無緋色は殺し屋の群れの中へ消えた。


     *


 正面ホールでは、戌井涼が最後の一人を床へ叩き伏せていた。


 竹刀の先が、男の喉元で止まる。


 殺そうと思えば、今ので終わっていた。


 だが、戌井はそれをしない。


 喉を潰す代わりに、男の顎を軽く打ち、意識だけを落とした。


 床には、倒れた男たちが転がっている。


 呻き声。


 折れた骨を押さえる音。


 逃げようとして動けない足。


 だが、死体はない。


 戌井が通った場所には、命だけが残されている。


 それが戌井涼の選んだ不殺だった。


 美しいものではない。


 優しいものでもない。


 ただ、彼が殺さないと決めた結果だった。


「戌井さん」


 藍の声が通信越しに響く。


「葵さんの位置を確認しました。管理棟奥です。ただし、既に拘束は解除されています」


「葵が?」


「はい。別の介入者がいます」


「……音無か」


「可能性が高いです」


 戌井は、ほんのわずかに目を閉じた。


 音無緋色。


 やはり来たか、という顔だった。


「急ぎますか」


「急ぐ」


「分かりました。恋、こちらへ」


 通信の向こうで、恋の「はい」という声が聞こえた。


 戌井は竹刀を握り直し、管理棟へ続く通路へ向かう。


 その先で、空気が変わっていた。


 血の匂い。


 殺しの気配。


 それは、自分が捨てたはずの場所から流れてくる匂いだった。


 戌井涼は、それを知っている。


 音無緋色が通った後だ。


 自分が殺さずに進んだ道の反対側で、音無緋色は殺して進んでいる。


 それは、かつて同じ場所で育った二人の、今の差だった。


 戌井は走った。


 葵のために。


 そして、自分が捨てたはずのものが、まだ自分の背中を追っていることを、もう一度確かめるために。

 

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