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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第3章 戌
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第25話

 屋上には、まだ誰かが残っていた。


 榊原藍たちが立ち去った後も、フェンスの影の向こう、貯水槽へ続く配管の陰で、音無緋色は気配を殺したまま膝を抱えていた。最初からそこにいたのだ。見るつもりだったわけではない。ただ、戌井涼を追っていたら、この場所に辿り着いてしまった。


 音無緋色にとって、戌井涼の行動を追うことは、呼吸に近い。意味があるからではない。意味を探すために、そうしている。あの男が何を見て、何を守り、何を捨てたのか。それを知れば、自分の中に残り続けている空白の正体が分かる気がしていた。


 だが、今見たものは、緋色の理解を越えていた。


「……何がどうなってる」


 小さく呟く。


 さっき現れた男の動きには、見覚えがあった。跳び方、間合いの取り方、気配の殺し方、声の置き方。そのどれもが普通の人間のものではなく、緋色にとっては嫌というほど知っているものだった。


「見ていたのか」


 背後から声がした。


 緋色は振り向かなかった。屋上の給水塔の影にもう一人いることには、最初から気づいていた。いや、正確には、殺気を隠す癖が同じだったから、すぐに分かった。


 そいつもまた、『同じ場所』から来た人間だった。


「お前も見てただろ」


 緋色が言うと、男は低く笑った。


「相変わらず愛想がねえな、音無」


「馴れ馴れしく呼ばないで」


「同郷だろ」


「……」


 緋色は、そこでようやく振り返った。


 男は屋上の手すりに片足をかけ、軽薄そうに笑っていた。制服ではない。年齢も生徒ではない。緋色より少し上か、あるいはもっと上か。『里』の人間は年齢が分かりにくい。鍛え方が歪だからだ。


 普通に生きている人間の顔ではない。


 死ぬことと殺すことの両方を、日常として教え込まれた顔だった。緋色はその顔が嫌いだった。そこに、自分と同じものを感じるから。


 里。


 それは正式な地名ではなかった。地図にも載っておらず、記録にも残らない。戦後間もない時代から山間部の奥に存在していた、殺し屋を育てるための養成所。


 孤児、捨て子、戸籍のない子供、家族に売られた子供。社会の表から消えても誰も探さない子供たちを集め、国の要人や権力者の影に仕える暗殺者として育て上げる場所だった。


 そこでは、名前より先に技術を教えられた。


 呼吸を殺す方法。足音を消す方法。人の急所。逃走経路。拷問への耐性。毒の扱い。刃物の重さ。そして、人を殺すことに心を揺らさない方法。


 子供たちは、生き残るために競わされた。選ばれるために競わされた。同じ世代の中で最も優秀な者には、名誉ある名字が与えられる。


 ーー戌井。


 代々、里の頂点に立つ者の名。役職でもあり、称号でもあり、呪いでもある名字。


 戌井涼は、その七十八代目だった。


 歴代最高傑作。


 そう呼ばれていた。


 里の大人たちは、戌井涼の動きを見る時だけ声を潜めた。あれは完成品だ。あれ以上の暗殺者は、もう二度と作れないかもしれない。そんな言葉を、緋色は遠くから何度も聞いていた。


 戌井涼は、殺しの才能だけでできた人間のようだった。


 無駄がなく、迷いがなく、怖れもない。人を殺すために必要なものだけを集め、それ以外をすべて捨てたような存在だった。


 だからこそ、緋色は憧れた。


 いつか自分も、そこへ行けると思っていた。自分にも殺しの才能しかなかった。ならば、その道を極めればいい。他に何もないなら、何もないなりに、一番上へ行けばいい。


 卒業直前だった。


 緋色は、次の戌井になるはずだった。少なくとも、自分ではそう信じていた。同世代の誰よりも早く、正確に、静かに殺せた。大人たちも否定しなかった。緋色には才能がある。戌井の名に届くかもしれない。そう言われていた。


 だが、その直前で、すべてが終わった。


 戌井涼が戻ってきた。


 そして、自分以外の戌井を殺した。


 過去の戌井。里から離れた戌井。里に根を張っていた、名を継いだ者たち。里の中で神聖視されていたその名前を、戌井涼は片端から殺していった。


 それから、里を壊した。


 音もなく、淡々と、まるで自分の影を消すように。


 その日から、里は里ではなくなった。大人たちは散り、生き残った子供たちは外へ放り出され、古い掟も序列も意味を失った。


 緋色に与えられるはずだった名字も、そこで消えた。


 戌井。


 自分が手を伸ばしていたもの。


 殺しの才能しかない自分が、それでも何かになれると思っていた証。


 それを奪ったのは、他の誰でもない。戌井涼だった。


 しかもその後、戌井涼は人を殺すことをやめた。


 緋色には理解できなかった。


 殺しの才能しかないはずの人間が、殺しを捨てた。里の最高傑作が、普通の高校生の顔をして、のうのうと生きている。そんなことが許されるのか、緋色には分からなかった。


 自分と同じはずだった。


 同じく、殺すことしかできないはずだった。


 なのに戌井涼は、平凡な生活を受け入れているように見えた。

 自分だけが、まだ里に囚われている。戌井という名に囚われている。殺しの才能しかない自分から、一歩も出られずにいる。


 なぜなのか。


 戌井の名を得れば、分かるのか。戌井涼を殺せば、分かるのか。あの男が捨てたものを、自分が奪い直せば、自分にも何かが見えるのか。



「ーーおい、聞いてんのか」


 男の声で、緋色は思考を戻した。


 目の前の男は、さっきから変わらず笑っている。軽く、薄く、何も背負っていない顔だった。


「さっきのやつ、見たろ。あいつも里の生き残りだ。俺らと同じだよ」


「……同じ?」


「それにしても、運がいい。あの戌井涼が、こんな分かりやすく動くなんてな」


「……」


「東雲葵だっけか。あの女を使えば、戌井は必ず出てくる。あいつは変わったって噂だったが、結局守るものができただけだ。守るものがあるやつは、殺しやすい」


 緋色の目が、少しだけ細くなった。


 男は気づかない。


「俺たちで組めばいける。あの戌井涼を殺す、またとないチャンスだ」


「組む?」


「ああ。俺とお前と、さっきのやつも合わせれば三人。他にも数人いる。戌井を殺せば、名は売れる。里の残党連中にも顔が利く。何より、あいつにはまだ賞金を懸けてる連中がいる。相当な額だぞ」



  その言葉を聞いた時、緋色の中で何かが冷めた。


 この男が見ている戌井涼は、緋色が見ているものとは違う。この男にとって戌井涼は、ただの獲物だった。自分の価値を上げるための踏み台であり、殺し屋としての箔をつけるための標的でしかない。


 違う。


 緋色にとって、戌井涼はもっと深い場所にある。


 憎しみ。執着。憧れ。答え。


 自分という存在の、いちばん底に沈んでいる名前。


 それを、賞金目当ての軽い口で語られたくなかった。


「お前も欲しいだろ。戌井の名前」


 男は笑った。


「今さら本物の継承なんてねえけどよ、あいつを殺したやつが次の戌井だ。そう名乗ればいい。俺らはそのために――」


「もういい」


 緋色は言った。


 男が止まる。


「あ?」


「もういい」


  次の瞬間、緋色は男の懐に入っていた。


 男の反応は遅くなかった。何度も修羅場を潜り抜けてきた猛者らしく、すぐに腰の刃物へ手を伸ばした。だが、それよりも緋色の方が速い。


 短い音がした。


 男の身体が、わずかに揺れる。


 緋色はそのまま一歩離れた。


 男は何かを言おうとしたが、声にはならなかった。膝が折れ、屋上の床へ崩れる。


 緋色は、倒れた男を見下ろした。


 顔に怒りはなかった。哀れみもない。ただ、不要になったものを確認する目だった。


「負け犬に、用はない」


 男は動かない。


 緋色は刃を袖の中へ戻した。


 風が吹き、屋上のフェンスが小さく鳴る。


 緋色は、校舎の向こうへ視線を向けた。戌井涼は東雲葵を助けに行く。なら、この先には必ず戦いがある。戌井涼が本気で動く。その事実だけで、緋色の胸の奥に沈んでいたものが、静かに熱を持った。


「……戌井」


 小さく、その名を呼ぶ。


 自分には殺しの才能しかない。ならば、殺すことでしか確かめられない。戌井涼を殺せば何かが分かるのか、それとも何も分からないまま終わるのか。


 どちらでもよかった。


 答えは、あの男の中にしかない。


 緋色は倒れた男へ一瞥もくれず、屋上の端へ歩いた。そして、さっきの男たちと同じようにフェンスを越えると、夕方の校舎の外壁へ音もなく身を躍らせた。


 戌井涼の背中を、もう一度追うために。

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