第24話
それから数日、表面上は何も起こらなかった。
音無緋色は、少なくとも恋の前には現れなかったし、戌井涼もまた、あの渡り廊下での問いを繰り返しに来ることはなかった。
それが平穏なのか、単に嵐の前の空白なのか、恋には判断できなかった。
ただ、学校という場所は残酷なくらいいつも通りだった。授業はあり、昼休みはあり、部活動はあり、生徒会室には相変わらず書類が積まれている。翌日には小テストもある。
日常とは、たぶんそういうものなのだろう。
異常を上から塗り潰すのではなく、異常の隣で平然と続いてしまうもの。
だから恋は、その日の放課後も、いつものように榊原藍と並んで廊下を歩いていた。
場所は特別棟へ続く二階の廊下だった。
生徒会室へ向かう途中、藍が少し遠回りになるはずの経路を選んだ理由を、恋は聞かなかった。聞いても「こちらの方が人通りが少ないためです」とか「風紀委員会の動線確認を兼ねています」とか、納得できるようなできないような返事が返ってくるに決まっている。
榊原藍は、そういう人だ。
何かをしている時でも、していないような顔をして歩く。
「恋」
「はい」
「先ほどから、歩幅が少し狭くなっています」
「……分かるんですか」
「はい」
「さすがにちょっと怖いです」
「すみません。緊張していますか?」
「してます」
恋は正直に答えた。
ここ数日、廊下を歩くたびに背後を少しだけ気にしている。そのせいで、自分が想像以上に疲れていることも分かっていた。
「戌井さんの件ですか」
「それもあります」
「音無さんの件も」
「はい」
藍はそれ以上、すぐには言わなかった。気遣われているというより、必要な言葉を選んでいるようだった。その沈黙が、恋には少しだけありがたい。
だが、次の角を曲がったところで、恋の足は止まった。
廊下の先に、戌井涼が立っていた。
竹刀袋を肩にかけた長身。風紀委員の腕章。いつもの、余計なものを削ぎ落としたような立ち姿。向こうも、こちらに気づいていた。
戌井は数秒、藍と恋を見た。それから、ほんのわずかに目を伏せる。声をかけるべきか、このまま通り過ぎるべきか、あるいは今この場で何かを問うべきか。その判断を、彼なりにしているように見えた。
恋は無意識に、藍の半歩後ろへ下がった。
自分でも情けないと思ったが、身体が勝手にそうした。戌井はその動きも見ていた。けれど何も言わず、やがて短く口を開いた。
「榊原」
「はい」
藍は立ち止まった。
声はいつも通りだった。相手が戌井涼でも、恐れるでも身構えるでもない。かといって、油断しているわけでもない。ただ、相手が何を言うかを待っている。
戌井は少しだけ間を置いてから言った。
「聞きたいことがある」
以前、恋に向けた時と同じ言葉だった。
だが、今度は相手が違う。榊原藍本人だ。
恋の胸が、少しだけ強く鳴った。
藍はすぐには返事をしなかった。珍しく、ほんの少しだけ考えるような素振りを見せる。それは一秒にも満たない間だったが、恋には分かった。
藍は迷った。
ここで話すか。場所を変えるか。どこまで話すか。それを、一瞬で判断したのだ。
「では、屋上で話をしましょうか」
藍は静かに言った。
「ここでは、人目があります」
「分かった」
戌井はそれだけ答えた。
恋は反射的に藍を見る。
「私も、ですか」
「はい」
「え、でも」
「恋にも関係のある話です」
そう言われると、何も言えない。戌井も否定しなかった。それどころか、恋がいることも最初から前提にしていたような顔をしている。
だから恋は、諦めて頷いた。
屋上。
入学してから、自分は何度この場所へ連れていかれればいいのだろう。そう思いながらも、恋は藍と戌井の後を追った。
*
屋上には、夕方の風が吹いていた。
あの日と同じように、校庭の方から運動部の声が遠く聞こえる。フェンスの影が床へ斜めに伸び、空はまだ明るいが、光の色だけが少しずつ薄くなり始めていた。
恋にとって、屋上とはそういう場所だった。
全ての始まり。自分が普通の学校生活から、少しずつ普通ではない側へ踏み込んでいった場所。
「この場所は、よく使うのか」
戌井がふと聞いた。視線はフェンスの向こうへ向いている。
「比較的」
藍が答える。
「話し合いには向いています。風があり、視界が広く、第三者の接近も把握しやすい」
「屋上をそういう理由で選ぶ人、初めて見ました」
恋が思わず言うと、藍は少しだけこちらを見る。
「恋も、ここを選んだことがあります」
「私はそこまで考えてませんでした」
「そうですか」
戌井は二人のやり取りを聞いていたが、特に反応しなかった。ただ、屋上の中央付近まで歩き、そこで足を止める。
藍はその正面に立った。
恋は、二人から少し離れた位置に立つ。近すぎると怖い。離れすぎると、何か起きた時にもっと怖い。結局、中途半端な距離になった。
「それで」
藍が言った。
「聞きたいこととは何でしょうか」
戌井は少しだけ黙った。
風が、三人の間を抜ける。
それから、彼は言った。
「お前の目的は何だ」
以前よりも、少しだけ問いが変わっていた。
目的。
恋は息を詰めた。
藍は、静かに戌井を見返していた。
「目的、ですか」
「ああ」
「青葉第二高等学校の生徒会長としての目的であれば、学校運営の正常化と生徒の安全確保です」
「そういう話じゃない」
「では、榊原藍という個体としての目的、でしょうか」
戌井の目が少しだけ細くなった。
「分かっているなら答えろ」
藍はすぐには答えなかった。
沈黙が落ちる。
恋は藍の横顔を見た。いつもの表情だった。読めない。けれど、何も考えていない顔ではない。
「私は、自分が何のために存在するのかを観察しています」
藍は言った。
「目的というより、問いに近いですね」
「問い?」
「はい」
「質問の答えになっていない」
「そうですね」
藍の返事は、あまりにも静かだった。だから余計に、どこまで本気なのか分からない。
恋でさえそう思った。戌井なら、もっとそうだろう。
「お前は、自分の目的も分からないまま動いているのか」
「完全には」
「それだけの力を持っていて?」
「はい」
「危険だな」
「そうかもしれません」
恋は、胸の奥が少しだけ冷たくなるのを感じた。
否定してほしかったのかもしれない。
私は危険ではありません、と。人間の敵ではありません、と。そう言ってほしかったのかもしれない。
けれど藍は、そういう慰めを口にしない。自分が危険になり得る存在だという事実を、本人が一番よく知っている。
戌井は藍を見ていた。
長い沈黙の後で、彼は低く言った。
「どこまで本気で言っている」
「全て本気です」
「本気で、自分の目的が問いだと?」
「はい」
戌井はそこで、静かに竹刀袋へ手をかけた。
恋の呼吸が止まる。
「戌井先輩」
声が震えた。戌井は恋を見なかった。
竹刀袋の紐を解き、中から竹刀を取り出す。
それは普通の竹刀に見えた。
戌井が構える。
竹刀の先が、榊原藍へ向けられた。
藍は動かなかった。表情も変わらない。
「脅しですか」
「そうだと言ったら?」
「私は戦闘能力が高くありません」
「分かっている」
「では、何をお望みですか」
「それは――」
戌井が言った。その言葉の意味を、恋が理解する前だった。
屋上の外側から、何かが飛び上がってきた。
白い影が、校舎の壁面を蹴り、フェンスの上を越え、音もなく屋上へ着地する。
雪代こよみだった。
白い髪が夕方の光を弾き、青い瞳が戌井だけを捉えている。その両手には、黒いライフルが握られていた。
恋がそれを銃だと理解するより早く、こよみは銃床を肩へ収めていた。動きに迷いがない。制服姿の小柄な少女が持つにはあまりにも物騒なものなのに、こよみの手の中にあると、それは最初から彼女の身体の一部だったように見えた。
「藍様から離れてください」
こよみの声は平坦だった。
戌井は竹刀を構えたまま、視線だけをこよみに向ける。
「銃か」
「警告は一度のみです」
次の瞬間、乾いた破裂音が屋上に跳ねた。
恋は肩を竦めた。音がした時には、戌井はもうそこにいない。半歩、横へずれている。弾丸は戌井の足元を掠め、黒い床面を削って小さな破片を散らした。
狙いを外したのではない。
戌井が、撃たれる前に避けていた。
こよみの銃口が追い、二発目、三発目が続けて放たれる。銃声が連続するたび、屋上の空気が薄く裂けた。恋の耳が遅れて痛む。火薬の匂いのようなものが鼻の奥に引っかかり、思わず息を止めた。
戌井は走らなかった。跳ぶことも、大きく身を伏せることもない。足を置く場所だけを変え、肩をずらし、首を引き、竹刀の柄で弾道そのものではなく、こよみの銃口の向きをわずかに押し流している。
それだけで、弾は戌井に当たらなかった。
フェンスの金網が鳴り、床が抉れる。竹刀の先端が銃身の横を叩き、金属が軋む音がした。
こよみは銃口を弾かれた瞬間、引き金から指を外していた。暴発しない。体勢を崩さない。右足を軸に回転し、銃床を短く振って戌井の側頭部を狙う。
戌井は竹刀を立てた。
銃床と竹刀がぶつかる。軽い音ではなかった。乾いた竹の音と、黒い金属の鈍い音が重なり、屋上の床を震わせる。
恋は、ただ見ていた。
目の前で起きていることを、頭が追いきれない。こよみは人間ではない動きで撃ち、詰め、打つ。銃を遠距離の道具としてだけ使っていない。撃つ距離を潰された瞬間には、銃そのものを棒のように使い、さらに銃口を戻してまた撃つ。
普通なら、一度でも触れられた時点で終わっている。
けれど、戌井涼は終わらない。
竹刀一本で、こよみの射線を殺している。撃たせる前にずれ、撃たれた後にはもうそこにいない。銃声の直後にしか、恋には弾の行き先が分からない。けれど戌井は、弾が出る前からその先を知っているようだった。
こよみが低く踏み込んだ。
銃口が戌井の膝へ落ちる。戌井の竹刀が下がる。だが弾は出なかった。
こよみは撃つと見せかけて、そのまま銃身を横へ払う。狙いは足ではなく、戌井の竹刀を持つ手首。金属の先端が、鋭く空気を切った。
戌井の手が消えたように見えた。
次の瞬間、竹刀の柄がライフルの下側に入り、てこのように持ち上げる。こよみの銃口が空へ跳ね、遅れて銃声が響いた。弾丸は夕方の空へ消え、どこか遠くの結界に当たったような鈍い音だけを残す。
こよみの青い瞳が、わずかに細くなった。
戌井は一歩踏み込んでいた。距離が近い。近すぎる。ライフルを構えるには近く、竹刀を振るうには十分な距離だった。
戌井の竹刀が、こよみの喉元へ伸びる。
こよみは銃身を縦に立てて受けた。竹刀が金属に当たり、滑る。戌井はその滑りまで読んでいたように、柄尻でこよみの胴を狙った。
こよみは半身を引く。柄尻が制服の前を掠め、布が小さく裂けた。
恋の息が止まる。
次の瞬間、こよみの膝が戌井の腹へ向かって跳ねた。人間の関節では出ない角度だった。戌井は竹刀を一瞬だけ引き、膝の軌道を柄で逸らす。直撃はしない。だが、衝撃だけで戌井の制服が揺れた。
それでも、戌井の足は動かない。
こよみが後方へ跳んだ。
着地と同時にライフルを構え直し、銃口が戌井の眉間へ向く。今度は距離がある。撃てば避けられるのか、恋には分からない。
分からないが、戌井は静かに竹刀を構えた。竹刀の先は、相変わらず細く、真っ直ぐで、普通の竹刀にしか見えない。
こよみの指が引き金へかかる。
空気が張りつめた。
「こよみ」
藍の声が響いた。
大きな声ではない。けれど、その声だけで、こよみの指が止まった。
銃口は戌井の眉間を捉えたまま、ぴたりと動かなかった。
引き金にかかったこよみの指は、あとほんの少し力を込めれば弾丸を放つ位置で止まっている。撃つ寸前の姿勢のまま、白い髪だけが夕方の風にかすかに揺れていた。
戌井の竹刀もまた、半歩踏み込めばこよみの喉へ届く位置で静止していた。
「停止してください」
「しかし、藍様」
「彼には殺意がありません」
藍は、断じるように言った。
「敵対行動ではありません」
銃口の先で、戌井がわずかに息を吐いた。
こよみは数秒だけ、そのまま動かなかった。青い瞳は戌井を測り続けている。恋には、まだ撃つべきか、撃たないべきか、その判断を内部で走らせているように見えた。
「……承知しました」
こよみはようやくライフルを下ろした。
ただし、それは戦闘を完全に終えたというより、銃口を安全な方向へ落としただけだった。手は離さず、肩の力も抜いていない。戌井が一歩でも妙な動きをすれば、次の瞬間にはまた構え直せる姿勢のままだった。
戌井も竹刀を下げた。
「いいのか」
「これ以上の戦闘は必要がありませんので。それに、あのまま続けていたら重傷を負うのはこちら側でした」
「そうか」
戌井は、こよみを見た。それから藍を見る。
「なら、試そうとした俺が悪い」
あっさりとした言葉だった。謝罪というより、事実確認に近い。
恋は、そこでようやく息を吐いた。
「……もう、やめてください。本当に」
「すまない」
戌井は短く言った。
謝罪に大きな感情は乗っていない。それでも、冗談でも、その場しのぎでもないことは分かった。戌井涼という人は、きっとこういうふうにしか謝れないのだろう。
こよみはまだ警戒を解いていなかったが。
藍はそのこよみへ視線を向ける。
「こよみ。待機を」
「はい」
屋上には、奇妙な停戦の空気が流れた。ほんの数十秒前まで、銃声と竹刀の音が交錯していたとは思えないほど、夕方の風だけが静かに吹いている。床には弾痕が残り、フェンスの金網は一部が歪み、こよみの制服の前には小さな裂け目ができていた。
恋は、藍と戌井とこよみを順番に見た。
誰も笑わない。誰も怒鳴らない。けれど、全員が普通ではない。
そのことだけが、嫌になるほどはっきりしていた。
「戌井涼さん」
藍が言った。
「あなたが私を警戒する理由は理解しました」
「そうか」
「ただし、現時点で私は、東雲葵さんに危害を加える意思はありませんので、そこはご安心ください」
戌井の目が、わずかに動いた。
初めて、明確な反応だった。
恋もそれに気づいた。
もしや、と。
戌井涼が本当に聞きたかったのは、人間の敵かどうかではなかったのだ。榊原藍が世界にとってどういう存在か。人類にとって危険か。そういう大きな話ではなく、もっと個人的で、もっと近くて、だからこそ口に出せなかった問い。
東雲葵に、危害を加えるつもりはあるのか。
きっと、戌井涼にとってはそれが一番重要だった。
「……なぜ分かった」
戌井が言った。
「あなたの問いと行動を照合すれば、推測できます」
「そうか」
「はい」
戌井は、少しだけ視線を逸らした。
それは本当に一瞬だった。照れている、というほど分かりやすいものではない。けれど、自分でも言葉にしたくなかった部分を正確に言い当てられて、少しだけ居心地が悪くなったような反応だった。
榊原藍は、こういうところが怖い。
相手が隠したがっているものに、淡々と手を伸ばしてしまう。
だが、今の藍の声には、責める響きはなかった。
「東雲葵さんは、私にとっても友人です」
藍は言った。
恋は少し驚いた。
友人。
榊原藍の口からその言葉が出ることが、まだ少し意外だった。藍が誰かを大切にしていないわけではない。むしろ、何度も助けている。それでも藍自身がその関係を「友人」と呼ぶのを聞くと、胸の中で何かが少しだけ引っかかった。
「友人、か」
戌井が短く返す。
「はい」
「お前がそう言うと、意味が少し分からなくなる」
「私も、正確にはまだ学習中です」
「そうか」
戌井は、それ以上は言わなかった。
だが、さっきまでの空気よりは少しだけ柔らかくなっていた。少なくとも、今すぐまた戦う空気ではない。
恋がようやく肩の力を抜きかけた、その時だった。
「――失礼する」
声は、屋上の扉からではなかった。
フェンスの外側。
校舎の外壁側。
普通なら立てるはずのない場所に、人影があった。
誰も扉から来ていない。階段の音もなかった。いつの間にか、そこにいた。黒っぽい服に身を包み、顔の半分を覆うようなマスクをつけた男。年齢は分からないが、その立ち姿だけで学校の人間ではないと分かる異物感があった。
「何者だ」
戌井涼が男に声をかける。
こよみが即座に前へ出た。ライフルはまだ手元にある。戌井も竹刀を構え直す。
藍の表情が、わずかに変わった。
男は、戌井だけを見ていた。
「戌井涼」
低い声だった。
「お前の隣にいたガキはこちらが預かった」
「……なんだと?」
屋上の空気が、凍った。
恋は、すぐには意味が分からなかった。
『隣にいたガキ』
それが誰を指すのか、理解するまでに一拍かかった。
東雲葵。
その名前が頭に浮かんだ瞬間、戌井の空気が変わった。
先ほどまでの試すような静けさではない。もっと低く、もっと鋭い。感情が見えないまま、殺気だけが形を持ったような空気が、屋上の床を這うように広がっていく。
「何と言った」
戌井の声は、静かだった。
静かすぎた。
男は笑ったようだった。マスクのせいで表情は見えない。だが、声に含まれた薄い笑みだけは分かった。
「返してほしければ、指定した場所まで来い」
「場所は」
戌井が問う。
男は小さな端末のようなものを投げた。
それは屋上の床を滑り、戌井の足元で止まる。
「そこに入っている」
戌井は視線だけを落とした。
「来なければ、あのガキの身体が少しずつ減る」
恋の背筋が凍った。
こよみの目が、明確に冷たくなる。藍は男を見ていた。何かを解析しているのか、それとも既に別の情報網を動かしているのか、赤い瞳だけがわずかに細くなる。
だが、男はそれ以上この場に留まらなかった。
「待ちなさい」
こよみが動こうとした瞬間、男はフェンスの外側を蹴った。
跳んだ。
校舎の屋上から、隣の棟へ。
人間の跳躍ではなかった。足場もない空間を、まるで獣のように飛び越え、向こう側の壁面を蹴り、さらに下の方へ消えていく。
こよみが追おうとした。
「こよみ」
藍の声が、それを止めた。
「追跡は不要です」
「しかし」
「彼は陽動です。今追っても、東雲葵さんには辿り着きません」
「……承知しました」
こよみは悔しさを表に出さなかった。だが、ライフルを握る指に少しだけ力が入っていた。
戌井は、足元の端末を拾った。
画面を開く。
そこに表示された地図を見た瞬間、彼はもう動こうとしていた。
「行く」
「待ってください」
藍が言った。
戌井は振り返らない。
「待てない」
「ひとりで向かえば、相手の思惑通りです」
「それでも行く」
「東雲葵さんを助ける成功率が下がります」
その言葉で、戌井の足が止まった。
恋は息を呑む。
藍は続けた。
「あなたは強い。ですが、今回の相手はあなたが来ることを前提にしています。東雲葵さんを人質に取った時点で、あなたの行動もある程度予測している」
「だから何だ」
「私たちも行きます」
戌井が、ようやく振り返った。
「お前が?」
「はい」
「これは俺の問題だ」
「いいえ」
藍の声は、いつもより少しだけ硬かった。
「東雲葵さんは本校の生徒であり、私の友人でもあります」
戌井は黙った。
「生徒会長として、今回の事態を見過ごすことはできません」
藍は、一歩だけ前へ出た。
夕方の風が黒髪を揺らす。
「それに、あなたひとりを行かせることもできません」
「俺は一人で構わない」
「あなたがそれを望んでいることは理解しています。ですが、東雲葵さんの安全を最優先するなら、協力すべきです」
「……」
「戌井涼さん」
藍は静かに言った。
「ここは、あなたの意地を通す場面ではありません」
戌井の目が、わずかに鋭くなった。
だが、反論はしなかった。
恋は、藍の横顔を見る。
さっき、藍は言った。東雲葵は友人だと。その言葉がただの社交辞令ではなかったことを、恋は今ようやく実感した。
榊原藍は、人間ではない。人間の敵かどうかも、恋にはまだ分からない。
けれど今この瞬間、彼女は東雲葵を助けに行こうとしている。
生徒会長として。
そして、友人として。
「こよみ」
「はい、藍様」
「現在位置の推定を。端末の発信源、周辺監視網、校外カメラ、交通ログを照合してください」
「既に開始しています」
「恋」
「は、はい」
急に呼ばれて、恋は背筋を伸ばした。
「今から危険な所へ向かいます。あなたも同行してくれますか」
「私は……」
行ったところで、足手まといになる。
そう言いかけて、恋は口を閉じた。
戌井涼と雪代こよみが動くような場所に、自分がついていけるはずがない。それは分かっている。それでも藍は、恋の顔を見ていた。拒絶を責める目ではない。必要だから尋ねている目だった。
「恋」
「はい」
「あなたにも、必要な役割があります」
「……分かりました」
恋は頷いた。
怖くないわけがない。
むしろ、怖いに決まっている。
けれど、ここで自分だけが降りるという選択肢を、どうしても選べなかった。
戌井は端末を握りしめたまま、まだ藍を見ている。
「なぜそこまでする」
「先ほど申し上げました」
「友人だから、か」
「はい」
「お前が、それを言うか」
「私が言ってはいけませんか」
「……いや」
戌井は短く息を吐いた。
「今はそれでいい」
「はい。今は東雲葵さんの救出が優先です」
「なら行くぞ」
「はい」




