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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第3章 戌
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23/41

第23話

 別室の扉が閉まる。小さな電子音。外の気配が遠のく。


 恋は椅子に座らず、立ったまま言った。



「戌井先輩に、聞かれました」


 声に出してから、恋は自分の喉が思っていた以上に乾いていることに気づいた。


 別室の中は静かだった。生徒会室の奥にある小さな部屋で、普段は来客対応や機密性の高い話をするときに使われるらしい。恋にとっては、何か面倒なことが起きたときに連れ込まれる部屋、という認識になりつつあった。


 扉の外には鶴見と不破がいるはずだが、音はほとんど入ってこない。遮音性が高いのだろう。そういうところまで妙にしっかりしているのが、青葉第二の生徒会室らしい。


 藍は恋の正面に立っていた。


 椅子に座るよう促すこともできたはずなのに、今はそれをしない。恋が立ったまま話そうとしていることを、そのまま受け取っているのだろう。


 こよみは扉の横に控えている。端末は持っているが、まだ記録を始めている様子はない。少なくとも、恋の目にはそう見えた。


「何を聞かれましたか」


「藍さんが、何者なのかって」


 言った瞬間、藍の表情は変わらなかった。


 驚かない。


 困らない。


 嫌そうにもしない。


 まるで、いつかそういう問いが来ることを最初から知っていたみたいだった。


「それから」


 恋は唾を飲んだ。


 ここから先を口にするのが、一番重かった。


「榊原藍は、人間の敵か、って」


 こよみの指が、端末の側面に軽く触れた。


 それだけだった。


 藍は少しだけ目を伏せた。


「そうですか」


「そうですか、じゃないです」


 思わず声が強くなった。


 恋自身も驚いたが、止まらなかった。


「藍さん、驚かないんですか」


「戌井涼さんであれば、そう判断しても不思議ではありません」


「不思議ではない、って……」


「彼は観察能力が高い方です。私が通常の人間と異なることを、明確な根拠なしに察知していてもおかしくありません」


 あまりにも淡々としていた。


 恋は、それが少しだけ腹立たしかった。


 自分はさっきまで、廊下でナイフが飛ぶような現場にいて、戌井涼から重すぎる問いを投げられて、息が切れるほど走ってここまで来たのに、藍はもうその可能性を整理済みの項目みたいに扱っている。


「それと、音無緋色さんが戌井先輩に切りかかってました」


 こよみが顔を上げた。


「音無緋色さんが」


「はい。同じ一年の……たぶん、音無さんです。ナイフを持ってて、戌井先輩に向かって」


「負傷者は?」


「多分、いないです。戌井先輩が全部止めてました。というか……普通に止めてました」


 普通に、という言葉がこれほど似合わない状況もなかった。


 ナイフを投げられ、即座に弾き、接近されても半歩動くだけで避け、手首を掴んで止める。あれを普通と呼ぶなら、普通という言葉の方が壊れている。


「音無緋色さんは、戌井涼さんと同じ出自で、ある因縁を持っているように見受けられます」


 こよみが静かに言った。


「同じ出自……?」


「はい。詳細は別途説明しますが、彼女は戌井涼さんを殺害対象として認識しています」


「学校でですか」


「はい」


「高校生ですよね」


「はい」


「何でそんな人が普通に学校にいるんですか」


 問いは半分悲鳴だった。


 藍は少しだけ首を傾けた。


「青葉第二高等学校には、そういった事情を持つ生徒が一定数存在します」


「一定数で済ませないでください」


「すみません」


 謝罪は丁寧だったが、内容が何一つ改善されていない。


 恋は額に手を当てた。


 この学校は進学校ではなかったのか。


 少なくとも、自分が受験したときにはそういう説明だったはずだ。


「とりあえず、戌井先輩は藍さんを疑ってるんですよね」


「その可能性は高いです」


「それって、危なくないんですか」


「戌井涼さんが即座に敵対行動を取る可能性は低いと判断します」


「どうしてですか」


「彼は、無差別に動く人物ではありません。現時点では情報を求めている段階です」


 藍の声は、やはり冷静だった。


 けれど、その冷静さは無関心とは少し違った。


 恋はそこに気づいて、言葉を飲み込む。


 藍は、戌井涼を軽く見ているわけではない。


 むしろ、かなり正確に危険な存在として評価している。


 そのうえで、まだ動く必要はないと言っているのだ。


「戌井先輩に聞かれたこと、答えられませんでした」


「はい」


「藍さんは、人間の敵なんですか」


 自分で言ってから、恋は胸が苦しくなった。


 問いを藍にぶつけるつもりはなかった。


 けれど、戌井に問われた言葉が、ずっと頭の中に残っていた。残って、形を変えずにそこに居座っている。


 藍はすぐには答えなかった。


 数秒の沈黙。


 その沈黙の間に、こよみも何も言わなかった。


「その問いに、私が答えることは適切ではありません」


「……適切じゃない?」


「はい。私が自分を人間の敵ではないと定義しても、それは私自身の自己申告にすぎません」


「でも」


「恋」


 藍の声が、少しだけ柔らかくなった。


「あなたが見て、判断してください」


 その言葉は、初めて会ったあのときから何度も聞いてきた種類のものだった。


 見ろ。


 判断しろ。


 疑え。


 藍は、自分を信じろとは言わない。


 それが優しさなのか、誠実さなのか、それとも単にそういう設計なのか、恋にはまだ分からない。


「……一旦、どうするんですか」


「様子を見ます」


「様子見」


「はい。戌井涼さんについては、東雲葵さんの管轄でもあります。こちらから過度に介入すれば、風紀委員会との関係にも影響します」


「音無さんは?」


「同様です。現時点では、戌井涼さん個人への執着が主です。学校全体への危険度は限定的と判断します」


「限定的って、刃物を持ってましたけど」


「はい。ですので、完全な放置ではありません。こよみ」


「はい、藍様」


「音無緋色さんの動向記録を一段階上げてください。戌井涼さんとの接触時は即時通知」


「承知しました」


 こよみの端末に指が走る。


 その動きの速さを見ながら、恋は少しだけ安心して、それと同じくらい不安になった。


 藍たちはきっと対応できる。


 でも、対応できるということは、つまり最初からそういう事態を想定しているということでもある。


「恋」


「はい」


「あなたは、今日はもう帰っても構いません」


「……いえ。少しだけ、外の空気吸ってきます」


「分かりました」


「生徒会室の外の廊下です。校外には出ません」


「はい」


「逃げませんから」


「そうですか」


 藍はそれ以上止めなかった。


 こよみも何も言わない。


 恋は別室の扉を開け、生徒会室を通り抜けた。鶴見がこちらを見たが、何も聞かなかった。不破も同じだった。二人とも、こういうときに踏み込まない距離感を知っているのだろう。


 廊下に出ると、空気が少しだけ軽くなった気がした。


 実際には、校舎の廊下の空気が生徒会室より軽いわけではない。けれど、閉じた部屋の中で「人間の敵」という言葉を抱えているよりは、ずっと息がしやすかった。


 恋は窓際まで歩き、外を見た。


 夕方の校庭では、まだ部活動の声が響いている。


 野球部の掛け声。どこかでボールが跳ねる音。遠くの体育館から聞こえるシューズの摩擦音。


 何も知らない人が見れば、ただの放課後だった。


 でも恋はもう、そこにいる人たちのうち何人が普通ではないのか、分からなくなっていた。


「……何でこうなるかな」


 小さく呟いた、その直後だった。


 背後に、気配が立った。


 恋が振り向くより早く、冷たいものが首筋のすぐ横に当たった。


「――――ひっ」


 動けなかった。


 刃物だと、直感で分かった。


「お前は戌井涼と、どういう関係」


 耳元で、低い声がした。


 音無緋色だった。


 声は近い。


 けれど、息遣いはほとんど聞こえない。


 さっき渡り廊下で見たときと同じ、存在感の薄い少女が、今は恋の背後に立っている。ナイフを、首の近くに突きつけたまま。


「……わ、わたしは、何も、関係ないです」


 恋は両手を上げた。


 声が震えた。


 震えない方がおかしい。


「じゃあ、さっき話していたのは」


「話しかけられただけです。私からじゃないです」


「何を聞かれた」


「せ、生徒会長について……」


 刃が、ほんの少しだけ動いた気がした。


 恋は息を止める。


「戌井涼と、お前は知り合い?」


「し、知り合いじゃないです。今日初めてまともに話しました」


「本当か」


「嘘じゃないです。本当に、何も知らないです。戌井先輩のことも、音無さんのことも、今日までほとんど知りませんでした」


 沈黙。


 首筋の冷たさだけが、やけに鮮明だった。


 恋は自分の心臓の音が聞こえる気がした。下手に動けば切られる。叫んでも、多分それより早くこの少女は動く。そう思わせるだけの何かが、音無緋色にはあった。


「……そう」


 ナイフが離れた。


 恋はようやく息を吸った。


 振り向くと、音無緋色は数歩離れた場所に立っていた。黒い髪が顔にかかっていて、目だけが暗くこちらを見ている。


 制服姿の一年生。


 それだけなら、どこにでもいる生徒に見える。


 けれど、手の中のナイフだけが、その普通を完全に壊していた。


「あの」


 声をかけた自分に、恋は内心で驚いた。


 逃げればいい。


 すぐに生徒会室へ戻ればいい。


 そう分かっているのに、口が動いていた。


「あなたは何で、戌井先輩を襲ったんですか」


 音無は答えなかった。


 ただ、恋を見る。


 その視線には怒りも困惑もなかった。


 空っぽというより、底が深すぎて何も見えない感じだった。


「お前には関係ない」


「でも、学校でナイフなんて」


「関係ない」


 同じ言葉。


 同じ声。


 そこで終わりだと告げる声だった。


「戌井涼は、私が殺す」


 音無はそれだけ言った。


 あまりにも静かで、あまりにも当たり前みたいな言い方だった。


 恋は何も返せなかった。


 音無はナイフを袖の中へ消した。どういう仕組みなのか、恋には見えなかった。次の瞬間には、もう彼女の手には何もない。


「お前は関係ないなら、関わらない方がいい」


「……それは、忠告ですか」


「さあ」


 音無は興味なさそうに言った。


「邪魔するなら、殺す」


 それだけ残して、彼女は歩き出した。


 走らない。


 急がない。


 ただ、廊下の影に溶けるみたいに、音もなく離れていく。


 恋はしばらくその場から動けなかった。


 首筋に残った冷たさが、まだ消えない。


 生徒会室はすぐそこだった。


 けれど、戻るには少しだけ時間が必要だった。


 また藍に報告しなければならない。


 さっき様子見と決めたばかりなのに、その様子見の対象が即座に背後からナイフを突きつけてきた。


 今日という日は、もう終わってほしい。


 恋は窓枠に手をつき、ゆっくり息を吐いた。


     *


 風紀委員室に戻ったとき、戌井涼の制服には乱れひとつなかった。


 竹刀袋を肩にかけたまま、いつも通りの足取りで部屋に入る。中には東雲葵がいた。机の上には押収物の確認リストと、今日の荷物検査の報告書が広げられている。


 葵は椅子に腰掛け、書類を眺めていたが、戌井が入ってきたことにはすぐ気づいた。


「遅かったな」


「ああ」


「何かあったか」


「別に」


 短い返答だった。


 普通の相手なら、そこで明らかに何かを隠していると分かるだろう。


 だが、戌井涼の傾向は既に東雲葵は把握している。何かあっても別に。何もなくても別に。怪我をしても別に。大問題が起きても、東雲葵に直接関係しないと判断すれば別に。


 こういう状態の戌井から何かを聞き出そうとしても、無意味ということも含めて東雲葵は理解している。

 

 だから葵は一瞬だけ戌井を見て、それ以上追及しなかった。


「そうか」


 それで終わりだった。


 その距離感は、主従というには少し違う。


 友人というには、たぶんもっと不器用だ。


 葵は戌井を雇っている。戌井は葵の用心棒である。


 だが、それだけでは説明できないものが、今の少ないやり取りにはあった。


 葵は書類に視線を戻す。


「今日の荷物検査、三年の化粧品持ち込みが多すぎる。あいつら最高学年になったからって気抜きすぎだろ」


「そうか」


「あと馬鹿な二年がカードゲーム持ってきてた。没収したら泣きそうな顔してたから、反省文を条件に返してやったよ」


「甘いな」


「あたしは優しいからな」


「そうか」


「そこは否定するところだろ」


 葵が少しだけ笑う。


 葵は雑に言って、椅子にもたれた。


 口調は荒い。態度も大きい。


 けれど、そこにあるのは校内の揉め事を面倒がりながらも見捨てない人間の温度だった。


 戌井は、それを知っている。


 東雲葵は、家柄こそ特殊だ。


 元暴力団頭首の娘。


 普通の高校生としては、あまりにも背負っているものが重い。


 だが、それでも彼女は普通の人間だった。少なくとも、戌井の側から見れば。こちら側の人間ではない。


 にも関わらず、戌井が何者であるかを知った上で、葵は戌井を自分の近くに置いている。


 人を殺すために育てられた化物。


 常識の外側で生きてきた異能。


 それを全て理解した上で、葵は戌井を用心棒として隣に置いている。


 信じているのか。


 利用しているのか。


 それとも、そのどちらでもあるのか。


 戌井には、今でもうまく判断できない。


 ただ一つ分かっているのは、葵をこちら側へ踏み込ませるべきではないということだった。


 異能。


 異常。


 人外。


 そういう言葉でしか説明できないものが、この世界には多すぎる。


「ったく、藍のやつまた面倒な案件持ってきやがって」


 東雲葵はいつものことと言わんばかりに悪態をつく。


 榊原藍のことを、葵はまだ知らない。


 生徒会長としての能力が異常に高いこと、学校の内側に妙な影響力を持っていること。


 葵が知っているのは、その程度だ。


 それでいい。


 戌井はそう思っている。


 葵は、こちら側にあまり深入りすべきではない。


 慣れてしまえば、踏み込む。


 踏み込めば、傷つく。


 それは、戌井がいちばん避けたいことだった。


 だからこそ、葵に何かが起こる前に、自分が対処する。これまでも、これからも。


「何見てんだ」


 葵の声で、戌井は意識を戻した。


 気づけば、ほんの数秒葵の事を見ていた。


 だが、葵は見逃さなかったらしい。


「……別に」


「今日そればっかだな、お前」


「そうか」


「そうだよ」


 葵は少しだけ眉をひそめた。


「疲れてんなら帰れ。剣道部の方も大会近いんだろ」


「問題ない」


「問題あるやつほどそう言うんだよ」


「問題ない」


「はいはい」


 やはり葵は、それ以上言わなかった。自分が気を遣っているのを理解しているのか、過度に自分を含め、こちら側に踏み込まないようにしている。


 戌井は、机の横に立ったまま、窓の外へ視線を向けた。


 榊原藍は、人間の敵か。


 そう聞いた。


 だが、本当に知りたかったのは、その言葉ほど大きなものではなかったのかもしれない。


 人類の敵。


 世界の危機。


 そんな抽象的な問いは、戌井には本来どうでもいい。


 戌井は世界を守るために剣を振るう人間ではない。


 正義のためでも、秩序のためでもない。


 ただ、守ると決めたものの近くに立っているだけだ。


 だから本当は、聞きたかったのは一つだけだった。


 榊原藍は、東雲葵に害をなす存在か。


 だが、その名前を出すのは、なぜかできなかった。自分が何を守ろうとしているのかを、あまりにもはっきり言葉にしてしまう気がした。


 だから、問いは大きくなった。


 人間の敵か、などという、自分でも少し持て余すような形になった。


 戌井は、その不器用さを自覚している。


 自覚していても、直せるわけではない。


 榊原藍は不気味だ。


 普通の人間ではない。


 そして、ただ普通ではないだけならともかく、何かを動かす力を持っている。


 詳しくは分からない。


 だが、戌井の勘は、それを放置していいものではないと告げていた。


 今すぐ斬る必要はない。


 今すぐ敵と決める必要もない。


 しかし、もし榊原藍が葵に害をなすなら。


 その時は、迷わない。


「涼」


「何だ」


「今度はちゃんと返事したな」


「……」


 葵は机に頬杖をつき、少しだけ呆れたように笑った。


「お前、たまに考え込むと露骨なんだよ」


「そうか」


「そうだ」


「気をつける」


「別に気をつけなくていい。何かあるなら、そのうち言え」


 そのうち。


 今ではなくていい、という言い方だった。


 葵らしい乱暴さで、葵らしい距離の取り方だった。


 戌井は短く頷いた。


「分かった」


「本当に分かってんのか」


「……多分」


「そこは即答しろよ」


 葵は鼻で笑い、また書類に目を落とした。


 風紀委員室には、しばらく紙をめくる音だけが残った。


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