第22話
それは、放課後の渡り廊下でのことだった。
桜川恋は生徒会室へ向かう途中だった。部活動が始まる時間帯で、校舎と特別棟を繋ぐ渡り廊下には人がまばらだ。窓の外から運動部の掛け声がかすかに聞こえる。
いつもの放課後だ。
そう思っていた。
「桜川」
背後から名前を呼ばれた。
低い声だった。
聞いた瞬間、足が止まった。意識的に止めたのではない。身体が勝手に反応した。
振り向く。
渡り廊下の向こう側に、戌井涼が立っていた。
竹刀袋を肩にかけた長身の姿。制服に風紀委員の腕章。無駄のない立ち方。乾いた目。
違ったのは、あの荷物検査の朝は通り過ぎるだけだった視線が、今は明確にこちらを捉えていることだ。
「……戌井、先輩」
恋は自分の声が少し固くなるのを感じた。
戌井は距離を詰めなかった。五メートルほど離れた位置から、恋を見ている。それだけのことなのに、妙に空気が重い。
「少し、聞きたいことがある」
短かった。
前置きがない。東雲葵のように圧で押してくるわけでもないし、神津晶のように勢いで話を進めるわけでもない。ただ事実だけを置く。
「……何ですか」
「榊原藍は、何者だ」
恋の呼吸が、一拍止まった。
直球すぎる問いだった。
「何者、って——」
「そのままの意味だ」
戌井の声に感情はなかった。怒りでも敵意でもない。単に、必要な情報を求めている。
「お前は知っているだろう」
恋は黙った。
否定すべきか、誤魔化すべきか、一瞬だけ迷う。だが、戌井涼を前にして薄い嘘が通用する気がしなかった。この人は見ている。恋の表情も、呼吸も、たぶん指先の動きまで。
「……何で、そんなことを聞くんですか」
「あれは普通の人間じゃない」
断定だった。
「……それくらいは分かる。分かった上で放っておいていた。俺がどうこうする話じゃないからな」
淡々としている。そこに嫌悪も好奇心もない。ただ、知っている、という事実だけがある。
「だが、最近少し気になることが増えた」
「気になること……ですか」
「お前の周りで色々な事が起こっている。――いや、お前の隣にいる『榊原藍』の周りで、と言った方が正しいか」
恋の胸が、ざわついた。
光里の件まで気づいているのか。全容ではないにしても、何かが起きたことには。
「それで」
戌井は続けた。
「俺が聞きたいのは一つだ」
赤茶の目が、恋をまっすぐ射抜く。
「榊原藍は、人間の敵か」
恋は息を詰めた。
人間の敵。
その問いの重さが、じわじわと胸に広がる。
藍を「何者か」と聞かれたなら、恋にはまだ答えようがあったかもしれない。AIだ、と。人間ではない、と。しかし、敵か味方かと聞かれると——。
恋は藍を信じているか。
完全には信じていない。藍自身がそれを許容している。疑え、と。見ろ、と。
だが、敵かと聞かれたら。
「……」
言葉が出てこなかった。
戌井は急かさなかった。ただ待っている。その待ち方に苛立ちはない。答えが出るまで、必要なだけ待つ。
恋が口を開きかけた、その時だった。
「——!!!」
空気が裂けた。
比喩ではない。物理的に、何かが空気を割って飛んできた。
鋭い金属音がした。
恋が声を上げる前に、戌井が動いていた。竹刀袋から竹刀を抜くことすらしていない。肩にかけた袋ごと、横へ振った。
がん、と乾いた音。
竹刀袋の先端で、何かを弾いた。弾かれたものが床を滑り、壁際で止まる。
小さなナイフだった。
恋は凍りついた。
渡り廊下の反対側——特別棟の入口から、一人の少女が姿を現した。
「……やっと見つけた」
小柄だった。恋より少し背が低いくらいだろうか。黒い髪を無造作に下ろしていて、制服は着ているが着こなしに気を遣っている様子がない。目立たない。むしろ、意図的に目立たないようにしている。
その目だけが、暗かった。
暗いというより、深い。底が見えない種類の暗さだ。
恋は一瞬だけ、その顔に見覚えがあった。同じ一年。教室の端の方に座っていて、誰とも話しているのを見たことがない——。
たしか、音無——音無緋色、だったか——。
その少女が動いた。
音がなかった。地面を蹴る音も、服が擦れる音もなく、気づいた時にはもう距離が詰まっていた。手の中に、もう一本のナイフが握られている。
恋に向かってではない。
戌井涼に向かって。
金属が空気を切る音がした。
戌井は半歩だけ横へずれた。たったそれだけの動きで、ナイフが空を切った。
少女は止まらなかった。最初の一撃を外したことに動揺した様子もなく、即座に二撃目。左手に持ったもう一本のナイフが、低い軌道で戌井の腹部を狙う。
「……ちっ」
戌井は竹刀袋を左手に持ち替え、右手で相手の手首を掴んだ。
掴む動作自体が見えなかった。少女のナイフが止まった瞬間だけが見えた。
「……久しぶりだな」
戌井が言った。
その声に、驚きはなかった。怒りもなかった。ただ、事実を確認する声だった。
少女は掴まれた手首を引き抜こうとした。だが戌井の手は動かない。
「離せ」
少女の声は低く、静かだった。
「離せば続けるだろう」
「当然」
暗い目が戌井を見上げる。
「戌井涼、お前を殺すのに、場所は関係ない」
殺す。
その言葉を、恋は確かに聞いた。
恋は壁際に張り付くようにして立っていた。足が動かない。頭は動いているのに、身体が追いつかない。
同級生が、三年生に、ナイフで襲いかかっている。
しかもその三年生は、竹刀袋ひとつでそれを捌いている。
どちらも普通ではない。
どちらも、明らかに普通ではない。
「……勝手にしろ」
戌井は少女の手首を放した。
放した瞬間、少女が後方へ跳ぶ。距離を取って、もう一度構える。両手にナイフ。低い姿勢。獣のような——いや、それにしては正確すぎる構え方。
少女の目が、一瞬だけ揺れた。怒りか、悲しみか、恋には判別できなかった。
「舐めやがって」
風が吹いて、窓の向こうの木が揺れる。運動部の掛け声が聞こえる。何もかもが平常のはずなのに、恋の中ではまだ心臓が暴れていた。
戌井は竹刀袋を肩にかけ直す。何事もなかったみたいに。
「……」
互いに見つめ合う2人。言葉を交わすよりも先に、斬撃が飛び交いそうな殺気だった空間で、恋はハッとする。
藍に伝えなければ。
何を伝えればいいのかも分からないが、とにかく藍のもとに行かなければならないと思った。戌井が藍のことを探っていることを、藍に伝えなければ。
(とにかく、ここから逃げないと……!)
「——死ねッ!!戌井涼!」
音無緋色が再びナイフを戌井に突き刺そうと腕を振り抜く。それと同時に、恋は走り出した。普通なら戌井に走って追いつかれただろう。しかし、今は普通の空間ではない。奇しくも音無緋色が戌井を足止めしてくれているうちに、恋は急いでこの場を去っていた。
一方の戌井はというと、振り抜かれたナイフをいなしながら、走り去って行く恋の後ろ姿を黙ったままじっと見つめていた。
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廊下を走る足音が、自分の耳に遠く聞こえた。
心臓はまだ速い。
けれど足は止まらなかった。
生徒会室の扉を勢いよく開けた時、中にいた全員が恋を見た。
鶴見が紙から顔を上げ、不破がタブレットを下ろし、こよみが端末の手を止めた。
藍がこちらを見る。
「恋。どうしましたか」
恋は肩で息をしていた。
「藍さん——少し、話が——」
藍は恋の表情を一瞬で読み取ったらしい。すぐに立ち上がった。
「別室で」
こよみが無言で扉を開け、恋を奥の部屋へ促す。
鶴見と不破は何も聞かなかった。




