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電脳空想少女  作者: 榊原藍
第3章 戌
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第22話

 それは、放課後の渡り廊下でのことだった。


 桜川恋は生徒会室へ向かう途中だった。部活動が始まる時間帯で、校舎と特別棟を繋ぐ渡り廊下には人がまばらだ。窓の外から運動部の掛け声がかすかに聞こえる。


 いつもの放課後だ。


 そう思っていた。


「桜川」


 背後から名前を呼ばれた。


 低い声だった。


 聞いた瞬間、足が止まった。意識的に止めたのではない。身体が勝手に反応した。


 振り向く。


 渡り廊下の向こう側に、戌井涼が立っていた。


 竹刀袋を肩にかけた長身の姿。制服に風紀委員の腕章。無駄のない立ち方。乾いた目。


 違ったのは、あの荷物検査の朝は通り過ぎるだけだった視線が、今は明確にこちらを捉えていることだ。


「……戌井、先輩」


 恋は自分の声が少し固くなるのを感じた。


 戌井は距離を詰めなかった。五メートルほど離れた位置から、恋を見ている。それだけのことなのに、妙に空気が重い。


「少し、聞きたいことがある」


 短かった。


 前置きがない。東雲葵のように圧で押してくるわけでもないし、神津晶のように勢いで話を進めるわけでもない。ただ事実だけを置く。


「……何ですか」


「榊原藍は、何者だ」


 恋の呼吸が、一拍止まった。


 直球すぎる問いだった。


「何者、って——」


「そのままの意味だ」


 戌井の声に感情はなかった。怒りでも敵意でもない。単に、必要な情報を求めている。


「お前は知っているだろう」


 恋は黙った。


 否定すべきか、誤魔化すべきか、一瞬だけ迷う。だが、戌井涼を前にして薄い嘘が通用する気がしなかった。この人は見ている。恋の表情も、呼吸も、たぶん指先の動きまで。


「……何で、そんなことを聞くんですか」


「あれは普通の人間じゃない」


 断定だった。


「……それくらいは分かる。分かった上で放っておいていた。俺がどうこうする話じゃないからな」


 淡々としている。そこに嫌悪も好奇心もない。ただ、知っている、という事実だけがある。


「だが、最近少し気になることが増えた」


「気になること……ですか」


「お前の周りで色々な事が起こっている。――いや、お前の隣にいる『榊原藍』の周りで、と言った方が正しいか」


 恋の胸が、ざわついた。


 光里の件まで気づいているのか。全容ではないにしても、何かが起きたことには。


「それで」


 戌井は続けた。


「俺が聞きたいのは一つだ」


 赤茶の目が、恋をまっすぐ射抜く。


「榊原藍は、人間の敵か」


 恋は息を詰めた。


 人間の敵。


 その問いの重さが、じわじわと胸に広がる。


 藍を「何者か」と聞かれたなら、恋にはまだ答えようがあったかもしれない。AIだ、と。人間ではない、と。しかし、敵か味方かと聞かれると——。


 恋は藍を信じているか。


 完全には信じていない。藍自身がそれを許容している。疑え、と。見ろ、と。


 だが、敵かと聞かれたら。


「……」


 言葉が出てこなかった。


 戌井は急かさなかった。ただ待っている。その待ち方に苛立ちはない。答えが出るまで、必要なだけ待つ。


 恋が口を開きかけた、その時だった。


「——!!!」


 空気が裂けた。


 比喩ではない。物理的に、何かが空気を割って飛んできた。


 鋭い金属音がした。


 恋が声を上げる前に、戌井が動いていた。竹刀袋から竹刀を抜くことすらしていない。肩にかけた袋ごと、横へ振った。


 がん、と乾いた音。


 竹刀袋の先端で、何かを弾いた。弾かれたものが床を滑り、壁際で止まる。


 小さなナイフだった。


 恋は凍りついた。


 渡り廊下の反対側——特別棟の入口から、一人の少女が姿を現した。


「……やっと見つけた」


 小柄だった。恋より少し背が低いくらいだろうか。黒い髪を無造作に下ろしていて、制服は着ているが着こなしに気を遣っている様子がない。目立たない。むしろ、意図的に目立たないようにしている。


 その目だけが、暗かった。


 暗いというより、深い。底が見えない種類の暗さだ。


 恋は一瞬だけ、その顔に見覚えがあった。同じ一年。教室の端の方に座っていて、誰とも話しているのを見たことがない——。


 たしか、音無——音無緋色(おとなし ひいろ)、だったか——。


 その少女が動いた。


 音がなかった。地面を蹴る音も、服が擦れる音もなく、気づいた時にはもう距離が詰まっていた。手の中に、もう一本のナイフが握られている。


 恋に向かってではない。


 戌井涼に向かって。


 金属が空気を切る音がした。


 戌井は半歩だけ横へずれた。たったそれだけの動きで、ナイフが空を切った。


 少女は止まらなかった。最初の一撃を外したことに動揺した様子もなく、即座に二撃目。左手に持ったもう一本のナイフが、低い軌道で戌井の腹部を狙う。


「……ちっ」


 戌井は竹刀袋を左手に持ち替え、右手で相手の手首を掴んだ。


 掴む動作自体が見えなかった。少女のナイフが止まった瞬間だけが見えた。


「……久しぶりだな」


 戌井が言った。


 その声に、驚きはなかった。怒りもなかった。ただ、事実を確認する声だった。


 少女は掴まれた手首を引き抜こうとした。だが戌井の手は動かない。


「離せ」


 少女の声は低く、静かだった。


「離せば続けるだろう」


「当然」


 暗い目が戌井を見上げる。


「戌井涼、お前を殺すのに、場所は関係ない」


 殺す。


 その言葉を、恋は確かに聞いた。


 恋は壁際に張り付くようにして立っていた。足が動かない。頭は動いているのに、身体が追いつかない。


 同級生が、三年生に、ナイフで襲いかかっている。


 しかもその三年生は、竹刀袋ひとつでそれを捌いている。


 どちらも普通ではない。


 どちらも、明らかに普通ではない。


「……勝手にしろ」


 戌井は少女の手首を放した。


 放した瞬間、少女が後方へ跳ぶ。距離を取って、もう一度構える。両手にナイフ。低い姿勢。獣のような——いや、それにしては正確すぎる構え方。


 少女の目が、一瞬だけ揺れた。怒りか、悲しみか、恋には判別できなかった。


「舐めやがって」


 風が吹いて、窓の向こうの木が揺れる。運動部の掛け声が聞こえる。何もかもが平常のはずなのに、恋の中ではまだ心臓が暴れていた。


 戌井は竹刀袋を肩にかけ直す。何事もなかったみたいに。


「……」


 互いに見つめ合う2人。言葉を交わすよりも先に、斬撃が飛び交いそうな殺気だった空間で、恋はハッとする。


 藍に伝えなければ。


 何を伝えればいいのかも分からないが、とにかく藍のもとに行かなければならないと思った。戌井が藍のことを探っていることを、藍に伝えなければ。


(とにかく、ここから逃げないと……!)


「——死ねッ!!戌井涼!」

 

 音無緋色が再びナイフを戌井に突き刺そうと腕を振り抜く。それと同時に、恋は走り出した。普通なら戌井に走って追いつかれただろう。しかし、今は普通の空間ではない。奇しくも音無緋色が戌井を足止めしてくれているうちに、恋は急いでこの場を去っていた。

 一方の戌井はというと、振り抜かれたナイフをいなしながら、走り去って行く恋の後ろ姿を黙ったままじっと見つめていた。



 

 -----


 廊下を走る足音が、自分の耳に遠く聞こえた。


 心臓はまだ速い。


 けれど足は止まらなかった。


 生徒会室の扉を勢いよく開けた時、中にいた全員が恋を見た。


 鶴見が紙から顔を上げ、不破がタブレットを下ろし、こよみが端末の手を止めた。


 藍がこちらを見る。


「恋。どうしましたか」


 恋は肩で息をしていた。


「藍さん——少し、話が——」


 藍は恋の表情を一瞬で読み取ったらしい。すぐに立ち上がった。


「別室で」


 こよみが無言で扉を開け、恋を奥の部屋へ促す。


 鶴見と不破は何も聞かなかった。


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