第17話
恋と光里は、路地の陰に座り込んでいた。
こよみが男たちの前に立ちはだかってから数分は経ったが、いまだに自分たちを追いかける足音は聞こえてこない。おそらくこよみが制圧したのだろう。二人は狭い路地の壁に背を預けて、隣同士で座っていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
恋の手は、まだ少し震えていた。銃口を向けられた時の恐怖が、身体から抜けきっていない。
光里は膝を抱えていた。顔が見えない。金色の髪が垂れて、表情を隠している。
最初に口を開いたのは、光里だった。
「……ごめん」
くぐもった声だった。
「ごめんね、恋」
「何が」
「全部。隠してたこと。巻き込んだこと。こんなの見せたこと」
光里が顔を上げた。
目が赤い。泣いたのか、泣きそうなのか、恋には判別がつかなかった。
「私ね、ずっと知ってたの。自分が普通じゃないって」
「……」
「去年、事故に遭って、重傷で、それで……何かされた。詳しいことは分からない。分からないけど、目が覚めた時には、もう前と同じ身体じゃなかった」
光里の声は、いつもの明るさが全部剥がれ落ちていた。
「力が強い。反応が速い。ぶつけても痣ができない。撃たれても……今みたいに、平気」
最後の言葉で、光里の声が震えた。
「そんなの、人間じゃないでしょ」
恋は黙って聞いていた。
「恋の隣にいる時だけ、忘れられたの。私が何なのかを。恋は私のこと、普通に友達だと思ってくれてたから。それがどれだけ嬉しかったか」
光里の目から、涙が一筋落ちた。
「でももう無理。恋に知られた。こんな姿を見られた。もう、一緒にはいられない」
「何で」
恋が言った。
静かな声だった。
「何で、一緒にいられないの」
「だって——」
「さっき、私を庇ったでしょ」
光里が息を呑む。
「撃たれるって分かって、私の前に立ったでしょ。弾が当たっても、まず私に”走って”って言ったでしょ」
「それは」
「それは何。普通の人間じゃないからできたって言いたいの」
「……そう、だよ。普通の人間じゃないから——」
「違う」
恋の声が、はっきりと割って入った。
「普通の人間じゃなくても、咄嗟に人を庇えるかどうかは別の話でしょ」
光里が目を見開いた。
恋は光里をまっすぐ見ていた。
目が少し赤い。恋も泣きそうだったのかもしれない。けれど泣いてはいない。
「幼馴染を舐めないでよ」
その一言は、恋の声にしては珍しく、強かった。
「光里の身体が普通じゃないことくらい、もう分かってる。昨日から分かりかけてた。金属箱を片手で受け止めて、手に傷もなくて、あの重さなのに平気な顔してた。おかしいって思ったよ。思ったけど——」
恋は一度息を吸った。
「でも、それで光里が光里じゃなくなるわけじゃないでしょ」
光里が唇を噛む。
「恋。私は——」
「光里は光里でしょ」
遮った。
「うるさくて、距離が近くて、勝手に卵焼き食べて、すぐ人の予定に割り込んでくる。そういう光里は全部本物でしょ。身体の中に何が入ってようが関係ない」
「でも隠してた。ずっと——」
「知ってる。怒ってるよ、それは」
恋の声が少しだけ震えた。
「隠されてたのは悔しいし、信じてもらえなかったのかと思うと腹が立つ。でもね」
恋は光里の方へ少しだけ身を寄せた。
「光里が隠してた理由も、何となく分かるから。一緒にいられなくなるって、ずっと怖かったんでしょ」
光里の涙が、また落ちた。
「……怖かった」
「でしょうね」
「ずっと、ずっと怖かった。恋に嫌われるのが。気味悪がられるのが。友達じゃいられなくなるのが」
「なんないよ」
恋はぶっきらぼうに言った。
「ならないから。友達は友達。光里が人間じゃなくても、そんなので変わるような付き合いしてないでしょ、私たち」
光里が、ぐしゃりと顔を歪めた。
泣いていた。声を殺して、肩を震わせて、子どもみたいに泣いていた。
恋は何も言わなかった。
ただ隣に座って、光里の肩が震えるのを感じていた。
路地の向こうで、こよみが静かに立っている事に気がついた。金槌は折りたたまれ、ライフルはジャケットの下に戻されていた。いつもの雪代こよみの姿に戻っている。
こよみの青い瞳が、一瞬だけ恋と光里を見た。
その目に何があったのか、恋には分からなかった。けれど、少なくとも、すぐに割って入ろうとはしなかった。
光里が泣き止むまで、少し時間がかかった。
やがて、鼻をすすりながら、光里が掠れた声で言った。
「……恋」
「何」
「ほんとに、いいの」
「何が」
「こんな私で」
恋は少しだけ考えた。
「こんな光里しか知らないから、比較対象がない」
「……何その返し」
「事実」
「ひどい」
「光里がひどいこと言うから同じくらいひどく返した」
光里が泣き笑いの顔をした。
その顔は、ぐしゃぐしゃで、鼻が赤くて、全然綺麗じゃなかった。
けれど、それが一番、光里だった。
「帰ろう」
恋が立ち上がる。
光里に手を差し出した。
「明日も学校だし」
「……うん」
光里はその手を取った。
握り返す力が、やっぱり少しだけ人間とは違った。
でも、温かかった。
*
その夜。
雪代こよみは、生徒会室の別室で通信を繋いでいた。
モニターには何も映っていない。音声だけの通話だ。
「藍様。現場の処理が完了しました」
『ご苦労様です。桜川さんと古角さんは』
「桜川さんのご自宅まで見届けました。古角さんも同伴で、桜川さんが送り届けたようです。二人とも身体的な怪我はありません」
『そうですか』
藍の声は静かだった。
「回収した端末の解析結果ですが」
こよみは手元の画面に視線を落とす。
「四名はいずれも末端の実行要員です。古角さんの正体については知らされていません。“女子高生を一人確保しろ”という依頼のみで動いています」
『雇い主は』
「通信履歴と送金経路から、特定できました。予想通り、旧replica関係者による法人格です」
こよみは一連のデータを読み上げた。企業名。個人名。所在地。連絡先。資金の流れ。依頼の時系列。
全部で三十秒ほどの報告だった。
藍は黙って聞いていた。
報告が終わると、数秒の沈黙が落ちた。
『こよみ』
「はい」
『排除してください』
短い指示だった。
穏やかでも、冷たくもない。ただ、そこに一切の迷いがなかった。
「対象の範囲は」
『雇い主と、その直接的な指揮系統。古角さんに再び手が届かない状態にしてください。手段は任せます』
「承知しました」
こよみは頷いた。
「なお、排除の定義ですが」
『物理的な排除は当然として。まずは情報的に潰してください。資金、通信、関係者への警告。再起不能にできれば、それで構いません』
「了解しました。明朝までに第一段階を完了させます」
『お願いします』
通信が切れた。
こよみは端末を閉じ、暗い別室の中で静かに立ち上がった。
窓の外は完全に夜だった。
校庭の照明だけが、白い光を地面に落としている。
こよみは一度だけ、窓の外を見た。
桜川恋が古角光里の手を取って立ち上がった瞬間を、こよみは見ていた。あの路地の陰で、ぐしゃぐしゃに泣く光里の隣に、恋がただ座っていた光景を。
桜川さんは、古角さんを見捨てない方です。
かつて藍にそう報告したことがある。
その予測は、正確だった。
こよみは窓から目を離し、別室を出た。




