第16話
古角光里は走っていた。
校門を抜けて、駅前の通りを横切り、人混みの中へ紛れるようにして走った。制服のまま、鞄も持たず、靴だけが地面を叩く。周囲の視線が突き刺さるのを感じたが、構っている余裕はなかった。
頭の中が真っ白だった。
榊原藍の声が、まだ耳の奥で響いている。
あなたは、サイボーグですね。
恋が気づき始めています。
そして、電話の画面に表示された名前。
恋。
その一文字を見た瞬間、光里の中で何かが切れた。切れたというより、ずっと前から裂けかけていたものが、とうとう最後まで開いてしまった。
知られる。
恋に、知られる。
自分が何なのかを。
それだけは——それだけは嫌だった。
恋の隣にいる時だけ、自分はただの古角光里でいられた。明るくて、距離が近くて、ちょっとうるさくて、でも嫌われない。そういう女の子として、ちゃんとそこにいられた。
それが全部、嘘だったと知られたら。
嘘じゃない。嘘のつもりはなかった。でも、隠していたのは事実だ。自分が普通ではないことを知っていて、それでも普通のふりをし続けていた。
走る足が、いつもより正確なことに自分で気づく。歩幅も、着地の角度も、呼吸のリズムも、意識しなくても身体が勝手に最適化する。こういうところだ。こういうところが、もう人間ではないのだ。
駅前の大通りを外れて、一本裏の道に入った。
人通りが急に減る。夕方とはいえ、この時間帯の裏道は薄暗い。古い雑居ビルの間を風が抜けていく。
光里はそこでようやく足を止めた。
息が上がっている。上がっていること自体が不思議だった。この身体は、もっと走れるはずだ。肺が苦しいのは、たぶん身体の問題ではなく、心の方が先に限界に来ているからだ。
壁に手をついて、額を冷たいコンクリートに押し当てた。
目を閉じる。
恋の顔が浮かぶ。
いつもの、ちょっと面倒くさそうで、でも本当に嫌がっている時とは違う、あの顔。光里がくだらない話をしても適当に付き合ってくれる顔。卵焼きをくれる顔。帰り道に隣を歩いてくれる、あの横顔。
もう隣にいられなくなる。
そう思った瞬間、涙が出そうになって、光里は奥歯を噛んだ。
「ごめん、恋」
誰にも聞こえない声で呟いた。
「ごめん」
その時だった。
「よお」
背後から、声がかかった。
光里は反射的に振り返る。
裏道の入口から、三人の男が歩いてきていた。
全員、私服。年齢は二十代から三十代。見た目は普通の大人だが、歩き方に隙がない。狙った相手を逃がさないように、自然と扇状に広がりながら近づいてくる。
「古角光里ちゃんだよね」
先頭の男が、馴れ馴れしい声で言った。
「ちょっと一緒に来てくれない?」
光里の背筋が凍った。
知られている。名前を呼ばれた。偶然の声かけではない。
「……誰ですか」
「別に怪しいもんじゃないよ。ちょっと話があるだけ」
「知らない人についていかないように育てられてるので」
声は震えていなかった。震えないようにできる自分が、嫌だった。
「お嬢ちゃん、悪いけど選択肢ないんだわ」
左側の男が、腕を伸ばしてきた。
光里の腕を掴もうとする手が、目の前に迫る。
その瞬間、光里の身体が動いた。
考えるより先に。
掴みかけた男の手首を払い、同時に右拳で顔面を殴りつけた。
乾いた音がした。
男の身体が横へ吹き飛ぶ。壁に叩きつけられ、そのまま崩れ落ちた。動かない。
残りの二人が、一瞬固まった。
光里も固まった。
今の自分の拳の感触を、手のひらの中で感じている。硬い。人間の拳ではない硬さ。殴った衝撃を、自分の手はほとんど感じていない。
「……何だ、この女」
男の一人が呟いた。
光里は踵を返して走り出した。
裏道をさらに奥へ。角を曲がり、もう一つ曲がる。足音が追いかけてくる。二人分。殴り倒した一人は置いていったらしい。
走りながら、光里は分かっていた。
普通の人間なら、ここで逃げ切れる速度で走っている。でも相手は複数で、道を知っている。たぶん、先回りされる。
案の定、次の角を曲がった先で、もう一人が待っていた。四人目。最初の三人とは別に、回り込んでいたらしい。
光里は立ち止まった。
前に一人。後ろから二人。
挟まれた。
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同じ頃。
雪代こよみの端末に、通知が入った。
校門前のカメラ。正門付近の街路カメラ。そして、駅方面に設置されたいくつかの公共カメラの映像が、次々と更新されていく。
こよみはそれを一瞬で処理した。
「藍様」
校舎を出ながら、通話する。
「古角さんが裏道に入りました。直後、複数名が接触しています」
『人数は』
「確認できる範囲で四名。服装は私服、年齢は二十代から三十代。装備は不明ですが、連携した動きを取っています」
『プロですか』
「いいえ。動きそのものは練度がありません。古角さんの正体も知らされていないようです。金で雇われた末端と見るのが妥当かと。既にそのうちの一人は古角さんに殴られて倒れています」
『……古角さんが?』
「はい。素手で」
短い沈黙。
『恋の位置は』
「校門を出て、駅方面へ向かっています。古角さんとは別の経路ですが、合流する可能性があります」
『こよみ。鎮圧を優先してください。古角さんと桜川さんの安全確保が最優先です』
「承知しました」
こよみは通話を切り、足を速めた。
その右手には、制服の上から羽織った薄いジャケットの内側に、分解状態のライフルが収まっている。左腰のベルトには、折りたたまれた金属の柄。展開すれば、人の背丈ほどもある大型の金槌になる。
白い髪が風に流れる。
その青い瞳は、もう書記のものではなかった。
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桜川恋は走っていた。
駅前の通りを抜け、光里が行きそうな道を片端から探していた。光里の行動パターンは長い付き合いで何となく分かる。人目を避けたい時は裏道に入る。それも、できるだけ狭くて、人が少ないところを選ぶ。中学の頃からそうだった。
息が切れる。恋の身体は鍛えているわけでもなく、全力で走ればすぐに足が重くなる。それでも止まれなかった。
一本裏の通りに入る。
古い雑居ビルの間の、薄暗い道。
その先で、恋は足を止めた。
声が聞こえたからだ。
男の声。複数。それと、聞き慣れた——光里の声。
角の向こう側で、何かが起きている。
恋は壁に身を寄せて、角からそっと覗いた。
狭い裏道の奥で、光里が三人の男に囲まれていた。
一人は光里の前方に立ちはだかり、後方から二人が挟み込んでいる。光里は壁際で身構えていた。制服のまま、拳を握っている。
その光景を見た瞬間、恋の頭が一気に冷えた。
まずい。
これは、まずい。
引き返すべきだ。警察に通報すべきだ。藍に連絡すべきだ。自分一人でどうにかなる状況ではない。
そう判断して、恋は身を引こうとした。
その動作が、裏目に出た。
壁に寄りかかっていた足元の空き缶を踏んだ。
がしゃん、と場違いに大きな音が響いた。
男たちの視線が、一斉にこちらへ向いた。
「……誰だ」
前方の男が、恋の方へ歩いてくる。
光里が、恋に気づいた。
その瞬間の光里の顔を、恋は一生忘れないだろうと思った。
驚きでも、怒りでもなかった。
絶望だ。
恋がここにいること。恋が、この場面を見てしまったこと。それが光里にとって、何よりも恐ろしいことだったのだと、表情だけで分かった。
「恋——! 来ないで!」
光里が叫んだ。
けれど遅い。恋はもう見つかっていた。
「おい、ガキがもう一人いるぞ」
「面倒くせえな。関係ねえやつを殺すなとは言われてねえし、仕方ねえ。口封じだ」
後方の男が、ジャケットの内側に手を入れた。
そこから取り出されたものを見て、恋の思考が停止した。
銃だった。
小型の拳銃。黒い金属。映画やドラマでしか見たことがない。けれど、あの光沢と重さは偽物ではない。
男が、恋に銃口を向けた。
動けない。
足が凍りついたように動かない。頭の中が真っ白で、何も考えられない。逃げなければならないのに、身体が言うことを聞かない。
銃口の向こうで、男の指がゆっくりと動く。
乾いた音がした。
けれど、痛みは来なかった。
恋の目の前に、光里がいた。
いつの間に動いたのか分からなかった。さっきまで三人に囲まれていたはずの光里が、恋の前に立っていた。両腕を広げて、恋を庇うようにして。
光里の背中に、弾丸が当たっていた。
「——っ」
恋は声を失った。
撃たれた。光里が、撃たれた。
けれど。
光里は立っていた。
倒れていない。よろめいてもいない。背中に弾丸を受けたはずなのに、その場に立ったまま、微動だにしていなかった。
制服の背中に、小さな穴が開いている。けれど、血が出ていない。
男たちが凍りついた。
「……は?」
誰かが呟いた。
「何だ、今の」
「当たった、よな。当たったのに——」
光里がゆっくりと振り返った。
その顔は、恋に向けるいつもの笑顔ではなかった。泣きそうで、怒っているような、それでいてどこか諦めたような表情だった。
「恋。走るよ」
光里の声は低く、硬かった。
「光里——」
「走って。今すぐ」
光里が恋の腕を掴んだ。
その手が、恋の腕に触れた瞬間。
恋は気づいてしまった。
光里の手は、温かかった。けれど、その温かさの下に、人間の手とは違う硬さがある。骨ではない。もっと均一で、もっと頑丈な——金属に近い何かの感触。
それでも光里は、恋の手を引いて走り出した。
角を曲がり、さらに奥へ。光里の足は速い。速すぎる。恋の足では追いつけないほどだ。けれど光里は恋のペースに合わせて走っている。引きずるのではなく、隣にいるように。
後ろから、男たちの足音が追いかけてくる。
「逃がすな!」
「何だあの女、弾が効かないぞ!」
「知らねえよ、とにかく追え!」
しかしある地点で、男たちの足音が止んだ。
光里が一瞬だけ後ろを振り返った。
代わりに、別の音が聞こえた。
金属が空気を裂く音。
そして、一発の銃声。
それは男たちの銃ではなかった。もっと鋭く、もっと正確な、一発だけの乾いた音。
直後、怒鳴り声。何かが倒れる音。地面を転がる硬い音。
さらに——重い打撃音が続いた。
何かが壁にぶつかる音。金属が金属を叩く音。骨が折れる音。悲鳴。
恋は路地の陰から、目だけで覗いた。
狭い裏道の先で、白い影が動いていた。
「ここからは私がお相手いたします」
白い髪。小柄な身体。制服の上に薄いジャケットを羽織った——雪代こよみだった。
その右手に、ライフルが握られている。
長い銃身。スコープ。それを片手で操りながら、もう片方の手には——恋の背丈ほどもある、巨大な金槌が握られていた。
「お二人はこの場から離れてください。ただちに」
こよみが背後にいる2人に向かってそう呟くと、恋と光里は驚きながらも奥の方へと走り出す。突然の出来事に呆気に取られていた男たちのうちの1人が、逃げる2人に慌てて銃を向ける。
「おいガキども、逃げんな――」
そこからのこよみの動きは、速かった。
「ここからは私がお相手します、と言ったはずですが」
速い、という言葉では足りなかった。恋の目では追いきれない。分かるのは結果だけだ。
ライフルの一発が、先頭の男の足元を撃ち抜く。男がバランスを崩した瞬間、こよみの身体がすでに距離を詰めていた。金槌が水平に振られる。男の身体が横へ吹き飛ぶ。壁に叩きつけられて、動かなくなる。
二人目が銃を構えようとした。こよみのライフルが、その手を正確に撃った。銃が弾き飛ぶ。男が叫ぶ間もなく、金槌の柄で顎を打ち上げる。意識が飛ぶ音が聞こえた。
三人目が逃げようとした。こよみは追わなかった。代わりに金槌を地面に叩きつけた。コンクリートが割れて破片が飛ぶ。逃げようとした男が衝撃で足をもつれさせ、転倒する。こよみが静かに歩み寄り、ライフルの銃口を眼前に突きつけた。
「動かないでください」
そう言い、ライフルの銃口で思いっきり顎を揺らす。こよみが3人を制圧するまでに、十秒もかからなかった。
こよみは倒れている男たちの一人に視線を落とし、端末を操作しながら通信を開いた。
「藍様。三名を無力化しました。一名は古角さんが先に倒しています。合計四名、全員意識なし。生命に別状はありません」
「雇い主の情報ですが、そのうちの1人から端末を回収しました。通信履歴と送金記録から、追跡可能です」
こよみはそこで一度言葉を切り、それから付け足した。
「桜川さんと古角さんは、ともに無事です」
こよみはライフルを下ろし、路地の方へ目を向けた。




